1.
見慣れた休憩室の前を素通りし、増築を重ねた下層街レンジャー基地の中でも、とりわけ古い部分、すりきれた階段を2段とびで駆け下りると、リュウは暗い廊下の先のドアを押し開けた。
階段を下りたあたりから、岩肌から水がしみているような、湿っぽい空気を感じていたが、この部屋に入ると、ますますかび臭さが確信を帯びてくる。
その上、年中薄暗いここは、基地の一部でありながら、なにか洞窟めいた印象がある。
検査機材が積み重ねられた、ごちゃごちゃした洞窟の奥から、やがて、背の高い人影が現れて、リュウが目を輝かせた。
「ドクター、ドク・ステイシー、収穫がありました!」
「ほう。」
リュウが高くかがげてみせた証拠採集用のビニール袋がぶらぶらと揺れるのを、白衣を着た男はいぶかしげに、いつものようにのっそりと見上げた。
「どれ、取り出してみるか?」
「はい。」
リュウは、机を覆いつくしているガラクタの山から、先に角度をつけたピンセットをさっさと見つけ出すと、息を止めて、袋から大切な証拠の品を取り出した。
白衣を着た男が差し出した、小さなガラス板の上に、慎重に乗せると、同じガラス板をその上からかぶせ、ようやくリュウは、息を吐き出した。
「ずいぶんましに扱えるように、なったじゃないか。さて、次はこっちだ。」
「見ていいんですか?」
「そのために、きたんだろ?」
リュウは目のはしでちらりと相手の表情を覗き込むと、すぐさまガラス板を、大きな金属の筒の下に収め、手際よく操作しはじめた。
目を細めた男が後ずさりして、壁際のスイッチをおすと、ただでさえ薄暗かった部屋のライトが消え、一瞬の闇に溶けた。
すぐに、リュウが手元のボタンをリズミカルにたたき、壁に大きな映像が映される。
「太さ35ミクロン、長さは...12ミリ。」
「なんだと思う?」
「毛、でしょうか。人間の髪より太い。ディクのものかもしれません。」
「野良ディクが落としたものかもな。」
「それは...でも、違う気がしたんです。
ほら、ここ、カギのような返しがある。
あなたの講義でいくつかのディクの毛の説明をききましたが、
どれとも違う...変異タイプかも...。」
「これを、どうする?」
「できればDNAを調べて、既知のディクとの比較をすれば...。」
「ふむ。」
「変異の仕方で、人為的な手が加えられたものか、
自然に生まれたディクかが、わかる。」
「ぎりぎり及第というところだな。」
ぱちり、と白衣の男が、部屋のライトを灯けたので、リュウは、思わず何度も、目をしばたたかせた。
相手がすぐそばでにやにやと笑っているのも、夢中になって気がついていなかったのだ。
「それで、毛の分析をお望みかね、新米君?」
「...現場はもうセカンドやファーストが何度も調べているし、
これだってどうせ何の役にも立たないって、言われたんです。
でも、あの事件はまだ何の手がかりも、見つかっていなくて...。」
リュウは、自分が見つけた小さな欠片がはさまったガラス片を、プロジェクターからそっとはずして持ち上げ、置き場所に迷うように途中でぴたりと止めた。
ほかの誰にとってただのゴミ屑であっても、新米のリュウにとっては、
コンクリートの冷たい床に顔をつけて、やっと見つけた宝物なのだ。
「ま、暇つぶしがわりに、そこへ置いていけ。」
無精ひげをぼりぼりとかきながら、白衣の男が、リュウの迷いを引き取った。
「本当に?!」
「二度言わせるんじゃない。」
リュウがガラス片を大事そうに、ようやく見つけた机の隙間に置くと同時に、リュウが首に下げていたゴーグルの内部が、赤くまたたいた。
「大変だ」、あわててとって返そうとして、リュウは改めて男のほうに向き直った。
「ありがとうございます、ドク。」
「相棒にも、たまには顔をのぞかせろと言ってやれ。」
リュウはあやふやに微笑んで、ドクと呼ばれた男に会釈してみせた。
(どうせ何の役にも立たない)と言った相棒の声の調子を、リュウは思い出していた。
かび臭い鑑識区画を出て、レンジャー基地の廊下をすり抜けて、リュウは一足飛びで、基地から外へと降りる赤茶けた階段を駆け下りた。
その速度を後押しするように、額にあてたゴーグルの内部では、赤い光がだんだん速く明滅している。
なんだっけ、こういう光の点滅って、何かに似てる。
どこかで、そんなことを考えながら、さらに速度を速める。
階段を下りて、左に曲がり、まっすぐに緑の光の灯る細い通路を抜けて、リュウは、ここ下層街とほかの地区を結ぶ輸送の基点となっている、リフトポートへと足を向けた。
この時間、ここからリフトを使う人間はそういない。
何しろ下層街を見張っているレンジャー基地のすぐ隣にある駅など、多少とも後ろ暗い覚えのある下層街の連中が足を向けるはずもなく、このリフト駅は、実質上、政府の貨物の運送やレンジャー連中の移送専用となっていた。
朝のパトロールに出かけた連中はもうとっくに出払っていて、一足遅れたリュウとその相棒以外、客の姿はなかった。
「...お待たせ、ボッシュ。」
そして、この駅のただ一人の客は、腕を組みながら、憮然としてリュウを待っていた。
