一刀視点
「うーん、今日は天気がいいなぁ」
「そうだねぇ、ご主人様」
晴れ渡る空の下――俺と桃香は江陵の街を歩いている。涼やかな風が頬を撫で上げ、日差しがあっても、まだ少し肌寒い心地がする。冬が苦手な俺としては、一日でも早く春が来るのを楽しみにしているのだ。
江陵の街は活気に溢れている。美羽と小蓮ちゃんが中心となって、目下推進中の江陵における計画は、障害もかなり多かったようだが、それなりに効果を発揮しているようで、各方面で影響が出ている。俺の予想よりも早く、これは形になりそうだった。
勿論、その成功の裏には美羽と小蓮ちゃんの並々ならぬ努力があったに違いないのだろう。あの娘たちは本当によくやってくれたと思う。こうして江陵を俺たちの共同領地にすることが出来たのも、二人が頑張ってくれたからだろう。
こんなことを言ってしまうと、微妙に誤解されてしまうかもしれないから、少し心配ではあるのだけれど、幼い少女が必死な表情で何かに取り組む姿というのに、俺は心を打たれてしまった。二人の顔を見ているだけで、ぐっと込み上げるものがあったのだ。
きっと俺と同じ気持ちになった人間が多くいたのだろう、間もなくして、江陵で半隠棲生活をしていた賢者たちが、江陵への参政を表明してくれたおかげで、美羽と小蓮ちゃんには強力なブレーンが加わることになった。
だが、二人はその賢者たちを自分たちで御していかなくてはいけないのだから、それはそれで大変だろう。だが、彼女たちであれば、彼らと協力してこの街を立派なものにすることも出来るだろうから、今更俺の心配なんていらないはずだ。
俺たちが治めてきた益州も、雪蓮さんたちが治めてき揚州も、そして、俺たちがこれから治めていく荊州も、善政が布かれているおかげで、多くの民が、これまでの困窮から救済され、今は幸せな暮らしを送っている。
まだ全ての問題が解決されているわけではないけれど、それでも、かつてのことを考えれば、今は民の笑顔が溢れているだろう。俺も、璃々ちゃんがこちらに移ってからは、紫苑さんと三人で過ごす時間も多くなり、その内また一緒に暮らせればと思っている。
こんな穏やかな日常がずっと続けばいい――なんてことを、自然と思ってしまうのだ。俺だけではない。民だって、きっと今の世が永遠に続き、もう誰も苦しまずに済むと思っているに違いない。
しかし、現実は甘くない。乱世は未だ終わっておらず、今の暮らしだって仮初のものに過ぎないのだ。こうやって、のんびりと過ごしてしまうと、ついつい忘れてしまいたくなる真実――それを直視しなくてはいけないのだ。
「…………っ!」
隣を歩いていた桃香が、何かに驚いたかのように、急に立ち止まり、いったいどうしたのかと彼女の視線の先に目を向けると、俺も桃香と同様のリアクションの意味が分かったのだ。思わず言葉を失う程の衝撃が駆け抜けたのだ。
視線の先――俺たちの進行方向のとある茶店の店先に、本来ならばそこにいるはずのない――どう考えたって、そこにいることが不可能な人物がいたのだ。一度しか会ったことはないけれど、それだけで充分な程の存在感をもつ人物。
「……曹操さん」
河北、中原を支配する覇王――天に愛されて、二物どころか万物を与えられた天才にして、圧倒的なカリスマ性で、現在もっとも大陸制覇に近い人物、曹孟徳がそこにいたのだ。そこで平然とお茶を楽しんでいるのだ。
「あら……?」
俺たちが呆然と立ち尽くしているのに気付いたのだろうか、今にも手を振りながら挨拶をしそうな――旧友に偶然出会ったかのような雰囲気で、俺たちに微笑みかけてきた。彼女の後ろには、二人の人物――残念ながら名前は知らないが、おそらくは側近が控えている。
「久しぶりね、劉備。そして……北郷一刀」
突然の再会に、俺は完全に狼狽してしまったが、俺の身になって考えてほしい。こんなところで――俺たちが治めている街で、これから雌雄を決しなくてはいけない、言わば最大の敵である曹操さんに出会ってしまったのだ。ここで驚かなくて、どこで驚けというのだ。
