No.22649

Maylily(後編)

陽樹海月さん

真っ白い鈴のようなその花が、何故だか輝いているように見えて――そっと、手を伸ばした。
すると白い花は、まるで初めからそこには無かったかのように――春の陽光に混ざり、光の一部となって――
そっと、消えてしまった。

なくしたものは、心と名前。

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2008-07-31 23:22:21 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:665   閲覧ユーザー数:634

 

 

『おーい!』

 

 花畑に行くと、もう彼女はそこにいた。この前会ったばかりなのに何故か打ち解けてしまった彼女に会うために、俺はまた花畑に向かっていた。

 花畑に着くと、彼女が何かを作っていた。花と花を絡ませて、何か不思議なものだった。

 

『何、作ってるの?』

『できるまでちょっと待ってて』

 

 工作用具なんて何もないのに、彼女が花と花を丁寧に絡ませていく。まるで魔法のように、次々と花は一本に繋がって――やがて、一つの輪になった。

 楽しそうに、歌いながら。彼女は出来上がったそれを、俺の頭の上に乗せる。

 

『花の冠だよ』

 

 これを花の冠と言うのか。名前は知っていたけど、実際に見るのは初めてだった。彼女は彼女の作った冠が俺の頭の上に乗っているのを見て、きゃっきゃとはしゃいだ。

 暫くして、彼女は俺に聞いた。

 

『じゃあ、今日は何をしようか?』

 

 色々悩んだけど、遊びなんてそんなに沢山知っているわけでもない。結局この前と同じ追いかけっこになった。今度は俺が鬼。もちろん、勝った方が負けた方の願いを聞くという約束付きで。

 今度こそ勝とうと心に決めて、俺は彼女を追いかける。でも彼女の方がやっぱり速くて、体力のない俺はなかなか捕まえることができなかった。

 結局一度も鬼が交代しないまま、日が落ちようとしていた。

 

『ねぇ、椿君!』

『何!』

 

 息を切らしながら、必死でそう返答する。やっぱり全然体力が違う。彼女は流石に長時間走り続けて息を切らしているものの、まだ話す体力があるようだ。

 

『この花畑、広いね!』

『そうだな!』

『このままずっと、遠くまで、行けたら、いいのに!』

 

 そう言う彼女はとても楽しそうだった。まるで、小さな自分達には広すぎるこの花畑が、世界中のどこまでも繋がっているような――そんな錯覚を覚えて、それが何故かとても嬉しかった。

 でも、今度は忘れてはいけない。これは追いかけっこで、自分は勝たないといけないからだ。作戦を変える事にして、俺は立ち止まる。

 

『どうしたの?』

『何でもないよ』

 

 実際全力疾走した時の速度はそんなに変わらないのだから、体力が多い分彼女の方が有利。もし捕まえられたとしても、俺はすぐに鬼になってしまうだろう。……だとしたら、こうやって追いかけて体力を消費するのは意味がない。

 俺が勝てる方法があるとしたら、日が落ちるのと同時に彼女を捕まえることだけだ、と俺は決心する。そのために呼吸を整えて、審判の時を待った。

 

『大丈夫?』

 

 彼女が心配して近付いてくるが、その度に俺は彼女を捕まえる威嚇をする。結局二人の距離は変わらないまま、日は少しずつ傾いていった。

 そろそろだ。日が完全に落ちる前に、悟られないように。俺は走る体勢になった。

 

『もう、疲れちゃったの?』

『いや――』

 

 俺は彼女に向かって、笑みを浮かべる。状況が分かってない彼女は首をかしげるばかりだったが、俺は突然に――走り出す。

 

『うわっ!』

 

 彼女も驚いて、すかさず走り出す。でもこの距離なら、本気で走れば捕まえられるかもしれない。体力があったって、女の子の足なのだから。

 作戦は成功したようで、少しずつ距離は近付いていく。後少し。後少しで捕まえられるのに。日が傾いていって、そして――

 

『おい! 待てよ! ……!!』

 

 名前を呼ばれて、彼女が振り返った。

 その瞬間に俺と激突して、二人で大の字になって倒れて。気が付いたら仰向けになっていた俺と彼女は、二人でお互いの状況を確認しあった後に大笑いした。

 そんな俺と彼女の笑い声が、少しずつフェードアウトしていく。

 

「おい! 高堂!」

 