「5分遅れ。」
「ごめん、ごめん。ちょっとだけ、話ができたんだ。」
パートナーになって4か月、リュウはもうこの相棒の機嫌が、どのくらい悪いか、なんとなくわかるようになっている。
そう見せているほど、いまの機嫌は、悪くはないらしい。
「で、役立たず、どうだった?」
「まだ、わからないけど、分析には回してくれたよ。
仕事の合間に解析してくれるって...。」
「そうじゃない。役立たずは、何て言ってた?」
リュウたちがサード・レンジャーになってまもなくのころ、受けた講義では、実際の事件にどんな鑑識技術が役立ったか、現場に役立ちそうな知識をつめこまれ、それからひそかにリュウはドクターに尊敬の念を持っている。
ドクター・ステイシーは、確かに目立つ存在ではないけれど、鑑識の仕事ではベテランとして一目置かれていた。
そりゃあ、頭の切れるボッシュから見たら、そう見えるのかもしれないけど。
「ぎりぎり及第点、だって。」
「ま、その点は、俺も同意するけどな。」
「それから、ボッシュに顔を見せるように、って。」
「は、あんなかび臭いところへ? 冗談だろ。
あんな設備じゃ、できることだって、たかが知れてる。
いったい、どんな結果が出るんだか。」
目のくらむ光を発しながら、ようやく移動用リフトが駅に入ってきた。
案の定、乗り込む人間は2人だけ、降りる客もない。
「...ボッシュ、今回の事件のこと、どう思ってる?」
リフトに乗り込みながら、誰もいないシートの真ん中にどっかりと座り込んだ相棒に、リュウがその前から話しかけた。
「レンジャーが次々と行方不明、もしくは他殺体となって発見。
最初は偶然と思われたが、同一犯の可能性が浮上。
今のところ、証拠はいっさい発見されていない。
ただ、きざきざの何かで、
切り裂かれた死体が出てくるだけ。」
「被害者が同僚だから、皆、頭に来てる。」
「死んだ奴は間抜けだった。――それだけさ。...だろ?」
だが、リュウには、基地全体が殺気立ってる感じがしていた。
言うまでもなく、レンジャーは、階級を問わず、レンジャー殺しを一番嫌う。
犯人に対する憎しみの連帯感が生まれ、ファーストや下っ端の間にある不満やふだんのいざこざも、この事件が話題になっている間は影を潜めていた。
「今回のアレ、証拠に、なるかな?」
「さぁ、ディクの毛だけではね。そんなもの、どこにだって、転がってる。」
ボッシュは、興味なさげに、外を見続けている。
だが、ほのくらいガラス窓に映る、リュウと反対側の表情には、いま言った言葉とは違った意志があることに、リュウは気がついた。
やがて、ただでさえ乗客のまばらだったリフトは、ついにはリュウとボッシュの2人だけを乗せ、下層街の外れ、街の連中が”風の壁”と呼んでいる赤暗い地区へと、運んでいった。
下層街の隅にあるとはいえ、さすがのリュウも、こんな場所まで来ることは、ほとんどない。
身をかがめて、金属のドアをくぐると、すぐにつんと鼻をつく匂いがした。
足を踏み入れても、この場所の広さは、見当もつかない。
天井は闇に消え、人が何人も通れるような巨大なパイプが、林立し視野をさえぎっている。
底の見えない天井の闇から、いくつもの太いパイプがぬっと現れて、のたくり、もつれ合うように、床の底へと吸い込まれていて、その中を風が通っていく音がする。
下層街よりまだ下にある最下層へと空気を送るその音を聞いていると、胸をかきむしられるような、いたたまれないような気分になってくる。
ボッシュとリュウが向かおうとしているのは、人が住むことも無く、ただ排気設備の修理工が何ヶ月に一度訪れるだけの場所だった。
「ひどい匂いだな。」
吐きすてるようにボッシュがいうのも、無理はない。
古びて穴の開いたパイプからは、湿気を帯びた熱い空気が漏れ出して、鼻をつくような酸の匂いが当たり一面に漂っていた。
リュウは、ところどころ、吹き出している蒸気をよけながら、パイプの間を縫って歩き、ボッシュがその後に続いた。
「どうして、こんな場所が捜索対象になったんだ?」
リュウがボッシュを振り返った。ボッシュは右手を鼻に当てて、顔をしかめている。
「...知るか。K13が勝手に振り分けたんだ。
ローディといっしょだから、貧乏くじかもな。」
いらつくボッシュが口にしたK13というのは、今回の事件の指揮をとることになったファーストレンジャーのことだった。
リュウよりもさらに黒く長い髪をした、20代のファーストで、切れ者という噂を聞いたことがある。
本当の名前はクロウシュ=1/128というのだが、ボッシュは絶対に、彼のことをK13としか、呼ばなかった。
K13とは、カードゲームの絵札のことで、額を出した長い髪と高慢ちきな態度が、彼にぴったりだというので、誰かが言い出したあだ名だった。
「でも、クロウシュは、この広い下層街で、どうやって捜索場所を決めたんだろう?」
「ランダム・ドット。」
「何?」
「ばらばらの場所。以前の犯行現場とまったく関係の無い地点を、確率的にはじきだしてる。」
