≪洛陽/黄公覆視点≫
「そんな訳で、私と祭は江東にいく事になるからよろしくね?」
策殿がからっとした感じでそう申されたのは、詮議の結果が下達された日の夜の事じゃった
張勲の小娘に難癖をつけられる可能性も高いと儂は踏んでいたのじゃが、客将を辞するという事に関して、張勲も袁術も何も言ってこなかったらしい
むしろあまりにあっさりしすぎていて不気味なくらいじゃった、とのこと
汝南を剥奪された以上、儂らに難癖をつける事に意味は全くない、と割り切った結果らしいのう
つまり、儂らとしては漢中の影響力と財力を背景に本格的に孫呉の地を取り戻す事を考える時期に来ている、という事じゃ
もっとも、先の宴席より冥琳のやつは天譴軍を頼るのに難色を示しておって、実のところ儂も意見は同じじゃったりする
これをゴリ押ししたのは策殿で、やはり“勘”がその根拠らしい
先代の堅殿に良く似た気性をお持ちで、しかもまだまだ若い故に、さっさと基盤を確保して後事を権殿に譲る事で楽隠居をしたい、とお考えのようだ
実際、孫家伝統ともいえる苛烈で奔放な気質が表に出ない権殿に儂らが期待する部分は大きく、世が荒れているなら強力な求心力と先陣を切れる気質を持ち合わせている策殿が適任じゃが、治世の統治はいささか厳しかろうというのが儂の見立てでもある
「ふむ…
儂は前線におれるのは歓迎なのじゃが、儂ら二人だけでよいのかの?」
この場には儂の他に策殿に権殿、冥琳、思春と明命がおり、今となっては袁術の間者を気にする事もなくゆったりと話し合う事ができる
双方が互いを敵視する理由が無くなったという訳で、残るはこれまでの扱いによる心の問題だけではあるのだが、そこは気にしても仕方がないじゃろうな
「まあ、豪族を平らげるだけなら手間はかかっても難しい事もないでしょう
本当は興覇か幼平と、私か穏がついていければいいのですが…」
冥琳が苦い顔をしながらそう呟く
確かに、これから漢中で客将をやろうというのじゃから、少なくとも策殿か権殿は漢中におらずばなるまいし、権殿を残すのであれば思春のやつは護衛に残し、明命も必要ではあるじゃろうな
となれば必然、漢中でのまとめ役として冥琳は残らずばなるまいし、穏もどうしても必要になってくるじゃろう
人手が足りないのは致し方のないところかの…
「シャオ達もこちらに呼ばざるを得ないでしょうし、そうなると私と祭だけでなんとかするしかないのよね……
まあ、天譴軍からどれだけの援助があるかにもよるだろうけど」
客将になるのを断られる可能性もなくはないと思うのじゃが、策殿はその点は心配してはおらぬようじゃな
冥琳のやつも
「客将として犬馬の労を尽くすのを条件にすれば、内心はどうあれ断ってくることは恐らくありますまい
むしろ我らが曹操と結びつくのを嫌がると思いますからな」
と、この点には太鼓判を押している
冥琳の見立てでは、南方に飛ばされる曹操に対する抑えとして、それなりには孫家の支援を考慮するだろう、との事じゃ
いっそ曹操と組む、という考え方もありはするのじゃが、そこは当面あちらに余裕がないだろう、というのが儂らの一致した見解でもある
「シャオや穏、亞莎達とは漢中で合流ってことで、私達と交代で向かってもらう事になるかしらね」
策殿の言葉に、不安を隠しきれないのか冥琳の表情が曇る
まあ、それも判らんでもないが、珠を懐に入れておける状況でない以上、そこは仕方がないところじゃろう
せいぜいが早期に儂らに合流して、というところじゃな
冥琳を除けば、策殿をそれなりに抑えられるのは儂くらいじゃろうし、儂としては役得というところではある
「なに、酒も戦も程々にする故、そう心配するな」
せめて安心させてやろうと思ったのじゃが、策殿を除いた全員の顔が疑いに満ちておる
………なんと無礼なやつらじゃ
「祭樣には失礼かと思いますが、戦はともかく酒でお二人が自重できるとは私には思えません」
「言うてくれるのう、思春よ……」
もごもごと呟く思春に向かって儂はにやりと笑いながら告げる
痩せても枯れてもこの黄公覆、戦に差し支えるような飲み方はせぬわ!