一気に神経を最大レベルで緊張させて、俺がしなくてはいけないことを考える。曹操さんの目的――たった三人で堂々とお茶を飲むという行為に何の意味があるのかを、即座に考え、それに対して然るべく対処をしなくてはいけないのだ。
相手は乱世の奸雄と恐れられる相手である。俺のような凡人には考え付かないような壮大な計画が、既に発動していて、もしかしたら、もう手遅れなのかもしれない――と、俺の頭は既にこの状況を許容出来そうになかった。
「お久しぶりです、曹操さん」
しかし、そんな俺とは対照的に桃香は落ち着いていた。
曹操さんの浮かべる妖艶な微笑みとは違う、いつもの柔和な微笑みを浮かべながら、そのまま曹操さんが座っている場所まで歩こうとした。何の警戒心も抱かないようなその行動に、一瞬だけ危機感を覚えたが、思い直して、俺も桃香に従った。
やっぱりこういうときこそ、その人物の器が試されるのだろうと思った。さすがに桃香は三国志における主役級の存在――劉玄徳という人物だけあって、肝が据わっているというか、一切表情には心の取り乱しを映し出すことはなかった。
曹操さんはこんなときに小策を弄するような人物ではない。翡翠さんとの正面から激突したという背景を考えれば、俺たちとも正々堂々と決着をつけたいはずだ。だから、この場で俺たちに危害を加えるような真似などするはずがない。
桃香はそれに気付いた上で、曹操さんがこの場にいる理由を本人から問い質そうとしているのだろう。その行為は不用意なものではなく、王として目覚めた桃香にとっては、もっとも正しい行動だったのだ。
華琳視点
「お久しぶりですね、曹操さん」
私の声に最初に反応したのは、意外にも劉備の方だった。以前と変わらない――最後にあったのは、彼女たちが荊州へと逃亡するために、私の領土を通過させたときだった思うのだけれど、そのとき見せたものとは変わらない穏やかな微笑。
だけど、それは表面上だけのことだわ。この娘はもう以前の劉玄徳ではない。あれから何があったのかは分からない――まぁ想像するのは簡単だけど、彼女の中の龍が目覚めてしまったのね。漢中王――彼女が冠するその名は虚飾ではない。
この娘はあのときとは全く別人と言って過言ではないでしょう。もうかつてのように甘いだけの、何の現実味のない理想を掲げたりはしない。誰も傷つかずに平和を作り上げられるだなんてことは言わない。兵士たちの屍を乗り越えてでも、今の彼女ならば、前に進もうとするはずだわ。
思わず漏れてしまう微笑み――あのときこの娘を殺さずにいて良かったわ。今の劉備ならば私の好敵手に充分になれる人材だもの。天下を賭けて争うに相応しい相手――私が最後に戦うには適役だわ。
そして、この劉備を目覚めさせた人物――北郷一刀。この男に会うのは反董卓連合のとき以来だったわね。あのときは、まさかこんな平凡そうな男が噂になっていた天の御遣いとは思わなかったけれど、劉備と麗羽――二人の人物の人格を完全に別物にしてしまったことは脅威だわ。
「立ち話もなんだから、座ったらどうかしら?」
「そうですね、ほら、ご主人様も」
「え? あぁ……」
私の提案に劉備は笑顔を絶やさずに応え、北郷一刀は動揺しながらも、私たちの正面に座った。私の後ろに控えている将――護衛として追従してきたしてきた春蘭と、その手綱を握るために来た稟が俄かに緊張したが、私たちは争うために来たのではないから、そのまま黙って二人を見ていた。
「でも、驚きましたよ。まさかこんなところで曹操さんにまた出会うなんて。どうしてこんなところにいるんですか?」
劉備の表情には焦りや困惑は浮かんでいないわね。私に会ったことは驚いているみたいだけど、それは飽く迄も予期せぬことであっただけで、私たちが自分たちに危害を加えることはないことを、既に見抜いているようだわ。
「何しにって決まっているでしょう。あなたたち二人に会いに来たのよ」
「俺たちに……? だけど、どうやってここまで? 警備だって穴があったわけではないはずですけど」