ボッシュがセーターの首のまわりに手をやって、いらいらとひっぱりながら、ぶっきらぼうに続ける。
金の細い髪が、汗にぬれて、頬にまとわりついている。
パイプの間をくぐって、奥に踏み込むごとに、次第に暑さが上昇していることを、リュウも感じていた。
「死体の散らばり方に、法則性が無さ過ぎるんだよ。」
「いままで殺された、4人のこと?」
「そういうこと。犯人は、わざとあちこちにばらまいてるんだ。
次の犯行が予想できないように。」
ボッシュが何を言っているのか、リュウにはさっぱりわからない。
だから、リュウは、顔だけは知っていた4人目の犠牲者の姿を思い浮かべた。
とろんとした目の無表情なセカンドレンジャー。
不意に、嫌でも浮かんできたのは、そのレンジャーを映した動かないホログラムだった。
床にごろりとつっぷし、背中を露わにして。
セーターごと、ぎざぎざの何かで、背後から切り裂かれている彼を見て、リュウは、気分が悪くなるところだった。
そして、5人目のレンジャーが、2日前から、いなくなっていた。
「みつかる、かな。」
「ふん、あいつより、先に見つけてやるさ。」
その声音から、ボッシュが今回の事件にどうして肩入れしているのか、ようやく腑に落ちた。
リュウは足を止め、振り返って、負けず嫌いの相棒に、にこりと笑いかけた。
だが、リュウを見る相棒の表情が変わり、瞳の底に、みるみる暗い影が宿る。
この相棒の目の色が、ずっとリュウには不思議だった。
宿舎のふたりきりのせまい部屋では、陰を落として青く、
基地の滅菌ライトの下では、緑の光が映り、
下層街の赤みを帯びた光の下では、深い灰色に見えた。
そのどれが、本当の彼なのか、知りたくて、つい、その目を覗き込んだことが何度もあった。
「なんだよ。」と、そのたび機嫌が悪くなるのを、知ってはいても。
だが、いまのボッシュの瞳に刺すのは、激しく、殺気を帯びた赤だ。
ボッシュの瞳の中心に、暗い影が宿り、赤い輪が一瞬現れて、しゅうと細くすぼまる。
リュウは、相棒の瞳に怒りを落とした、暗い影を、一気に振り返った。
見る角度を間違えたとわかり、すぐに顔を上げて、自分の2倍の高さを見上げたリュウの頭上に、黒い毛がびっしりと生えた、太く大きな腕があった。
「リュウ...!」
相棒の鋭い声を待たずに、リュウは、たちまち腰を落として、振り返った勢いのまま体をすべらせ、ディクの足元に転がり込む。
振り上げた爪が空を切り、上向きの牙をむき出した巨大なディクは、怒りに震え、咆哮した。
敵のふところに転がりこむ形となったリュウは、上半身を起こすと同時に、剣をすらりと引き抜く。
獣の匂いがわかるほどの距離から、腰を落としたまま、リュウは、ディクのむこうずねを下から斜め上へと、切り上げた。
がつんと刃が骨にひっかかる鈍い衝撃が手首に伝わり、獣の咆哮に、限界を越えた憤怒がこもる。
野獣がまた腕を振り、リュウのいた場所のパイプを削り取る。
悲鳴のような甲高い音を上げ、亀裂から勢いよく、白い湯気が噴き出して、ディクの視界を奪った。
ささったままの剣をリュウがあきらめ、身を離すのが一瞬遅かったら、リュウだっていまごろ原型をとどめていなかったに違いない。
目を血走らせた野獣は、吹き出る高熱の湯気を避けて、身を伏せるリュウに向き直り、その上に襲い掛かろうとした。
腕を振り上げ、せめて頭をかばおうとしたリュウの目に、白い光の一閃が見えた。
さらに、一閃。
ヒュッと風を斬る音が、骨を断つ音に変わる。
あわてて、リュウが身をひるがえし、パイプの影に転がり込むのと、リュウのいた場所の上に、そのまま巨体が崩れ落ちるのと、ほとんど同時だった。
獣の体が、びくんびくんと、何度か跳ね、やがて、目を見開いたまま、動かなくなった獣の体から、真っ黒い血が流れ出て、リュウのひざを塗らしはじめた。
「大丈夫かよ、リュウ。」
「...遅いッ...!」
「はぁ? 何言ってる。感謝しろよ、ローディ。」
「俺がどうするか、様子見てただろ。」
「最後はちゃんと援護したろ? 文句あるかよ。」
「あるさ!」
「今日の訓練さ、相棒。」
ぷいとむくれたリュウに、もうボッシュはかまわずに、動かなくなったディクの上にかがみこんだ。
「...オイ、血だぜ。」
「こっちだって、そいつの血で血だらけだ。」
ぷりぷりしたまま、リュウが立ち上がり、無駄と知りつつ、両手でひざに染み込んだ血をはたいてみる。
「そうじゃない。見ろよ、こいつの牙。
古い血が固まって、こびりついてるぜ。」
はっとして、ボッシュとリュウは、じっと顔を見合わせた。
2人が同時に立ち上がり、無言のまま、大きな野獣が出てきたと思しき、パイプの裏へと、歩みよる。
ディクの出てきたパイプの裏側、部屋の奥は、少し広いスペースになっていた。
壁際にそって這い登る、幾本ものパイプの間に、何かがはさまっていた。
ちょうど、両脇を抱え上げられたように、高い位置からぶら下がっている。
判別できるのは、皮を脱ぐように、腰のあたりから垂れ下がった、セカンドのレンジャー・スーツだけだった。
2.
「ねぇねぇねぇ、リュウ!