 勝林の声で我に返る。暫くの間、固まっていたようだ。すみれ先輩と勝林はもう観覧車から降りていて、彼女はもうそこには居なかった。

 

「全く……大丈夫か? 全然動かないから心配したぞ」

「……そうだ」

 

 あの時、確かに俺は彼女の名前を呼んだ。どうしてそこだけが思い出せないのだろう。彼女は確かにあの時「二人で遠くまで行けたらいいのに」と心の底から思っていた。そしてその後で俺が初めて彼女の名前を呼んだのだった。

 

「おい、高堂?」

「高堂君、大丈夫?」

「……あれ?」

 

 その時、気付いた。どうして今、俺は「俺が彼女の名前を初めて呼んだ」事が分かったんだろう。記憶の前後はまだ欠けたままなのに――いや、そんな事より彼女の名前を思い出す事の方が先決だ。そこまで考えて、ようやく自分がもう記憶の中には居ない事を思い出した。

 

「高堂!」

「…………ああ、ごめん。ちょっと考え事してた」

「大丈夫か?」

「大丈夫。ごめんな、心配かけて」

 

 勝林はようやくまともに口を聞いた、と言わんばかりに大げさなため息をついた。

 

「心配させんなよな……」

「ごめん」

「また、何か思い出してたのか?」

「え?」

 

 勝林はこの前の花畑での出来事と被らせているのだろう。確かに、今は記憶が戻ってきたところだ。

 幸いなことにそこまで時間は経っている訳ではなさそうで、日は落ちていたけどまだ夕暮れ時だった。

 

「この前と同じ感じだったからさ」

「ああ。思い出したよ」

「そっか……」

 

 勝林は「なら、いい」と言って、ふらふらと歩いて行って近くのベンチに腰掛けた。俺とすみれ先輩も付いて行った。

 

「ところで、彼女は?」

「え?」

「スズランちゃんだよ」

 

 追いかけなかった事が少し後ろめたいが、俺は言った。

 

「急に泣き出して。どっかに行っちゃったよ」

「……そっか……」

 

 勝林は俺を攻める事はしなかった。必要な時以外に自分以外の誰かに働きかける事がほとんど全く無い俺だから、俺が何かを言ったせいではないのだと思ったのだろう。勝林は気持ちの切り替えだと言わんばかりに両手をパチン、と強く合わせた。

 

「よし! 今日は楽しかったけど、これで解散にしよう」

「……そうね。ちょっと後味悪いけど」

「ノンノン。楽しい思い出を台無しにしないためにも、今あったことは忘れようぜ」

 

 そう言っている勝林があまり忘れられていないようだったが、ここは勝林の気持ちを汲む事にする。俺は二人に別れを告げて、その場を後にした。

 だけど、最後に呼んだ彼女の名前が思い出せない。彼女は一体何者なんだろう。……どうしてここに居るのだろう。様々な疑問は全く消えないままに――俺は二人と別れた。

 

「……全く、椿も色々と厄介な事になってるな」

 

”――勝林さん”

 

「……あれ? スズラン……ちゃん?」

 

”こっちに、おいで”

 

「どこだよ! 君はどこにいるんだ?」

 

”あなたに頼みたい事があるの”

 

「……声が聞こえる方に向かえばいいのか?」

 

”そう。あなたも来たことのある場所”

 

「ここは――あの時の花畑、か?」

「あなたは、椿君の友達?」

「…………スズラン、ちゃん」

「ごめんなさい。私の名前、本当は鈴蘭じゃないの」

「……分かってる。君がその名前を口にするとき、いつもためらっていたからね」

「勝林さんに、聞きたいことがあるの」

「何?」

「あなたは、椿君の友達?」

「――そう、思ってる。あいつが心を開いてくれているかどうかは分からないけど」

「大丈夫。椿君は、そんなに器用な人間じゃないもの」

「……そうか、良かった」

「だから、もし私が椿君の傍に居られなくなったら、彼を支えてあげて」

「……どうして、居なくなってしまうんだ?」

「私はこの花畑に力を借りている、ただの心だから。椿君が全てを思い出したら、私は消えてしまう――そんな気がするの」

「それは、どういう……!? 君は……」

「私は、ずっと待ってた」

「何か、聞こえる。これは――これは、音楽……?」

「椿君を、ずっと待っていたから」

「それが……君が、ここにいる理由なのか!? だったら、どうして高堂は全てを忘れているんだ!」

「…………」

「おいっ!? スズランちゃん……」

 

