8 邪鬼(怨)
アパートの一室に艶めかしい喘ぎ声が響いていた。
女が身もだえているベッドの傍らには、人の姿をした怨が冷めた視線で立ち尽くしている。そして女の胸元では、醜が目を血走らせながら精気を吸い取っている真っ最中だった。
「わかっているな。今日は、殺すんじゃないぞ」
「キキキキッ、心配するなって、ここいら辺で我慢しとくよ。名残惜しいがな」
そう言って醜は半裸状態の女から飛び退き、怨の肩に着地すると直ぐにトカゲへと姿を変えた。
「ホント、人間の快楽ってのは死と隣り合わせで面白いな、キキキキッ」
精気を吸われることは、命を落とすことだというのに、人間はそれを快楽だと感じてしまう。男は、死が迫る極限の状態でも女を抱きたいと考えるらしい。そのおぞましいまでの欲望の強さが人間の本質なのかも知れない。
そしてここには、性の快楽をあたえられていないというのに、うつろな瞳をした女が横たわっている。性の疲れではなく精気を吸われ体力が減少しているにもかかわらず、女の口元には薄い笑みが浮かんでいた。かなり精を吸われているので、当分起きあがることもできないだろう。
こうして息を荒げベッドに横たわる姿を見ていると余韻に浸っている女にしか見えない。性の快楽と死に至る感覚が隣り合わせになっている証拠だ。
「ハァハァハァ……もうダメ……君凄いよ……こんなの初めて」
虚ろな瞳を怨に向けニッコリと微笑む。まさに幸せの微笑みだ。
女は傍らに立つ怨に抱かれていたと思いこんでいるらしい。確かに、始めは怨も女の体を抱いていたが、それはあくまで食事を取るだけの行為で、人が考えるような行為ではない。玄関で女と抱き合い首筋から精気を吸い取る。その後は、暗示をかけ醜に女をあたえただけだった。そんなこととは知らない女は、嬉しそうに怨を見つめている。
「ハアァァ……ねぇ、また会えるでしょ」
女の求めるような声に、怨は一瞬いやらしく唇を歪めると、直ぐに屈託のない笑顔で答えるのだった。その声は、醜と話している時と比べものにならない程弱々しくなっている。この声こそ、体の持ち主「悠木剛」のものであった。
「ええ、いつでも呼んで下さい。それじゃあ僕はこれで帰ります。またお願いしますね」
怨は、女の財布から一万円札を二枚抜き取りアパートを後にした。本来鬼にお金など必要ないが、この姿でいる時にはお金があるとなにかと便利だ。
しかし、醜悪な鬼が食物である対象者を生かしておくのは、どんな邪悪な考えが合ってのことなのだろう。昨日は、〈月の狩人〉に見つかるような大胆な食事をしていたというのに、何故今は隠れるように食事をしているのか?
「キキキキッ、またこんなチマチマした食事に逆戻りか、昨日みたいに思いっきり喰いてぇなぁ」
醜がいつものように悪態をつくが、怨はそれを気にする様子はない。
しかし、醜が悪態をつくのも仕方のないことだ。餓鬼が食事を前にして、全てを喰いつくさずに生かしておくことなどあり得ないのだから。
それでは、この奇怪な行動をどう説明すればいいのだろう。
これは、全て怨がしくんだ作戦に基づいているものだった。
本来であれば、直情的な鬼が作戦を考えて行動することなどあり得ない。欲望のままに突き進むのが鬼や魔物の特性である。しかし、鬼の本能を抑えてでも手に入れたい物が怨にはあった。いや、魔物全てができることなら手に入れたいと考えている物が、月神神社に納められているのだ。
それは、伝説の三種の神器「天叢雲剣」「八咫鏡」「八尺瓊勾玉」であった。この三種の神器を手に入れることができれば、絶対的な力「須佐之男命」の力を得ることができると言われている。そして、この力を得れば鬼の絶対神として君臨することができるのだ。
怨はこの三種の神器を手に入れるために、危険を冒してこの地へ赴いているのだった。
今までも、多くの鬼や魔物が、三種の神器を狙って月神神社に戦いを挑んできた。しかし、その全てが退けられている。
神の力を得ることができる三種の神器と神に選ばれた三人の〈月の使者〉。どんな強力な鬼であっても、命をかけて戦いに挑まなくてはならない。しかし、自己顕示欲の強い鬼達は群がることを嫌うため、力がある鬼程単身で月神神社に戦いを挑んでいった。
そして、全て返り討ちにあっているのだ。鬼一人の力では、三種の神器の力を発動させた〈月の狩人〉には太刀打ちする術はない。それをわかっていても、群れて戦いを挑む鬼などいなかった。しかし鬼の中でも異質な怨は、できるだけの情報を集め綿密な作戦を立てた結果、役に立ちそうな醜を連れてきたのだった。