未だに私の目的が不明瞭で、それが不安なのか、北郷一刀は如何にも不信そうな顔で私に問いかけた。まぁそれが当然の反応よね。私がこんなところで優雅にお茶を飲んでいるなんて、どう考えたっておかしな話だもの。
「江陵が民のための街になって、商人たちを大々的に受け入れている話は聞いたわ。その商人の中に紛れ込んでしまえば、軍を率いているわけではないのだから、私たち三人がいることくらいは隠せるわよ」
「そ、それはそうですが――」
「安心なさい。今日はあなたたちと話すために来ただけよ。争う気はないわ。後ろの二人も私の護衛が任だから、あなたたちを襲ったりはしない。それは保障するわ」
その言葉を信用してくれたのか――それを安易に鵜呑みにしてしまうのはどうかと思うけれど、北郷一刀は静かに頷くと、表情からは徐々に嫌な焦りが消えたみたいだったわ。それでも警戒だけはしているようだけど、これでゆっくり話が出来るわね。
私がここに来た理由は、さっきも話したけれど、この二人と直に会っておきたかったのよ。特にこの二人に関して言えば、私の興味が尽きないものね。桂花は最後まで反対していたけれど、それを強引に押し通してでも面と向かって話をしたかった。
かつて最大の敵として私の前に立ちはだかった西涼に君臨した王――馬寿成とはこんな風に会話をしようとは思わなかったわ。それはおそらく孫伯符も同様でしょうけど、王として、瞳で、覇気で、空気で会話することが出来るからだわ。
だけど、この二人は違う。北郷一刀は王とすら称していないし――それが意図的なのかそうでないのかは分からないけれど、きっとこうして話した方が彼についてよくわかると思うの。天の御遣いの正体――彼がどんな手段でここまで大きくなったのか、王である私と対等な存在になることが出来たのか。
劉備もそうよ。私に厳しく追及された程度で心を挫かれ、一時は完全に君主としての姿を見失ったのにも関わらず、再び立ち上がるや否や、漢中王と――覇王と称す私に真っ向から挑むような名を名乗るなんてね。
家臣の中にはそれを嘲笑する者もいたようだけれど、私は笑えないわ。だって、劉備にはそれを名乗るだけの覚悟が出来たってことなのだから。項羽と劉邦――この大陸に住まう誰もが知っている二人の逸話になぞって私を倒すつもりだということを、誰よりも彼女が公言しているのだから。
「私も暇なわけではなかったから、ここに来てすぐにあなたたちに会えて幸運だわ」
「はい、私たちもちょうど今だったら時間があるので、たくさんおしゃべりしましょうね」
「……ふぅ、もう覚悟を決めるしかないか」
劉備は既に私と話す気が充分にあるようで、そんな彼女を見て、北郷一刀も観念して私たちと会話する気になったようね。自分を鼓舞するように一度大きく深呼吸すると、精悍な顔つきになり、じっと私の瞳を見つめたわ。
この二人に会えたことで、私の目的の半分以上は達成することが出来たのだけれど、二人がその気になってくれたのだから、今は存分に二人を観察しましょう。私とは対極に位置しながらも、私の最後の壁として立ち塞がるこの二人が、どんな刃を懐に隠し持っているのかを。
さぁ、私にじっくりと見せてちょうだい。
一刀視点
曹操さんの言葉――俺たちに危害を加えることはなく、今日は俺たちに会いに来ただけということは信じることにした。この人は策の多い人ではあるけれど、こうやって俺たちを油断させて殺すような卑劣な真似をする人ではない。
戦の中では、言葉で動揺を誘うことはあるかもしれないけれど、こうやってわざわざ江陵にまで――しかも、自ら危険を冒してきた以上は、その言葉に真実味があると考えてよいだろう。それに、もしこの場で俺たちと争おうものなら、仮に数万の軍勢をどこかに潜ませていたとしても、無事では済むまい。
桃香が俺の予想以上に落ち着いた対応をしてくれたおかげで、俺も徐々に冷静さを取り戻すことが出来て、深呼吸しながら覚悟を決めた。曹操さんは俺たちに会いに来たというけれど、何も雑談をしに来たのではないだろう。その目的を見定めるためにも、今は彼女と対峙するのが得策というものだ。
「それにしても、劉備?」
「はい?」
