「アリエナイっ!」
千佳ちゃんが大きな声でそういうから、わたしは急いでその口を塞ぎにかかった
。
「なにが『アリエナイ』の?」
興味を持ってしまった裕ちゃんがわたしたちに近づいてくる。
わたしは裕ちゃんの耳も塞ぎたかったけど、千佳ちゃんに両手をがっしり押さえ
られていて、なにもできずにいた。
「ちょっと、聞いてくれる?」
「聞く聞く」
「わーっ!わーっ!――むぐっ」
一生懸命大声をだして聞こえないようにしようと思ったら、裕ちゃんの両手に口
を塞がれてしまった。
結局なにもできなくなった。
「美雪ったらさぁ」
「うんうん」
「まだみたいなの」
「なにが?」
わーっ!わーっ!
「キス」
心の中の叫び声も、千佳ちゃんの短い言葉をかき消してくれることはなかった。
わたしはがっくり、うなだれるしかなかった。
「キス?」
何回も言わないでよ……
もう邪魔する両手もなくなったっていうのに、元気をなくしたわたしはなにも言
えなくなった。
「なんで?だって、美雪って佐藤くんと付き合ってるんでしょ?」
「そうよ」
「付き合ってからもう三ヶ月は経ってるわよね?」
「そうそう」
「なのに、まだ?」
「そうなの。だから『アリエナイ』って言ったのよ」
「……確かにそれは『アリエナイ』わね」
あんまり何回も何回も、『アリエナイ』ばっかり言われてると、こっちだって黙
ってられなくなる。
気のせいかもしれないけど、そこだけ強調されてるように聞こえるし。
「だって……まだ付き合ったばっかりだし……」
「三ヶ月は付き合ったばっかりなんて言わない」
「カズくんだって、キスしようなんて言わないし……」
『キス』の部分だけ、自然と声が小さくなる。
「……あのね、美雪。それは美雪のガードが固すぎるからよ?」
「うんうん。三ヶ月っていったら、キスはおろかエッチくらいしてて当然なんだ
から」
――えっち!?
「そ、それは、ま、まだ早いよ」
「早いわけないでしょ。もう高二だってのに」
「遅すぎるくらいよ。ねー?」
「ねー?」
二対一で攻めるなんて卑怯だ。
なんにも言い返せなくなる。
わたしがうつむいたままでいると、どっちかがぽんぽんっとわたしの肩を叩いた
。
「美雪。あたしたちは美雪のこと心配してるのよ」
「……心配なんかしなくていいもん。わたしたちはわたしたちなんだし。みんな
とは違うよ」
返事も相づちもなくなったかと思うと、目の前に丸めた中指とそれを押さえる親
指が現れた。
でこぴんだ――と気づく前に、中指がわたしのおでこを叩いた。
「いたっ!」
「そこがダメ!全然ダメ!」
「なにがダメなのぉ……」
わたしはひりひり痛むおでこをさすりながら、顔を上げた。
椅子に座っているわたしを、千佳ちゃんと裕ちゃんが立ったまま見下ろしている
。
その表情は真剣そのものだった。
そんなわけないのに、なんだかわたしが悪いことをして、それを咎められている
ような気分になる。
「いい?自分たちが、自分が特別なんて思っちゃダメ。周りから見れば、あんた
たちもそこらへんにいるカップルと同じなんだから」
「どういうこと?」
「佐藤くんもそこらへんの男と同じってこと。男なんて、『コイツなんもさせて
くんねーな』って思ったら、すぐ代わりのコに走っちゃうイキモノなのよ」
「そ、そうなの?」
「そうよ。だから、キスくらいしてあげなきゃ、あっという間に逃げられちゃう
わよぉ~」
「そんなこと……」
わたしは教室の反対側で、友だちの男の子たちと一緒にいるカズくんのほうを見
た。
楽しそうに話してるその姿は、特別というよりは、確かに普通の男の子といった
感じだった。
どこにでもいる普通の高校生。
「そんなことないって?」
「う、うん……」
わたしはただ、弱々しい返事をかえすしかなかった。
○●○●
「でさー、山本がまた――」
いつものように、途中まで一緒の帰り道を並んで歩いている。
いつものように、カズくんは楽しそうに話している。
いつもと同じ、夕方の帰り道。
でも、わたしはいつもみたいになれなかった。
「……どした?体調悪いの?」
カズくんがわたしの顔を覗き込む。
すぐ近くにカズくんの顔。
どきっ、としたわたしは慌ててそっぽを向いた。
「な、なんでもないよっ!」
「ふーん。そっか」
中断したところから話せばいいのに、カズくんは黙ってしまった。
意図せず、辺りに沈黙が流れる。
わたしはちらっとカズくんの横顔を見上げた。
いつもどおりのカズくん。
教室でクラスの男の子と話しているときと、付き合いだす前と、なにも変わらな
い。
わたしなんか、今でもどきどきしてるのに。
今でもカズくんといると顔も胸も熱くなるのに。
カズくんは……わたしと一緒にいて、どきどきしないのかな。
ちょっとだけさみしい、かな。
これ以上さみしくなりたくないわたしは、思い切ってカズくんの名前を呼んだ。
「ん?」
「あの、ね……」
この勢いのまま、今日ずっと聞きたかったことを問いかけてみる。
「カズくん、前に付き合ってたコ、いたんでしょ?」
「うん」
「かわいかった?そのコ」
言ったあとで、後悔した。
こんなこと聞いても、なんにもならないのに。
「うーん……まぁまぁ」
まぁまぁ、か。
……それっていいの?