 どうして、追いかけっこの中で呼んだ彼女の名前が思い出せないのか。家に帰っても晩飯も作らず、そればかり考えていた。まるですっぽりと穴が開いたかのように、記憶の中で呼んだ彼女の名前だけが出てこない。

 どうして、そこだけ思い出せないんだろう。あるいは、俺が一番忘れたかったことなのだろうか……忘れたかった? 俺はこの記憶を忘れたかったのか? それは一体、どういう意味なのだろう。

 ループする記憶の中で、ただ俺は彼女の名前を思い出そうとしていた。

 

「高堂ー! 開けろ! 高堂!」

 

 インターフォンも押さずに、外から勝林の声が聞こえる。一体何だろうと思った。こんな夜中に押しかけてきた事自体初めてだ。俺は考えるのをやめて立ち上がり、家のドアを開ける。

 するとそこには、両腕を後ろに回している勝林と――背負われている、彼女の姿があった。

 

「あ……」

 

 思わず反射的に声が出た。勝林は背中の彼女を俺に預けると、どこかに寝かせてやれ、と言った。俺は言われるままに彼女をお袋の部屋のベッドへと寝かせて、玄関に戻った。玄関で立ち話をする訳にいかないので、勝林を家の中に入れる。

 

「一体、何があったんだ?」

「いや、ちょっとな……」

 

 勝林は俺の目を見て何かを考えているようだった。なんとなく居心地が悪くなって、俺は勝林に「晩飯食べたか?」と質問した。勝林は食べていないようだったので、俺は二人分の晩飯を用意する。と言っても、インスタントのごく簡単に作れるものばかりだったが。

 

「……彼女、どうしたんだ?」

「倒れた。理由はわからん」

「……どこで? どこで見付けたんだよ」

「…………」

「黙ってるなんて、お前らしくないじゃないか?」

 

 勝林は押し黙って、ずっと何かを考えていた。あるいは何かよほどとんでもない出来事に遭遇して、何も言えないのか。倒れた彼女の事を考えれば、それは――

 

「……彼女、車にでもぶつかった?」

「えぇ? ……いや、違うよ」

 

 どうやら違ったらしい。勝林はそういう事じゃないと言って、また押し黙った。

 

「黙ってたら分からないだろ。説明してくれよ」

「……お前さ」

「何?」

「記憶、戻りそうか?」

 

 なにやら唐突にそんな事を言われて、更に困った。勝林は真面目な顔をして俺を見ている。俺の記憶が戻る事が、勝林にとって何か重要な事なのだろうか。

 

「……少しずつだけど。自分が忘れていた事を思い出している気がするよ」

「……そうか」

 

 長い沈黙の中で、勝林はずっと何かを考えていた。それ以上俺も勝林について聞くのはやめて、勝林の方から何か口をきいてくれるのを待っていた。

 

「俺に、何ができるかな」

「え?」

「いや、俺は何かできる事あるかな、って考えてたんだ」

「それは……俺の記憶のこと?」

「記憶が戻った後のことだよ」

 

 それは一体、どういう意味なんだろう。彼女が今倒れている事と関係があるのだろうか?

 

「彼女から、何か聞いたのか?」

「いや――何でも、ないんだ。ごめんな、変な感じで」

 

 勝林はそう言って話題を変えてしまったため、俺がそれ以上そのことについて聞くことはなかった。勝林と彼女の間で何があったのかは分からないけど、何かがあった事は確かだろう。勝林は「早く記憶が戻るといいな」と言って、早々に帰ってしまった。

 一体何だったんだろう、と思っていた矢先に彼女が起きてきた。

 

「あ、お前。大丈夫か?」

「うん。……勝林さんは?」

「今帰ったところだ」

「……そう」

「どうしたんだ?」

「ううん。ちょっと気が動転しただけだよ」

「……そうか」

「うん」

 

 そう答える彼女はどこか元気が無いように見えて、何があったんだろうと思わせる。食卓の向こうにあるソファーに静かに座って、彼女は俺の方を見た。

 

「ずっと、気になっていたんだけど」

 

 まっすぐに俺の目を見て、彼女は俺に言った。

 

「何?」

「どうして、椿君は自分の名前が嫌いなの?」

 

 彼女が聞いたのは、またその話だった。ある程度予測はついていたが、やっぱり、と思う。彼女は俺が自分の名前を嫌いなことを納得していない。それはあの学校での件からずっとだ。

