それは、私が常に追い求めたことだった。
私こと『荀彧』、真名を『桂花』は『男』が心底嫌いである。
それは公然で、当然の事実だ。
『男』なんて云う屑どもを、どうして好いていられようか。
国の中核を女性が多く占めるこの世界で、所詮下に付くことしかできない『男』に一体何を求めれば良いというのか。
『男』なんて全部まとめて、死んでしまえば良い。
これは私が常に思ってきたこと。
無論そんなことになればいくら中核の多くを女性が占めているからと言って、それでも下に付きながらも屑なりの仕事をしているモノが消えるのだから、国は立ちゆかなくなる。
それ以前に兵の多くが『男』なのだから、国が立ちゆかなくなる以前の問題だ。
『塵』も積もれば『山』となる、そんなところかしら、文字通り。
……上手いこと言ったわね。だからといって『男』が死滅してくれるわけじゃないから嬉しくも何ともないけれど。
それにもし、『男』が全て、この世界から消えたとしたら、『子供』を生むことができなくなる。
気持ち悪いことこの上ないし、考えただけでも吐き気を覚えることではあるのだが、『女性』が子供を産むためには、『男』の存在が必要不可欠だ。
それもただいるだけでいい、というわけでもない。
子供を産むためには、『性交渉』を行う必要がある。
なぜ、などという疑問は意味を成さない。
これはいくら抗おうにも変えられない事実であり、ただただ眼前に突きつけられる現実なのだから。
私にとって、これほどの理不尽はなかった。
数多の努力を重ね、時には死ぬ想いをしながら屑どもを踏み台にして高みへと上り詰めた私が、なぜ、屑を必要としなくてはならないのか。
血縁を至上とするこの時代で、子供を残せない、残さないというのはまさしく馬鹿のすることである。
しかし頭で理解できていたとしても、心の方は別物で。
だから私は、“あの男”が嫌いである。
『天の御遣い』ともてはやされる“あの男”が。
へらへらとしているくせに、『華琳さま』に気に入られている“あの男”が。
常に女性を侍らせ、鼻の下を伸ばし続ける“あの男”……『全身精液男』が。
それでも、“あの男”が他の屑と比べて優秀であるということは、心底嫌ではあるのだが、認めざるを得ない。
いわゆる『天の知識』と呼ばれるモノを用い、起こる問題を解決していく様は、『軍師』である私からしても目を見張るモノがある。
私たちとは違う世界からやってきたということもあり、私たちとは違う視点からモノを考え、口にするそれは、ときどき的外れではあるけれど、“あの男”が“あの男”なりに考えがあってのモノで。
ある種、理にかなっていると言えた。
『学校』とやらで得た知識を存分に振るい、それに見合った功績を挙げていく。
その上『天の知識』がなくても、他と比べればやはり“あの男”は優秀で。
『武』の方は『将』の面々に遠く及ばないものの、それでも“あの男”を『隊長』と呼び、慕う――私にはまったく理解できない――『凪』が言うには、『筋は悪くなく、鍛えればそれなりにモノになる』そうだ。あくまで『それなり』だが。
それでも『それなり』の『武』を用いて、自身の考え出した献策を実行するため先頭に立っていた結果か、今では城下で出た暴漢程度なら、一人であしらえるくらいにはなっていた。
その結果、『警備隊』や民からは『天の御遣い』としてではなく、一人の男として、絶大の信頼を勝ち取っている。
まあそれには、“あの男”の人柄も関係しているのだろうけれど……、『魏の種馬』と呼ばれるアレに言うことはないわ。
私は、『男』が嫌いである。これは変わらない事実であるし、“あの男”のことがあろうと同じで。
それに私は、『華琳さま』に全てを捧げた『華琳さま』のモノだ。
“あの男”がどうなろうと知ったことではない。
だからそれは、私が待ち望んでいたことだった。
「――ふぁ、桂花!」
「は、はい!?」
突如鼓膜を振るわせた凜とした声。
私は反射的に目を開き、飛び起きるように背筋を伸ばして立ち上がる。
腰掛けていたイスを盛大に蹴散らし、大音響を響かせる。
キョロキョロと辺りを見渡せば、長方形の大きな部屋。
やや暗く感じるのは、窓から入り込む光が弱いからだろうか。
さらに視線を巡らせば、自分に向けられた数多の視線に気付かされる。
そこには『魏』の名だたる『将』たちが並び、イスに腰掛けたまま私を見上げ呆然としていた。
「桂花」
「――ひっ」
悲鳴。それはまさしく悲鳴だった。
背筋を駆け抜けた冷たい感覚に、引きつったようにのどから洩れだしたモノ。
恐る恐る顔を向けてみれば、目立つよう高く作られた壇上に、三人の女性の姿があった。
一人は腰まである黒髪と、蝶型の眼帯で左目を覆う赤の女性、『夏侯惇』――真名を『春蘭』。
一人は肩まである青髪で右目を覆う、落ち着いた物腰の青の女性『夏侯淵』――真名を『秋蘭』。
そして、最後の一人。その人……否、『そのお方』は――。
――二つ螺旋を描く金の髪を左右にたずさえる、目を見張るほど美しい女性。均整のとれた輪郭に、スッと通った鼻梁。強い意志が揺らめく蒼い瞳。そのお姿は後光を浴びるかのごとく輝かしい。
『あのお方』こそ、私の全てを捧げた我が主、『曹操さま』こと『華琳さま』。
本来であれば華琳さまに名を呼ばれることは至極光栄のことなのだけれど、今回ばかりは事情が違う。
王座に深く腰掛け足を組み、肘をついて支えられる尊顔の蒼い瞳が、こちらを睥睨していたからだ。次いで言うなら、華琳さまの左右に控える春蘭と秋蘭から向けられる視線も同じ種類のモノ。
が、私にとって、そんなモノはどうでも良い。私にとって重要なのは、華琳さまだけ。
「桂花。貴方、朝議の最中に居眠りとは、一体どういうことかしら」
静かな声音。重い問いかけ。
途端、辺りの空気が氷のように冷たくなる。
華琳さまだけを残し、全てのモノが消え去った。
ごくりっ、と大きくのどを鳴らす。
発される威圧感は全てを飲み込み、精神的圧力となって襲い来る。
恐怖によって震える足は、今にも折れようと泣き叫ぶ。
「――っ、ぐっ……」
くちびるの端を強く噛む。たとえ噛み切ることになろうとお構いなし。
事実、口の中に苦い鉄の味が広がった。
しかし同時に、くちびるに残る鈍い痛みが、一瞬だけ恐怖を意識の外へとはじき出し、震える足を止めさせた。
「申し訳御座いませんっ!」
自らの意思で膝を折る。手をつき形作るは臣下の礼。
私を睥睨する我が主に向かって頭を下げる。
