No.305710

秋桜でいい。

向坂さん

秋ですから。

Tinami限定、コラボ用。

2011-09-22 23:22:02 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:941   閲覧ユーザー数:939

「秋というのは、春とそんなに気温が変わらない、ということを知ってはいるかい、弟よ」

 姉が窓の外を舞う紅葉を見ながらそう言ったので、

「存じておりますが、それが何か、姉上」

 と答えると、ふひょう、と奇妙な溜息が聞こえた。

「だったら、桜が咲いて花見で一杯という展開になってもおかしくないとは思わないか」

 いつものことなので、ほぼ機械的に回答した。

「それはおそらく植物学的に無理なのではないでしょうか。それよりも、早く原稿を上げてください」

 姉はこちらを振り向いた。動脈血のように赤いフレームの眼鏡の奥の目が、猛禽類のそれに近い。

「お前は我が弟だと言うのに風情を理解しないね!」

「それは風情ではないと思います。仮に風情だとしても、それを理解出来ないのは姉上の弟であるにもかかわらずではなくむしろ姉上の弟だからこそ理解出来ないのであり、加えて言うと、自分は姉上の弟であると同時に担当編集者でもあるので、原稿の要求は責務です」

 一気に言うとさすがに喉が渇いたので、出されたまま放置していた烏龍茶を飲んだ。

 姉は椅子ごと、つまり全身でこちらを向いて、手のボールペンを突き付けた。

「分かった。妥協しよう。秋桜でいい。それで花見で一杯という展開ならありえないか」

「いいですね。しかし原稿が上がらないとありえません」

 姉は憮然として再び机に向かった。

 しばらく、姉がボールペンを走らせる、不規則なリズムだけが部屋を支配した。

 リズムを乱して、不規則なものを乱すというのも変な話だが、ともかく姉が言った。

「……弟よ、憶えているか? 五年前のあの秋を」

 思い出そうと試みたが、はっと気が付いた。

「姉上、自分が姉上と再会を果たしたのは四年前です。その前の八年間、姉上は行方不明だったではありませんか」

 姉は、可燃ごみの日と不燃ごみの日を間違えていた程度の声の強さで、

「ああ、そうか」

 と呟いた。

 また少しボールペンのリズムが続いた。

「五年前のあの秋」

 姉はボールペンを宙に向けて回しながら言った。

「私は、恋をしていた」

 姉の背中を見ながら、黙っていた。この姉でも、恋ぐらいするだろう。

「素敵な人だった。つれなかったが、そこがまた愛らしかった。私は夢中だったが、自分のものにならないことも分かっていた。彼は他の人のものだった」

 不倫の恋。作家らしいと言えばそうか。

「ある日、彼はいつものように屋根を伝ってやって来た。でも私は、それが彼との永遠の別れになることを予感していた」

「屋根を……ですか」

 思わず言うと、姉はうなずいた。

「彼の灰色の毛並みが、その日はいやに硬かったのを今でも記憶しているよ、弟よ」

「つまり、その猫は飼い主と一緒に引っ越すなどしたわけですか」

 姉はふうっと溜息をついた。

「その通り。今頃は下関だろう」

「引越し先までご存知とは、知り合いの家猫だったのですか」

 姉は頭を振った。

「知らない。ただ、秋と言えば方角は西だから、本州の西端に設定したまで」

 脱力しそうになったが、したら敗北であるような気がした。ので、言い返した。

「いっそ世界の西端、グリニッジにしたら良いのでは」

「あそこは東端だろう」

「秋と春の気温は同じくらいなのでしょう」

 姉は顎に手を当てて考え込んだ。ややあって、

「その通りだな」

 とだけ言い、またボールペンを走らせた。

「季節は秋。おかげでどうにか原稿を書き切ることが出来そうだ」

 今度はボールペンを止めずに姉が独り言のように言った。

「それは何よりです。そう言えば、タイトルはもうお決めですか」

 姉は、ひと時の迷いもなく、ボールペンを突き上げて言った。

「『入道雲とスイカ』」

 

  

 

 


 
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