レンジャー殺しのディクを、倒したって!?」
基地の休憩室に足を踏み入れた途端、同僚のターニャの高い声に迎えられ、リュウは辟易した。
ほかのレンジャーたちも、それぞれの会話に夢中なふりで、こちらに聞き耳を立てている。
「...そう、ボッシュがね...。」
ターニャが話しかけてきたと同時に離れていった金髪のエリートはそ知らぬふりで、もう奥の一番いい席を陣取って、どっかりと腰を下ろしている。
最近、ボッシュに取り入ろうとしている新米の何人かが、そこへ足を向けるのを見て、ターニャが、明らかに不満そうな顔をした。
「でもこれで、終わるかしら。
そのディク、死んじゃったんでしょ?」
「ターニャ、まだあれが犯人と決まったわけじゃないよ...」
「リュウ。」
休憩室に、凛とした声が響いた。
「はい、隊長。」
ゼノ隊長は、リュウをいつも2つの呼び方で呼んだ。
「リュウ1/8192」は任務のときの呼び方だが、「リュウ」とだけ呼ぶときは、それが個人的な話だということだ。
ゼノが話を続ける。
「リュウ、
ドクター・ステイシーのところへ最近出入りしているそうだが、
何か理由が、あるのか。」
「いえ、ただ...鑑識の、
ドクターの手法を教えてもらおうと考えました。」
「それだけか。」
「はい。」
「そうか、ならいい。
――気にするな。いまの言葉は忘れてくれ。」
リュウが問う言葉をつぐ前に、ゼノはきびすを返し、奥に声をかけていた。
「ボッシュ1/64、話がある。隊長室へ。」
「了解しました。」
ボッシュは立ち上がると、リュウのほうに目をくれることもなく、通り過ぎた。
「なによ、どうしてボッシュだけ?」
ターニャの言葉に答えもせず、リュウは、隊長室に吸い込まれる相棒の後姿を見送る。
「そうだ、そういえば、リュウ。
あたし、忘れてた。
そのドクから伝言。リュウに、会いにこいって。」
リュウは、振り向き、顔を上げた。
ボッシュは、ゼノの後から、隊長室に足を踏み入れた。
そして、その部屋にいた先客をねめつけるような目で見る。
「サードレンジャーのボッシュ君、だね。」
「…用は?」
ボッシュは、右手に立つクロウシュ1/128ではなく、正面のゼノの方を見たまま問いかけた。
デスクに腰掛けたゼノは、ひじをつき、目を細めて2人のやりとりを見ていた。
「君が、あのディクを倒し、5人目の遺体を発見したそうだね。
君が、犯人をどう思うか、君の意見を聞きたくて、呼んでもらった。」
「人に物を頼む気なら、頭を下げて、そっちの手の内が先。」
ボッシュの物言いに、クロウシュの顔がひきつった。
「そうはいかない。
――重大な捜査情報をサードの新人レベルに漏らすわけにはいかないからな。」
「じゃ、協力もできないな。そういうこと。」
「同僚が殺されているんだぞ。この事件を解決したいと、思わないのかね?」
「俺のことは、わかってんだろ?
能力の低い人間に、手を貸す義理はないんでね・・・こっちのメリットは?」
憮然として黙り込んだクロウシュの代わりに、ゼノが引き継いだ。
「勿論、功績は評価される。通常以上にな。
今回の事件には、レンジャー全体の威信がかかっている。
このまま野放しには、できない。」
「こいつが指揮官?」
ボッシュがあごを少し動かして示す。
「捜査指揮官は、権利を行使するかわりに、責任も負う。
命令もするが、捜査員の後始末を引き受けるのも彼だ。」
「…ふん。」
クロウシュがにらみつけるぎらぎらとした目を、ボッシュは一顧だにしない。
「通常以上に、ってところ、忘れないでくれよ隊長。
で、俺に何を頼みたいって?」
「きみのパートナーの、リュウ...1/8192...を」
手にした書類をにぎりしめたまま、クロウシュは、ボッシュから一度も目を離さずに言った。
「その、リュウ君を貸してもらえないかな。
この事件のおとりとして。」
「無理だ。」
ボッシュの口からぴしりと言葉が飛び出し、思わずクロウシュのほうに顔を向けた。
初めて、2人の目が合った。
答えるタイミングが、早すぎた。
相手のその表情から、すぐにボッシュは己の失敗を知り、声のトーンを低めた。
「...よく考ろよ? サードレンジャーだ。
あいつのD値は1/8192。
今回の事件の被害者は、5人ともセカンドかファースト。
あれでおとりになるわけがない...。
少しでも頭を使えば、わかるだろ。」
「魅力的な餌ではないと、君自身そう思うのかい?」
クロウシュは、獲物を見つけた猫のように、遠くからボッシュを見、目を細めている。
「そうだな。もしも何も理由がなければ、私もリュウ君をおとりに、などとは考えないよ。」
「理由?」
「そうだ。
被害者5人には、レンジャーであること以外に、ただ1つ、共通点がある。」
「早く言えよ。」
「失礼。被害者は全員、失踪直前に、ある人物に接触している。
かすかな手がかりだが、いまのところ、唯一の接点だと言っていい。
なにもせずに、座して待つより、餌を仕掛けて、相手の動きを確かめたい。
...おとり捜査は、別にとりたてて変わった捜査方法じゃないんだ、ボッシュ君。
君にとっても、今後の参考にもなり、昇進につながるチャンスだ。