言い訳はしない。そんな見苦しいこと、この私がするわけにはいかない。
それに非は、全て私にあるのだから。
「……言い分は、あるのかしら」
叩き付けられるような威圧感に、ただでさえ大きな恐怖がさらに膨れあがる。
背中を伝う冷汗が量を増した。服が張り付き、湧き上がる不快感。
それらを全て意識の外へと無理矢理はじき、頭を下げ続けた。
「……ふん、いいわ」
永遠に感じられる無言の重圧を受け続け、時間の感覚がなくなり始めたとき、鼓膜を振るわせた許しの言葉。
和らいだ空気に小さく息を吐く。
「では桂花、報告をなさい」
「……はっ」
すぐさま立ち上がる、というのはできないが、返事とともに静かに立ち上がった。
そして促されるまま、昨日の内にまとめ終わった資料を基に、報告を始めた。
「……以上が、私からの報告です」
淀みなく報告を終え、そう最後を締め括る。
始まりこそ予期せぬ事態があったとはいえ、それでも報告の内容に関して問題はないはずだ。
しかし私は、ここで終わりと言うわけにはいかない。
むしろここからが本番と言える。
失ってしまった華琳さまの信頼を取り戻すためにも、もっと大きな功をたてなくては。
「……そう。では引き続きそのようになさい」
「はっ」
「では次」
気付かれぬよう小さく、静かに息を吐く。
緊張が和らいだことを実感し、自分がどれだけ張り詰めていたかを知った。
すると頭に浮かぶのはさっき自分が起こしてしまった予期せぬ事態……失態のこと。
まさか私が、朝議の最中に居眠りなどと、あの脳筋の春蘭でもしないようなことをすることになろうとは。
自分の体調管理もできない者を愚者と呼んでいた私だったけれど、その愚者の中に、自分が名を連ねることになるとは思っていなかった。
しかし、よっぽどのことがない限り、私自身の体調管理ができなくなるとは思えない。
それほどまでに私は疲れていたのだろうか。
三国が平定されてから、雑務を含め仕事が増えたのは紛れもない事実ではあるけれど、それでも朝議で居眠りをするような馬鹿、本来の私であればしないはずだ。
だとしたら昨日、何かあっただろうか……。
そんなことを考えていたからだろう。
さらには緊張を解いてしまったことも関係している。
簡潔にまとめるなら、油断していた、で十分だ。
思考に耽ってしまっていた私は、自分が無意識に行おうとしている行為に気付かなかった。
平常時の私であれば、元々起こりえない――居眠り事態が、だ――出来事だ。
それでも、それは起こってしまった。
これに関しては私の言い分を聞いてほしい。
私はほんの少し前まで、華琳さまが放つ威圧感に襲われていた。
そんな中、我を失うわけにはいかないと必死になっていて、他に気を配る余裕はなかった。
だからこれは仕方のないことだと、最初に主張しておく。
ただただ、油断していただけだ。
「――あっ」
不意に洩れでたその声は、自身に迫る危機を知らせるためのモノ。
そして私が“忘れていた”ことを思い出した意味もある。
そう、忘れていた。
突きつけられた恐怖の大きさに自分のことを振り返る余裕がなかった、と言い換えても良い。
忘れていたのは至極簡単。“眠りから飛び起きた”こと。
もっと詳しく言うのなら、眠りから覚め、飛び起きたとき、“イスを盛大に蹴散らした”こと。
つまり、つまりだ。
今、私が座っていたはずのイスは。
蹴散らされ、蹴倒されて、床に転がったままだということ。
それがどういうことをもたらすのか、想像してみてほしい。
ついさっきまで心酔する主に威圧され、そこからようやく解放されたことで気が抜ける。
気が抜けたことで、崩れるようにイスに腰掛けようとする。
だが、腰掛けようとしたイスは、床に転がされたままである。
イスがないと言うことは、崩れさる私を支えてくれるモノがないということ。
突如別の何かが滑り込んできて、私を支えてくれることもない。
無論空気があるからと言って、それに支えることを望むのはただの馬鹿だろう。
よって私は、何かに支えられることもなく。
力が抜け、崩れさる私自身が持ち直すこともできず、そのまま。
「きゃぁっ!」
それはそれは強かに、床に尻をぶつけることになった。
再び向けられた冷たい目に再度頭を下げ、やがて興味を失ったように視線を外されたことを確認し、顔が熱くなっていることを自覚しながらいそいそとイスをたてる。
今度こそ崩れ落ちるようにイスに腰掛けると、口から洩れたのは大きなため息。気付かれないように、などと周囲を気遣う余裕はなかった。
呆然と、愕然と。
流されるように、背をイスに預けたまま、高い天井を眺め続けていた。
空虚になった心は何も捕らえることなく、時が経っていく。
軍師としてあるまじき行為。
だというのに、そのときの私は、そこから立て直すことができず、ただただぼんやりと空を眺め続けていた。
「では次、凪」
時はゆっくりと、しかし確実に過ぎ去っていく。
報告は次々と行われ、次々と終わりを迎えていく。
その間何も捕らえることがなかった私は、気付くのにかなりの時間を要してしまった。
軍師として、それこそ致命的なまでの時間、気付くことができなかった。
「はっ」
凜とした良く通る声に応えたのは、しっかりと意思の通った強い声。
『魏』国の警備を担う主要人物の一人、楽進。
短い銀の髪を揺らして立ち上がり、続く声音もしっかりとしたモノ。
「三国で協定が結ばれてから、大陸はこれまでより格段に安定しています」
彼女は決意のこもったはっきりとした声で報告を続けていく。
「そして何より、賊の数が圧倒的に減少し、討伐のために出兵する回数も目に見えて減っています」
報告もこれで最後。
ようやく終わると空を漂っていた意識が元へと戻ってくる。
「緊張状態が続いている現状ではありますが、それでも三国は、これまでにない安定を見せています」
「…………は?」
その瞬間、耳が捕らえた報告の内容に、気付けば気の抜けた声を洩らしていた。
これも油断に類するモノだ、とは言えなかった。
「……桂花」
「――っ! も、申し訳座いません!」
三度向けられた冷たい視線。条件反射的に同じく三度目の臣下の礼。
幸いすぐにそらされたが、このたった一度の朝議の中で、どれほどの信頼を失ってしまったかに思考が及び、背筋が震えた。
「えー、と。次は……」
少しの間を置き、私がイスに座り直したこと見計らってから報告を再開する。
しかし私の頭からは、ついさっき凪が残した報告の内容が離れなかった。
緊張状態が続いている……?
