――四日目
目を覚ますと木目が揺れる水面のように刻んである天井が見えた。なんかもう慣れてしまったことに関して人間がいかにたくましいかを実感してしまったが、寝起きはそれなりに良好だ。
とりあえず昨日の嫌な思い出は心の奥底にしまっておくことにして、もそもそ起きると、部屋の中には俺しかいなかった。
「……」
起き上がりながら未だ半分眠っている思考回路を何とか回転させて、誰もいない理由を考えてみる。えーと、昨日は休日だったわけで今日は……ああ、学校か。
鈍い思考で俺が一人な事を確信すると、布団が再び俺を眠りの世界へ誘おうと強烈な引力を働かせてくる。これに抗うのはかなりきつい……ああ、身体が勝手に枕に向かって行く。
「メイ様、おはようございます」
「うおあっ!?」
唐突にふすまが開いて無機質な声が響いた。驚いた拍子に眠気は吹っ飛び、寝起き特有の気だるさだけが残った。うん、なんというかさっきまで寝起きのバロメーターがプラス方向だったのに一気にマイナスに振れたような感じだ。
「驚かせてしまいましたか、申し訳ございません」
「いや大丈夫、うん、気にしてないし」
寝癖なのかちびっ子のイタズラなのか、妙に跳ねまくってる髪の毛を手櫛でいじりつつ答えた。まあここまで来て寝なおすというのも気分が乗らない、この際起きてしまおう。
軽く身体を伸ばしてだるさを吹き飛ばして立ち上がると、外のどんよりと曇った空が見えた。今日は雨が振るかもな。
「今日一日、梅雨らしい天気になるそうです。お出かけをするならば傘をお貸しいたしますのでおっしゃってください」
「じゃ、とりあえず髪のセットをお願いして良いかな?」
外に出る出ない以前に、このわさわさと鬱陶しい髪の毛を何とかしてもらおう、そう思った。
「では、食事まであまり時間がありませんし、ここでやってしまいましょう。昨日の感触では、あなたの髪は櫛でとかす程度でも十分整えられそうです」
褒められてんのかな、もしくは髪型が簡単だから変な手間が要らないとかそんなのか、まあどっちにしても男の時と同じ感じで生活できるならそれで構わない。
そのまま綾芽さんは俺の後ろに回って櫛を使って軽く髪形を整え始める。くい、くいと引かれる髪の刺激で、頭の血行がよくなったのか、あるいはうなじまで空気にされされて頭が冷えたのか、徐々に頭がはっきりとしてくる。
「このまんま綾芽さんにやらせとくわけにも行かないし、元に戻るかやり方を教わるかしないとな、今日の昼辺り、軽くやり方教えてくれないかな」
昨日考えていたことはとりあえず、頭の隅で未だにしこりを残しているが、どういう状況であれ、なれるための努力はしたほうがいいと俺は思う。
俺の提案に応えることなく、着々と髪の毛を整えていく綾芽さん。まあ否定はしないんだから受けてくれることは受けてくれるんだろう。
「終わりました。では洗顔と歯磨きを終えましたら居間の方までお越しください」
そういって綾芽さんは廊下の方まで歩いていき、一礼した。
「それと、髪を整える事についてですが、まだしばらく戻る可能性があり、メイ様がそちらを望んでいるのであれば、私がしばらくの間整えて差し上げますのでご安心を」
そう言ってふすまを閉めずに綾芽さんは廊下を居間の方向へ歩き始め。ふすまの向こう側へ消えていった。
整えられた髪の毛を軽く撫でてみると、腰の有るしなやかな弾力が返ってきた。なんというか、見た目的にはこのまんまの方が人生楽そうだよな、複雑な気分だ。
居間から窓越しに覗くのはきちんと整備された日本式の庭で、どんよりとした空の下でも十分明るく見えた。
その景色を眺めながら俺は朝食を少し遅めに食べ終わった。
「ふう、食った食った。ご馳走様」
広い居間にいるのは俺と綾芽さんだけだ。平日だからだろう、リョウ兄さんの親父さんは道場で掃除やらなんやらをしているらしい。別に要さんに任せておけばいいのにと思ったが、武道にはうんたらかんたらと理屈を並べられて否定されそうなのでやめておいた。
今日の料理は焼き魚、味噌汁、漬物、ご飯と純日本食な献立だったが、焼き加減と出汁の効き具合はちょっと後で教えて欲しくなるほど美味かった。
「お粗末さまでした。では片づけをしてまいりますのでそのまま御寛ぎくださいませ」
すぐ側で控えていた綾芽さんが立ち上がり、俺の前にある食器を重ねて持ち上げた。
「いや、俺も手伝うよ。泊めてもらってるんだしこういうことはやっておかないとな」
俺に出来る事は存分に手伝わせてもらわないとな、立ち上がって綾芽さんが持っている食器を半分受け取り、俺は笑って見せた。
その顔を見て綾芽さんは短く「では、お願いします」とだけ言って居間のすぐ隣にある台所へ向かった。その後を俺が歩いていくと、うずたかく積まれた食器の山が目に入った。
「ちょ、これは……」
うずたかく積まれた食器群に埋もれるようにシンクがある。どういう状況なんだと思って隣を見ると、綾芽さんはエプロンドレスのそでを食器を持ったまま二の腕辺りまで器用にまくっていた。
「朝修練に参加した門下生全員分の食器です。さあ、はじめましょう」
これがいつもどおりだ。とでも言うように綾芽さんは食器の山へ足を進めていく。え、ちょ、マジでこの量をいつもやってんの。すごいな綾芽さん。
俺も一拍遅れて食器の山へ向かう。これは相当骨が折れそうだ。
「しかしこの量、いつも綾芽さん一人でやってるのか?」
手近な食器の小山を丁寧にシンクへ落として水をタライに出し始める。
流石にこの量を洗った経験がないから分からないが、とりあえず流水で洗うと相当水道代がかかりそうなことは容易に想像できた。
というわけでいつも面倒だからと出しっぱなしにしている水をちょっと節約して使ってみようと思ったのだ。
「はい、これを含めて、家事全般が私の業務内容ですので、いつもは一人です」
ああそうか、綾芽さんは一応仕事としてここに住んでいるんだっけ、多分昨日助けてくれた時の動きからして道場にも通ってるんだろうな。一体どういう生活してるんだろうか。
「大変だなー俺なんか……」
そこまで言って俺は言葉を切った。俺なんか三人分の食事と家事だけで音を上げて、挙句の果てに苛立ちをあいつら二人にぶつけてたんだな。そう考えると自分が惨めに思えてきた。
「なあ、綾芽さん。どうやったらその、嫌な顔せずにこんな事が出来るんだ?」
手を止めずに、綾芽さんに話しかける。とてもじゃないが俺には無理だし、実際出来ている人にその秘訣を聞いてみたくなったのだ。
しばらく答えは返ってこなかったが、なんとなく答えに迷っているという空気が伝わってきて、特に答えたくないという訳ではない意思が伝わってきた。
「そうですね、私が嫌な顔一つせずにこういった仕事をしている。それについてはまず認識を改めてもらいましょう」
「えっ?」
意外な答えが第一声だった。特に表情の変化が少ない綾芽さんだ。てっきり機械的にこういう家事をこなしていると思っていたが違うのか。
「私はこの仕事を面倒だと思うことはありますし、すべてを放り出して逃げてしまいたいと思うときが多々あります。その上で、何故投げ出さないか、それについてお教えしましょう」
そう言って、綾芽さんは一呼吸置いた後、独白するように話し始めた。
「今から……そうですね、大体五年前でしょうか、その頃に弟の要も含めて若と出会い、この家に養子として迎えられました。お義父様にはとても良くして頂きましたので、それに報いるまでは辞めるつもりはありません」
あくまで食器を洗う手は止めず。着々と雑然とした食器の山を崩していく、最後に泡を流すだけの状態になっても、これは一人じゃ辛そうだ。