「こうやって、私が自ら話をしに来たというのに、あなたは私と講和を結ぼうとは言わないのね。以前は話し合いで戦をなくすことを理想としていたはずだったけれど、今はその好機じゃないのかしら?」
曹操さんの皮肉交じりの言葉に――もしも、桃香がそんなことを言ってしまえば、曹操さんは桃香に対して再び厳しい言葉を吐くことを想像するのは容易いのだが、桃香は少しだけ悲しそうな表情を浮かべると、すぐににこりと微笑んだ。
「今は分かるんですよ。仮にここで曹操さんと話し合いで解決しようとして、それで曹操さんがそれに応じたとしても、それは根本的な解決にはならないって。正直なところ、私と曹操さんではお互いに理解出来ない部分も多いでしょうし、長い目で見ても、完璧な信頼感のないままでは、いずれその関係は崩壊してしまいます」
「あなたたちと孫呉も同盟しているけれど、それは本当の信頼で結ばれているとでも言うのかしら?」
「少なくとも孫策さんとご主人様はそうです。他の皆も徐々に打ち解けあっています。これから先もずっとそう出来るように、この江陵を共同領地にしたんです」
「そう、じゃああなたは自分がかつて掲げていた理想を捨て去ったのね? それまでそれを信じてあなたについて来た人も多いでしょうけれど、彼らを裏切ったということね?」
「…………」
その言葉に――桃香の心を深く貫くような非情な言葉に、さすがの俺も曹操さんを止めようとした。そのことは、桃香が誰よりも理解していることであり、おそらく彼女のことだから、今だって引き摺っているはずだ。口には出さないけれど、ずっと思いつめているはずなのだ。
「はい。曹操さんの仰る通りです。私が愚かだったために、多くの人を傷つけてしまったかもしれません。ですけど、それでも私は王として前を進まなくてはいけなと思います。私が放った言葉の責任を果たすためにも、少しでも早く彼らが救われるような世を、私自身が作り上げないといけないと思うんです」
だけど、その心配はなかった。曹操さんの言葉に一瞬たじろいだように見えたけれど、桃香はすぐにそう言い放った。自分が間違っていたと――自分の行為は裏切りであり、それが自分を慕っていた人間を傷つけたということを。
だが、桃香はそれを呑み込んでいるのだ。仮に彼らがそのことで詰ったとしても、桃香はそれを受け入れるだろう。言い訳なんて述べることなく、深々と頭を下げて、彼らに謝罪するだろう。そして、きっとその後でこう付け加えるはずだ――皆が幸せになれるまで、私はずっと戦い続けると。
だから俺は桃香の友として隣を歩み続けようと思ったのだ。彼女は誰よりも民のためを想い、民の幸せの実現を願い、それが叶うまではどんな困難にも果敢に向かっていく娘だ。その姿勢を、俺は何よりも尊いものだと思う。
「そう。だったら、いいわ」
曹操さんはそれを聞いて、ただ笑った。その笑みに嘲りのようなものは感じられず、逆にそんな発言が出来るようになった桃香を嬉しく思っているのだろう。自分が最後に争う相手に相応しいと思っているのだろう。
三国志演義において、曹操と劉備はライバル関係に描かれることが多く、それを象徴するシーンとしてこんな逸話がある。
劉備がかつて曹操の治める許昌に滞在したことがあった。そして、曹操が劉備と酒を国交わしながら英雄について論じようとしたとき、劉備は袁紹や袁術を英雄ではないかと言ったが、曹操はそれを尽く否定し、こう言ったのだ。
――天下の英雄は君と余だ。
曹操がこの時点で認めていた人間は劉備だけだったのだ。そして、それは劉備も同様だったはずだ。それから二人が亡くなるまで、ずっと念頭にお互いの存在が常にあり、最大の敵として考えていたはずなのだ。
荊州で曹操さんと桃香が会ったとき、曹操さんが桃香のことをどのように考えていたのかは、俺に分かるものではない。彼女に向けられた言葉は、曹操さんが本当に彼女を小物として見ていたからなのかもしれないし、もしかしたら、その時点で桃香の中に眠る才覚が見えていたのかもしれない。