あり得なかった。こんなことは、どんな言葉を挙げていったとしても存在しない、あり得ることのない言葉の選択肢だった。
なぜなら、三国間の関係は良好だったはずだから。
それも定期的に三国の名だたる将たちが集まり、三国の平和を祝う記念式も行われる。
次の記念式では、何か新しいことをしようという提案もあり、今はその計画をゆっくりとではあるが進めていたはずだ。
数多の犠牲を出した三国間の戦争もついに終わりを迎え、大陸には平和が訪れた。
最初こそぎくしゃくした場面――特に『魏』と『呉』の間で――もあったが、『呉』に死んだと思われていた人物、『黄蓋』――『祭』が戻ってきてからは、そのようなことも徐々になくなっていった。
だというのに、“緊張状態が続いている”とは一体どういうことなのか。
三国の間に亀裂が走った?
まさか、そんなことがあるわけがない。あってはならないことだ。
せっかく訪れた平和をみすみす手放すなどありえない。
それにこの平和は、『訪れた』などというモノではなく。
華琳さまが常に求め続けた結果、それこそ華琳さまのお力で、掴み取ったモノのはずだ。
それをあの華琳さまが手放すなど、あるはずがない。
これは長い間仕えていた私だから言えること、ではなく、“華琳さま”を知るものであれば、誰もが確信していることだ。
それに、この平和は、華琳さまのお力で掴んだモノではあるけれど、そこには。
“あの男”の力が、少なからず存在していることも、付け加えなくてはならなかった。
『天の御遣い』
“黒天を切り裂いて、天より飛来する一筋の流星。その流星は天の御遣いを乗せ、乱世を沈静す。”
官の力が地へと堕ち、賊が蔓延っていた時期に、管輅と呼ばれる占い師が発した予言。
当時は眉唾だと切り捨てた私だけれど、今となっては、その存在を認めないわけには行かなくなっていた。
そしてそれこそが、“あの男”の存在である。
仰々しい名を冠しながら、その名にふさわしい仕事をしていた、と、思わないこともない。
結果、忌々しいことに、“あの男”は華琳さまから気に入られ、その人柄から将たち皆に――私を除く――評価されることとなり、部下や民からは絶大な信頼を置かれていた。
そしてなにより“あの男”は、誰よりも、平和を望んでいた。
ある意味、華琳さますら超えていたかもしれない。
まあ想いこそ強いものの、具体的な方法を思いつかないが故に、何もできない同然ではあったが。
しかし“あの男”は、ある日を境に姿を消した。
待ち望み、そのために何ができるかを必死に探し、目の前のことに四苦八苦していた“あの男”が目指した平和。
そんな待ち望んでいた平和がようやく手に入った、そんな時。
“あの男”は突然、忽然と姿を消した。
“天へと帰って行った”
そう華琳さまが魏の将の前で告げたとき、天幕には一瞬、静寂が訪れた。口にした華琳さまは気丈に振る舞っていたけれど、その頬に涙の跡が残っていたのを知っている。
誰かが洩らした嗚咽は連鎖するように、天幕中へと広がった。
すでに泣き腫らしただろう華琳さまと、天幕の中を何の感情も浮かべず眺め続けた私を残して。
私はすぐに、天幕を抜け出した。周りの空気にいたたまれなくなった、というのは語弊があるが、居づらかったと言う点では同じだろうか。
外に出ると、凍えるほどに冷たい空気が待っていた。
空を見上げれば、漆黒の闇に浮かぶ数多の光と、その中心で私を照らす真円。
放たれる光は何かを感じさせることはなく、私は小さく鼻を鳴らすと、その場を離れ、自身の天幕へと戻り、眠りについた。
次の日から、魏の将は目に見えて指揮を落としていた。その様は散々たるモノで、それを他国の者から指摘され気遣われるくらいなのだから相当だろう。
しかし私は、誰かに気遣われることもなく、黙々と仕事をこなしていた。
事情を知る者からは、血も涙もないと陰口を言われていたが、そんなことには気も止めず、ただただ黙々と。
やがて時は経ち、皆どこか影を残しながらも、“あの男”のことを互いに話し合うくらいのことはできるようになった。
楽しい思い出、つらい思い出、様々なモノがあるのだろうが、それでも笑い合えるくらいには。
まあ私は、“あの男”について話して笑うことなんかないけれど。
それでも、“あの男”が平和をどれほど求めていたかは、私なりに知っているつもりだ。
それは魏の将たちも同じであり、皆やり方に違いはあれ、『あの男』が残していった平和を守るため、必死だった。
だからそれは、あり得るはずのないことだった。
「次は城下の状況についてですが……」
そんな時だった。
「三国の平定とともに賊の数は大幅に数を減らしている、というのは先ほどの報告の通りです」
思考の海に潜っていた私を、現実へと引き戻したのは。
「ただ、城下に現れる暴漢の数は、いずれも数を増すばかりです」
「…………っ」
吐き出しかけた気のない声を、口の端を噛むことで押さえつける。
ふさがりかけていた傷口が開き、再び鉄の味を思い知ることになった。
「……」
華琳さまは一瞬私に目を向けたが、すぐに元へと戻す。
対する私は、それを気にしていられる余裕は、心のどこにも存在していない。
あり得なかった。あり得てはならないことだった。
つい先日行われた朝議の凪の報告では、城下に現れる暴漢、しいては事件の数が日に数えるほどに減少しているという報告を残している。
それに数えるほどの事件というのも、そこまで大きなモノではなく、誰かが止めに入ればすぐに収まるようなモノだとも。
そしてその報告に、『隊長のおかげで』と笑顔で付け加えるのも忘れずに。
正直、その顔はとても魅力的なモノだった。
しかし、私の耳が受け取った報告には、そのような内容は一切含まれていなかった。
どころか、いつの間にか食い入るように見つめていた先の彼女は、一切の感情を見せることなく、流れ作業のように報告を続けていく。
その報告の中には無論、一度として『隊長のおかげで』などと言う言葉はでていない。
淡々と、黙々と、それこそいつかの私のように、報告を続けていた。
ふと、恐怖が湧いた。
華琳さまから向けられたモノとは別の、それでも絶大な寒気を伴い、背筋を凍らせた。
そんな私に気付くことなく、凪は報告を続けていく。
淡々と、黙々と。
それは報告が終わるまで、変わることなく。
「以上です」
終わったあとも、私のように息を吐くこともない。
そうして報告を締め括った彼女の口は、ついぞ、『隊長のおかげで』と紡ぐことはなかった。
「――凪っ!」