君の損には、ならないだろう。
どうして、反対するのか、理解できないんだが。」
「理由をまだきいてない。」
「おや、わかると思っていたよ。
その疑惑の人物に、リュウ君が接触しているんだ。」
「誰だ。」
「...鑑識課の、ドクター。ドク・ステイシー。」
ゼノが抑揚の無い声で、答えた。
「それじゃ、内部犯行じゃないか...!」
ボッシュが、顔を上げた。
「それで、威信にかかわる、と...。」
とりなすように、ゼノが、答える。
「ボッシュ、われわれだって、まさか鑑識課のドクターが、犯人だと言っているわけではない。
ただ、これはあまりにも証拠の少ない事件なんだ。
クロウシュにしてみれば、ワラにもすがりたい心境だろう。」
「ふん、ずいぶん頼りないワラに、すがる指揮官だな。」
クロウシュは、聞こえないふりをして、続ける。
「勿論、きみのパートナーの身に危険が及ばないよう、全力でバックアップすることを約束するよ。」
「ファーストとセカンドを5人も殺した相手に
遠距離のバックアップなんて、あてになるかよ。」
「おや、君も、パートナーの身の保全に努めてくれるんだろう?」
ボッシュは、今度こそ、はっきりと、クロウシュをにらみつけた。
レンジャー組織にしてみれば、下っ端で新米のリュウは、一番安上がりな餌だろう。
サードのローディなんて、消耗品もよいところだと、かつてボッシュ自身が、そう思っていた。
クロウシュは、目の奥に、こんなに楽しいことはないじゃないか、といった表情を浮かべている。
「ローディがどうなろうと、俺の知ったことじゃない。」
「それなら、なおさら差し支えないだろう。それでも、作戦は、実行される。」
「...協力する気はない、いやだと言ったら?」
「それも君次第だ。
ただ、事件が早期に解決するほど、リュウ君を危険な立場に追い込まなくてすむかもしれない。
君もまた、試されているのかもな。」
これには、ゼノもぴくりと反応した。
「それで、どういう計画なんだ。またあてずっぽうの場所に
下っ端ローディを立たせる気かよ?」
「まず、ドクターと接触させ、そして、リュウ君は、ドクターに事件のことを知っているとほのめかす。」
「それで、リュウを一人にして、相手がかかるかどうかを待つ?
――陳腐な作戦だな。」
「君なら、どうする? ボッシュ。」
ボッシュの瞳が、緑に光る。
「だから、言ったんだ。
もう一度言う。
君の意見を、聞かせてくれ。」
半時間も待ったのに、ボッシュがさっぱり出てこないことにしびれを切らし、リュウは、ターニャに礼を言って、先に、鑑識課へ足を向けた。
通いなれた地下への通路の先は、ドアを開いた後も、思いがけず暗かった。
「リュウ1/8192、入ります。」
型どおりにかかとを鳴らして足を踏み入れたリュウの目が暗さに慣れてくるにしたがって、わずかな蛍光の明るさが、部屋の奥から漏れ出ているのが見えた。
「ドク...?」
足元も見えない暗さの中を、リュウは進む。
いざとなれば暗視ゴーグルがあるけれど、レンジャー基地の中でそんなものを使おうなどとは思ってもいない。
15メートルほどの道のりの間にも、机の上にあるサンプルが、いろいろな光をほのかに発していることに、リュウはいま初めて、気づいた。
部屋の一番奥にかがみこんだ、白衣を着た人影に、リュウは近づいた。
「これを、見てみますか。」
だが、振り向いた男の声は、聴きなれたドク・ステイシーのものではなかった。
男が装着したゴーグルの目の部分は、円筒形に突き出して、その中心に青緑色をした光が映りこんでいる。
「ドクに呼ばれてきたのですが。」
「これが何か、わかりますか。」
「いったい、なんです?」
男は、覗き込んでいたサンプル読み取り装置の脇にあるコンソールに手を伸ばし、エンターキーを押した。
たちまち、暗かったコンピュータディスプレイに、青緑色の文字が溢れはじめる。
いっときもやむことの無い文字の奔流が、すぐに画面を覆いつくし、明滅しはじめた。
その明るさで、ようやくリュウは、相手がドクターよりずっとひょろりとした背の高い男だと気づく。
「何だと、思います?」
「さぁ? まるで...暗号...みたいだ。」
リュウは思わずつぶやくと、あわてて口を閉じた。
ディスプレイを埋め尽くす数字の羅列に、ボッシュがよく不正アクセスを試みている、省庁区のファイアウォールを連想したのだ。
男が声を出さずに笑った。
「勘がよすぎるな。」
ひゅっ、と風が鳴り、リュウは、反射的に振り向き、身を沈めた。
腰を床に落としたリュウのちょうど耳元にあった作業台が、ぐわわんと振動し、台が裂け、ガラスが砕ける大きな音がした。
すぐに、リュウは、壊れた作業台の下に潜り込みながら、台の前にあった回転チェアを、相手に向かって思い切り蹴飛ばす。
椅子ががしゃんとぶつかる音に続き、いらだちとともに、リュウの頭上にある台の上のディスプレイをなぎ払う音が、響いた。
「ちっ。」
コンピュータディスプレイが床に叩きつけられ、粉々になる音がして、部屋は真の闇となった。
リュウも、もちろんじっとはしていない。
はらばいになって作業台の反対側へと移動し、思い切って台の上に乗り、相手のいた場所に飛びかかろうかと、身構える。