儂と同じ心境なのじゃろう、策殿も非常に不満そうじゃが敢えて何も言わぬ事にしたようじゃ
まあ、口喧しいお目付け役がいなくなれば、道中では飲み放題じゃからの
わざわざ何かを言って冥琳あたりに心変わりでもされてはたまらん
ともかくも、これは儂らにとってはほぼ唯一と言っていい選択肢
という事はわざわざ確認するまでもないのは事実じゃ
後は、これをどう相手に飲ませるか、なんじゃがな…
皆で細かな打ち合わせをしながら、儂の心は既に江東へと飛んでおった
堅殿、ようやく儂らは母なる大地に戻れそうですぞ
≪翌日・洛陽/甘興覇視点≫
私は現在、蓮華樣と共に天譴軍との面談に赴いております
我らの中では孫呉の王は雪蓮樣ではありますが、天譴軍に客将として赴くのは蓮華樣の方がよいだろう、という判断によるものです
雪蓮樣が孫呉の地での求心力として赴くのは必要にして絶対条件でもあり、蓮華樣はその意味ではいまだ雪蓮樣に遠く及ばないという事もあります
なによりこれは先の会談で、雪蓮樣が相手に対しておっしゃられた内容も関係しております
「私に何かあれば仲謀が私達の旗となる
これは絶対なのよ
だから私達は仲謀を預ける
ついでって訳じゃないけど末の妹もね
今の私達には他に信義を示す方法は今のところないのは理解してちょうだい」
客将として我らが降るという提案に際してのこの言葉を実践するために、蓮華樣が面談に赴いたという訳です
これも経験であろうという事で、あえて冥琳樣は同行なさらないとおっしゃっています
私が同行するのは護衛の為です
面談そのものは待たされる事もなく、すぐにはじまる事となりました
先の面談とは異なるようで、我らは実務的な部屋に通されました
この扱いには蓮華樣も私も屈辱を感じない訳でもなかったのですが、通された部屋にいた張公祺殿と向巨達殿によると、これが“漢中流”という事のようです
形式が必要ないのであれば、徹底して無駄を省くのが流儀であり、それは相手が皇帝であっても変わらない
そう断言されてしまっては不快感を示すのはこちらの狭量を示す事になります
「陛下相手に形式がいらない状態、というのがあるかどうかは置いておくとしてだ
アタシらのところで客将になるっていうなら、この無茶苦茶にも慣れておくれよな」
張公祺殿は礼をとって我らを迎えると、時候の挨拶や機嫌伺いを拒否して用件を促してきました
蓮華樣にはかなりやりづらい感じではありますが、臣下の私が嘴を挟む状況でもないため、周囲の気配に気を配りながら控えている事にします
「では、失礼かとは存じますが、我々が先の面談で提案しました天譴軍に客将として迎え入れていただきたい、という件について話をさせていただきたく存じます」
蓮華樣が切り出した内容は予想されていて当然の事でありまして、相手もそれを承知していたのでしょう、答えは即返ってきました
「あう……
基本的な部分では、そのお申し出を断る理由は当方にはありません
ただ、他の諸侯とはかなり扱いが異なると思いますので、その点にご納得いただければ、待遇に関してお話しさせていただきたく思います」
向巨達殿の言に引っ掛かるものがあったのは、私だけではないようです
蓮華樣は表情を固くしてそれを口にします
「扱いが異なるというのはどういう意味でしょうか?」
これも予測されていた問いなのでしょう
向巨達殿はすらすらと答えます
「あうう…
まず、漢中に入るにあたって兵馬を含めた手勢の人数を指摘させていただきます
ですが、客将といっても軍を指揮してもらったり兵馬の動員を要請する事はまずありません
住居に関してはこちらでお連れになる人員分も含めて用立てさせていただきます」
手勢の人数を指定されたりするというのは普通の事ですが、兵馬の動員を要請することがない、というのは奇妙に感じるのは事実ですな
「あう…