朝議が終わり、凪がすぐさま背を向けたことを頭が理解したとき、私はその背を追って駆けだしていた。
周囲からは――特に華琳さまから――怪訝な顔をされたが、それを気にしている余裕はさっきどこかに落としてしまった。
そして二人の親友を伴い何事かを話ながら、ゆっくりと廊下を歩いている彼女を見つけると、私の意識よりも速く身体が反応し、私の出せる目一杯の声で叫んでいた。
太陽を覆う真っ黒な雲の下、その声はよく響いた。
「……はい」
緩慢に、ゆっくりと、足を止めて振り返った凪は、私の姿を認め、返事をした。
全力で駆け、ようやく彼女に追いついた私は、彼女の目の前に立つと膝に手をつき大きな呼吸をくり返す。
「……」
そんな私に言葉をかけることなく、凪は目の前に立ち続けていることを、視界の上に移る彼女のつま先が示していた。
「……桂花さま、どうかされましたか」
やがて私の呼吸が落ち着いたところで彼女が発したのは、こちらを気遣うモノではなく、呼びかけた理由を問いかけるモノ。
そのことにわずかな疑問が膨れあがるも、先の朝議で散々に余裕を失った私は、それを気にしてなどいられない。
「ええ。あなたに聞きたいことあって」
私は一つ、確かめなくてはならないことがある。
それは先の朝議で浮かんだ一つの仮定。
「……わかりました」
悪いが先に行っていてくれ。ええよー。わかったのー。
短くそう告げて、軽い返事とともに歩み去る二人の背中を見送ったあと、凪は再度振り返った。
向けられる顔に表情はなく、じっ、と私を見つめている。
それはどこか、あったばかりの頃を思いださせた。
「えっ、と、さっきのことなんだけど……」
「さっき?」
聞き返されたことで、私自身が不覚にも動揺していることを知る。
動きの速い心臓を、走ったせいだと断じていたけれど、実際にはそうではなかったらしい。
「そ、その、報告の件で……」
「ああ、はい。それがどうかされましたか」
抑揚のない、平坦な声音。
それは私の問いかける原因に、何の疑問も持ち合わせていないことを言外に告げていた。
「三国の緊張状態が続いている、というのは……っ」
この人は何を言っているんだろう、そんな言葉が伝わってくる瞳に、その先の言葉を飲み込んだ。
私と彼女の間には、現状に対しての考え方に巨大な溝があるらしい。
ただ、それをわかっていてもなお、もう一度聞き返さなくてはならなかった。
「……? 先ほどの報告の通りですが」
「え、ええ、わかってる。でもお願い。もう一度聞かせてほしいの」
「はあ、わかりました」
気のない返事。それでも律儀に答えてくれるのは、彼女の正義感の強さ故か。
そうして話された内容は、言葉こそ違えど先の報告と同じモノ。
三国の間で協定が結ばれてから大陸は類を見ないほどに落ち着いた様相を見せていた。
が、それは三つの国が互いを牽制し合っているからであり、今、この瞬間に戦が起こっても不思議ではない、ということ。
その様相は、協定が結ばれてから緩和されたことは一度もなく、むしろ時が進むにつれて劣悪になっていると。
息を飲んだ。飲み込んだそれが、ゆっくりと下へと降りるのを感じ取る。
私の知る現実が、静かに崩れ去っていくのを頭の片隅で理解した。
しかしそれでも、言葉を失うわけには行かず、次の問いかけを紡ぎ出す。
「じゃ、じゃあ、その。もう一つだけ、聞かせてほしいのだけれど」
不審なモノを見る目に変わった凪だったが、それでも私の問いを断ることはなかった。
そんな彼女なら、そんな彼女になら、おそらく私の中で大きくなりつつある仮定を、解決させてくれるに違いない。
「暴漢の数が増している、というのは?」
一瞬目を細めた凪。背に伝う冷汗が量を増したが、言い直すことなどできはしない。
現状を理解せずして、何が軍師か。何が“荀彧”か。
凪は私をしばらく眺めたあと、目を瞑り、ゆっくりと話し始めた。
此度のそれは、報告と一字一句変わらない。
義務感故に話している、そんな気さえしてくるほど淡々とした声音だった。
「警備の数を増やすなど対策は取っているのですが、それでも対応が間に合わず、後手に回り続けているのが現状です」
「ちょっ、ちょっと待って!」
耐えきれず挙げた制止の声は、予想以上に大きなモノ。
近くを通った者たちがぎょっとして振り返るほどに。
私の言葉を受けて『報告』を止めた凪と、自分の声の大きさに驚いて言葉を継げない私との間に、気まずい沈黙が流れた。
「え、と。それは、本当のこと、かしら」
途切れ途切れではあるが、ようやく私の口から紡いだ言葉は、真実を確かめるため。
瞬間、凪の持つ雰囲気が冷たいモノへと姿を変えた。
「……どういう意味ですか、それは」
「どういう意味も何も、そのままの意味、よ」
余裕。そんな言葉すら忘れてしまうほどに、このときの私は動揺していた。
だから、目の前で起きている事象に、気付くことができなかった。
――否、本当は気付いていた。気付いてしまっていた。
それでもなお、私は、そう問わずにはいられなかった。
「あなたこの前の朝議で報告していたじゃない! 『“あの男”のおかげで』事件の数は、数えるほどに減って――」
「ふざけないで下さいっ」
「――っ!」
我慢が限界に来た。まさしくその言葉が当てはまる、そんな起こり方で、怒り方だった。
突如叩き付けられた怒りの本流に、続けようとしていた言葉を飲み込み、大きく目を見開くことしかできない。
「それは何ですかっ、私への当てつけなのですか!」
「ち、ちがっ」
「私だってやることはやっているんですっ、努力しているんですっ!」
「待っ――」
「あなたと違って頭が良くないことはわかっています。それでも、それでもっ! 私なりにっ、私なりの方法でっ、少しでも治安を良くしようと努力しているんですっ!」
「っ!」
「なのにっ、結果が出ないんですよ! いくら努力しても、いくら必死になったとしても! 常に結果を出してきたあなたとは違ってっ!!」
八つ当たりとしか言えなかったが、そこには確かに、私に対する黒い感情が存在した。
普段から多くの嫉妬を受けていることを自覚している私だったが、凪の突然の変容に飲まれ、反論することができない。
それも普段静かで、正しくあろうとする彼女なだけに、その黒く苛烈な怒りは強く心に叩き付けられた。
「……すみません、取り乱しました」
「え、あ、いや」
やがて落ち着いた凪が、静かに頭を下げた。
それを認識し、ようやく我を取り戻した私は、曖昧に返事をするしかできない。
かといって、そのままにするわけにもいかず、深呼吸を幾度かくり返した。
