そこは終わりの駅であり始まりの駅でもあり、また通過駅でもあった。
大陸のほぼ中央に位置するこの巨大な駅は、各地へ伸びる路線が集まっているためか、殊に多様な人種の坩堝と化していた。数え切れないほどの人々が大なり小なり荷物を携えてすれ違う様に、よい意味で息苦しいほどの活気を感じ取る。もちろん各目的地へと向かう汽車やホーム、エントランスには旅客だけでなく鉄道の関係者も忙しく動き回っていた。
胸の前に抱えたカメラをそっと目の高さに構える。
私は感謝していた。
だからお礼のつもりで彼の愛するこの駅と、そこにあふれるさまざまな表情を、写真という名の記録媒体に残すことにした。
彼の姿を誰もはっきりとは覚えていなかったけれど、たしかにそこにいたのだ。
それを物語るように、彼に関するいくつもの話を耳にした。
ある母親は人ごみではぐれてしまった子どもをみつけてもらい、別の老人は汽車に忘れてしまった孫娘のために買った玩具を届けてもらった。酔っ払いにからまれた折に助けてもらった男性もいた。ほかにも数え上げたらきりがない。ほんの些細なことから犯罪行為の対処まで、人が困っているときに現れては解決し、すぐに姿を消す仕事人。この駅で働く総勢八十七人もいる駅員のなかに含まれない、八十八人目の人物。
目撃証言では誰も彼も一様に、「恰幅のいい丸顔で制帽の下にやさしい表情を浮かべていた……ような気がする」と曖昧な表現をするのだった。私が接したのもその人に違いないはずだ。ただ、なぜか穴の空いた器から少しずつ水がこぼれるかのように、彼の容姿に関する記憶は私の頭からどんどん失われていった。はじめのうちははっきりと覚えていた。それが、今となっては「なんとなく噂どおりの人だったのではないか」という程度にまで記憶が不確かになっていた。
駅の関係者が誰もその存在を知らないという一方、その出で立ちから、ずっと前に亡くなったある先輩駅員ではないかという話も広まっていた。
なんにせよ、彼がこの駅と利用者に強い思い入れがあるのはたしかだった。
そっと目を瞑ればそこにいないはずの彼の姿が、いまひとたびぼんやりと浮かび上がってくる。
「これはあなたの持ち物で間違いありませんね?」
途方に暮れていた私にそう声をかけてきたのは、制服を着た鉄道警察の隊員だった。
「そ、そうです! それは私の大切な――」
言葉を継ぐのももどかしく鞄を受け取り、中身を確認する。まぎれもなく私の物だ。カメラやフィルム、その他撮影機材や旅するうえで必要となる物もすべて揃っていたことに、私はほっと胸をなでおろした。
「ありがとうございます。本当にどうしようかと思ってたんです」
「お礼はそちらの駅員に」
見ると、さっき出発時刻を尋ねた駅員が立っていた。
「どうぞ今後はご注意ください。これだけ大きな駅だと置引きやスリの被害も少なからずありますから」
彼はそう言うと、少し残念そうに顔を曇らせた。すぐにその表情は元に戻ったが、自分の目の届く場所で平然と犯罪が行われたりしたら、あまりいい気はしないことだろう。
彼の口ぶりからおおよそ見当はつくものの、どこをどう捜してくれたのか、遺失物を見つけてもらった側としては聞いておきたい。
疑問を口に出したわけではなかったが、なんとなく雰囲気を察したのか、駅員は親切に教えてくれた。
「あそこにいる男が置引き犯です。先ほどあなたがベンチでうたた寝をしている隙に鞄を持ち去ったので、あとをつけて取り押さえ、現行犯として鉄道警察に引き渡しました」
屈強な警官に連行されていく男は、私と目が合うとバツが悪そうに顔を背けた。
よくぞ取り返してくれたものだ。
たしかに出発の時刻までまだかなりの時間があるということで、ベンチに座って休憩を取った。そのとき、疲れていたのかつい眠ってしまったのも事実だ。ふと目を覚ましてからも、ややぼんやりとした頭のまま駅構内の売店でパンとコーヒーを買い、食べ終わるまで手元に鞄がないことに気づかなかったのだから、うっかりしていたにもほどがある。
「警察の詰め所で本人確認と返却の手続きを行ってください。それではお気をつけて。よい旅を」