でも、やはりというか、想像していたとはいえ綾芽さんの理由は俺には当てはまりそうに無かった。それを免罪符にするわけではないが、俺にはこういうことを続ける事に不向きな正確なのだろうかと考えた。
「ですが、それは小さな理由です」
うつむいてスポンジで食器を撫でている俺に、続けて声が掛けられた。
「彼ら、つまりはこの食事を食べた人たちは、感謝の有無に関わらず私に衣食住のうち一つを握られているという事です。そう考えれば意外とこの仕事も楽に思えてきますよ」
「それは……」
綾芽さんは仕事に対して真面目で、そんなことを考えるはずが無い、そう思っていたが、今の台詞と、俺が振り向いた時の顔から察するに、どうやらそれは俺の脳内だけで完結していた綾芽さん像だったらしい。
「……たしかに」
「そういったことの積み重ねで、私はこの仕事を続けさせていただいています」
そうか、別に言わなきゃばれないし、もうちょっとプラス方向に考えれば、あの二人は俺が居なきゃ何にも出来ないってわけか。なるほど、中々いい考え方だ。口に出さなければ。
考えている間でも、やはり身体に染み付いた仕事という物は働くもので、いつの間にか山のようにあった食器は、すでに最後の一枚をすすぐ所まで来ていた。
「さて、最後の一枚っと」
少しだけ丁寧に最後の皿についた泡を流して、乾燥台の上に載せて作業を終えた。
さて、これからどうしようか。
部屋に戻ってぼんやりと考えた。このままリョウ兄さんの帰ってくる時間まで漫然と過ごす事も出来るんだが、それをやるのは何かと人生を無駄にしているような気がするので、ちょっとやりたくない。
「うーん……あ」
どうしたもんかな、と考えていたら、昨日の夜に自分自身のことについて考えてみようとしていた事を思い出した。他にする事もないし、ぼーっとして過ごすよりは数倍有意義だろう。
しかしなんで昨日のうちに考えなかったんだっけ。確か昨日は帰った後、風呂にはいって……ああ、ちびっ子の所為だったな。思い出した。
考え始める前に、軽く気分を落ち込んだが、昨日のうちから考えようと思っていたことを再開する事にしよう。
「よい、しょっと」
ちゃぶ台の前に座った姿勢から、座布団を引き抜いて、窓の外が見える形で横になった。もちろん座布団は二つ折りにして枕代わりにしている。この姿勢なら、特に何を気にすることなく考え事を出来るだろう。
景色はまだ何とか雨が降り出しそうなのを持ちこたえてる感じだが、午前中だというのにこんなに外が暗いとなるといつ雨が降り出してもおかしくない天気だった。
それはそうとまずは、俺の置かれた状況を考える事にしよう。
確実に分かっていると言えることは、俺の身体は今、元の姿が分からないくらい見事に女になっているってことだ。
そして中身と癖、嗜好については男の時と同じだって言うのも綾芽さんの反応からして確かなんだろう。
しかし、綾芽さんは俺の性格というか人となりを掃除の癖で同一視してくれた時は驚いたな、お互い顔も知らないのに。
「……?」
何かが、ちょっと気になった。いや、とうてい俺が元に戻るための手がかりにはなり得ないことではあるんだが。何か引っかかる。
リョウ兄さんと付き合いはそれほど長くは無いとは言え、テッちゃんですら知ってた綾芽さんをなんで俺が知らないんだろう。
ただ単に俺が兄さんとの関わりが薄かった所為なのか、それとももっと別の要因か。
俺には分からないけど、どうなんだろうか。綾芽さんは単純に俺の知らない人なのか、それとも何かの要員でもしかしたらリョウ兄さんが俺に教えていないのか。あるいはそもそも綾芽さんは俺が女になった後「造られた」人間なのか。
「……」
寝返りを打ってその考えを頭から振り払う。自分のみにこんな事が起きたからといって、他でも奇妙な事が起きているわけじゃないだろう。だが、自分自身にこういうことが起きているからこそ、そんな疑念も持ってしまう。
でも、少し考えてみれば、俺の女嫌いを察して兄さんが合わせないようにしていたのかもしれない。そうだとすればこんな考えは疑う余地も無くまったくの空想だと切って捨てることも出来るんだが、それを確認するためには今兄さんが学校へ行っているため、それはかなわない。
「いや、もしかすると」
俺は男だったのか、あるいは記憶が男の物と摩り替わっただけで、元から女なのか。両方が考えようとすれば考えられる。なにせこんな原因不明の自称が起きている中に巻き込まれたんだ。何が俺の身体に起きていようと、それを受け入れるしかない。
一体俺は何なんだ。男か女か。自分のことだって言うのにはっきりとしない。その所為で思考が焦りを呼び、余計に頭の中を覆うもやがどんどん濃くなっていく。
丁度、窓の外から見える景色のように、俺の頭の中はどんよりとした色の重く息苦しい色に染まっていた。自分は何者なのか、それがわからないだけでこんなにも不安な気持ちになるとは。変わる前には全然考えなかった。
ポツ、と窓に何かが当たった。その音にはっとすると、どうやらとうとう雨が降り出したらしい。ここ二、三日は晴れや曇りが多くて梅雨も終わりかと思っていたが、このしとしと降る雨は梅雨特有の気配を持っていた。
「雨かー、これじゃあいつ頃梅雨が明けるか分かったもんじゃねーな」
このまま降り続くのかそれとも止むのか分からないどっちつかずな雨と、この全体を覆う湿気は鬱陶しい事この上ないが、それでも少し身体を動かせばいまの自分に対する考えも纏まるかもしれない。
外に出るって言うとまたなんとなくだるい様な気もするが、このまま横になって考え事しながら一日を過ごすよりはマシだし、このままじゃ変な方向にばかり思考が飛びそうだ。
「よい、しょっと」
立ち上がり、枕代わりにしていた座布団をぱんぱんとはたいて皺を目立たなくする。人の家で座布団を勝手に枕代わりにするのってよく考えたらダメダメだよな。
まあそんなことは置いておくとして、外に行こうか、確か傘は綾芽さんに言えば貸してもらえるらしいしな。
「綾芽さん、いる?」
「なんでしょうか、メイ様」
そんなに大きい声を出したつもりはないんだが、綾芽さんはすぐに襖を開けて現れた。さすがは家政婦というべきか、まあエプロンドレスの所為でメイドに見えるんだが、多分本人は否定しそうだな。
ってそんなことはどうでもいいんだよ、それかけた思考を頭を振って軌道修正して本来の用件を伝える。
「あーっと、ちょっと外に出たいから傘の用意お願いできるかな」
「承知しました」
深々と頭を下げる。こういう景色見てると自分がえらくなったように見えてくるな、いや、実際はそんなことはないんだろうけど。
「あ、そうだリョウ兄さんは傘持ってるのかな、必要なら俺がついでに持っていくけど」
綾芽さんは、傘をとりに行こうとした足を止めて一礼した。どうやら「お願いします」という意味らしい。
まあ親切心というか宿を貸してもらってるわけだし、これくらいの用事は請け負わないとな。そういうわけで俺は雨が降る外に繰り出したのだった。
外に出ても雨模様の空はどんよりと曇っていて、俺の思考を余計に重くしてくれた。
そしてしとしとと降る雨は、大通りに出るための道を湿らせる程度にしか振っていなかった。しかしそれでも傘をささないと鬱陶しいレベルには雨が降っていて、なんとも中途半端な天気だ。
「止まないにしても、天気はハッキリして欲しいよなあ」
いっそのこと、土砂降りになればこの鬱陶しい湿気も諦めがつきそうなものだが、梅雨らしく止むとも強くなるとも読みづらい。まるで周りにある湿気がそのまま水滴になってるような霧雨が辺りを包んでいる。
鬱陶しい髪を何度も撫でながら歩いているうちに、俺は大通りに出る路地まで到着していた。