「……こちらこそ、よ。あなたのことを考えずに言ってしまったこと、謝らせて貰うわ」
落ち着くとすぐ、私は頭を下げた。
よかれと思ってやってきたことが、彼女に傷をつけていたことは、逃れようのない事実だったから。
「い、いえっ、構いません! 先ほどのはただの八つ当たりで、桂花さまに責は何もありませんっ。で、ですからお願いです頭を上げて下さいっ!」
慌てたように無理矢理私の頭を上げさせた凪の顔には、困惑の色が浮かんでいた。
何となくその意味を理解し、苦笑気味に小さく呟いた。
「私が頭を下げるの、そんなに珍しいかしらね」
「へっ、あ、いえ! そんなことは、ありませんがっ」
顔を真っ赤にして否定する彼女を見、それが図星であったことを知る。
そのことを苦々しく思いつつも、凪がようやく見せた“彼女らしさ”に、つい口元が綻ぶ。
彼女との会話を通して心を落ち着かせることができた私が浮かべた笑み。
対する凪は、それを見て首まで赤くなっていたが、そのことがまた私に笑みを強くさせ、やがて身体を小さくして俯いた。
ちらちらとこちらを伺う彼女に笑みを深くし、自分が落ち着いていることを確認した私は、辺りを確認してため息を吐いて目の前の少女に提案した。
「場所を変えるわ。ここは会話するのには向かないみたいだから」
「そ、そうですね。すぐ移動しましょう」
弾かれるようにきょろきょろと辺りを見回した彼女は、赤かった顔をさらに赤く染め上げ、二つ返事で私の提案に賛同した。
私たちの周りには、私たちを囲うように、小さなとは表現できないほどの大きさの人だかりができ始めていた。
「あの、一つ聞いてもよろしいでしょうか」
「なに?」
凪を先頭に人だかりを抜け、人気のない廊下を二人して歩く。しばらく互いに何も話さないまま足音だけを響かせていると、凪はふいにそう切り出した。
少女の顔は、まだ少し、赤い。
「あの、大変不躾なモノだとは思うのですが……」
「なによ、はっきりしないわね。良いから言いなさい」
「その、ですね……、えっと……」
横目で伺う彼女の顔は、先ほどよりもやや赤く染まっている。
彼女にしてははっきりとしない物言いに、強く先を促したが、それでもしばらく、何も言わずにモゴモゴと口を動かしていた。
「本当に失礼だとは思うのですが……」
「前置きは良いから」
「は、はいっ。で、では――」
いつまで経ってもはっきりとしない彼女に、おおげさに苛つきを表現してみせると、すぐさま背筋を伸ばして返事をする。
そんな彼女の反応に気付かぬうちに笑みを浮かべていることに気付き。
「――“あの男”とは、一体どちらさまでしょうか」
瞬間、微動だにせず、氷のように凍らせることになった。
「………………」
気付けば足も止めていて、廊下の真ん中で立ち尽くすことになる。
「あ、いえっ、言い辛いなら言わなくても結構ですよっ? ただ、その……気になったと言いますか……」
そんな私に何を思ったか、私と同じく廊下の真ん中で足を止め、何事かを呟き続ける凪。
しかし私はと言えば、突如伝えられた真実に意識が向き、そちらに意識を向けることができないでいた。
『“あの男”とは、一体どちらさまでしょうか』
表情どころか、背筋さえ凍った。
あり得ない、なんてモノじゃない。
三国の間に亀裂が入ることよりも、あり得てはならないモノだ。
なぜなら彼女は、“あの男”を、一番近くで慕っていたから。
時に“あの男”の部下として、時に“あの男”を一人の少女として。
一度として“あの男”を疑うことをせず、信じ続けてきた彼女だからだ。
だが、今、彼女は、凪は、何と言った?
『“あの男”とは、一体どちらさまでしょうか』
私が“あの男”と表現しても、それが彼女に伝わらないはずがない。
“あの男”が天へと帰ったあと一番悲しんだのは、紛れもなく、目の前の少女だったはずだ。
しかし今、“あの男”とは誰かと、目の前の少女が問いかけてきた。
それが一体どういう意味なのか、それが一体何を示しているのかに理解が及んだとき、私の周囲を冷気が一瞬で取り囲み、私の全てを凍らせた。
「凪、私の問いに答えなさい」
「は、はいっ」
ひどく冷たいその声は、私の口から洩れだした。
弾かれるような彼女の返事に笑みが浮かぶ、ことはなかった。
「“警備隊の隊長”は、誰」
事実だけを求め、結果を求める『軍師』としての私。
そんな私が抑揚のない、淡々とした口調で凪に問いかけた疑問。
――否、それはすでに、疑問とは言えない。
なぜなら、私はその答えを、すでに知っていたから。
“荀彧”としての私は、もうすでに『そのこと』に気付いていて。
“桂花”としての私が、それを受け入れまいと否定して、事実から顔を背け、現実から目をそらした。
しかし耳をふさぐことは叶わず、真実を聞かされることになる。
それでも私の耳はそれを受け入れるのを良しとせず、聞き返すことで否定を試みる。
「警備隊の隊長? え、え?」
「良いから答えなさい」
「はいっ!」
“警備隊の隊長”
私の覚えている凪は、たとえ“あの男”が消えたあとも、隊長と呼ぶことを辞めなかった。
それは彼女が、“あの人”以外に私たちの隊長はいないと口にしたからで。
“隊長”と呼ばれることになる籍はいつまでも埋まることなく。
凪が建前上“隊長代理”を務めることがあったとしても、その事実だけは変わらなかった。
皆がその理由をわかっていたし、そのことに対し誰も文句を言わなかったので、それは私の知る限り今でも続いていたはずだ。
しかし目の前の少女は。
『“あの男”とは、一体どちらさまでしょうか』
そう問いかけてきた。
これが一体どういう意味なのか。これが一体何を示しているのか。
意味も、示すのも、ただ一つ。
紛れもない、真実だけ。
内心、『桂花』としての私が、震えている。
それは真実を受け入れることへと恐怖を感じている証拠。
しかし『荀彧』としての私がそれを許さず、認めず、目の前に立つ少女を強く睨み据えた。
怖じ気づいたのか、うっ、と息を詰まらせた少女は冷汗を浮かべながら、それでも私の問いに答えようと気丈に背筋を伸ばした。
「警備隊の隊長は……」
ごくりっ、息を飲んだのは少女か、それとも私か。
それを理解することは、今の私にはできない。
ただ目の前の少女が動かす口を、見つめるだけ。
やがて彼女の口は紡ぎ出す。
否定し顔を背けた、事実を。
目をそらした、現実を
受け入れることを認めなかった、真実を。
「……私、です」
気付けば全力で駆けだしていた。
「桂花さま!?」
脇をすり抜け突如走り出した私の背中にかけられた凪の声。