だが、リュウが身を起こすころには、ドアがゆっくりと一度だけ開いたかと思うと、もう部屋の中から相手の気配は消えていた。
リュウは立ち上がり、作業台を回り込むと、落ちて飛び散ったサンプルのガラス容器をさがした。
容器は割れ中身は飛び散り、ほかのボトルから漏れ出した薬品と交じり合って、水溜りを作り、その不定形の模様が、かすかに蛍光を発している。
(サンプルが……。)
リュウは床にひざをつき、割れたガラスのかけらに手を伸ばした。
「何をしている!?」
そのとき、部屋全体の灯りがともり、鑑識課の出入り口に、仁王立ちになっているドクター・ステイシーの姿が見えた。
部屋が明るくなって、リュウは改めてまわりの惨状を見渡した。
目の前には真っ二つに割られた作業台、リュウが蹴飛ばした椅子が遠くにひっくり返り、右手には、無残にも叩き壊されたサンプル分析器のディスプレイから赤黒い配線がのぞいている。
薬品のボトルやサンプルの破片、それに書類が、あちこちに飛び散って、よけて歩くのも難しい有様だ。
闇の中で光っていた液体は、いまは黒々とした水のように、床に広がっている。
「ドクター、サンプルがこんな…。」
「リュウか。いったいどういうことか、説明しろ。」
「はい。」 リュウはあわてて立ち上がり、かかとを打ち付けた。
「ドクターに呼ばれたと聞き、この部屋に伺いました。
闇の中で、白衣を着、ゴーグルをつけた背の高い男が1人、サンプルを調べていました。
男が話しかけ、サンプルの分析結果をディスプレイに映したので、それを覗き込んだところ、背後から襲われました。
男は機材を破壊し、部屋から立ち去って……。」
ドク・ステイシーの褐色の目が、リュウの足元を見、それからリュウの顔に視線を戻した。
「...わかった。とりあえず、こっちへ来なさい。」
「ドク、サンプルは」
「サンプルは、もう救えない。来なさい、まずお前の手当てが先だ。」
リュウがあわてて、左の頬に右手を当ててみると、革のグローブに黒く血のしみができた。
転がっていたスチール製の回転チェアを起こし、ドク・ステイシーは、そこにリュウを座らせた。
いつもなら、このくらい大丈夫です、と治療を断るリュウだけれど、今日のドクターには、うむを言わせない雰囲気があった。
普段は高い教壇の上に立ち、新入りレンジャーに講義をするドクターが、椅子に腰掛けたリュウの前にかがみこみ、てきぱきとリュウの傷の手当てをしている。
ドクターの茶色い短い髪が、ところどころ白くなっていることに、リュウは初めて気がついた。
「……あの、ドクターは、レンジャーの怪我の治療も….。」
緊張のあまりとはいえ、自分の言い出した言葉のばかばかしさに気づき、リュウは言いよどんだ。
「普段は死体の解剖ばかりしてるのに、私が生きた人間の治療をするのは、おかしいか?」
「いえ! そうではありません。ただ、初めて拝見したものですから...。」
「私も、生きたレンジャーの手当てをするのは、初めてだ。」
「……。」
「だが、安心したまえ。生きた人間の治療をするのは、初めてではない。
さ、かすり傷だ。心配ないよ。」
「サンプルを守れなくて、申し訳ありません。
まさか、レンジャー施設に賊が侵入するなど...。」
「サンプルなど、どうでもよい。命の無事を喜びたまえ、リュウ。」
リュウの前にかがんだドク・ステイシーが、顔を上げて、その距離からリュウの目をまっすぐに見つめた。
わずかの間、褐色の瞳に、浮かんだ色を、リュウはその後もずっと忘れなかった。
「ディスプレイをみせて、これはなんだと思うと、男が聞きました。
俺は、「暗号みたいだ」と答えました。」
「リュウ……!」
「すると男は「勘がよすぎる」と言って...」
「リュウ、聞きなさい。
今日ここで起こったことは、誰にも話すな。
同僚や友人にもだ。
勿論、隊長には、私から報告しておくから、お前が報告する必要はない。」
「ドクター?」
「いついかなるときも返事は、了解、だ。リュウ1/8192」
「了解しました。」
正式なIDを呼ばれ、リュウの口調と目の色が変わる。
それに気づいたドク・ステイシーの口調が和いだ。
「自分のIDが嫌いか、リュウ。」
「いいえ。」
「私は、お前のIDが嫌いではないよ。」
「はい。」
「私がお前を信用するのは、そのD値のせいだ。」
「……。」
リュウが、そっと目をそらす。
「お前のパートナーのD値は、いくつだと言った? リュウ。」
「ボッシュ1/64です。」
「…1/64か….。」
ドク・ステイシーは立ち上がり、壁に近づき、その一端に触れると、金属板の一枚が音も無くスライドし、ぽっかりと四角く区切られた小さなスペースが現れた。
そこから、一枚のミニ・ディスクを取り出すと、壁は元のように閉じられ、そのあった場所さえもわからなくなった。
「これを、パートナーに渡しなさい。
サンプルの解析結果だ。」
「ドク。」
リュウの表情がぱっと明るくなった。
リュウにとっても、あのサンプルは大切なものだったのだ。
「ただし、お前は絶対に見てはいけない。
この件にもう、関わるんじゃない、リュウ。