ふと足を止める。そういえば昨日ここでチャラい男にナンパされたんだよな、あいつは一体なんだったんだろうか、多分女なら何でもいい人種だったんだろうな。
「……」
うーん、あのちびっ子にも慕われてるし、綾芽さんからもそんなに悪いように思われてないみたいだし、リョウ兄さんもある意味でそういう人種なのかな。誰にでも割と優しいし、ああいうノリのまんま誰にでも親切だったりしそうだ。
手が痺れたように感じて見てみると、兄さんに渡す予定の傘を無意識にギュッと胸元辺りで握り締めている事に気付いた。なんだこれ、女みたいな反応だな。
俺は男だ。外見は違うけど中身は間違いなく男だ。そんな女らしいことをするわけがないし、していいわけがない。男なんだから。
だが、もし、もしもという話だが、男だっていう記憶が作られた物だとしたらどうだろう。それが間違ってるって事を俺は証明できるのか、リョウ兄さんを含めて、みんながみんな口裏を合わせていたら俺は確認のしようがない。
「くっ……」
ブンブンと頭を振って思考を散らす。自分が何者かなんて考えて答えがでるわけがない。もっと別の……元に戻る方法についてを考えよう。
その場から逃げるように去って、大通りに出る。大通りには月曜日の平日だけあって人通りがまったくと言って良いほど無く、車道では猛スピードで行き来する車が水を回りに撒き散らしていた。
俺は跳ねた水が掛からないようになるべく建物側によって、学校への道を歩き始めた。雨が降ってるし土曜日に抜け出したのがばれてすぐだ、リョウ兄さんは学校で大人しくしているだろう。
大人しくしているかどうかが心配になるなんて、なんだか保護者にでもなった気分だ。変な感じといえばそうなんだが、でも不思議と嫌とは思わないな。
さて、歩きながらでも考える事は出来る。昨日ちびっ子とリョウ兄さんから話してもらった元に戻る方法について再確認しておこう。
たしか、俺みたいなことになった人たちの殆どは今もまだ元に戻ってないんだよな。そんでもって数少ない元に戻った人は「気がついたら元に戻っていた」……考えれば考えるほど絶望的なんだが、それでもやっぱ考えてみるべきだ。
気がついたら戻っていた。ということは、もしかして気にしなくなったら元に戻れるのかもしれない。
「……」
無理だな、うん。歩きながらうっかり自分の考えに頷いてしまうほど明らかに無理だと分かる。
この姿を受け入れるのはもちろんだが、気にしないというような状況なんて俺には想像できない。まあだからといってこの姿で居たい訳じゃないのは言うまでもないが。
じゃあどうすればいいか、それを考えてみるが、到底いい案は浮かびそうに無い、これはもうリョウ兄さんと話して何とか知恵を出し合ってみるしか。
いや、それもダメだ。そんなことしてたらまた俺は状況を理解できていない人間になってしまう。仮に戻れたとして、またこの姿になってしまう事だって無い事は無いはずだ。
どうすればいい。そのことが頭を堂々巡りして、それを振り切るように歩調は段々と速くなっていった。
「あーもう……」
思考が堂々巡りをやめないまま、学校の正門まで来てしまった。雨はその間に幾分か強くなって、霧雨というには強すぎるくらいになっていた。
しかし雨は強くなっても風邪は全く吹かない、蒸し暑さで顎から胸元に汗が滴り落ちるほどだ。暑くてしょうがないので、もう考え事を出来る余裕がなくなってきている。さっさとリョウ兄さんに傘を渡してしまおう。
暑さに耐えつつ時間がたつのを待っていると、いつもの聞きなれたチャイムが鳴った。ここから見える校舎の時計を信じるとすれば、今は昼休みだ。
「さて、行くか!」
顎から垂れそうになっていた汗を腕でぬぐってから校門をくぐる。まあ制服は着てないけどいいだろ。
……でもやっぱり見つかるとまずそうなので、校庭の端っこを通ってなるべく目立たないように歩く。確かこの時間はテッちゃんもリョウ兄さんも人が少なくなっている教室で昼飯を食べているはずだ。まあ何人かには見られるだろうけどどうせすぐに帰るんだ。別にいいだろう。
「ちょっとアンタ!」
突然声を掛けられた。振り向くと用務員のおばちゃんが立っていた。
「勝手に入ってこないで頂戴! ちゃんと関係者以外立ち入り禁止って書いてあるじゃない!」
「俺は知り合いに傘を届けに来ただけなんで、渡したらすぐに出て行きますから」
そういや制服じゃない以外にも今の俺は学生証持ってても不審者の分類なんだよな、でもまあ見つかったのがおばちゃんでよかった。たしかテッちゃんいわくこのおばちゃんは結構こういうことには甘いらしいしな。この間の抜け出した時もなんか頼んだりしたんだろう。
「そういう問題じゃないのよ! アンタは人の家に勝手に入って同じ事いえるの!?」
しかし、俺の予想に反しておばちゃんはしつこく食い下がってきた。あれ、なんかものすごいめんどくさいぞこのおばちゃん。
「じゃあ許可もらってくれば良いんだろ。職員室に行ってくるよ」
なんだろ、俺はあんまり関わった事無かったけどこんな印象は持ってなかったぞ。俺の勘違いか、性格の変化か、どっちだろう。
「早くしなさいよ、このまま警察に通報する事も出来るんだからね!」
吐き捨てるように言うと、用務員のおばちゃんは悪態をつきながら歩いていった。そこはかとなく鬱陶しいな、このおばちゃんは。まあここでトラブル起こすのもアレだし、許可取らなかった俺が悪いって事にしておくか。
でもやっぱり腹は立つわけで精一杯おばちゃんを睨みつけておいた。まあしたからと言って何か変わるわけじゃないが、精神衛生的に、ということで。
さて、幸い職員室は近いし、さっさと話を通してしまおう。
「……?」
ふと視線を感じて、辺りを見回す。
おかしいな、確かに誰かから見られてるような感じはしたんだけど、周りには特に人影は見当たらない。気のせいか、いや、そんな感じじゃなかったような。
まあいいか、とりあえず職員室だ職員室。
見える範囲に人はまばらなのに妙に視線を感じるのを気付かない振りをして、俺は昇降口から校舎に入る。まあ上履きは自分のを使って構わないだろう。
幸い職員室は昇降口の近くにあり、また通路的に昼飯をもとめている奴らと鉢合わせする事は少ない。
だがこの校舎に入ってからさっきの視線が一層強くなった。俺が物珍しいって言うのもあるだろうが、それにしても気になる。妙に生暖かいというか気持ちの悪い視線だと感じる。
「……?」
一体なんなんだろうか、これはもう気のせいとかそういうレベルじゃないような……
異様な空気を感じて不安になったので、俺は足早にその場を去った。
校舎を歩き回る許可は、結構簡単に降りた。社会的な問題で、男だったらこうは行かないだろうなと考えると、女になってから初めて得をしたって思えた気がする。
許可を受けたことを示すプレートを胸につけて、制服姿の男女が行き来する廊下を早足で通り抜ける。やっぱり私服は目立つのか、すれ違う人たちがこっちを見ているような気がする。俺は男女問わず視線を集める経験をそんなにしていないわけで。ちょっと顔が熱くなるのを感じた。
こんな場所からはさっさと抜け出してしまおう。廊下の一番端にある言うもの教室をこっそりと開ける。
「……あはは、どうも」
こっそり開けたところで教室の引き戸なんて物はガラガラ音が鳴るもので、しかも私服姿の俺が周りの地味な色合いで統一された制服の中に入れば嫌でも目立つっていうわけだ。
それでも昼飯時で人が少ないのは助かったな。これで授業中とかだったら恥ずかしすぎて死ぬかも分からん。
「どうした、なんか用かな?」
「うわ、けっこう可愛い子じゃん、どっから来たの?」
「何で私服? 誰かの兄弟?」