曹操さんは俺たちに会いに来たと言っていたけれど、本当の目的は桃香だけだったのかもしれない。桃香の姿を改めて確認したいと思い、わざわざこうして江陵にまで足を運んだと思う。自分と同じステージまで上り詰めた桃香と最後に挨拶をしたかったのかもしれない。
そして、それから多少の言葉を交わした後、曹操さんのここに来た目的がはっきりとその様相を現したのだ。平穏な日常から、再び血肉が飛び交う戦場へと俺たちを向かわせる現実に、俺たちは直面しなくてはいけないのだ。
「冬明けに、私たちは軍を発するわ」
その唐突な言葉に――曹操さん自身がこの場にいること自体が、既に俺の受容できるレベルではないのだけれど、冬が明けたら攻め込むという堂々の宣戦布告に、俺と桃香は思わず唾を呑み込んでしまった。
「驚くことではないでしょう。私たちは戦わなくてはいけない。どちらがこの大陸を制覇するのか、どちらが勝者として首となったその姿を見下すことが出来るのか、それを決めるためには、この戦いが避けられないことは、分かっているのでしょう」
「……はい」
「……そうですね」
曹操さんの身体から放たれる膨大な覇気――その華奢な体躯には似合わぬ圧倒的な力を前にして、俺の額に冷たい汗が伝った。雪蓮さんや翡翠さんと同様の、ただ前にいるだけだというのに、身体が鎖に捕らわれたように動かなくなる。
挑発的な瞳に、好戦的な色を濃く映しながら、曹操さんはそう告げたのだ。決して避けられぬ、そして負けられぬ、正真正銘の最後の戦いに、俺たちは身を投じなくてはいけない。大陸をものにするために、お互いの全てを賭けて、正面から殺し合いを演じなくてはいけないのだ。
曹操さんのその姿に、昔の俺ならば何も抵抗することが出来ず、このまま怯えて身を竦めていることしか出来なかっただろう。だが、今の俺は違う。様々な人間に出会い、多くの修羅場を経験し、守りたいものが増えた俺にとって、彼女は倒さなくてはいけない相手なのである。
「……負けません」
「……へぇ」
俺の発言に曹操さんは瞳を細めた。猫科の動物を思わせるその悪戯っぽい瞳が怪しく光ると、さらに強大な力が俺たちに向けられた。腹にぐっと力を込めないと、それだけで押し倒されてしまいそうな程の、凄まじいまでのものだった。
「俺は――俺たちは曹操さんに勝ちます。たとえこの身が朽ち果てようとも、最後までたち続けるのは俺たちです。何が何でも勝ってみせます」
「はい。私もご主人様と同じ気持ちです。もう弱音を吐いたり、逃げ出したりしません。相手が曹操さんでも、全力で立ち向かいます。だから、覚悟を決めるのは曹操さんの方ですよ」
俺と桃香が一人だったら、曹操さんに勝てないかもしれない。だけど、俺たちは肩を並べて立つ友だ。そして、俺たちには雪蓮さんという誰よりも頼りになる王が味方してくれている。お互いが背中を預け合って戦えば、曹操さんにも勝てる。
思えば天の御遣いと称してから、随分と長い時間が経っているのだ。まだ昨日のことのように思えるのだが、大陸に残っている群雄も既に俺たちしかいない。多くの人間が野望をその胸に抱きながら散っていった。最終局面に、俺たちは立っているのだ。
「ふふふ……、それでこそ私が戦うべき相手ね。ならば、劉玄徳、北郷一刀、この曹孟徳が宣言するわ。私たちは精兵をもってこの地を――江陵を制圧するとね。これが、あなたたちが最後に過ごす冬になるわ。それを精々楽しんでおくのね」
「江陵を……?」
曹操さんは敢えてどこを攻めるかまで宣言したのだ。この江陵という地を――俺たちと孫呉の同盟の象徴であるここを制圧し、俺たちの関係を破壊することを考えているのだろう。それで負けてしまえば、もう二度と立ち上がるだけの気力を与えまいとしているのだろう。
「赤壁じゃないのか……?」
「ご主人様?」
「いや、何でもない」
俺は何とはなしにそう漏らしていた。てっきり俺は赤壁にて雌雄を決すると思っていたのだ。三国志における死闘の一つにして、天下鼎立の引き金にもなった大戦――三国志演義を読んだことがある者ならば、誰もが知っている、あの赤壁の戦い。
