病室には若い女が居た。無地の安っぽい服装で、顔には疲労が浮かんでいた。待合室には彼女を除いてだれもおらず、僕が椅子に座ってからは、文字通り二人きりの空間が出来上がった。
ここの医者は腕は良いものの、嫌がらせのように客を待たせるのが常である。真っ昼間に訪れた僕がようやく診察に呼ばれるのは、かれこれ三時間ほど後の事だった。
いつ来たのか知らない彼女もまた、長い待ち時間を何をするでなく消化していた。
老人ホームのごとく、暇人同士が寄り合えば、少なからず会話も生まれるというものだ。僕と彼女はいつの間にやら、どちらが話しかけたのかも分からないまま、言葉を交わしていた。
たわいない世間話というやつである。
話を続けて趣味がにている事がしれると、彼女はうれしそうに笑っていた。気まぐれにメールアドレスを交換したりして、病院の待合室にしては随分と陽気な時間だった。
ようやく診察が終わって、夜道をふらりふらりと歩いて行く。コンビニで酒を買い、右手で弄んでいると、家に着く頃には頭も回らないぐらいに酔っていた。
布団の上で大の字になる。さっきまでビールの缶を握っていた右手には、ケータイが収まっていた。電話帳を開けば、登録したばかりの女性の名前が見える。
女なんて気まぐれな生き物だ。人間の不安定な感情をそのまま形にしたようなもの。うれしいときに笑い、悲しいときに泣く。怒りたいときに怒って愛したいときに愛する。その後の事は何も考えてない。
女性は――彼女は、そういう生き物なのだ。
そっとケータイを閉じた。
次の朝、黒塗りのケータイがカラフルに光ってメールの受信を必死に訴えていた。
「それって夢遊病……ですか?」
僕が聞き返すと、テーブル席の対面でええと頷いた。
「朝起きたら知らない場所に居るの。あたし、怖くて……」
両耳を押さえて身を震わせる。
僕はうろたえた。
「あああの……すすす、すいません変なこと喋らせちゃって」
思わず席を立ってヘコヘコと頭を下げる。ああ滑稽だ。けれど、生まれてこの方、恋人の一人も出来なかった僕には、こうして壊れた人形みたいに諂うしか取り繕う手段がなかった。
自分から話し出した癖に泣くなよな、なんて到底言えたものではない。
彼女は泣いていた。
雨のように陰湿に降り積もる啜り泣きが、天井から流れる軽快なロックと混ざって不快なモノへと変わっていく。
どこの街にも良くある名の知れたファミレスの一角。店の最奥の席は、いまや洪水だった。
事情も知らずにのんきにやってきた店員が、今はうざったい野次馬に思えた。
豪快に盛られたフルーツパフェを彼からふんだくって、僕は一心不乱食べ尽くした。
最悪だ。末代までの恥だ。
どうせ残す代なんて無いというのに、そう思わずには居られなかった。
ファミレスに誘ってくれたのは、彼女のほうだった。
朝っぱらから馴れ馴れしい文面のメールを送りつけられて、僕は正直の所浮かれていた。そりゃ二十年も生きてたら、女性と対話する機会なんて山のようにある。けれど、それはあくまでも一般的なもの。こうして、メールを介して親しくやりとりをする恋愛チックな経験は、情けなくも初めてだった。
彼女の目線でいけば、僕はまんまと『落ちた』みたいだった。ゴルフで言えばホールインワンの勢いで、僕はあっさりと彼女に浸かってしまった。
その日から、僕等は暇さえあればどこかへ出かけた。
まるでデートを繰り返す恋人のように、僕達は共に時間を過ごしていった。
その日はデパチカに居た。
買い物をしにきたわけじゃなくて、ただ話す為にだ。彼女の要求する場所は、いつも特殊で変化に溢れていた。
「実は……。実はね」
僕は首をかしげた。彼女の言おうとしている事の意図がまるで見えなかったからだ。
「……はあ」
真面目に聞いてると疲れることは承知の上なので、僕はさっそく思考のエンジンを落とす。
デパチカの食堂で二人向かい合って座る男女ってのは、本当に恋人同士に見えるものなのだろうか。やる気の無いトレーナーに年代物のジーンズを履く男と、着飾るどころか化粧すらしていない女。
まあ、女の方はそれでも美人なのだけれど。
オレンジジュースを咥えてつまらない考えを巡らせていると、彼女がようやく言葉を絞り出した。
「幽霊が居るの」
「はあ?」
言葉の意味を見失いそうになった。
「幽霊って、なに?」
「幽霊は幽霊よ。知らないの? それとも、あなたはそういうの信じないタイプ?」
「いや、信じるとか信じないとかじゃないでしょ。いきなりどうしたの」
