もし汝の手、または足、なんぢを躓かせば、切りて棄てよ。
(マタイによる福音書 第十八章八節)
振り向けば金魚
今なら言えるのだろうか?
愚かでいいのだろうか?
されど、全てを忘れて、せめて今宵は楽しめ。
祭りの唄が聞こえる。綿流しの夜。
行き交う人々が楽しげに笑う。
夜空は高く、饒舌に星々。月が照らす夜道。
足元には季節狂いの彼岸花。
俺、前原圭一も古手神社へと足を向ける。
魅音たちとは現地で待ち合わせだ。
この雛見沢で暮らし始めてから初めての祭り。
夜店の明かりが見えてくる。
「お、圭ちゃん、来たね」
「待ってたんだよ、早く行こうよ。行こうよ」
魅音とレナが小さく手を振っていた。二人とも、初めて見る浴衣姿。
魅音は白地に鮮やかな大輪の花。いつものポニーテールを今日は結い上げているせいだろうか、白いうなじと共に一際に艶やかだ。
代わってレナは無地の浅黄。栗色の髪と相まって、清楚でありながらも華やか。ただ、手にした団扇にケンタくんが笑っているのがレナらしいと言うべきか。
「うおぁ!」
向う脛に激痛が走った。
「何を鼻の下を伸ばしていらっしゃるんですの、圭一さん。みっともございませんわ」
沙都子だ。呆れながらむくれている。どうやら下駄で蹴りを食らわせてくれたらしい。
相変わらず何てコトしやがるこのガキ。
「あれ、梨花ちゃんはどうしたのかな? かな?」
「梨花はあれでも忙しくていらっしゃいますのよ。奉納演舞の準備が押しているとか」
「まぁ、梨花は言ってみれば今夜の主役だからねぇ。仕方ないよねぇ」
「さぁさぁ、圭一さんなんか放っておいて、皆さん縁日に参りますわよ」
くるりと身を翻して雑踏に駆け込む沙都子。
その時。
その時俺は沙都子の浴衣を見た。
濃い藍に赤い金魚が泳ぐ柄。……赤い金魚。
俺の瞳の奥に奔る閃光。忘れかけていた、決して忘れてはいけない悲痛。
「沙都子ちゃん、今夜ははしゃいでいるよね。いるよね」
「ああ、三年前と去年が大変だったから……」
「確か一昨年は梨花ちゃんの家が、だったね……」
魅音とレナの会話が聞こえる。
そうか、そうだった。
だが、今年の今夜こそは平穏無事な祭りの夜、のはず。
少なくとも、俺以外は。
「ああ! やめやめ! お祭りは楽しまなくちゃ! ほら、呆けていないで行こうよ、圭ちゃん!」
それでも、俺の足は動かなかった。もしかしたら、歩き出すことを無意識に拒否していたのかもしれない。膝が笑って、足の裏が張り付いている。
「ごめん……人ごみに酔ったみたいだ。ちょっと休ませてくれないか」
俺は曖昧に笑った。
酔うものか。長年の都会暮らし、こんな田舎の祭りの賑わいなど、たかが知れている。
沙都子の後を追いたくないだけだ。
いや、見たくないだけだ。赤い金魚の姿を。
見られたくないだけだ。俺の惨めな姿を。
「ええええ! 圭ちゃん正気?! 両手に花だよ? こんな美人二人をソデにする気? もう一生に二度とないチャンスだよ?!」
「まぁまぁ、魅ぃちゃん。きっと圭一くんは疲れているんだよ。それより沙都子ちゃんを追いかけようよ。はぐれちゃうよ」
圭一くん、境内で待っていてね、とレナは優しく言った。
圭ちゃんなんか呪われろー、と魅音は拗ねて叫んだ。
呪われろ。そうであればどれ程安らかであったことか。
あの日も俺は、改造を重ねたモデルガンを手に路地裏に潜んでいた。
少女が通りかかった。
引き金を引いた。
少女が振り返った。
決して顔面を狙った訳ではない。
それでも少女はのけ反りながら倒れ込んだ。
ばら撒かれた手提げ袋とその中身。
手提げ袋には赤い金魚のイラストが描かれていた。
自宅謹慎の間、俺は鬱々とふさぎ込んでいた。
見かねたお袋が、ごく短時間ならいいだろう、と近所の散歩を許してくれた。
俺が散歩から帰ってきた丁度その時、少女とその母親が家にやってきた。
俺はとっさに電柱の影に隠れた。
気付かれるはずはない。見つかるはずもない。
しかし、少女だけは俺の方を見ていた。
片方の目に痛々しいほど白い眼帯。
残った目を見開き、俺の方を見ていた。
その目が決して許さない、と固く誓っていた。
赤い金魚の手提げ袋を握り締めていた。
俺はその場を逃げ出した。
今なら言えるのだろうか?