ディスクをパートナーに渡して、それでおしまいだ。
ここにも、もう来るんじゃない。
わかったか?」
「…わかりません!」
「――返事は? リュウ1/8192?」
「了解…ドクター.……。」
思わず顔をそらせ、唇を噛むリュウを、ドク・ステイシーは、静かなまなざしで見つめた。
宿舎に戻ってきたリュウは、真っ暗な部屋の明かりを点けると、二段ベッドの下段に腰を下ろした。
結局、あの後にもボッシュを捕まえることはできなかった。
任務の指示を行うマックスの命令で、リュウは背の高い同僚のジョンとともに、通常のパトロールにシフトされ、下層街へと追い出された。
1日の任務を終えても、リュウはボッシュがどこで何をやっているのかさえ、知らされなかった。
パトロールの最中も、終わってからも、たびたびゴーグルの中を覗き込むリュウのしぐさを、ジョンが指摘した。
リュウはなんでもない、と答えたが、ゴーグルの内部が一度として明滅することはなかった。
ひとりで簡素な食事を終え、シャワーを浴びて、ふと腰に当たった硬いものに気づき、パウチの中に収めていたミニディスクを取り出した。
(お前は、絶対に中身を見るな。)
ドクにはああ言われたけれど、リュウは絶対にこのデータを、見るつもりだった。
なぜ、ドクはこれを隊長や、今回の事件の捜査指揮者のクロウシュではなく、ボッシュに渡せと言ったのだろう。
ボッシュはこのデータを確認し、結局はクロウシュかゼノに報告するだろう。
ならば、リュウが見ても、いいはずだ。
ボッシュには見せられて、リュウが見てはいけない理由など、あるだろうか。
――確かに、リュウは、このデータの一部を見たときも、ただの記号の羅列にしか見えなくて、意味なんてわからなかったけど。
リュウにはわからないことが、ボッシュにはわかるとでも、ドクは、言いたいのだろうか。
(D値1/64か……。)
そうつぶやくドクの言葉を思い出し、リュウはおもしろくなかった。
夜はすっかりと更けて、先にデータを見てしまいたい誘惑にリュウが負けそうになったころ、ようやくボッシュが部屋に戻ってきた。
「遅かったね。」
「…….。」
ボッシュは返事もしないまま、ジャケットを脱ぐと、リュウが投げたタオルを受け取り、そのままシャワールームへと突き進んだ。
機嫌が悪いらしい。こうなると、シャワールームからボッシュが出てくるまでは、長くなるだろう。
リュウは、ため息をつき、待ちきれなくなって、せまい部屋の一角を占領しているコンピュータの電源を入れた。
「…何してる、お前。」
コンピュータの前の椅子に座り、例のミニディスクを挿入し、データを起動しようと躍起になっているリュウの背後から、ぴりぴりした声が聞こえた。
リュウは、意外に早くシャワーを終えて出てきた同僚を振り返る。
うすいシャツに着替え、肩に白いタオルをかけている。
薄暗い部屋で、細い髪の先についた水のしずくが光っている。
「覚えてるだろ、4番目の現場で見つけたディクの毛の解析結果が出たんだ。」
「なぜ、お前がそれを持ってる?」
「なぜって、今日、ドク・ステイシーに呼ばれて、――。」
リュウは言いよどんだ。賊に襲われた件は、口止めされていたのだ。
「お前、1人で行ったのか?」
「悪いのか。ボッシュは隊長室に呼ばれてたろ……。」
「それで、あいつ、そのデータをお前に渡したのか?」
リュウは、一瞬目をそらした。
「ドクは、ボッシュに渡せって。俺は、使いを頼まれただけだ。」
ディスクが読み取られるブーンという音だけが、暗い部屋に響いた。
ボッシュが、突然動いた。
肩にかけていたタオルの先を両手で持ち、首からはずしたボッシュは、そのまま前にのばした両手を組み、乱暴にリュウの頭のほうへと振りぬいた。
反射神経のよいリュウは、椅子から立ち上がって、いわれのないその暴力を避けた。
驚きと、そしてすぐに怒りが、リュウを追ってくる。
「なにすんだよ、ボッシュ!?」
「俺のデータだ。なに勝手に見ようとしてる?」
「勝手に、って、説明したろ? それに捜査資料を俺が見て、何が悪い?」
「あいつは、俺に渡せといったそうだな。」
「...そうだけど。もともとは俺のサンプルだ。俺にだって見る権利はあるだろ。」
「お前に、そんな権利は無い。」
「ボッシュになら、あるってのか? 同じサードじゃないか。」
「お前に、権利なんか無い。それに触るな。」
――お前には、権利なんかない。ローディだからな。
そんな言葉が聞こえた気がして、かっとしたリュウは右の手のひらを振り上げ、思い切り、デスクの上にたたきつけた。
びいいん、と金属板が鳴り、ボッシュとリュウは、にらみ合った。
その言葉で、どうして自分がいまここまで激昂するのか、リュウには自分でもよくわからなかった。
いままで何度でも投げつけられ、そのたびあきらめてきた言葉。
この同僚には当然のように、与えられ、自分からは当たり前のように、奪われる。
いつも、いつも、繰り返し、そうだったじゃないか。
でも、これは事件のことなんだ。
なにか、手がかりになりそうなものを、やっと見つけたのに、
相棒には手が届いて、俺にはその権利がないなんて、
どうして、いま、ここであきらめられる?