まあそれでも質問攻めに会うことは必至な訳で、困ったな、ただ渡しに来ただけなんだがどうやってこの包囲網を突破しようか。
「え、えっと……ちょっとリョウ兄さんに会いに来たんだけど、ほら、傘持ってきたし」
紺色の折りたたみ傘を取り出して周りに見せる。その後、多少強引に人で出来た壁を掻き分けて、兄さんのいる席まで歩いていく。
「リョウ兄さん!」
テッちゃんとなにやら話し込んでいた兄さんに声を掛けて、自分の存在を主張する。もうなんかここまで来るとこれ以上目立っても変わらないような気がしてきた。
なんか廊下の向こうから野次馬が着々と集まっているようなざわめきが聞こえるが、そこら辺はもうしょうがないと割り切って諦める事にする。
「お、メイちゃん、学校まで来るなんてどうしたの? もしかして俺に会いにきてくれたとか」
「どうしたメイ、なんかまたまずい事になったのか?」
真顔で変な事を言ってるテッちゃんは置いておいて、リョウ兄さんに無言で傘を手渡す。どうにも周りのヒソヒソとした話声が気になるな、なんとなく早めにこの場を離れた方が良さそうだ。
「し、師匠、この娘との関係ってなんなんですか?」
「へーリョウも隅に置けないわね」
俺が去ろうとしたその時、そんな声が聞こえてきた。誰が最初に言ったかは分からない、しかし確実にこのままだと俺と兄さんが付き合ってるように見えてしまう。
まあこういう展開になるって言うのは、想像していなかったわけじゃない、だが想像はしていたが、そうなって欲しくない、という方向でしか考えていなかった。
「ちょ、ちがっ……」
いや待て、否定が口をついて出かかったが、なんとか押し込めた。ここで思いっきり否定する事は簡単だ、しかし強く否定する事によって逆に怪しまれるという危険性が、かといって黙っているのもなんか肯定しているようでシャクだし、どうしようか。
「違う違う、コイツは」
「え、マジ? 師匠ってば俺より先に彼女作っちゃったのかよ、こないだ会った時変に思ったんだけどまさかデキてるとはなぁ」
どうしようかと考えていると、テッちゃんが兄さんの言葉をさえぎってそんなことを言い出した。
「馬鹿、違うって言ってんだろ!」
「おーおー、必死になるところが余計怪しいぜ、ちくしょー絶対師匠よりは早くできると思ったんだがなー」
ああもう、うっかり反射で否定しちゃったよ、したり顔で冷やかすテッちゃんの顔をグーで殴りたい気持ちを抑えて、とりあえずこの場を逃げる事にした。
「……じゃ、用は済んだから帰るわ」
不快感が十分に伝わるよう、目を細めて窓の方向を見た。見た先から見える景色は霧雨とは間違っても言えないくらいの豪雨だったが、まあこっから帰るくらいならなんとななるだろう。
「あ、おい、雨ヤバイし職員室か生活指導室で待ってても……」
「お、師匠の彼女が帰るぞー」
何か重要な一線を越えたような感じを覚えたその瞬間は、外見的にはピクッと俺の身体が反応した位だとおもう。それでも、俺にとっては大きすぎる衝撃だった。
多分冷やかしのつもりだろう。それは分かっている。ここで俺が強く否定すれば、周りの笑いを買ってそれでおしまい。ただそれだけのことだ。
ただ問題はそれを聞いて笑みを浮かべている人間がそこまで多くないことと、どこから噂を聞きつけたのか……いや、ここに来るまでの道で感じた視線の主であろう結構な量の男子生徒が廊下の窓から覗いている事に気付いたからだ。
という事は、周りからは俺らの言い分よりもテッちゃんの言う事の方が面白く、かつ信憑性があるということだ。
しかも悪い事に、それを他のクラスにいるはずの男子学生にも聞かれてしまった。
もう嫌だ。何でこういう思い通りにならないことばっかりなんだ。こういう物事にはよりドラマ性が高く、自分が面白いと思う方向にしか想像できないのは女だけかと思っていたが、どうもこの状況を見るに男も大差ないらしい。
「……気にするな」
兄さんの声が聞こえる。でも、兄さんも男だよな。もう俺は何を信じればいいんだろう。自分自身が元々男なのか女なのか、今の自分はどっちの性別なのか。それすらも今の俺には分からない。
「リョウ兄さん」
俺は、震えそうになる声を何とか張り詰めて声を出した。目頭が熱いような気がする。この身体になってから妙に涙腺が弱くなったみたいだ。
「俺ってさ、何なのかな」
男なのか女なのか、どっちにしても兄さんの言う事なら何とか受け入れられる気がした。
いや、正確に言えば男だって答えてくれることを期待していたし、それ以外の答えが返ってくることなんか予想すらしていなかった。
「いや、何って……」
しかし、兄さんは言葉を濁してお俺の質問に答えようとしなかった。
どういうことだろう。もしかして元々俺は女だったのか。不安に思ったがこれ以上長居すると帰る事自体が難しくなりそうだ。そう思って辺りを見回すと、空気が変な事に気付いた。
なんかみんながみんな、固唾を飲んで俺とリョウ兄さんを見ているような気がする。
俺はこの空気を知っている。確か一年のころだったか、三年の先輩が打ちの教室まで入ってきて公衆の面前で告白した後の返事を待つ空気ととても似ている。というよりもほぼ同一のように感じる。
つまり「そういうことか。
「分かった……じゃあ、帰るわ」
「え、おい、どうしたメイ?」
俺が男だろうが、女だろうが関係なく周りの人間は俺を女と認識するし、兄さんといれば「そういう風」に見られるわけで、そこには俺の意思をねじ込む隙間なんて存在していなかった。
後ろへ振り返ったとき、視界の隅にリョウ兄さんの心配そうな顔が映ったが、俺にはどうすることもできない。多数が俺のことを「そういう存在」だと認めてしまえば、俺がここでどう取り繕ってもそれは覆りっこない。
俺は逃げるように教室から出た。背後から安堵の声や罵声、ほかにも色々な声が聞こえてくるが、聞こえない振りをする。
エアコンもないって言うのに雨が降っているからって窓を閉めたままの教室よりは、廊下の方が幾分か涼しく感じる。汗が引く気配は感じられないが、それでも俺は早足でなるべく教室から離れた場所へと向かうのだった。
逃げたところで行き場が無ければ仕方が無い。そのことに気付いたのは校門から道路へ出た時だった。
早歩きした所為で傘を差しているというのに汗と雨粒が服にかかって張り付いている。身体が冷えて唇が震えるが、身体の芯は未だに熱を持っていた。
「どうしよう……」
何も考えていなかった。あんな空気になった後でリョウ兄さんの家に帰ることもできないって事も想像できたはずなのに、俺は全く考えずにでてきてしまった。
深く溜息をついて自分の軽率な行動を呪う。何でこうも俺は毎回短絡的な行動で自分の首を絞めるのか、本当に嫌になる。
「はぁ……」
無意識に溜息が漏れた。これからどうしようか、雨は酷くなる一方だし、雨宿りでもしないと風邪を引いてしまう。
傘の縁から空を見上げると、どんよりとくもった空は日が昇りきった頃だというのに朝よりも暗くなって、雨をこれでもかというほどに傘に打ちつけている。
今この状況は俺の状況と一緒のような気がする。周りを包む陰鬱な空気、雨に晒されてただ耐える事しかできない。雨っていう周りの存在が、俺に重くのしかかっているように感じる。
「行かないと……」
あてはないが、この場所にとどまり続けるのは得策ではないと俺の直感が告げている。寒さに身震いをして自分の身体を抱くと、驚くほど指先が冷えている事に気付く。
夏が近いって言うのに、ついさっきまで汗をかいて暑がっていたって言うのに、身体はどんどん冷えていく。
「どこに……」
行く場所はさっき考えたとおり、兄さんの場所へはいけないし、もちろん本来の家なんてもぐりこめる訳も無い、今の俺には居ていい場所は無いのか。