愚かでいいのだろうか?
俺が雛見沢に越してきたところで、何があの少女を癒すのだろうか?
引き金を引いた俺の指を切り落とせ。
モデルガンを構えた俺の腕を断て。
狙いを定めた俺の目を抉れ。
考えついた俺の脳を潰せ。
未熟過ぎた俺の心を壊せ。
そして、癒えてくれ。あの少女。
せめて境内に座り込んで、自分の惨めさを噛み締めるくらいのことはしてもいいだろう。
「圭一さん」
沙都子の声。よりによって、今一番会いたくなかった相手。
右手に綿菓子。左手に水ヨーヨー。
浴衣に泳ぐ赤い金魚。そして帯には一輪の彼岸花。
「魅音とレナはどうした?」
俺は目を逸らしながら、出来るだけ平静に、出来るだけそっけなく言った。
「お恥ずかしくも、はぐれましたの……それよりも梨花の晴舞台ですのよ?ご覧になりませんの?」
ああ、もうそんな時間か。
奉納演舞が始まる。
「圭一さんは初めてですから、私のやり方を真似してくださいまし」
綿流しの儀式。そう沙都子が言う。
綿を右手に、左手で御払い。額、胸、へそ。そして両膝を叩く。
「これを三回繰り返しますの。そうしたら、この綿が穢れを吸い取ってくださるそうですのよ」
これであの少女が癒されるとでも言うのか。
度し難い俺の過去が清められるとでも言うのか。
沙都子が綿を沢に流す。さらに帯から彼岸花を抜いて、そっと水面に浮かべた。
「沙都子、それは……」
「これは……私だけの儀式ですわ」
沙都子は目を閉じて、静かに手を合わせていた。
流れは暗く、融けない淡雪のような綿がゆっくりと、夜の中へと吸い込まれていく。
その中で、目にも鮮やかに紅く彼岸花。
海神の元に届くまで、紅くあり続けるのだろうか。
ふと、沙都子が泣いているような気がした。
俺は腰を上げ、その場を去った。
人の死はその生の反映。
善い死とは善く生きたご褒美ではないか、と考える時がある。
生きつつあるということは死に向かいつつあるということ。
ならば、俺に用意された死は惨めな死なのだろうか。
「……圭一さーん……」
遠くに沙都子の声。
振り向けない。振り向けようはずがない。
振り向けば赤い金魚がそこにいるはず。
「圭一さーん」
声が近づく。俺を責めるように声が近づく。
「圭一さん……あっ!」
俺は反射的に振り向いた。闇の中に踊る赤い金魚。
沙都子が転んだ。
「おい、大丈夫か、沙都子」
思わず声をかけた。
慣れない下駄でつまずいたのだろう。膝に血が流れて、沙都子はむぅ、と呻いている。
「全く……圭一さんはいぢわるですわね……無視することはないと思いましてよ」
ハンカチで止血していると沙都子が言った。全く、いつもと変わらない憎まれ口だ。
「沙都子は……」
今なら言えるのだろうか?
愚かでいいのだろうか?
「沙都子は自分を惨めに思ったことって、ないか?」
貧しい暮らしを強いられ、両親を、最愛の兄さえ喪い、それでもなお。
それでもなお、何故笑える?
「確かに……私は恵まれた境遇で育ったわけではありませんわ。人様にそう思われても仕方ありませんわね」
俯いたまま、沙都子は言った。しかし、面を上げて、俺の目を見る。
「でも私には仲間がいます。そして何よりも、私が、私自身を、惨めに思ったことなど一度たりとてありません」
穏やかに笑った。真っ直ぐに、強く、きっぱりと。俺の目を見ながら。
その言葉こそが俺を決定的に断罪する。
沙都子は。この少女は。
なんと巌の如く高く、湧き水の如く清く、自分を誇れるのだろう。
地面が濡れた。俺の頬を伝うものの意味は、叶わない望みか、敵わない悔しさか。
「圭一さん……」
「見るな」
俺は後ろを向いた。
「おぶされ。家まで送るから」
はい、と背中に沙都子が抱きついた。
土手の上。咽ぶようなせせらぎの音。踏みしだく彼岸花。
今なら言えるのだろうか?
愚かでいいのだろうか?
背中の重みはあまりにも軽く細く、振り向けば微笑む沙都子。
赤い金魚はもう見えない。
この少女を護ることが、あの少女への償いになるのか。
俺には分からない。それでも暗夜を漕いで、前へと進め。
生きる意味を問うてはならない。
生きることにこそ意味を知れ。
求めず、背かず。
月下を歩む孤虎の如くに。
俺は今再び、生きつつあること。
善き死へ向かって。
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「ひぐらしのなく頃に」より、過去の罪に苦しむ圭一の物語です。彼に救済はあるのでしょうか。