ドク・ステイシーが解析したデータなのに。
ボッシュは、ドクのことを役立たずと呼んでいたじゃないか。
リュウが先に動いて、コンピュータのエンター・キーを押そうとした。
ボッシュがそれをさえぎって、リュウの腕を払いのけた。
かっとしたリュウがもう一度、近づこうとしたところを、ボッシュがめんどくさそうに蹴った。
ボッシュの素足がリュウをかすめ、それをよけつつ、リュウは、ボッシュに飛び掛かる。
2人とも床に倒れこんで、互いに力任せに相手の動きを封じようとする。
リュウが体重差でボッシュを押さえ込もうとしたところを、立てひざを思い切り折り曲げたボッシュの蹴りが襲い、今度はリュウのみぞおちに見事に決まった。
うなって腹を抱えこんだリュウを押しのけて、ボッシュがコンピュータのディスク・キーに手を伸ばす。
追いすがるリュウが、ボッシュの脚に手をかけ、つんのめったボッシュが、キーボードの上に倒れこんだ。
一気にディスプレイが明るくなり、データが展開され始めた。
光の奔流に照らされて、つかみ合っていた2人は、動きを止める。
データの海、光の海。
リュウが見た、あのときのデータが、再生されていく。
やっぱり、リュウには、なんのことか、さっぱりわからなかったけれど、
画面を下から上へ、高速に展開する記号を追って、
ボッシュの目つきが食い入るように変わった。
「ボッシュ。」
リュウが、手を伸ばしても、ボッシュは画面に魅入られたまま、身じろぎもしない。
「……ボッシュ?」
リュウはボッシュの隣に立ち、右手で、相棒の頬に触れた。
まだ濡れて頬にはりついた金糸のような髪を、指で整えても、ボッシュはいつもそうするように、よけもしない。
リュウは、顔を近づけ、ボッシュの瞳に映りこむ記号の羅列を読み解こうとした。
「ボッシュ、このデータが何なのか、わかるのか。」
頬に手を当てて、リュウが近くから静かに問いかけると、ようやくボッシュは、われに返り、腕を伸ばして、データを閉じた。
部屋に、静かな闇が戻ってくる。
「わかる? いや、わからないさ。
ただ、誰かが、誰かに、なにかを伝えようとしたらしい――。」
暗さを取り戻した部屋の中でも、ボッシュの瞳の底が青く光った。
隠そうとしても、その瞳の奥に、歓喜と興奮が目覚めつつあることにリュウは気づく。
「生き物の体は、DNAという遺伝情報からできてる。」
部屋の隅にある簡易キッチンで、リュウが暖めた飲み物を、ソファに身を沈めていたボッシュに手渡すと、ボッシュはカップを手に持ったまま、両のひじをひざの上に乗せて、身を乗り出した。
「うーん...あんまり、詳しくないけど。」
リュウは、テーブルをはさんだ床の上にあぐらをかいて座り込み、少し考えた後、正直に認めた。
いまは、こんな話をしているときか?
レンジャーたちが殺され、その証拠を見つけたと思ったら、あろうことかレンジャー施設内で賊に襲われた。
ドクターは、リュウに口止めをし、この件にはかかわるな、と言った。
――まぁ、命令には従ってないわけだけど。
「そのDNAが、この事件に、なんの関係があるんだよ?」
「さっきのデータ。」
「データが何?」
「あれは、お前が見つけたディクの毛のDNAを読み取った結果だろ。
でも、全体が不自然に長すぎるんだ。
ぱっと見ても、無駄な部分がべらぼうに多いんだ。
つまり、―――、」
と、ボッシュは息をついだ。
「この生き物のDNAの中に、
誰かが人為的にメッセージを仕込んだとしたら――?
受け取った人間がこの生き物のDNAを読み取ると、
なにかの意味が浮かんでくるように、あらかじめ決めてあったら?」
「意味って、なんの?」
「ばーか。暗号解読ってのは、時間がかかるんだよ。
これから謎の配列を抜き出して、つなげて分析して。」
ボッシュは、引き抜いたディスクを左手の親指と人差し指でつまみ上げ、くるりと回してみせた。
「…だけど、現時点でも不自然すぎる。
ひょっとしたら、誰かがこのディクのDNAの中に、
膨大な情報を人工的にうめ込んだんじゃないか。
つまり、DNAを組み替えた科学者と、
受け取った相手だけがわかるメッセージが、
この部分に隠してあるかもしれないってこと。」
(暗号、みたいだ...。)
自分が何も知らずにつぶやいた言葉を、リュウは思い返した。
「でも、そんな回りくどいことをなぜ?」
「さぁな。やりとりを絶対に、気づかれたくなかった、
暗号ということさえ、知られたくなかった、
あるいは、なにかまだわからない理由があるのかも。
そうまでして隠すんだとしたら、
それなりの情報なのかもしれないぜ。」
ボッシュは明らかに楽しそうに腕を伸ばし、脚を組み替えた。
リュウは、とても嫌な予感がした。
ボッシュの手が、テーブルを乗り越えて、その上に身を乗り出していたリュウの結い上げた髪の根元をぐいをつかんで、引いた。
リュウは後頭部から引き寄せられ、それでも首を曲げて、顔をボッシュの方に向けた。
間近で見るボッシュは、リュウの目を覗き込みながら、どこかうっとりしたような表情をうかべている。
しなやかな体を持ち、闇の中で翠の目を光らせる肉食獣を、リュウは反射的に思い出す。
そのとき、リュウは、ボッシュがときどき見せる瞳の正体を知った。
獲物を見つけた、肉食獣の目。
底が見えず、思わず魅入られてしまうような瞳の色。
「わかるか、リュウ?
――よくやった。
もし犯人が情報を仕込んでいたとしたら、
分析前でも、このデータは、切り札になる。
隠したい分だけ、
暗号を作ったやつは、このデータを消そうと、
ディスクを持っている人間を必ず狙ってくる。」
「…よくわからないけど、とにかく、これは役に立つんだ?」
リュウが率直に問う。
リュウの髪をつかんだ手をぱっと離し、ボッシュは、うなづいた。
「相手は、きっと、このデータを狙ってくる。」
(後編へつづきます)
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ゲーム「BOF5 ドラゴンクォーター」二次創作小説です。レンジャーが誘拐され、殺害される事件に、リュウとボッシュが巻き込まれる話。前編です。