この世界では既に歴史は大きく歪んでしまっている。その原因が何であるかは分からないし、もしかしたら、俺も大きく関わっているのかもしれないのだが、とにかく、この世界ではまだ赤壁の戦いは起こっていないのだ。
俺はその原因は孫呉と桃香たちの同盟がなかったからだと思っていた。桃香たちは孫呉の許ではなく、荊州から一気に俺たちのところへ軍を進めたのだ。そこで、先に蜀という国が誕生してしまったことが大きな影響を与えていると考えていた。
その後、麗羽さんたちが雪蓮さんたちと戦ったことで、俺たちに接点が生じ、さらに麗羽さんが独自に孫呉との同盟を打診してくれたことで、改めて俺たちは同盟を組むことが出来たのである。時期的な多少のずれが生じてしまったのだが、歴史通りに動いていると思っていた。
そして、俺たちの同盟を契機にして、赤壁の戦いが起こると考えていたのであるが、それもどうやら違っているようだ。俺の中で一つの疑惑が浮かび上がったのだが、この冬は戦前の最後の時間であるからと、それを心の奥にしまったのだった。
「…………」
曹操さんはじっと俺のことを伺っていた。その視線に鋭いものを覚え、俺は身体がぞくりと震えた。さすがに乱世の奸雄と称されるだけはあり、視線だけで人をも殺せそうだったが、ふっと表情を崩すと徐に立ち上がった。
「劉備、北郷一刀、あなたたちと話せて楽しかったわ。孫伯符にもよろしく言っておいてちょうだい。戦では存分に殺し合いましょうってね」
冗談でも言っているかのような口調でそう告げると、護衛の人を連れて――そういえば片方の人は眼帯しているから、もしかしたら、夏侯惇さんかもしれないと思ったが、そのまま茶店に店主に金銭を払って、去ってしまった。
残された俺たちはというと、とりあえずその場でぐでーっと突っ伏してしまったのだ。さすがに曹操さんと直に対面し、あれだけの覇気を受け切ったのだから、精神的にかなり疲弊してしまった。だけど……。
「ご主人様、絶対に勝とうね」
「あぁ」
俺たちは負けない。負けるわけにはいかないんだ。
華琳視点
茶店を出ると、個人的にはもう少しこの街について知っておきたかったのだけれど、春蘭と稟が急かすものだから、許昌へと帰還することにした。いずれはここも私のものになるのだから、前調べはしても無駄ではないと思うのだけれどね。
「さて、二人は彼らを見るのは初めてでしょう? どう思ったかしら?」
「……私はあんな軟弱そうな男に負けたと思うと、情けなく思います」
春蘭は表情を歪めながらそう言った。彼女が私の命を受けて荊州へと侵攻し、そこで同盟を組んだばかりの麗羽と孫策に敗れてから、まだそれほどに時間は経過していないわ。まだそのことを気に病んでいるのだろうけれど、そんな健気な春蘭もまた愛しいわね。
戦の途中で益州陣営に北郷一刀が参戦し、軍を指揮するでもなく、春蘭が孫策と周瑜と戦うために本陣を離れるや否や、自ら本陣へと奇襲を仕掛け、風を拉致し、さらには偽の情報を流して春蘭たちを撤退させたのだ。しかも、本陣に蓄えられていた武器や兵糧のほとんどが焼かれてしまったために、次の出兵までに時間がかかってしまったわ。
春蘭は北郷一刀とは面識自体があるわけではないから、平凡そうな彼に負けたということが恥だと思っているのだろうけれど、そんなことはないわ。私がこうやって江陵に来たことを、彼は信じられないと思っていたみたいだけど、あのとき風も同じことを考えたに違いないわ。しかも、状況が平時ではなく戦時だったのだから、その衝撃は推し量れないでしょうね。だから彼は軟弱なだけの男ではない。負けたことも全く恥ではないわ。
「稟はどう思うかしら?」
春蘭も本能的にそれを察していると思うのだけれど、きっとそれでも己の矜持のためにそう思い込もうとしているのでしょう。次の決戦では必ずや先の汚名を払拭せんために、自分に強く言い聞かせているに違いないわ。
一方で、稟がどう思ったのかも気になったわ。彼女は我が陣営では誰よりも理知に富み、あの二人を冷静に――私よりも冷静に見ていたに違いないもの。そんな彼女がどのような評価を与えるのかが楽しみだったわ。