それなのになぜ、醜を連れて月神神社へ直接攻撃を仕掛けなかったのだろう。
怨は昔、月神神社に戦いを挑んで唯一生き残った鬼〈
この結界に挑んだ牛頭の話では、結界を破ることに殆どの力を使ってしまい。その後、〈月の狩人〉と戦う力など残っておらず。結界の中に入ることなくそのまま逃げ帰ってきたのだという。
怨が知る限り、牛頭は強い鬼である。その牛頭が結界を破るだけで力を使い果たしてしまったのだ。力の弱い魔物であれば、破るどころか結界の餌食になってしまうだろう。怨のように強い力を持つ邪鬼であっても、無事ではいられない。結界を破ったところで、殆どの力が削がれてしまうのでは話にならない。それをわかっていて月神神社に挑むことは自殺行為でしかないだろう。結界を破ったところで〈月の狩人〉と戦う力がなければ意味がないのだ。
それではどうすればいいのか。怨は考え抜き、なんとしてでも結界の外で〈月の狩人〉と戦う以外にないと結論を出したのだ。こんな消極的なやり方を他の鬼達に聞かれたら笑われるだろうが、怨はそんなことなど気にした様子もない。ようは勝てる確率の高い攻め方をしなければ意味がないからだ。敵のテリトリーの中で戦ったところで、自滅するのが目に見えているのならば、そこで戦わなければいい。結界の外で戦える手段を考えればいいだけのことだ。
それよりも問題なのは、三種の神器の力がどれ程強力なのかということである。怨よりも強い魔物達がことごとく倒されているからと言って、それは結界の中での話。力の弱っている鬼を倒しているので強力に見えているだけなのかも知れない。〈月の使者〉と言っても所詮人間が、神の力の一部を借りているだけ。神の力ではないのだ。
それを見極めるべく、怨は自らを囮にして〈月の狩人〉をおびき出し、結界の外で神器がどれ程の力を発揮するかを試そうとした。今までにも月神神社の外で戦いを挑んだ鬼も存在したかも知れない。しかし、始めから戦うつもりがなく、力を測り知ろうとした鬼はいなかっただろう。
怨は、他の鬼程自分の力を過信しておらず、まともに戦ったなら結界の外だろうと勝てないと考えていた。しかし、〈月の使者〉の力は知っておきたい。
ならば、逃げることのみを想定して力を計ったならば生き残ることができるのではと考えたのだ。時間を掛け、場所も綿密に選び、逃走ルートも確保した。
そして昨日、罠を張ったのだ。
敵のテリトリーで、あれ程大々的に精気を吸い取ったのだ。鬼を感知することのできる〈月の守人〉に必ず見つかる。そして、思惑通り〈月の狩人〉は現れた。
後は、神器を使った〈月の狩人〉の力を少しでも垣間見られればこちらの勝ち。どんなに不様であろうとも逃げに徹すればいい。
しかし、〈月の狩人〉が手にしていたのは天叢雲剣ではなく、ただの日本刀だった。
思いがけない出来事に怨は焦ったが、とにかく逃げることにした。どんな予想外のことが起きようが、ここで〈月の狩人〉を倒そうなどと色気を出し、失敗でもしたら元も子もない。失敗は、そく死を意味している。作戦を変更するわけにはいかない。この慎重さこそが他の鬼との違いだった。
そして、怨が予想した以外のことは他にも起こった。まさか、あの場所で結界を張る巫女が控えているとは思わなかったのだ。もし、あの巫女が強力な術者であったなら、怨は今こうして夜空の下を歩いていなかっただろう。
結局、怨の作戦は、なに一つもうまく行くことなくあっさりと失敗に終わった。
何故〈月の狩人〉は神器を手にしていなかったのか? いくら考えても答えは出ない。鬼を倒すには神器の力を解放するのが最も効率のいいやり方のはずなのに、なぜ使わなかったのだろう。もしや、邪鬼ごときに神器を使う程でもないと判断されたのか、そう考えると心穏やかではいられないが、それでは説明が付かない。
では何故〈月の狩人〉は天叢雲剣を使用しなかったのか? いくら考えても答えを出すことはできなかった。
しかし、今日その答えが見つかった。昨日の作戦もまんざら無駄ではなかったらしい。
月山高校一年生、悠木剛の体を利用し学校へ顔を出してみた。当然授業に出るためではないが、これからの対策も練らなくてはならない。どんな些細な情報でも集める必要がある。先ずは一番動きやすい学校を最初の情報収集場所に選んだだけのことだ。