「あっ、どうもありがとうございました。お世話に――」
あらためて礼を言おうと振り返ると、もうすでにそこに彼の姿はなかった。
ぐるりと視線を巡らすがどこにもいない。
ただ通りすがりの人たちが、彼を捜す私のことを不思議そうに一瞥していくだけだった。
声をかけてくれた隊員も、すぐそばにいた人物がいつの間にか掻き消えるようにいなくなったため、困惑の表情を浮かべている。
近くにいた別の駅員に尋ねても知らない、そんな人はそもそも同僚にいないと答えるばかりで、誰も彼の存在を知らないようだった。
仕方なく手続きに向かうと、被害にあった時の状況を詳しく説明することになった。
ことのはじめは南に向かう汽車がいつ出るのか、それ以前にいつやって来るのか気になって、私は手近にいた例の駅員に確認したことからはじまる。
この駅から折り返していく列車は多い。当然、到着が遅れれば、出発時刻もそれに合わせて遅延する。
説明を聞くとどうやらまだ何時間も待たねばならないようだった。
遅れている詳しい理由はわからなかったが、とにかく彼は帽子を脱ぐと頭を下げて丁重に謝罪してくれた。こちらとしてはべつに急ぐ旅でもない。
「じゃあ、どこかで暇をつぶしますから」と、笑顔で彼と別れ、ベンチに座った。最初のうちは本を読んだり、なんとなく次の地での行動プランを考えたりしていたが、いつしかまどろみ、夢の中の住人と化していた。
目が覚めてからのことはわりとはっきり覚えている。
しばらくしてようやく鞄がないことに気づいたときには、顔面蒼白になった。
私はこれまでにないくらい焦った。
まさか大事なカメラを紛失することになるとは思ってもみなかったので、その非常事態に困惑するばかりであった。
とりあえず周囲を見渡したもののみつからず、在り処を知っていそうな人もいない。
何一つ手がかりのないまま、私はあてもなく捜し続けた。
とはいえ、これだけ大きな駅である。人の数も半端ではない。そう簡単に発見できるわけもなく、ふと気づいたときには周りの人たちが皆、不審人物を見るような目で私を見ていた。
あまりにもきょろきょろと落ち着きがなかったせいだろう。
私は咳払いをひとつしてそそくさとその場を立ち去った。
改札のあたりで若い駅員をつかまえ事情を説明すると、すぐに鉄道警察に被害届を出すように言われた。忙しいらしく、親身に対応してくれることもないまま行ってしまった。
立ち尽くす私に救いの手が差し伸べられたのは、そのすぐあとだ。
特急列車の窓から外を眺める。
乗客も乗り込んでいよいよ出発のときが迫っていた。
すっかり夜になってしまったが、ホームは明々と灯に照らされてまだまだ眠りにつく気配はない。
窓枠に肘をついて駅舎の風情を脳裏に焼き付けているうちに汽笛一声、重い動輪がゆっくりと回り始めた。
旅人たちの緊張感と高揚感が俄かに増す。
これから向かう地に思いを馳せ、この駅のことは通過点として数ある記憶のひとつに刻まれる。
唯一、世話になったあの駅員のことだけは忘却の彼方へ。
彼には今一度、お礼を言いたかった。しかし、もう会うこともないだろう。ましてその正体など知る由もない。
いったい何者だったのだろうか。答えの出ない疑問を抱いたまま窓外に目を向けると、徐々に加速しながら長いプラットホームが後ろへと流れていった。煌く灯火も行き交う人々も、思い出もなにもかも置き去りにして突き進んでいく。
そのときだった。不意に彼の姿が視界に入ったのは。反射的に目で追う。彼はホームの端に立ち、こちらに向かって敬礼をしていた。
彼の浮かべる穏やかな笑みに、写真という形で記録を残したことへの感謝が読み取れた。礼を述べたいのはこちらの方なのに。
刹那の邂逅ののち、駅は遠ざかり宵闇のなかの光点となる。
いつまでも記憶に留めておきたい。
しかし、終わりと始まりの狭間にたしかに存在した彼の姿は、すでに私の頭のなかから失われ始めていて――
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2012年5月4日作。書いている途中で「終着駅」、「駅」、「駅員」と題名を変更。偽らざる物語。