主に従事していただくのは治安維持や民間教育といった内容で、客将である限り能力があっても一定以上の業務を課される事はなく、逆に期待もされない状態です
こちらが提示した業務をこなしてくれさえすれば、それ以外の行動に対して制限を加える事もまたありません」
「ただ飯を食わせるつもりはないけど、信用もまたしないという事かしら?」
蓮華様の感想はもっともだと私も思うのだが、苦笑しながら首を横に振るのは張公祺殿だ
「ちーっと難しいんだが、なんというかなあ……
排他的になるつもりもないんだが、いきなりやれって言われても多分無理なんだよな
軍に関わらせないのは仕方ないとしても、それ以外でもすぐには無理だ
それに、馴染んでしまうなら多分他所に行こうとは思わなくなるだろうな」
私は蓮華樣と視線を合わせて首を傾げる
彼らの言っている事がいまひとつどころか、かなりの部分で理解できないからだ
単純に飼い殺しにしたい、という話だろうか
私にはそうとしか受け取れないのだが
「あうー……
百聞は一見に如かず、という訳ではないのですが、やってみて無理ならお仕事をしてもらいようもない、という事なんです
おっしゃる通り、居る以上はなにかしら働いてもらいますし、その結果得られた信用で私達は支援をする、と考えていただければいいかと思います」
一見弱気で言っているように感じられるが、向巨達殿の言葉には譲る気配はひとつもない
その言を継いで張公祺殿が言葉を紡ぐ
「まあ、ある程度は先払いするつもりはあるんだが、どのみちいきなり重要な仕事を任せられる程には双方信用も信頼もないだろう、って事だ
より多くのものが欲しかったらこちらの流儀に合わせて働いておくれ、と言うのがこっちの言い分さね」
「………贅沢は言えないわね
では条件の擦り合わせをさせてもらってもいかしら?」
これは、実際に予想されたよりはかなり待遇がいいのは間違いのない提示条件といえます
蓮華樣がそう考えて先を促すのを見詰めながら、私は冥琳様の言葉を思い出しました
「天譴軍は我らとは根本が違うと言ってもいいだろうな
だからこそ完全に敵とするか本当の味方になるかを見定める為に我らは赴くのだが」
本格的な交渉に入る前に茶を用意している侍女の立ち振る舞いを見定めて、私は気を引き締めます
(単なる侍女かと思いきや、これは相当に訓練されているな…)
雪蓮樣や冥琳樣が容易ならぬというだけあり、やはり一筋縄ではいかない連中のようです
≪洛陽/孫仲謀視点≫
天譴軍の陣を出てから、私は大きく伸びをする
さすがの思春も相当に気が張っていたのか、普段なら咎められるはずの私の行動に何を言う事もなかった
「ふう……
これでなんとかなりそうよね」
「そうですな
思ったよりも条件はかなりよいものを提示されたかと」
思春の表情も安堵に緩んでいる
私達が客将として提示された条件は、かなりの高待遇と言えた
まず、資金と糧食に関しては兵馬3万を半年養えるものを無償貸与し、それ以上の要求に対しては五分の利息を設けることを条件とされた
細かい数字は戻ってから改めて要求することになるだろうが、返済義務があっても必要量が確保できるというのは有難い条件といえる
同様に、武具に関しても便宜を図ると言われ、中古品であれば無償供出する、と言われている
具体的な数字は提示されていないのだが、5万やそこらの兵馬の分は十分にあるとの事で、こちらとしては痛み具合にもよるが貰える分には困らないともいえる
ただし、基本行動の自由はあっても、私と妹の小蓮には天譴軍から侍女と護衛という名の監視がつく事は言い渡されている
もっとも、本気で逃げる気なら止められないだろうから気休め程度だ、と開けっぴろげに言われてしまっては、逆にこちらとしてはやりづらいとも言える
当面我々が充てられる仕事は、彼らが司法隊と呼ぶ治安維持への従事と、漢中鎮守府に存在する福祉や養護施設での業務だそうだ
おしなべて民間業務にあたる内容だ、との事だが、民衆に学問を教えたり孤児の世話などもするらしい