しかしその声が耳に届こうとも、理解し足を止めることはない。
凍っていたはずの身体は火照り、意識の外で何かに引かれるように全力で駆けていく私の身体は、私自身でさえ止めることはできなかった。
むしろ止めるという考えすら、浮かばずにいた。
思考を止め、感情を殺し。
止まっていた身体を動かし全力で走る。
胸を襲う痛みは全力で駆けている代償だと決めつけ、無心で走り続けた。
息が上がろうとも、心臓が早鐘を打とうとも。
足を止めず、動かし続け。
すれ違った者が何事かと振り向いたが、それさえも気に止めず。
全力で。ただ、全力で。
背後からかかる少女の声を全て無視し、『目的の場所』へと向かって駆け続けた。
「はっ、はっ、はぁ、っ……」
『目的の場所』の前へとたどり着いた私は、足を止め、膝と腕を付き、肩を大きく揺らして浅い呼吸をくり返す。
石造りの廊下に滴る汗がシミを作るが、私の意識に反映されることはない。
「け、桂花さま! 大丈夫ですかっ?」
慌ただしく声を荒らげながら、私の背後を走り続けていた凪からかけられた言葉は、ついさっきまでのモノから純粋に私を案じているモノへと大きく姿を変えていた。
彼女の呼吸は一切乱れておらず、『軍師』と『武官』の体力の違いを改めて感じさせられる。
感じさせられただけで、そのことに何かを思うこともなかったが。
背中をなでられている、そんな感覚は近くに膝を付いた凪からもたらされたモノ。
『武官』としてではなく、『少女』としての彼女を感じ、次第に乱れていた呼吸が落ち着きを見せ始める。
呼吸が整ったことを確認し、凪の手を借りて立ち上がる。
そのことに礼を述べ――瞬間、顔を真っ赤に染め上げた少女が何かを呟いていた――凪から目をそらし、目の前に存在する『目的の場所』へと意識を向ける。
そこにあるのは何の変哲もない、同じく壁に立ち並ぶ他のモノと何の変わりもない一つの扉。
それでも、形こそ変わらないが、私の知る限り、この扉の意味は違っていた。
この扉の向こうには、“あの男”が生活する部屋がある。
“あの男”はすでに存在していないのだから、“生活していた”とするのが正確だが、しかし魏の将たちの希望により、その部屋は“いた時”と何も変わらず存在していた。
定期的に掃除もされていて、“あの日”から何も変わらずに、そこに存在しているはずだった。
「桂花さま……?」
気付けば足を踏み出していた。扉へと、扉の向こうへと、引き寄せられるように。
ゆっくりと、一歩ずつ。ただただまっすぐ、確実に。
気付かぬうちに、落ち着いたはずの呼吸が乱れていた。
心臓が早鐘を打っていた。
胸が締めつけられるように痛かった。
身体に起きたこの異変が何なのか、今の私が理解することはできない。
それほどまでに、私は目の前の扉に意識を向けていて、扉の向こうにある景色を夢想していた。
扉のとってに手を伸ばす。
その手はじっとりと汗に濡れ、見て取れるほどに震えていた。
とってを握る。あとはとってを捻り、軽く、押すだけで良い。
わかっている。頭ではそう、理解している。
しかし汗に濡れた私の手は、震えて力の入らぬ手は、私が動くことを許してはくれない。
かと言ってとってを握る私の手は、張り付いたように離れない。
動かず、動けず。
その先にある真実を拒むように、私の手は動いてくれることはない。
「桂花さま。『ここ』がどうかされたのですか?」
いくら意思を込めようと、手は汗で濡れるだけ。
「えっと、桂花さま?」
いくら力を強めようと、手を大きく震わすだけ。
「あの、け、桂花さま。聞いていらっしゃいますか……?」
このままじゃ駄目だ。そんなことはわかってる。
「桂花、さま?」
それでも、じっとりと汗ばんだ手が、震える手が動くことを拒否していた。
「桂花さまー、聞いてますかー……」
わかってる。扉を開けるのを拒否しているのは私の手ではないということは。
「えっと、あの、桂花さま。お願いだから返事をして下さい」
拒否しているのは紛れもなく私自身。
「桂花さま、無視しないで下さい……」
扉の向こうに広がる真実を受け入れることを拒否し、夢想のままにしておこうとする私自身。
「本当は聞こえている、なんてことはないですよね。あえて無視している、なんてことはないですよねっ」
その理由は、私にはわからない。
「ぐすっ……、けいふぁさま……?」
気付けば走り出していて、気付けば扉の前にいて。気付けばとってを握っていて。
「うう、けいふぁさまのいじわるぅ」
目の前に立った瞬間、真実に怖じ気づき、動きを止めた。
「……こうなったら」
私は一体何をしているのだろう。
目の前まで来て、一体何を躊躇っているのだろう。
私は“荀彧”、『軍師』だろう。
そんな私が、真実だけを求めているはずの私が、一体何を怯えているのだろう。
目の前の真実を受け入れ、その上で行動することが、『軍師』としての私の仕事ではないのか。
怯えて時を逃すなど、『軍師』としてあってはならないことだろう。
だというのに、何だ今の私は。
これでは、私が屑と称するモノと何ら変わりがないではないか。
扉のとってを握ったまま、大きく呼吸をくり返す。
やがて呼吸は落ち着き、早鐘を打ち続けていた心臓は動きを緩めている。
胸は今なお痛むけれど、それも我慢できないほどではない。
手の震えも収まり、とってを握る手に力を込める。
「……よしっ」
小さな呟きとともに意思を固めた私は、目の前に立つ扉を睨み据える。
たとえこの先に何が“待ち受けて”いようとも、全てを受け入れることができるように、そんな想いを込めて。
私は一歩、踏み出して。
同時にとってをひねる。
そして踏み出した勢いそのままに、扉を軽く押し込む――
「失礼しますっ!」
「――――あっ」
――寸前、横から伸ばしされた手よって、私の意思とは無関係に、扉は開かれていった。
「…………」
「も、申し訳御座いません! 扉の前で固まっている桂花さまを見ていたら、つい……」
何も握られていない自分の手を見つめていると、すぐ近くからの慌てた声を聞き取った。
目を向ければ、顔を赤く染めて身を縮こまらせる凪の姿。
「で、でも、桂花さまが悪いんですよ……? 私が話しかけているのに無視するから……」
「…………無視って、何をよ」
呆然とし、思ったままに口から滑り出た言葉。
『やっと返事をしてくれた!』とわけのわからないことを口にしながら、ぱぁっと顔を輝かせる凪。
しかしすぐに顔から笑みを消して顔をそらすと、『ということは本気で気が付いていなかったんですね……、それはそれで複雑です……』とまたわけのわからないことを呟き私をちらちらと伺っている。