「そうですね、牛首を掲げて馬肉を売るとは言いますが、正しくその逆ではないかと。風が彼のことをとにかく高く評価している理由が分かるような気がします。しかし、劉備もまた侮り難い存在になったことも事実でしょう。華琳様を前にしても、もう縮こまるような素振りは一切見せませんでした」
顎に手を添えながら、静かにそう語る稟――あれだけ取り乱していた北郷一刀を軽んじてはいけないとはっきり分からせたあの発言に、さすがの稟といえども驚きを隠すことは出来ないのだろう。
風は自分の身をもって北郷一刀の脅威を知った。幸いなことに、北郷一刀が彼女に乱暴な扱いをすることはなかったが、あの出来事は風にとって、彼が誰よりも私の障害として立ちはだかると思わせることになった。
稟はそれまでどうして風がそこまで彼のことを思っているのか、多少不思議に思っていたところもあるのでしょうが、今日、その原因が明らかになったのだ。彼は私たちの前で荊州での戦のときのような信じられないことをしてのけたのだ。
――赤壁じゃないのか……?
「稟、私とあなたたちで組み立てた戦略は情報として流れることはあり得ないわよね?」
「あり得ません。まだあの段階では決定事項でありませんでしたし、周囲の人払いは完璧でありました。漏れるはずがありません」
それは私たちがついこの間まで――江陵が共同領地になったという情報を入手する前まで、密かに組み上げていた戦略において、戦場にすべき場所であると議論していた場所だったのだもの。
北郷一刀がつぶやいたあの一言に、思わず私も心を乱してしまったわ。まさか彼の口から赤壁という名が出るなんて思ってもいなかったもの。どうして彼が知っているのか――諸葛亮が予測したということも考えられるけど、あのとき劉備は彼が何を言っているのか理解出来ていなかったわ。だからその可能性はないと思った方がいい。
諸葛亮が予測したのならば、劉備にもそれは伝わっているでしょうし、さすがのあの娘でも次の決戦がどこで行われるかという重要事項について失念していたなんてことはあり得ないでしょうね。
だとしたら、北郷一刀自身が私たち並みの戦略眼を持っているということになるのだろうか。だが、そんな情報はどこにもなかったわ。彼がこれまで参戦した戦は、全て情報として把握している。もしも、彼が卓越した策を実行すれば、必ず私が気付くはずよ。
それとも、彼は私たちに見られているということを承知の上で、これまで実力を隠していた――あるいは目立たないように私たちを欺いていたとでもいうのだろうか。もしも、そんなことが可能だったとしたら、此度の戦は私が思う以上に――これでも、相当の覚悟をしているつもりだったけれど、それ以上に厳しいものになるかもしれないわね。
おそらく風がもっとも警戒している点はここなのでしょう。この不鮮明で、実態の掴めないことに対する不快感――そう、それは恐怖と置き換えてしまっても過言ではないでしょう。正体不明のものと戦っているかのような感覚に捕らわれてしまうのね。
「本当に面白い男ね、北郷一刀。だけど、劉備と共に私をもっと楽しませてくれなくちゃ、すぐに殺すわよ」
だからこそ面白いのよ。大陸でもっとも強敵だと思っていた馬騰とは、また違った意味で私を興奮させるわ。今度の相手は私の想像を超えるものかもしれない、馬騰よりも手強いかもしれない――そう思うだけで、思わず笑みが漏れてしまうわ。
彼だけじゃない。馬騰の娘の馬超、かつての友である麗羽、飛将軍と呼ばれる呂布、江東の小覇王と称する孫策、そして、漢中王と称す劉備――それ以外にもまだ見ぬ強者がそろっているに違いないわ。因縁を持つ相手が、全力で私の首を求めて突き進んでくるのね。
彼らを倒してこそ、私は大陸を制するに相応しい人間になれるわ。覇王としてこの大陸を、ここに住まう民を、全て幸せにしてみせる。志は同じだけれど――進む道は同じだけれど、残念ながら、もう私たちは戦うことでしか決着はつけられないのよ。