まくし立てる彼女に、フライドポテトを押しつける。不満そうにきゅっと瞳を絞ってから、彼女は控えめに齧り付いた。
落ち着いたのを見越して、こちらから尋ねる。
「幽霊がどうしたんです?」
「最近、出るの。『通り』に」話し出した女の目は真剣だった。「ブロック塀の後ろからこっちを覗きみてくるの」
「それは……確かに怖いですけど。どっちかと言うと、ただの変質者じゃ――」
「違うの!!」
瞬間、テーブルがぐらりと揺れた。
喊声が、近くを走る子共のはしゃぎ声にとってかえられる。
デパチカの圧倒的な現実の真ん中で、僕は今まさに異界に落ちようとしていた。
「ちがう……ちがうの、ちがうのちがうのちがうの。ちがう。ちがうの。ちがう! ちがうの!! チガウッ!!」
心臓が爆発しそうだった。
口から、乾いた息が漏れる。
目の前に居るのが誰なのか、まるで分からなかった。
「あれは……あれはユウレイなの。しろくてふわふわして……ユウレイ。ユウレイなの……」
『通り』というのは、僕達の間で通じるキーワードだった。
碁盤目に道の走る住宅地だという。そこら一帯を覆い隠すように濃密な霧が充満している。ぼんやりと明るく、少し肌寒い場所であるらしい。
僕はその場所を知らない。
彼女の自宅近くにあるみたいで、彼女はいつも目を覚ますそうだった。
僕に説明してからは、まるで行きつけの喫茶店のように、『通り』と呼ぶようになった。
しばらくして、僕はまた医者に行くことにした。
最近頭痛が酷いのだ。身体も重い。疲れてるとかじゃなくて、重い荷物を背負わされているようだった。
週末一番の休日を実質返上して、人気の無い路地へと足を向けた。行きつけの診療所は、日の光から逃れるように、ひっそりと建っている。
ペンキのはげた、妙に痛々しい外壁を一つ眺める。
呼吸を挟み、扉を開けた。
待合室は空箱だった。
僕はカーテンの掛けられた受付のガラス戸を叩き、緩慢な動作で出て来た看護婦に用件を告げた。受付番号とマニュアル文句を頂戴して、ジジ臭い色の長椅子に腰掛ける。
固い壁に頭を預ける。こうやって身体の力を抜くと、上からのし掛かるずっしりとした重みがよく分かる。
この症状が出たのは、初めてではなかった。随分と昔の話である。いつ頃だったかは思い出せない。いつかの日、蝉がうるさく鳴いていた事だけなぜかはっきりと覚えていた。
変な症状だというのは、当時の自分でも理解していた。様々な病院を渡り歩き、そのたびに『異常は無い』と撥ね除けられた。苦い記憶は、ある種のトラウマとして自分の中にあった。
退屈しのぎに用意した文庫本を広げる。こんなものでも無ければ、ここはまさに牢獄だ。
物語がクライマックスにさしかかったとき、しゃがれた声が僕の名前を呼んだ。
「こっちにきんしゃい」
清い程にはげ上がった頭が蛍光灯を跳ね返していた。
診察室に入ると、隅に追いやられているマル椅子をひっつかんで座った。ここのサービスは質が悪い。
向かいに座る彼が、この診療所の医者だった。死にかけのジジイと例えたら申し訳ないが、見えるところ全てに深い皺が刻まれている。
僕はさっそく事情を話した。
「はぁあー。ほぉー」
呼吸に音を乗せただけの、気のない返事が続く。これでもまともに喋ってるつもりらしい。
「どれ、せなかみせえい」
マル椅子を半周回る。彼は背中に手を置くと、なめかしくなで回し始めた。びくりと背骨に電流が走る。
「じっとしてんしゃい」
「……す、すみません」
それから先生は洋服をめくり上げるて、悶々とうなり始めた。一体背中になにがあるというのか。ついには直接手で触れてきて、押したり摘んだり拈ったり。
「あんちゃんよお。ここ数日、なにしよったか」
唐突に、語りかけてきた。
「はい?」
「ここ数日やあ」
「別に、普通ですけど……」
仕事して、酒飲んで、たまに女と話すくらい。
小首をかしげて答えると、後ろから背筋の凍るような言葉をかけられた。
「あんたの中からあ、何か引きずりだされとるでえ」
「え……」
「いややいやや言うて、あばれとるわい」
声が出せなかった。
奥の部屋から看護婦が連れてこられ、身体をベットに移された。何かを語りかけているようだったけれど、耳には入ってこなかった。
どうやら、僕は重症みたいだった。
平日。
ズボンのポケットが激しく震える。それを無視して、僕は列車に乗った。