「……まあ、いいわ。少しどいてもらえる?」
「あ、すみません」
機嫌は悪そうな彼女だったが、私の言葉に律儀に返事をして横にずれる彼女に、ほんの少し気持ちが和らいだ。
一歩踏み出し、部屋へと入る。窓が閉め切られているのか中は暗く、少し進まなくては中の様子を探ることはできそうにない。
「それにしても桂花さま。この部屋に何の用です?」
また一歩。焦ることはない。ゆっくりと、確実に。
「一応言っておきますけど、この部屋は……」
やがて部屋の中へとたどり着く。そうして私は、真実を知る。
「何の変哲もない、ただの『客間』ですよ?」
当然そこには、何も“待ち受けて”など、いなかった。
「――――――」
何もなかった。
この部屋は静かで、そしてひどく、寒かった。
何もない、と表現するのはいくらか語弊がある。
事実私の目の前には寝台が一つあるわけで。
付け加えるなら、視界にこそ入っていないものの、私のすぐ近くには机と、イスも存在している。
掃除もされているのだろう、目に付くようなゴミも特にない。
しかしそれでも、私にとっては、“何もなかった”が、正解だった。
ここにあるべきモノがない、それが存在していないというだけで、この部屋から全てが消え去ったように感じる。
ここには、“あの男”がいたという痕跡が、一切、全く、存在してない。
それこそ、初めから“そんな男”はいなかったと、主張するように。
ずきりっ。
「っ……」
胸を襲う強烈な痛み。今までのような鈍い痛みではなく、胸を刃で貫かれたように、悲鳴をあげそうになるくらいに鮮烈な。
それでも悲鳴を押さえ込むことができたのは、無意識のうちに、唇の端を噛んだから。
三度目といえど、痛みは衰えることなく。三度目といえど、滲む血の味は苦かった。
「桂花さまっ?」
そんな私に何を思ったか、凪が慌てて声をかけてくる。
しかし彼女のその声は、胸の痛みを、強めただけ。
私が悲鳴を押さえ込んだ意味を、彼女は知らない。
私が唇を噛み、血の味を感じている意味を、彼女は知らない。
私が呆然とこの部屋に立ち尽くしている意味を、彼女は知らない。
この部屋の意味を、彼女は知らない。
こんなことが、あって良いのだろうか。
“あの男”の存在を、あれほどまでに慕っていた彼女が、『消えた』とき最も悲しんだ彼女が、覚えておらず。
平和を一番に追い求めた“あの男”の、この世界から消えてまで遺した平和を、それがなかったかのように。
何もできないと自らを断じず、目の前のことを必死になって城下の警備を強化していた“あの男”の努力を全て無に返してしまう。
こんなことが、あって良いのだろうか。
ずきりっ。
「くっ……」
唇の痛みはもはやない。血の味すら感じない。
うめき声は、ついに耐えきれなくなった胸の痛みに対するモノ。
急激に痛みを増した胸の痛み。私の胸を貫いた刃は、すでに数えきれぬ量。
「桂花さま、どうかされましたか……?」
ざくりっ、そんな音さえ聞こえそうなほどに、それは大きな刃だった。
仕方ないとは思う。
彼女は知らないのだから。私がこうして、胸を押さえている意味を。
こんなことが、あって良いのだろうか。
……良いはずがない。認められて良いはずがない。
こんなことが、あってたまるかっ。認められてたまるかっ。
何のために、“あの男”が努力したと思ってるっ。
何のために、“あの男”が血反吐を吐く想いをしたと思ってるっ。
何のために、何のためにっ。
“あの男”が消えたと思ってるっ。
良いはずがない。認められて良いはずがない。
……そうだ、“華琳さま”に相談しよう。
“華琳さま”なら、きっと妙案を出してくれるに違いない。
常に高潔で、常に高みにおられる“あの方”なら、きっと私を導いてくれるはずだ。
いつもそうだった。“あの方”は私を導き高みを目指して走り続けている。
自身の才にあぐらをかかず、常に努力を続けるお姿には胸を打たれたことを今でも覚えている。
“華琳さま”は我が主。全てを捧げた私の主さま。
“あの方”なら、“華琳さま”なら、きっと、“この状況”を何とかしてくれるはず。
だから、“華琳さま”に、相談しに行こう――。
――なぜ?
突如、視界が闇に包まれた。
『なぜ?』
――は?
『なぜ?』
なに、何なのよ突然。
『早く答えなさい。なぜ?』
だ、誰よアンタ。と言うよりここは……。
『そんなことはどうでも良いの。早く答えなさい』
どうでも良いって、アンタ……。
『早く答えなさい、“桂花”』
――何で私の名前……
『答えなさい』
……ちっ。
『なぜ?』
……決まっているじゃない。“この状況”を何とかするためよ。
『どうして?』
“この状況”があってはならないからよ。
『なぜ?』
だから言ってるでしょう? “この状況”を……
『なぜ、“この状況”を何とかしなくてはならないのかしら?』
……は?
『どうして、“この状況”があってはならないのかしら?』
何を言って……
『“私”は“あなた”にたずねているの。なぜ、と』
だからアンタは何を言って……
『私の問いに答えなさい、“桂花”』
……凪が覚えていないからよ。『あの男』を慕ってやまなかったあの凪が。
『それで?』
……大陸の平和が、崩れたからよ。『あの男』が待ち望み、存在を賭けて掴み取った平和が。
『それで?』
……城下の治安が悪くなったからよ。『あの男』が自分の力で手に入れた城下の治安が。
『それで?』
…………。
『それで?』
っ、何なのよアンタは! さっきからそれでそれでって! アンタはそれでしか言えないの!?
『馬鹿なの、“あなた”』
言うに事欠いて私に馬鹿とは何よっ! それこそアンタの方が馬鹿なんじゃないの!?
『私は、そんな下らない“言い訳”を聞いてるんじゃないの』
言い訳? 私が?
『ええ、“言い訳”よ。それらしいことを並べ立てて、自分の想いを隠そうとする』
…………。
『いえ、この場合が気付かないようにしていると言った方が良いかしら』
……アンタ、さっきから何を言っているの? 頭でも沸いているの?
『ここまで言ってわからないなんて、我ながら呆れるわ』
私の問いに答えなさいよ。と言うかアンタ、一体誰よ。
『今の“あなた”に答える義務はないわ。……そうね、私からもう一つ、質問してあげるわ』
何で私が、アンタに付き合わなきゃいけないのよ。
『物分かりの悪い“あなた”でも答えられるよう、簡単にしてあげるから、“私”に感謝なさい』
聞きなさいよ。アンタ、頭と同じく耳まで悪いわけ?