「稟、春蘭、許昌に戻ったらすぐに軍議を開くわよ。次の敵はこれまでの戦いとは一線を画すわ。油断している者は誰であろうと許さない。それを肝に命じなさい」
「はっ!」
「御意っ!」
これが本当の最後の戦いよ。もう誰にも止めることは出来ないわ。どちらかが――私かあなたたちが死ぬまで、存分に殺し合いをしましょう。そして、最後に勝利を掴み取るのは間違いなく私たちよ。
あとがき
第八十話の投稿です。
言い訳のコーナーです。
さて、まずは投稿が遅れてしまったことについて謝罪を。年明け早々にパソコンが逝ってしまい、データに関してはバックアップを取ってあったので問題なかったのですが、新しいパソコンを買わなくてはいけないことになってしまい、手間取ってしまいました。
これまで使っていたものは、パソコンに詳しい後輩に選んでもらったものなのですが、今回は彼女の力を使うことが出来なったので、自分で選ばなくてはいけませんでした。しかもパソコンに詳しいわけではないので、どれを選べばよいのやらと。
そんなこんなで正月が終わってしまい、気付いたら仕事も始まってしまいまして、執筆時間を確保することも難しい状況になってしまいました。間を空けてしまい、誠に申し訳ありませんでした。
さてさて、今回は予告通り、最終章の序章をお送りしました。
平穏な日常をぶち壊す、まさかの華琳様の訪問。それは彼女が、一刀君と桃香の姿を確認し、宣戦布告をするという何とも大胆な目的のためでした。
桃香は荊州以来、一刀君に関しては反董卓連合以来の再会で、一刀君に関しては大きく困惑しますが、桃香は落ち着いた対応をします。それは彼女がかつてよりも大きく成長した結果であり、劉玄徳たる実力が露わになった証です。
そんな彼女の変貌ぶりに、華琳様は戦うに値する相手であると評価し、桃香がそのようになってくれたことに対して嬉しさすら感じてしまいます。
そして、華琳様から告げられた戦場――それは現在、孫呉と共同領土になっている江陵でした。本文で語られているように、この場所にしたのは、ここが両国の信頼の証になっているからです。決して水上戦が書けないだろうと思ったからではありません。
そして、うっかり一刀君が言ってしまったセリフに、華琳様はまた彼のことを評価することになり、最後の決戦では華琳様が油断する可能性はなくなってしまいました。全力で彼らを叩き潰しに来るでしょう。さて、この戦はどのように綴られるのか期待せずにお待ちください。
さてさてさて、良い感じのところで今回のお話は終了となりましたが、次回からなんと残念なことに再び拠点回となってしまうのです。本編を進めることを希望する読者の皆様には申し訳ない限りです。
そういうわけで、次回から拠点です。最初は月と詠、次に翠、次に雪蓮、最後に麗羽様という順番でお送りしていきます。最初に注意書きは添えますので、見たくないと思っている人は、何も言わずにスルーしてください。
次回の月と詠、作者にとってはもっとも困難な相手でしょう。ずっとこの作品を御覧になっている方はご承知と思いますが、ツンデレの難しいこと難しいこと。次回は間違いなく酷い話になりそうです。
それでは、今回はこの辺で筆を置かせてもらいます。
相も変わらず駄作ですが、楽しんでくれた方は支援、あるいはコメントをして下さると幸いです。
誰か一人でも面白いと思ってくれたら嬉しいです。
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第八十話の投稿です。
日常から非日常へ。一刀にとって穏やかで楽しかった日々も間もなく終わりを迎えるだろう。それは告げるものは彼にとっては死神であり、もっとも強大な相手である。果たして彼は無事に勝利することが出来るのであろうか。
投稿が遅れてしまって申し訳ありません。最終章の導入部分になります。言い訳はいつも通りあとがきにて。それではどうぞ。
コメントしてくれた方、支援してくれた方、ありがとうございます!
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