悪いの?
「わ、わたしは……どう、かな?」
やめとけばいいのに、もっと後悔するのはわかってるのに、また聞いてしまった
。
「まぁまぁ」
まぁまぁ、か。
……喜んでいいのかな?
悪いのかな?
全然わからない。
「でも、美雪のほうがかわいいし、好きだよ」
そう言ってカズくんはわたしに向かって、にぃっと笑ってみせた。
わたしも笑い返せばいいんだろうけど、顔も体もカチコチに固まってしまって、
そんな簡単なことすらできない。
「美雪?」
わたしは一回、大きく深呼吸してからまた歩きだした。
「……なんでもないよ」
ロボットみたいにぎこちない動きで歩き続けるわたし。
体を駆け巡る燃料が熱くて、熱くて、今にも爆発しそうだった。
目もとまで熱くなって、それでもそのことを気づかれたくなくて、わたしはでき
るだけ早く足を動かした。
●○●○
次の日。
休み時間になるとすぐ、わたしはカズくんのほうへ向かった。
「……カズくん」
「んっ?」
「きて」
カズくんの制服の袖をぐいぐい引っ張って、教室の外にでた。
「お、おいっ」
そのまま階段を上って、上って、屋上にでる扉の前でやっと立ち止まった。
「美雪、どうしたんだよ。昨日からなんか変だぞ」
「……しよ」
「へっ?」
「キス、しよ」
わたしもやっとカズくんの顔を見上げた。
カズくんは驚いたように目を丸くしている。
わたしは、どんな顔してるんだろ。
「……やっぱ、おかしい。熱でもあるんじゃねーの?」
カズくんはわたしの前髪をかき上げると、おでこに手のひらを置いた。
「熱なんかないよ」
「でも熱いぞ」
熱いのはカズくんの手のひらがわたしに触れてるから。
わたしがいつもより大胆だから。
この踊り場が……下にいる誰にも見えないから。
わたしは、カズくんの手をゆっくり引き剥がした。
「カズくん……キス、しよ」
「なんで?」
なんでなんて聞かないでよ……
「……恋人だから。恋人どうしだから、したいの」
わたしはこんなときでも溢れそうになる涙を我慢しながら、カズくんを見つめる
。
「したいの」
そしてもう一回、わたしにしては珍しく、力強くそう言った。
カズくんに向けるのも、これまでにないくらいの力強い眼差し。
「……わかった」
カズくんは、カズくんの右手を掴んだままのわたしの両手を剥がすと、動かない
ようにぎゅっと握った。
それから、空いたほうの手でわたしのほっぺを撫でる。
「んっ……」
それだけの、たったそれだけのことで、わたしの体はびくんと震えた。
ここでこんなに緊張したら、わたし、このあとどうなっちゃうんだろ……
顔にかからないようにわたしの長い髪をそっと押さえて、カズくんがゆっくり顔
を近づけてくる。
息が荒くなる。
鼓動が早くなる。
体が、体の奥が痛い。
痛くて痛くて、叫びたいのになにも声がでない。
わたしは痛みをこらえるようにして、ぎゅっと目をつむった。
「美雪……」
呼ばないで。
名前なんか呼ばれたら、わたし、わたし……
お願い。
静かに、そっと、済ませてほしい。
お願い……
○●○●
目が覚めると、わたしは横になっていた。
どこで?
……ベッドの上で。
ということは、さっきのは夢?
夢なのに、あんなにどきどきしてたの?
「なぁんだ……」
安心したのと同時に、自分が情けなくなった。
夢の中くらい、もっと強いわたしになりたかった。
もっと強くて、もっと自信のあるわたしに。
「起きたか?」
「――ひゃっ!?」
「お、おぉっ!?」
男のひとの声が聞こえて、わたしは反射的にベッドの上で跳ね起きた。
わたしの部屋に誰かがいる。
お父さんの声じゃない。
「げ、元気みたいだな」
声のしたほうを見る。
隣のベッドにカズくんが腰かけていた。
「えっ、えっ、なんで!?なんで部屋にいるの!?」
「部屋ぁ?寝ぼけてんのか?」
「ね、寝ぼけ……?」
「ガッコだよ。保健室」
「ほけん……」
周りをぐるりと見回す。
わたしの部屋じゃない。
わたしの部屋にはベッドは自分のだけだし、身長計なんてもちろん置いてない。
ということは……
「学校なの?」
「そっ。ガッコ」
「なんで?」
「なんでって、覚えてないのか?」
「う、うん……」
カズくんはなぜか呆れ顔だった。
「ほら、屋上の前まで行っただろ。あのあと美雪が急に倒れるからさ。ここまで
運んできたってわけ」
「じゃあ……もう授業中なの?」
「うん」
「戻らなくていいの?」
「置いていけるかよ。先生にはテキトーに話したから、心配すんな」
ということは……
キスしただけで、わたしは倒れたってこと?