『“あなた”に言われる筋合いはないわね』
こ、こんな時に限って返事するんじゃないわよ……。
『今の“あなた”に付き合うことほど、馬鹿らしいことはないもの』
アンタねぇ……。下手に出てれば良い気になるんじゃないわよ。
『下手には出てないわね。と言うより“あなた”、小物臭が半端じゃないわ』
こものっ、小物っ!? この私が小物っ、どれだけ私を馬鹿にすれば気が済むのよっ!!
『まあ今の“あなた”からどんな臭気が漂おうと知ったことじゃないわ。最後の質問よ。答えなさい、“桂花”』
それこそ知ったことじゃないわっ! 良いからアンタ、私の話を聞きなさ――
『“この状況”は、“あなた”が望んでいたことじゃないの?』
――は?
『何を呆けているの。それとも私の言葉を理解していないのかしら。やはり馬鹿ね、“あなた”の頭には豆板醤でも詰まっているの?』
ちょっ、ちょっと待ちなさい。今アンタ、なんて言った?
『“あなた”の頭にはおがくずでも詰まっているの?』
そっちじゃないわよ! って言うかさっきと変わってるんだけどっ!
『あら違うの、じゃあ……“あなた”、死んだ方が良いんじゃない?』
言われた覚えがないんだけどっ! だからアンタ、さっきから私を馬鹿にしているの!?
『それ以外に何があるって言うのよ』
こっ、のっ――。
『仕方ないわね。私としては、このまま遊んであげても良いんだけれど、でもまあ“あなた”がうるさいし、もう一度、もっとわかりやすく、言ってあげるわ』
――~~~~~~っ!
『心の底から面倒極まりないんだけれど、それでも“あなた”がどうしてもと言うから仕方なく、し・か・た・な・く、もう一度言ってあげる。“私”に感謝なさい、“桂花”』
誰がっ、アンタにっ、感謝するもんですかっ! アンタに感謝するくらいならそれこそ死んだほうがマシ――
『“あの男”がいないこの状況は、“あなた”が望み続けたことじゃないの?』
――…………。
『いない、というだけなら“元の世界”でも同じだけれど、それとも違う』
……。
『“あなた”のおがくずが詰まっている頭でもすでに分かっているだろうから、言ってしまうけれど』
――――っ
『“この世界”に、皆の心の中に、“あの男”は存在していない』
………………い。
『誰一人としてあの男を覚えている者はいない……知る者はいない、というべきかしら』
………………さい。
『そして“あの男”が生きてきたという形跡すら、何一つとして存在しない』
…………なさいっ。
『つまりどういうことか、“あなた”ならわかるわよね。それともそれさえ気付かないようにしてるのかしら』
っ、だまりなさ――――
『今なら“華琳さま”の、一番になれる』
――――――。
『“この世界”で“あの男”を……いえ』
……。
『“天の知識”を知っているのは“あなた”だけ』
……。
『そして“この世界”に、“天の知識”はもたらされていない』
……。
『ここまで言えば、“あなた”でもわかるでしょう?』
……。
『“あの男”が“華琳さま”に気に入られたように』
……。
『今日の失態を帳消し、どころか補って余りあるほどに』
……。
『さあ、答えなさい。“あなた”は一体、これからどうするのかしら?』
……私。
『そう。“私”は“あなた”に、たずねているの』
私、私は……。
『答えなさい、桂花。“あなた”は一体、これからどうするのかしら?』
………………――
――私の全ては……
「――桂花さま、桂花さまっ」
「……なに」
閉じていたまぶたを持ち上げると、覗き込むようにして私を見つめる凪の顔が、視界一杯に映りこむ。
潤んだ瞳から目をそらし、呼ばれたことに対して簡潔に返事をする。
瞬間、花が開くように笑みを浮かべる彼女。しかしすぐにその笑みを収め、気遣わしげに私の顔を見つめた。
「あの、大丈夫……ですか?」
「何がよ」
意味もなく部屋の中を眺めながら、考えることもなく返答。
気付かぬうちに強くなっていた声音に怯んだのか、「い、いえ……」と弱く返された。
何もない部屋の中、見る物も多いわけではなく、ぐるりと視線を回すだけで終わってしまう。
最後に目の前の寝台を睥睨し、小さく鼻を鳴らすとすぐ背を向けた。
「ま、待ってくださいっ」
慌てたようにかけられる声を無視し、いつの間にか閉じられていた扉の前に立つ。
扉へと手を伸ばす。手の汗は、すでに乾いていた。
とってを握る。手はもう、震えてはいない。
とってを捻る。呼吸もすでに落ち着いている。
力を込め、軽く引く。扉は逆らうことなく開き、扉の向こうが視界を埋める。
「…………」
雨が降っていた。
天(そら)から降り注ぐ数多の水滴は、地へと打ちつけ、けたたましい音を響かせる。
「あっ、雨……気付きませんでした」
背後からの声に、内心で同意する。
これほどまでに大きな音、部屋の中であっても気付いて良さそうだったが。
「………………ふん」
まぶたを閉じ、とってから手を離して歩き出す。
やがて目を開いたとき、そこにあるのは大量の雨粒ではなく、長い長い石造りの廊下。
「桂花さま、もう用は済んだのですか?」
凪はかつかつと高い音を響かせながら、雨でかき消されないようやや大きめの声で問いかけてくる。
そこには聞き間違えようもなく、困惑の音が混ざっていた。
入っただけで何もしなかったのだから、当たり前だけれど。
「……ええ、終わったわ」
顔の向きを変えることなく、いつも通りの声。
聞こえたかどうかはわからないけれど、別にどちらであっても知ったことじゃない。
私が今優先すべきは、失ってしまった“華琳さま”の信用を取り戻すこと。
ひいては“天の知識”をまとめ上げ、“華琳さま”に献上する。
“天の知識”を利用できるだけ利用して、私の信用を取り戻し、いつか、“華琳さま”の一番になる。
そのためなら、他のことなど知ったことか。私には一切関係ない。
――私の全ては……
「…………もうあの部屋に、用はないわ」
その声はけたたましく音を鳴らす雨の中に埋もれ、かき消える。
胸の痛みは、すでにない。
――私の全ては、“華琳さま”のために。
――桂の花咲くはかなき夢に、前編【終】
Tweet |
|
|
27
|
2
|
追加するフォルダを選択
こちらは『真・恋姫†無双』の二次小説となります。
改めまして、『第二回同人恋姫祭り』参加させて頂きます。
こんにちは、サラダです。
『~堕ちた光の行く先は~』などといういわゆる主人公チート作品を書かせて頂いております。
続きを表示