思案している間にも身体は徐々に冷えていく、どこでも良いから乾かせる場所は……
俯いて当て所なく歩いていると、自然に広い道の方向、一昨日のデパートの前まで歩いていた。
「……」
特に買うものも無いけど、汗と雨で濡れた身体を乾かすくらいはできるかもしれない。どうせ他に行く場所も無いんだ。そう思って俺はそのデパートの自動ドアの前に立つ。
音も無く自動ドアが開くと、冷たい風が身体を通り抜けた。冷房がついているらしい。
寒いな、だけどこのまま外にいて、汗だくになりながら傘をさしているよりは幾分かマシだ。冷え切った腕を摩り、傘を閉じてデパートの中へ入る。
デパートの中は、外の空気とは似ても似つかないほど違っていて、白色の冷たい蛍光灯が店内を照らし、空調のおかげで乾いた風が辺りに吹いていた。
乾いた風は、俺の身体から湿り気と共に体温を吹き飛ばしていく。汗をかくほど暑かったのに、体温を奪われ始めると体中が震えるほど寒く感じる。
「……っくしゅん!」
くしゃみが出た。まあこんな体力ごと奪っていきそうな風に当たっていたら当然か。
それにしても寒いな、どこかのバーガーショップ、いや惣菜の揚げたてコロッケでもいいから腹に詰めておかないと寒さと疲れで座り込んでしまいそうだ。
そうと決まれば地下階へいこう。この時間ならもしかすると揚げたてが買えるかもしれない。俺はエスカレーターを探して一階下の食品売り場へと向かおうとした。
「あっ」
財布を捜そうとして気付いた。そうだ今の俺は財布も携帯も全部、家においてきてしまったんだった。その事実に気付いた時、膝の力が一瞬抜けるのを感じた。
身体が一瞬宙に浮いたような感じがして、寒さで鈍り始めた思考がこのままだと倒れこんでしまう。と告げている。それを感じつつも体感的には非常にスローモーションで、身体は傾いていった。
「おっと……」
ダメだダメだ。人通りの多い場所で倒れこんだりしたら、周りの視線が集まってしまう。もうこれ以上注目されるのはうんざりだ。
エスカレーターのわきにある商品棚の縁に手をかけて何とか踏みとどまる。それでも何人かからは不思議そうな視線を向けられたが、すぐに興味を失ったように、自分のカートに目を移した。
せめて座って休めるところを探そう。身体が乾いて疲れも取れれば、こんな弱弱しい状態は治るかもしれない。
たしか、この階のどこかに小さなフードコートがあったはずだ。腕に力を込めて立ち上がると、重い足を無理矢理動かして記憶の中にある地図を思い浮かべた。
足の重さは疲労と湿り気による動きにくさ、色々な要因が重なっているが、多分重さを必要以上に意識しているのは、気分によるものが一番大きいと思う。
フードコートにつくと平日の昼間だからか、流石に俺と同年代の人間はあまり目に入ってこなかった。あまり、と言ったのはそれでもやっぱり俺とは違った意味ではみ出してしまった人間がごく少数ながら居るわけで、やっぱり俺と同じく、ここで時間を潰す予定らしい。
暇そうに携帯をいじっている茶髪の女子高生っぽい奴が一人と、黒髪で地味目な男が一人、席は随分離れているが、その二人が学校をサボっているんだろうなと言う事はなんとなく理解できた。
俺は他にいるおばちゃんや暇つぶしに来ているおじいさんを避けるようにして席の間を縫って二人の丁度真ん中に位置するような席に座って身体を摩った。
「ううっ……」
寒気がする。身体も疲れたのかなんなのか、だるさが取れないし、もしかしたら本当に風邪引いたかもな。まあだからといってどうするって聞かれたら、今はどうしようもないと答えざるを得ないわけだが。
なんとなく、さっきの茶髪を眺めてみる。暇そうに携帯をいじってはいるものの、目線は頻繁に周りを見渡すように動いていて、なんとなく誰かを待っているように俺からは見えた。
「ごめんごめん、電車に乗り遅れてさ」
何をするわけでもなく、なんとなく女子高生っぽい奴を眺めていると、辺りの雑音に負けないくらい大きな声でいかにも軽薄そうな男が小走りで彼女へ向かっていった。男の方が学生服を着ている辺り、高校生のカップルなんだろうか。
男を確認すると、さっきの女子高生は怒ったような顔をしつつも立ち上がって男の腕にしがみつく。中々微笑ましい風景だ。
「……」
なんとなく、俺はうらやましいなと思った。男の方か、女の方かは分からない。あるいは両方かもしれない。もうどっちの性別が近いのか俺には分からない。
男女の二人組みは合流すると早々にこの場を去っていった。ただ単にここは待ち合わせ場所として使っていただけらしい。
誰かと一緒に居ることは、やっぱり大事なんだろう。もう片方の男の人も、やっぱり家に帰れば待ってる人はいるわけで、俺とは違った孤独なんだろう。
誰か待っている人がいるのと誰も頼る人間が居ない俺では、環境がやはり違う。状態としては似ていても、心理的にはやっぱり違うんだろう。
「リョウ兄さん……」
何度考えたところでどうしようもないのは知っている。それでもあの二人を見た後じゃリョウ兄さんのことを考えるのを俺は止められなかった。
多分、兄さんの家に帰れば何事も無かったように迎えてくれる。でも俺はそれを何故だかしたくなかった。
弱さを自分の中に感じてしまうだとか、もっともらしい言い訳はいくらでも出てくる。学校で冷やかされた事が気恥ずかしいとかの理由もあるし、俺が兄さんの家にこの先も居候し続けるとして元に戻る希望も無いのにそんなことをしていていいのか。
なんにせよ、戻ってしまうと男として残っている部分がどんどん希薄になるようで怖かった。
十分に乾いたはずなのに、疲れは十分に取れたはずなのに、未だに身体のだるさと寒気は収まらない。かれこれ三時間、昼時も過ぎて人影がまばらになったフードコートで、俺は隅の席に移動して、じっとしていた。
スンスンと音を立てて鼻をすする。寒気もするし、これはもう完璧に風邪ひいたな。
これからどうしようか、白いベニヤのテーブルを眺めつつ考えた。一人でいるのはもう辛い、それは今重々承知している。だとしても俺には帰る場所がない。リョウ兄さんに頼るしか道は残っていないのだろうか。
胃が動いてゴロゴロと空腹を伝える。いつもなら食べているはずの昼食を食べ損ねてそろそろ身体が栄養分を欲しがり始めているらしい。
だけど今リョウ兄さんの家に帰ると、間違いなく男としての自分を保てなくなりそうだ。そう、俺は男なんだから何とかこのまま男としての性格を保持していたい。
「……?」
俺って男、だったかな。
それを具体的に証明するのは俺の記憶だけで、後の証明は状況証拠のようなものばかりだと思い出した。女なら、別にこんなに強がる必要は無いわけで、さらに言えばこのまま兄さんと……
いやいや、ちょっと待て。
痛み始めている頭を振ってその考えを振り払う。やっぱり俺がそんなことをしている状況を想像することができない。
だとしても、もし俺が元々女だとしたら、いや、俺が万が一にでも女として生きることを決めたとすれば、こんな悩みなんてすべて吹っ飛ぶんじゃないか。そんな考えが頭から振り落とした想像図の代わりに浮かんできた。
「そうか、女になれば」
自分としてもどうかしていると思う。でもここから先、生きていくとしたら女になってしまったほうが何かと楽な気がする。不思議なことに、この身体になる前まで持っていた女性への苦手意識というものは、ずいぶん薄れていた。
「……まずいよな」
はっとして我に返る。身体が弱ってると考え方も弱気になるから困るんだよな。それでもこの選択肢は魅力的だった。選ぶとしたら最後の最後だろうけど。
「ふぅ」