「……どした?」
わたしはまた横になると、シーツを頭まで被って体を丸めた。
「恥ずかしくて死にそう……」
もうやだ……
「ははっ!」
「笑わないでよぉ……」
「ごめんごめん。くくっ」
まだ笑ってるし。
わたしはシーツの中で、両手で顔を覆った。
そうしてるうちに聞きたいことができて、わたしはおずおずとシーツから目の辺
りだけ覗かせた。
「カズくん」
「うん?」
「わたしと……キ、キス……どう、だった?」
さっきはがんばって言えたのに、キスの部分だけまた声が小さくなった。
「どうだったもなにも、する前に倒れただろ」
「えっ、うそ」
「ほんと」
つまり、わたしはキスする前に気を失ったわけで……
また死にそうになって、わたしはシーツの中に頭を引っ込めた。
「美雪」
「……なに?」
今だけ声が不機嫌なのは許してほしい。
「無理すんなよ」
核心をつかれた気がして、わたしはもっと体を縮めた。
「無理なんかしてないもん……」
「いーや、してる。どうせ中山かなんかに変なこと言われたんだろ?それであん
なことして」
それも当たってる。
でも……
「でも……キスしたかったのはほんとだよ。カズくんは、嫌だったの?」
「イヤじゃないけど、無理してまでされるのはごめんだな」
「じゃあ、どうしたらいいの?わたしたち付き合って三ヶ月なのに。このままじ
ゃ、なにもしないまま終わっちゃうよ」
「なにもって言うけどな……キスだけがなにかってわけじゃないだろ?」
キスだけじゃない……?
「え、えっち、とか?」
「違う違う」
違うのか……よかった。
……よかったのかな?
「キスとかは副産物にすぎないってことだよ。美雪は俺と一緒にいて楽しくない
か?」
「ううん。楽しいよ」
「じゃあそれでいいじゃん」
「……いいのかなぁ」
「いーのいーの」
シーツで見えないけど、カズくんはまた笑ってる気がする。
いつもみたいに、楽しそうに。
そう思ったら、だいぶ気持ちが楽になったような気もする。
「これからもさ、無理しないで一緒にいようよ。キスも、したくなったらする。
それでいいじゃん」
「うん」
「俺も、無理しない美雪のほうが好きだし」
「うん……」
無理しない……か。
思えばカズくんはわたしの前で無理したりしないなぁ。
わたしといるときも、みんなといるときと同じように楽しそうに笑って。
いつも、いつもどおりのカズくん。
けど、それってもしかしたらわたしに無理させたくないからかな。
それとも自分が無理したくないからなのかな。
……カズくんのことだから、どっちもな気がする。
でもわたしだって、わたししか知らないカズくんの違う顔、見たいんだよ?
たまにはわたしの前で無理してほしい。
これって、わがままなのかな。
「おーい、生きてるかー?」
「……なんとか」
でも、そのわがままを叶えるのもまだまだ早い気がする。
わたしたちが特別とか、そんなのじゃなくて。
わたしたちに合ったペースっていうのがあるんだもん。
周りの誰かに合わせるんじゃなくて、わたしとカズくんだけの歩調。
二人だけのって響きがくすぐったくて、わたしは思わず笑顔になった。
「なんか楽しそう」
「そうかな?」
「そうだよ」
「なんでかわかる?」
「ん~……わからん」
「じゃあ、教えてあげるね」
わたしはごにょごにょと小声で話した。
「なに?全然聞こえない」
「それじゃ、もっとこっちきて」
カズくんがわたしの顔に耳を近づける。
「もうちょっと」
「こう?」
「あと少し」
「んー」
ちゅっ。
「……んっ?」
カズくんが顔を離して、自分のほっぺに手を触れる。
わたしは急いで自分の巣穴へと引き返した。
「んんっ!?」
カズくんの驚いた声のあと、しばらくしてからわたしはまたひょっこりと顔を覗
かせる。
カズくんはわたしがいないほうの壁を黙って見て、ほっぺを指でぽりぽりかいて
いた。
あの顔を見たことがある。
三ヶ月前、わたしからカズくんに告白したとき。
わたしは当然顔を赤くしてうつむいていて……いつまで経ってもなにも言ってく
れないから、ちらっとカズくんの顔を見た。
そしたら、わたしと同じくらい顔を赤くしたカズくんがそこにいた。
それからしばらくして、おしゃべりなカズくんには珍しく、一言だけの返事でか
えしてくれた。
一言だけだけど、わたしにはそれで十分だった。
あのときと同じだ。
「カズくん」
「……うん」
「好きだよ」
「……俺も」
わたしも、あのときと同じくらいどきどきしながら、真っ赤な顔で笑った。
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恋愛というにはまだ幼い感じ。でも、いつだって本気なんです。