夜の八時に近い「下り」の車内は、クーラーがかかっていてもむっとしている。運よくつり革の一つを掴んだところで、汽笛と共に扉が閉じた。
折り重なるスーツの影からひっそりと夜景を眺める。夕食の事を考えていると、三十分の時間はすぐに過ぎてしまった。大したものが作れる訳ではないのだけれど。
案の定、帰りの道でコンビニに寄ってしまった。右手にはビールの缶。こういうのはいつの間にか習慣になるからよくない。さして美味しくも無い弁当を提げて、横断歩道を渡った。
アパートの前に立ったとき、ポケットが再び震え出すのを知った。
部屋に入るなり、鞄を投げ捨てる。塩気の強い肉を胃の中に押し込んで、布団の上に倒れる。風呂に入るのも、歯を磨くのも、こうなってからはどちらも億劫だった。
血液が疲労を運ぶ快感にまどろむ。うつらうつらとする意識は、もう闇の底だった。
はたと、目が覚めた。身体はまだ眠気を引きずっている。丑三つ時を過ぎた辺りだった。
そのまま寝てもよかったのだけれど、口内の不快な気配にとうとう耐えきれなくなった僕は、ふらふらと風呂場へ移った。
熱い水滴を頭からかぶる。全身から睡魔が抜け落ちていく。お湯が固いプラスチックの床を跳ねる断続的なリズムが心地よい。
そのオーケストラに包まれながらも、僕は『音』を聞き漏らさなかった。
足下から伝わる、耳障りなノイズ。
「……またか」
なんの音かは考えるまでもなかった。脱衣所から、ズボンに入れたままの携帯電話の悲鳴。
メールを受信したのだ。
僕は無視を決め込んだ。
老いぼれた医者に治療をしてもらって以来、彼女とは会っていなかった。連絡もしていない。そのおかげか、降りかかる重みは随分とマシになった。代わりに、僕の携帯電話は二十四時間、場所を選ばず震え続けている。
最初こそ申し訳なくも思えたが、数日も経てば不気味でしかなかった。恋人というわけでもない、偶然に知り合っただけの男に、どうしてここまで偏狂的になれるのか。
僕を好いているのか――?
僕は大きく首を振った。浮かんできた言葉を片っ端から否定していく。そんなことあるはずがない。魅力が無いことが魅力だと、重ねゆく人生の中で見出した自分への答えが、それこそ偏狂的な妄想を粉々に打ち砕いていく。
それに、告白されたとしても、まともに付き合える相手とは思えなかった。
今思えばあの時、デパチカで訳も無く豹変したあの姿を見たときに、すっぱりと縁を切っておくべきだったのだ。
被害妄想も甚だしい、何がユウレイだ。
けれど実際は、気にもとめなかった自分が居て、彼女との会話を楽しむ自分が居た。
それほどまでに彼女は魅力的だったのだ、と。
人に聞かせれば言い訳にしかならないけれど、彼女には惹かれるものが確かにあった。言葉では説明できない何かが、確かに。
シャワーを止めた。
もう出よう。これ以上思考が過熱する前に、一刻も早く睡眠に戻りたかった。
タオルを取り上げたとき、また、ケイタイが震えた。
いい加減不快になって、ズボンの入ったカゴを蹴り飛ばす。
なんなんだ今日に限って。いつもはもっとおとなしいのに。
息巻いて、乱暴に身体を拭いていく。
しかし、どこを拭いていても、気になるのはケイタイの振動だった。
ヴーン、ヴーンという、低周波が身体のいたる場所に突き刺さる。
ケイタイが震える――。
「くそっ」
震える。
「なんだんだよ……」
震える。
フルエテフルエテフルエテフルエテ――
「畜生! なんなんだよいったい!」
タオルを床にたたきつけ、洗濯カゴに手を突っ込んだ。洋服をぐちゃぐちゃに投げ捨てていく。壁にあった一つが固い音を立てて跳ね返り、カラフルに発光する物体をはき出した。
おそるおそる、手を伸ばす。
受信拒否にしてやる。もう我慢ならない。魅力がなんだ。くだらない。こんな女どうでもいい。アドレスも抹消してやる。全部忘れるんだ。白紙に戻して、何もかもを消し去ってやる。
指先が触れる。
「あ……」
携帯は、もう震えていなかった。
彼女のアドレスを着信拒否にして、電話帳から消去した。
「――ふむ」
僕の背中に聴診器をあてがって、喉をならす。嗄れた指が肌をなでてくすぐったい。けれどここで動くと後ろから文句が飛んでくるのだ。そう考えると、このじいさんは少しタチが悪い。
「どうですか」
尋ねると、呼吸を置いて答えた。
「わぁかいってのは、いいのお」
なんだかうれしそうだ。
ポンと、肩を叩かれた。
「まあ良好じゃろうて。だるさもそのうち消えるわい」
「ありがとうございます」