ため息をついて身体の力を抜いてみる。寒気というよりも悪寒に近い身体全体を包む感触から少しでも逃げたい。力を意識的に抜いてみると身体を包む痛みが、心地よい重さへと変換された。どうも、かなり力が入っていたようだ。
腹減ってねじれるような感覚を伝えてくるし、疲れたし、ちょっと頭が痛みを訴えてるし間接が軋むように痛いし、乾いた後の洋服がガサガサしてて着心地最悪だし、そろそろ限界っぽいし一時的にでも兄さんの家にお邪魔しようかな。
でも、そうなると俺はまた男である自分が希薄になっていく感覚を味わう羽目になりそうだ。それはあんまり好ましくない。
別にそれ自体は嫌な感情を持つほどではすでに無いのだが、学校での出来事や、変化する前の記憶、そして自分の価値観が消えてしまうことを考えると、不安で仕方ない。
しかしまあ、これ自体は好ましく無いが、このままデパートのフードコートで衰弱して救急車のお世話になるのもどうしたものかと思うわけで。
「……くしゅんっ」
悩んでいるとまたくしゃみが出た。
こんな時に頼れる人がいないのは心細すぎる。当ては無いと言うのに無意識に辺りを見回してしまう。せめて誰か、俺を知っている人がそばにほしかった。
ふとさっきまで一人でテーブルに向かっていた地味な男が、もう一人同じような奴と仲良さそうに離しているのが目に入る。
「……」
ここにいる人は皆、仲間がいるんだよ。と言われたような気がした。それは俺がここにいるのが場違いみたいに感じられて、思わず立ち上がってしまう。
「くっ……」
グラリと視界が揺れて倒れこみそうになるのを両手でテーブルに手を着いてこらえる。体調が万全ではないのは重々承知だが、立ち上がるのでさえおぼつかないとは思わなかった。
そのまま慎重に立ち上がると、膝とふくらはぎが痛みを訴える。そして、身体全体を覆う悪寒は強力に俺を縛り付けてきた。それでも何とかゆっくりとしたペースで歩き始め、かさを杖代わりにして俺はデパート店内を歩き始めた。
日の光を遮られた空は、実際の時間よりも暗く、朱色と濃い灰色を混ぜたような空の色はすでに七時を回っているようにも感じられる。
雨は依然として強く、俺がさした傘にボツボツという音を立てながら、辺りをしぶきで白く染め上げていた。雨のせいで余計に身体が重く感じるが、それでも俺はふらつく身体を何とか抑えつつ自分でも分からないような方向へ歩いていた。
せっかく乾かした服はすでにまたずぶ濡れになっていて、こめかみを伝う汗は暑さよりも、身体を包む倦怠感から来る脂汗の比率が高くなっていた。
雨の激しさもあるが、俺自身が感じている頭痛も相まって視界がかすみかけている。早いところ自分がいてもいい場所へたどり着かないと、道の真ん中で倒れる羽目になりそうだ。
「くっ……」
頭痛と悪寒を奥歯で噛み潰そうとしたが、それ以上に強烈な頭痛を返されただけで終わってしまった。
猛烈な気分の悪さに耐えつつ、俺はふと辺りの景色を見渡した。そんな余裕をかましていられるほど状況は甘くないのだが、それでも気になったものはしょうがない。俺の見える範囲で、見える人影は、この天気じゃ当たり前だがそれほど多くなく、そして見える人影はみんな急ぐように小走りで雨の中を歩いていた。
こんな雨じゃ、これ以上ひどくならないうちに帰るか、収まるまで待つかで言ったら収まるまで待つほうを選ぶと思うんだが、意外に帰りを急ぐ人もいるようだ。
「よう、またあったな」
不快な聞き覚えのある声、馴れ馴れしく軽薄なそれは今一番聞きたくない声だった。頭痛がひどくなるのを感じつつも、俺は足を止めた。この体力じゃこいつらから逃げるのは無理だっていうのは自分の身体に聞くまでも無く明らかだ。
もう何かをしゃべること自体が面倒なので、とりあえず目線だけで「邪魔だよ」と伝えるべく眉間に皺を寄せて振り返った。
「うげ……」
目の前にいるのは昨日絡んできた男で、まあその一人だけなら何とかしようもあったのだが、あいにく今日は一人じゃなかった。ひい、ふう、みい……こいつ入れて五人かよ、もう俺一人相手になんでこんなに集合してるんだよ。
しかもよく見てみれば全員体格の良い男ばっかりで、なんかあからさまに俺を力ずくでどうにかさせようとしている感じだ。俺が言うのもなんか変な感じがするけど、男として恥ずかしくないんだろうか。
「まさか会えるとは思わなかったな、どう、これからボーリング行くんだけど一緒に行かない?」
「……行かない」
そもそもこんな雨の中外に出かける奴なんてほとんどいないだろうに、執念深く俺を探し回っていたんだろうってことは簡単に想像できた。
「そういうなよ、みんなこのために集めたんだからさ、なあみんな」
そう言って男は周りの奴らに視線を送って笑いかけた。そんなことはどうでも良いから早く帰らせてほしい。
「なんかこないだ俺の友達が振られちゃったってきいたもんでさ、どんな奴かと気になったんだよ」
そういったのは中でも一番体格がある坊主頭の男だ。明らかに相手を威嚇するような空気をまとっている。この空気からどうなるか想像すると、まあ俺にとって悪い結果にしかならないだろう。
「しかし、こんなカワイイ娘と一緒に遊べるとか今日は結構ついてんな俺ら」
坊主頭に続いて彼らの中では割と痩せ型の男が続け、周りが半笑いで同意した。中身はカワイイ娘じゃないわけだし、体調からして俺は無理なんだが、そこら辺は考慮してくれるはずも無い。
「……はぁ」
結局、男もこういう奴らが大勢で、女が嫌いだとかそういうの関係なく脳味噌足りてなさそうな奴は男女関係無いのかな。ここ数日の周りの変化を見ているとそう思えてくる。
男だろうが女だろうが、人なんてそんなもんなのかもしれないな。そんな悟ったような感じのことを考えて、俺はため息をついた。
「悪いけどさ、体調悪いからほっといてくれないかな?」
こいつらに言葉が通じるかどうかは分からないが、とりあえずは俺の事情を話してみる。まあ日本語は分かるみたいだし、藁にすがってみるのもいいと思ったわけだ。
「そりゃ大変だ。ボーリングとかいってる場合じゃないな」
意外なことに、五人のうち一人がそんなことを口にした。何だ話せば分かるじゃないか。こっちは頭痛が酷過ぎて脂汗がヤバいんだ、早いところ開放してほしい。
「カラオケで風邪をふっとばすか、ホテルで『休憩』しないとだめだな」
男がそう続けて周りの奴らが爆笑する。笑い声が頭に響いてガンガンする。やっぱりこんな馬鹿に期待した俺が馬鹿だったか。
「とりあえず、帰らせてくれ」
そう言って男たちの間を抜けるようにリョウ兄さんの家へ向かう道へ入ろうとした。早いところ帰らないと、下手したら途中で倒れるかもしれない。
「おいおい待てってば、ちょっと一緒に楽しもうぜ?」
ガシッと一番体格のいい坊主の男が俺の腕をつかんだ。風邪のせいでもあるだろうが、力の弱い今の俺はそれだけで動けなくなってしまう。おまけに握られた箇所の神経がきしむような痛みを伝えてきて、抵抗する気力も奪われてしまった。
「はなせ……って」
頭痛と寒気に耐えながらつかまれた腕に力を込める。だが当たり前というか腕はびくともしなかった。男と女、しかも身体の調子も合わさればしょうがないことだとは思うが、それでも抵抗せずにいられなかった。
「なんだよ、そんなこと言いつつぜんぜん抵抗しないじゃん。じゃ、いっしょにカラオケ行こうか」
今の俺では抵抗できないくらい強い力で俺は男たちの集団と一緒に歩かされ始めた。無理やり引っ張られたせいでただでさえおぼつかない足元が、余計不安定になる。
男が近くで傘をさしてるもんだから骨がチクチク身体に刺さる。その上この雨なもんだから、さっきまで傘で防げていた部分でさえもその骨を伝って垂れた水に濡らされてしまう。