拠るべき地を失って久しい我々にはいまひとつ実感がまだ沸いてこないが、その豊かさは恐らく大陸随一との世評に間違いはないのだろう
詳しい事は漢中に着いてから、と言われたのだが、かなり私達が考えているものとは統治の手法が異なる事を、念を押して言い含められた
また、律に例外はなく、客将ということで官に対するものを適用されるため、かなり厳しいという点も言い含められている
まず例外は適用されない
くどいくらいにそう言っていた事から、相当に厳しいものであることを覚悟した方がいいだろう
他に、これは特例としてだそうだが、鎮守府には自由に出入りしてもよい、との事だ
これは、天の御使いが鎮守府から滅多に外に出ないためだそうだ
他にも色々とあったが、極端な事を言えば給金を前借りさせているようなもの、という認識でいて欲しいと言われた事から、実際に漢中で自由になる資金は個人の範疇では期待できないと思ってよさそうだ
ただし、必要なものは言えば提供するとも言われている
無駄な贅沢をさせる気がない、という事なのだろう
衣食住に不自由がなく、基本的に自由が利くのだから不満がでようはずもない
小蓮には少し可哀想な気がするけれど、極端な事を言えば私と小蓮が我慢すればいいだけという、破格の待遇なのだから
「不自由はあっても、袁術のところに居た時を考えればなんてことないわよね」
暗殺されたりする危険が皆無とは絶対に言えないけれど、それでも日常がそうであった袁術の下での軟禁生活に比べれば危険など皆無と言っても言い過ぎとは思わない
なにより、皆が一緒のところで暮らせるだけの身代を用意してくれるというだけでも、気持ちの軽さが格段に違うのだから
私のそんな気持ちが伝わったのか、表情を緩めながらそれでも苦言を呈してくるのがやっぱり思春だ
「比較対象があまりに悪すぎます
少し気を引き締めていただきませんと」
「わかってるわよ、もう……」
ともあれ、正式にはまだだが、私達は天譴軍の客将として孫呉独立への大きな一手を打てた事には違いない
江東は姉樣と祭がしっかりと確保してくれるだろうし、そうなれば順次皆も母樣が眠るあの大地に帰る事もできるだろう
そしていずれは私も……
そう考えて頬を緩める私に向かって、思春がぼそりと呟いた
「そういえば、ふと嫌な事を思い出したのですが」
「………なに?」
「いえ…
そういえば、天の御使いとの結婚については、正式に断られた訳ではなかったような気が致しまして」
ぴきん、と凍りついて私は立ち止まる
いや、そんな事はないでしょ!?
婚姻は信義の証にならないって言われたし、そのまま有耶無耶になったはずだし…
え?
有耶無耶……?
確かに、正式に断られてはいないし、あの場に天の御使いもいなかった訳だし、今日も何もなかったし
…………………ええええええええええええええええっ!?
顔から血の気が引くのが自分でも判る
立ち止まって凍りついている私に、同情した顔で思春が溜息をつく
「伯符樣が思い出さない事を祈りましょう
相手も口ではどう言っていても、やはり婚姻というのは有効には違いないのでしょうから」
「………えっと
その…
た、助けてはくれないのかしら?」
「無理です」
酷い! 酷いわ思春っ!!
あの姉樣がこういう事に関しては異様に鼻が利くのは貴女だって知ってるじゃないの!!
「もしもの時は口添えはさせていただきますが、恐らくは…」
沈痛な面持ちでそう告げる思春を見て、私はがっくりと肩を落とす
ねえ神様、私何か悪い事をしたでしょうか……
先程まで希望に満ちていたはずの漢中が今は地獄への一本道に見えてきたと感じるのは、決して間違ってはいないと思う
とぼとぼと歩き始めた私の背中には、ただただ思春の同情するような視線が突き刺さっていた
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