そして、怨の鬼ならざる努力は直ぐに実を結んだ。校内を彷徨っている途中で決定的な会話を聞くことになったのだ。
そう、高彦と咲耶達の会話を……
咲耶達は、なにやら高彦に謝罪している様子だった。始めは、別段気にするような会話をしていたわけではない。ただ怨の興味を引いたのは、その組み合わせだった。
高彦に咲耶と知流、この組み合わせは昨日出会った〈月の使者〉と同じ組み合わせではないか。それに、背丈も似通っている。決定的だったのは高彦の長い髪だ。男がこれ程長い髪をしているのは珍しい。そして、校舎の陰から会話を聞いていると核心に迫る言葉が発せられた。「お前達が〈双心子〉として生まれてこぬから、神器を使うことができぬのだ」と……
〈双心子〉と言う言葉は聞いたことがなかったが〈神器〉と言えば一つしかない。これは決定的な言葉だった。これで謎が解けた。
〈月の狩人〉は怨を軽く見ていたのではなく、使いたくとも使えなかったのだ。
気まぐれに選んだこの体が、こんなにも役に立つとは思わなかった。剛の体がまたとないチャンスをあたえてくれようとは。
怨は、不敵な笑みを浮かべ、人通りのない夜道を歩いていた。
「怨よ。もう少し喰わねえか、こんなんじゃ全然たらねぇんだ。キキキキッ」
醜は人に聞くことのできない特殊な声で悪態をつき、胸ポケットの中をグルグルと駆け回った。なんとか怨の気をこちらに向けようとしているのがありありと見て取れる。
「少し黙っていられないのか。昨日も思ったが、貴様達は我慢することをしらん」
「ケッ! 邪鬼の口から『我慢』って言葉を聞くとは思わなかったぜ。俺達は欲望のままに生きるからこそ餓鬼と呼ばれてるんだ。そんな俺が、これ程我慢しているのにその言いぐさはなんだ」
人がいないことをいいことに、肩に飛び乗ると醜は餓鬼の姿に変わり怨を睨み付けた。
「貴様、誰に口をきいているのかわかっているのか」
醜の暴挙に怨も睨み返す。その迫力は、剛の体を使っていても醜に届いていた。
力の差は歴然としている。餓鬼の醜が邪鬼の怨に勝てるわけがない。醜はすぐさまトカゲの姿に変わると、胸ポケットに逃げ込んでしまった。
「す、すまねぇ、悪かったよ。ちっと腹が減ってたから言い過ぎただけだ。だけどよ。俺達餓鬼ってのは、喰っても喰っても満たされねえのは、お前もわかってるじゃねえか」
ここまで脅えているというのに、減らず口をたたくとはやはり餓鬼のなせる技だろう。しかし、そんな醜に怨は追い打ちをかけるようなことはしなかった。
「まぁ、もう少し待て。ちゃんと先のことは考えてある。俺様が〈須佐之男〉の力を手に入れれば、人間は食い放題なんだからな」
「しかしよ。三種の神器を奴らが使えねぇんじゃ、おびき出しても意味がねぇじゃねえか。てことは、あのやっかいなところへ仕掛けるってことかよ」
邪鬼の力を持ってしても月神神社の結界を破るためには全力でかからなくてはならない。そして結界を破ったとしても力を使い果たした邪鬼では、三種の神器を使われなくとも滅ぼされてしまう。それをわかっているのに怨はなにを考えているのだろうか。
「心配するな、この土地には古くから魔物がいる。そいつに結界を破って貰うのさ」
「この土地って……まさか、土蜘蛛をそそのかすのか。そんなことできるわけねぇ、だってよ。奴らの強さはあいつが一番見てきてるじゃねぇか」
「しかし、奴らが三種の神器を使えないことは知らないだろう。となればあの単純な土蜘蛛だ。すぐさま月神神社に突っ込んでいってくれるさ」
怨の不気味な笑みに餓鬼の醜でさえ背筋が凍る思いだった。
これ程頭を使う鬼など見たことがない。しかし、怨の言うことも一理ある。誰もが求める力、その力が少しの危険で手に入るのなら、リスクを負ってでも得ようとするのが鬼の性だ。それは、土蜘蛛とて例外ではない。
「じゃあ、すぐにでも行くのかい」
「ああ、話しは早いほうがいいだろう。クックックッ」
笑いを堪え、土蜘蛛のいる山へと歩みを進める怨の足下には、少し欠けた月に作り出される影が踊っているように見えた。
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月の使者が三種の神器の力を使えないことに気付いた邪鬼〈怨〉は、ある作戦を思いつく。その作戦とは……
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