まあこいつらにそんな配慮をする脳味噌があるように思えない。俺の体調も気にせずぐいぐいと腕を引っ張っていく腕からは気遣いのかけらも感じられなかった。俺が倒れそうになってもお構い無しだ。
「おいおい、もっと楽しそうにしろよ、早くこっちこいって」
「ちょ、やめろって……うわっ!?」
笑い声を上げながら俺の腕を強く引っ張った瞬間、俺の身体は前のめりに倒れこんだ。不幸中の幸い、顔面を地面に打ち付けるようなことは無かったが、見事水溜りに倒れこんでしまった。身体が急に冷えて、体中が倒れた時の痛みと風邪の悪寒から来る痛みに包まれて、意識が朦朧とする。
「あーあー、倒れちゃって、昨日素直に従ってればこんなことになんなかったのにねー」
何とか身体を起こすと、ボキボキに折れた傘とニヤつく男たちが見えた。その姿を見て、俺の中の何かが切れた。
「いい加減にしろよお前ら……」
呟くくらいのボリュームで言ったはずだが、男たちは一斉に顔を元に戻した。
「あ? ちょっと聞こえなかったんだけど、もう一回言ってくれるか?」
坊主頭が威嚇するように一歩踏み出して俺の前に立つ、この中じゃ一番強そうだけど、リョウ兄さんをいつも見ている身としてはまだまだ細身に見える。
「いい加減にしろって言ったんだよ。俺はさっさと帰りたいんだ、お前らと付き合ってる時間なんか無いんだよ!」
今度は堂々と、割と大きめの声で俺はそう言った。男たちはまた一斉に不機嫌そうな顔になった。
「ちょっとお前、立場分からせる必要あるな……」
そういうと、片腕で胸倉をつかんで坊主頭が俺を持ち上げた。相手の力強さにも驚いたが、それ以上に身体が完全に脱力してしまっていることに驚いた。
抵抗する意思はあるのだが、身体に力が入らない、萎縮しているのかそれとも風邪で体力を使い果たしてしまったのか。どちらにしてもこの状況は非常に危険だ。
「こりゃ行き先変更だな、俺の家に連れて行ってお仕置きしなきゃダメだわ」
お仕置き……ってもしかしてアレか、クソッ俺が女だと思って好き放題言いやがって。
この身体じゃ逃げるのなんか無理だし、身体に容赦なくあたっている雨粒は現在進行形で俺の体力を奪っている。下手すればこのまま気を失いかねない。
「さーてと、じゃあつれてくか」
坊主頭のそばにいた、昨日の男がそう言った時、俺の身体は妙な感覚に襲われた。
目の前に野生の肉食獣が居て威嚇されているというか、身体がすくみ上がるような感覚で、周りに居る男たちが小動物に見えるようなレベルの何か大きいものがあることを、第六感が俺に伝えてきた。
「アキ、目をつぶれ」
その声が聞こえ、俺が閉じるか閉じないかのうちに、俺をつかんだ坊主頭が崩れ落ちた。へたり込むように地面に落ちると、連続して三つ、鈍い音とうめき声が響いた。
何が起きているか分からないが、不安は無かった。俺を呼んだ声は、不安なものをすべて吹き飛ばすほどに俺を安心させるもので、聞き覚えのある声だったからだ。
「開けていいぞ」
またその声がして恐る恐る目を開ける。
目の前に広がる光景はさっきまでとはぜんぜん違っていた。半笑いで俺に絡んでいた男たちがうずくまり、その中で新たに現れた一人が拳を握って立っている。
「リョウ……兄さん?」
霞みかける視界を何とか繋ぎ止め、目の前に居る人に声をかける。外見はリョウ兄さんだということに疑いの余地は無いのだが、いつもの親しみやすい雰囲気とは天と地ほど差があった。
「一応怪我はないみたいだな、大丈夫か?」
不安そうな俺の顔に気づいたのかリョウ兄さんは取り繕うように笑顔を見せてくれた。その表情にさっきまでの威圧感はないものの、今度はそのギャップに違和感を覚える。
「……こんなところで、どうしたんだよ」
違う、俺が言いたいのはそんなことじゃない。それでもさっきの男たちと同じ性別だということで萎縮してしまう。奴らと兄さんは違う、それは分かっているはずなのに。
「迎えに来たんだよ、かえって来てないって言うから心配したんだぞ」
「別に……いいだろ」
顔を背ける。なぜだか俺はリョウ兄さんを見ることができなかった。いつもなら普通に見れたはずなんだけど。
「そうか……じゃあそれ以上は聞かない、とりあえず立てるか?」
「兄さん……俺は兄さんの何なんだ?」
不意に、そんな言葉がこぼれた。冷たい水に体力と思考力を奪われたせいで出た本音なんだろう。俺は何者なのか分からない、そしてそんな俺を介抱してくれるリョウ兄さんたちの目的も。
しばらくの沈黙、時間にすればほとんどないようなものだったのだろうが、俺にとっては何分にも感じられた。そして意識が途切れかけた時、リョウ兄さんの声が聞こえてきた。
「お前は誰かの所有物になったつもりはあるのか? お前はお前、アキだ……まあ、しいて言えば『友人の一人』だな」
そう言い切ると、兄さんは畳んだまま持っていた傘を俺のそばに置いた。
俺は「俺」か、なんとなく感じた空気で励ましてくれてんだろうなと感じられた。まあ、言いたいことはよく分かる。自分が「こういうものだ」と思えばそれが自分だ。つまりはそういうことだろう。
「く、くそっ、お前……顔覚えたからな!」
後ろでへたり込んでいた男のうち一人が声を上げた。他の四人は完璧に伸びてるのに何で起き上がれるんだと思ったが、そういえばこいつら倒される時音が四回しかしなかったことを思い出した。兄さんは意図的に一人だけ残したのか。
俺と同じように水溜りに突っ込んだのか体に雨粒以外のシミが出来ていた。しかし何もされていないのに倒れるとは、腰でも抜かしたんだろうか。
「桐谷亮だ。名前も覚えておくといい」
そう言ったリョウ兄さんは、またあの異様な殺気をまとっていた。近づく人間すべてを傷つけるような凄まじいそれは、どうしても萎縮してしまう。
「お、おい! こっち来るな!」
ついさっきの発言とは打って変わって男は急に弱弱しい声に変わった。
まあこの殺気のようなものは近くに居るだけで萎縮するくらいだ。それを向けられたら誰だって怖いだろう。そして、兄さんはその空気をまとったままドスの利いた低い声で男に向かってこう言った。
「ついでにお前の顔も覚えたぞ……今後何かあったらまずお前を疑おうか。どこまで逃げても俺は諦めないからな、覚悟しておけ」
負けた時の「覚えておけ!」っていう捨て台詞を逆手に取ったというかなんと言うか、本当にこの人は敵に回したくないとつくづく思う。
言われた男のほうは、酸欠の魚みたいに口をパクパクさせて後ずさり「クソッ」と悪態をついて周りの四人を置いて逃げていった。まあなんというか、さっきまでの事もあって全く心は痛まないが、ご愁傷様って感じだな。
「ん、立てないのか?」
男の後姿を見送った後、リョウ兄さんはいまだにへたり込んでいる俺に声をかけた。
「……気分悪くて体が動かないんだよ」
やっぱりさっきの件もあり、男というだけで俺は萎縮してしまう。兄さんが味方だとは分かっているのだが、やっぱり先立つ感情がそうさせてはくれなかった。
男はみんな女を性的にしか見ていなくて、リョウ兄さんが優しいのも、俺が女だからだ。そう思うとたとえどんな親切にしてくれた人だとしてもそういう目的だろうと警戒してしまう。
「ったく、しょうがないな」
俺の気持ちを無視してるのか単純に気づいていないのか、リョウ兄さんはそう言うと俺の身体に手を回した。
「ちょっおい!?」
「気にすんなって、これくらい軽い軽い」
器用にも傘を差しtまま、兄さんは笑って俺を持ち上げる。膝の裏と背中に手を置いたいわゆるお姫様抱っこスタイルだ。いや、軽いだとかそういう問題じゃなく、恥ずかしいんだってば。それでもやっぱり体がだるすぎて抵抗はできないわけで、結局はされるがままだ。