シャツを着て、上着を羽織る。僕は頭を下げた。
診察を受けるのはこれで二回目だった。身体は順調に回復していっているらしい。
適当に挨拶を済ませたところで、僕はふと思い立って口を開いた。
「あの……先生」
「なんじゃあ」
「……僕は、何の病気だったんでしょうか」
「…………」
「先生」
「それをぉ聞いてどうするつもりじゃ」
「それは……」
言いよどんでいる間に、年老い居た医者はスチール製のテーブルへと向き直ってしまった。
「まあ、たいしたもんじゃあない」
僕はきびすを返した。
がらんどうとした待合室には、珍しく客がいた。
黒髪の、疲れた風貌をした、若い女性だった。彼女は魂の抜けた目をして、正面のくすんだ壁紙を訳もなく見つめていた。こちらが挨拶をしても、全く気にしてないようだった。社会では廃人も間近だが、ここの客としては申し分ない。僕はやがて知り合うであろう彼女に、心の中で合掌した。
病院を出た頃には、日はすっかり落ちていた。いつものことだ。ここへ来るときは、一日を潰さないといけない。まあ、繁盛しているようでなによりだけれど。
街灯のほのかな明かりを頭の片隅で数えながら、生ぬるい風の吹く夜道を歩いていた。途中コンビニに寄り、冷たいビールを買った。店先でプルタブをひねり、煽るように流し込む。
いい夜だ。惜しいのは、月も星も、分厚い雲に隠れてまるで見えない事だけだ。能面のような灰色が蓋をしている。
壁に寄り添って、深い息を吐く。
先週とはかけ離れた穏やかな時間の流れ。
あの日から。
彼女を拒絶したあの日から、生活は平穏に満ちていた。
僕の日常は昔からの染みついた習慣に沿って、自宅と職場を行き来するだけの淡泊なものへと変容した。良くも悪くも人に語れるものなどない、平々凡々の言葉がありありと居座る、たわいない物へと。
けれど今は、それが懐かしく、心地良い。
自分が自分に戻っていくことに、僕は幸せを感じていた。まったく奇妙な感触だ。朝目覚めてベランダから快晴の空を仰いだような開放感が常に側にあった。ラッシュ時刻の満員の車内も、ナポリの清楚な空気に包まれてる気分だった。飽きるほどに食べた職場近くの牛丼でさえどこか違った。
一度死に、過去の記憶を持ってこの世界に再び生まれてきたような錯覚を、僕は存分に堪能していた。
――嘘。
空になった缶を握りつぶす。立ち上がった。後ろ手にゴミを捨てて、僕は闇の中へ躍り出た。
大通りを縦に渡り、緩やかな坂を歩く。丸々と太った広葉樹のおどろおどろしい風貌は、深夜ともない今時分でも十分に不気味だった。
奥にぽっかりと口を開ける住宅街への道には、人影の一つも見当たらない。自分の足音のみが、周辺の凍り付いた空気をかき分けて異様に響き渡る。
やけに物静かだな。
電信柱の根元で足を止め、腕の時計を確かめる。長針は、午後九時から半周回ったあたりを示していた。少しうるさいぐらいが丁度いい、世間様の呼ぶ『大人の時間』の暁鐘も鳴り止まぬ頃合い。
……いや、気のせいか。
僕はかぶりを振った。丁度、カツカツと、ハイヒールの叩く音が後ろから聞こえてきたのだ。耳を澄ませば、体力を持て余す老人共の話し声もする。手前の交差点を左に曲がってすぐの、古びた銭湯からだろう。
やれやれとため息をついた。
瞬間、腹の底から笑いがこみ上げてくるのを僕は悟った。
「……くっ、クク……」
口端から音が漏れる。だけど、最後のタガは外さない。こんなのでも人並みの羞恥心くらいは残しているつもりだった。
街灯に晒した身体を病的に震わせて、僕はこみ上げる笑いの衝動をこらえた。奇妙だったに違いない。通りがかった親子連れに、変質者だと指をさされてもおかしくない。けれど、笑わずにはいられなかった。
たった一人で夜道を歩く、それすら恐怖している自分は滑稽で、救いようがなく情けなかった。
平穏なんてない。日常なんてものはとうの昔に消えてしまった。どんなモノだったか、『ソレ』を目の前にしても、僕は思い出としてしか受け取れないに違いない。
僕は知っていた。
これは錯覚なんだ、と。
周囲のざわめきも、木の葉の潮汐も、風の生ぬるさも、夜の暗さも、音も、触感も、この思考さえも、すべてが錯覚で、それに気づかない錯覚をしているのだ、と。
ズボンのケータイが震える。
だってほら、ここはこんなにも、寒い。
≪END≫
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