「そういう問題じゃないって! これだから……」
「男は」と言いそうになった。自分も男だって言うのに何を言おうとしたんだよ俺は。
一方その言葉を聞いた兄さんは、なにか考えるよう今差している傘の先を見た。何を考えているのか分からなかったが、俺も別に無理してわかろうとは思っていなかった。
ほんの少し遅れて、俺たちは兄さんの家まで歩き始めた。脱力した脚が歩くたびにかすかに揺れる。
「……なあ、リョウ兄さん」
途中、どうしても答えてほしいことがあったからリョウ兄さんに話しかけた。兄さんは軽く返事をして俺に続きを促す。
「俺ってさ、男? 女?」
自分じゃどっちだか分からない、それなら誰かに聞けばいい。でもまあ、さっきまでの流れで自分は女に近いってことはなんとなく理解できてしまったんだが。
「んー、そうだな、どっちだか分からないならなりたい方を選べばいいんじゃないか?」
「は?」
質問の答えになっていないようでそれは答えだった。だが過程をすっ飛ばして結論だけ言われると変な感じがする。
というかなりたい方になるって何さ、そうなれるなら俺はとっくになってるってば。俺の身体はどっからどう見ても女で中身はどう考えても男だって言う自覚があるんだよ。
「まあその、なんだ、別に中身だとかそういうのがが男だろうと女だろうと周りの認識は変わらないんだからさ、立ったら自分で思う性別くらい好きなほうを選べばいいんじゃないか?」
発想の逆転というかなんと言うか……ある意味諦めたみたいな感じだがそれもまた違うんだろう。俺の意識は偏見だとかそういうものを諦めたようなもので、兄さんの考えはそれらを受け入れることに重点を置いている。俺にはそう思えた。
「そっか……でもさ、俺女も男も嫌なんだよな、男で居ると女はうるさいし、女で居ると男は身体目当てに迫って来るしさ」
数日間女になって感じた俺の意見を口に出す。結局、俺は「異性」を好きになれないのかもしれない。
「うーん、そんなもんかな、じゃあ俺とかアヤメも身体目当てだったりうるさかったりそういう風に見えるのか?」
「いやいや、兄さんたちは違うよ、なんていうか、一般論で男と女はこうだ。みたいなのってあるんだよ」
俺があわてて否定すると、そのしぐさを見た兄さんは軽く息を吐いて笑った。
「だったらそれも気にしなきゃいい、俺個人、お前個人で考えればそんな一般論なんか役に立たないって分かるだろ」
俺の顔を見てそんなことを言う。抱えられている姿勢と体調の悪さ、あとリョウ兄さんの少し照れたような似合わない笑顔のおかげか、自分がどっかのお姫様にでもなった気分がした。
ああそうか、兄さんの顔を見ながら思った。俺が迷ってたのはこういう理由か……
「アキ? おい、せめて帰るまではねるなってば」
「……ん」
目が覚めて見えたのはここ二、三日で慣れてしまった木目の天井だった。
身体のだるさはは未だに抜けないが、雨のせいで奪われた体温その他諸々が戻ってきているおかげで、俺が寝る前よりはずいぶん楽だ。
「お、ようやく起きたか」
天井を眺めたままぼーっとしていると、ふすまが静かに開いてリョウ兄さんが入ってきた。
「あ、うん、おはよう」
寝たまんま首だけ動かして姿を確認する。まわりの明るさとかそういうものを考えると、今は日没後か日の出前か、とりあえず夜中になっているようだ。
「着替えだとかはアヤメに任せたが身体は大丈夫か?」
「うん大丈夫、まだ気分は悪いけどな」
兄さんが俺の枕元に座り、手を額に当ててくる。少しくすぐったかったが心地よい感触に包まれて、俺はちょっとだけ幸せな気分になった。
「あ、そうだ、寝る前に話した事の続きなんだけどさ、俺女になるわ」
これから先どうするかはともかく、女になったほうが何かと便利だし、なによりいろいろ我慢する必要がなさそうだ。
というわけで、俺はそうなることにした。もちろん抵抗が全くないと言えば嘘になるけど、まあ男で居続けるのよりは俺も回りもストレスが少なそうだ。
「いいのか?」
「そっちの方がなにかと便利だしね、男でいる時にできないこととかも多いし」
少し驚いたような顔をして俺に問いかける兄さんに向かって微笑んでみる。かわいく見せる努力とかそういうのも始めないとな、そう考えるとなんだか楽しくなった。
リョウ兄さんは俺の言葉を聞くと、それ以上問い詰めるようなことはせず、もう少し寝ているようにいって部屋を出て行った。
「……」
今、男に戻ったらそれはそれで不幸だな、そう考えると自然と笑みがこぼれた。
今日の昼ごろまでは戻る方法を探してたって言うのにこんな心境の変化を誰が想像できただろうか。
どちらにしても、この姿にしてくれた何らかの要因に感謝して、俺は新しい日々に思いを馳せた。
――終章
昨日の土砂降りと打って変わって、今日の天気は初夏らしい強い日差しに包まれていた。
風は濡れたコンクリートの匂いを運び、少年の頃を思い出させてくれる。俺は棒つきの飴を咥えたまま眩しさと郷愁に目を細めた。
「なあ兄さん、本当に行かないと駄目か?」
並んで歩く見た目は可憐な女性が似つかわしくない口調で問いかける。漆とも黒檀とも形容しがたい艶のあるしなやかな長髪を一つにまとめた姿は男なら誰でも振り返るような美しさだ。
「まあいつまでもお前が行方不明扱いのまんまだと何かと不便だろ、うまくいけばアキとしての戸籍を得られるかもしれない」
しかし、俺はこの麗人が元男だと知っている。元々の面影はないが癖や口調は彼のものだった。
「うー……まあ分かってるんだけどさ、信用してもらえるかな」
俺はなめていた飴を取り出して陽光にすかしてみせる。朱に染まった光が飴越しに見えた。
信用してもらえるかどうかについて、俺はあまり楽観的な予想はしていないが、それでも希望がある限りはそうすべきだと思っている。
何がどうなったとしても、家族という単位を失うことは辛いことであるに違いない。ならできる限りそのつながりを維持させようとするのは人として普通のことだろう。
「頑張れよ、無理だったら俺とかサカタも証言してやるから」
飴をくるくると回しながら言う。結果的には無断外泊させてしまった俺としては、可能な限りサポートを行うのが筋というものだろう。
「じゃあさ、ちょっと勇気分けてよ」
「勇気?」
そう聞き返したとき、ちょっと想像の範囲外な事が起きた。手に持った棒つき飴が姿を消したのだ。
「は?」
隣を見ると幸せそうな顔でそれを舐めるアキがいた。お前それ間接キスだぞ。
「うん、勇気もらった。やっぱり兄さんを感じると不安が吹き飛ぶね」
「……ったく、一体何がお前をそうさせたんだよ」
男でいた時は女が苦手なストイックな性格をしていたはずなんだが、こいつは女になってからいろいろと変わったような気がする。いい意味でも悪い意味でも。
「そりゃもちろんリョウ兄さんだよ、俺をこんなにした責任取ってもらうからな」
ニッコリと可憐に微笑むアキを見て、俺はそれ以上反論する気力がうせてしまった。こいつを「彼」と呼べる日はもう来そうにない、根拠はないが強くそう感じた。
「早く行こう、兄さん」
でもまあ本人は幸せそうだし、いいのかもしれないな。満面の笑みで俺を呼ぶ「彼女」を見て、俺はそう思った。
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おわり。ていうかティアサガとタグ被るのか……悪いことした。一応あとがきというか小噺。MF一次落ちした後友人たちに見せたらボロクソに言われてね、何度お蔵入りにさせようか迷ったけど一応書き上げた物だから見せることにした。この設定は色々と前後含めてやってたんだけどそこら辺も消化不良の原因かな。