 

「昔さ、公園に遊びに行ってたんだけど」

「うん」

「この名前のせいで、俺は公園で遊んでいた子供達の仲間に入れて貰えなくて。椿っていうのは、花の名前だから。花の名前は、女の子につける名前だからって。俺はずっと、からかわれていたんだ」

「うん」

 

 彼女がこの話を聞いてどう思うのか。それは俺には分からなかったが、今更昔のことをどうこう言っても話にならない。俺はこれくらいの話はできないといけないと思った。彼女の隣に座って、俺も彼女の目を見る。

 

「俺はずっと――自分の名前が嫌いで。この名前のせいで自分が苦しんでいるんだって、そう思ってさ。一度だけ、自分の名前を偽った事があるんだ。俺の名前は翼だって。高堂、翼だって」

「…………」

「皆子供だったから、それ以上何も言われることは無くなった。元からからかっていただけで、からかう要素が無くなっただけなんだ。彼らは俺を仲間にしてくれたけど、その日はずっと翼って呼ばれた」

「うん」

 

 彼女は俺の目を見たまま、何かを考えているようだった。昔の俺との事を思い出しているのか、それとも昔、既にこの話をしたことがあったのか。記憶が無い俺にはそんな事は分からなかったけれど、俺は続けた。

 

「なんだか、違和感があるんだよ。翼って呼ばれると、それは他人の事を呼ばれているような感じがして。考えてみればすぐ分かったのに、俺は高堂翼じゃなくて高堂椿なんだってことくらいは」

「うん」

「それに気付いた時、俺は泣いたんだ。どこか遠くの花畑でさ。どこだったかはもう覚えていないけど、君と追いかけっこをした花畑だったのかもしれない」

「そうだよ」

「別にその時の事をまだ悔やんでいる訳じゃないんだけど、それでもどこかおかしいんだ。今度は椿って呼ばれてもまるで自分の事じゃないみたいでさ。俺はあの時自分の名前を偽ったから。もう椿じゃないんだって、そう思っているのかもしれない」

 

 話の一部始終を語って、俺は彼女から目を逸らした。暫くの間沈黙があって、彼女はそれでも俺を見ているようだったけど――俺は立ち上がった。

 

「だから、なんとなく、だけど。椿って呼ばれたくないんだ。あの頃の出来事を引き摺っているのかもしれないけど、ただなんとなく」

「でも、それは違うよ。椿君」

 

 彼女も立ち上がったのだろう、声はすぐ近くから聞こえた。自分の事を語っていたから、彼女の存在をなんとなく感じていなかったけど、すぐ近くで声が聞こえてはっとする。その体制のまま、彼女は俺の首に手を回した。

 

「どうして、納得してくれないんだ? ずっとさ」

 

 俺はこの話を彼女にしたその時から、ずっと気になっていた事を彼女に聞いた。記憶の中の二人とは違って、身長が変わってしまった俺に背伸びをして、彼女は俺に囁いた。

 

「あのね、花には花言葉があるの。例えばスズランの花言葉は、『幸福が訪れる』みたいに」

 

 聞き覚えがあった。どこで聞いたのかは分からないけど、昔確かにこの話を彼女からして貰った気がした。その言葉を聞くと、どこか昔を思い出すようで――やがて、またメロディーが聞こえてきた。

 何度も聞いた事のあるメロディー。ずっと聞いていた歌。それは夕暮れの花畑で、追いかけっこを終えた後のことだ。

 

『ずるいよ、名前で呼ぶなんて』

 

 彼女は嬉しそうに、そしてどこか恥ずかしそうに俺にそう言った。少し拗ねているようだったけれど、嫌な顔はしていなかった。

 

『どうして名前で呼ぶとずるいんだ?』

『だって、名前で呼んでくれるの、はじめて』

 

 そういえば、そうだったかもしれない。初めて俺が勝った追いかけっこで――といっても二回目だったが――俺は彼女の名前を呼んだのだった。

 

『うれしいもん』

 

 そんな嬉しいんだか嫌なんだかよく分からないような反応を示して、彼女は俺を見た。

 

『でも、ルールはルールだもんね。椿君の願い、聞いてあげる』

 

 願いを叶える方も嬉しいのか、彼女ははにかんでいた。その微笑みを崩すかもしれなかったが、俺は一つ彼女に聞きたい事があった。

 

『あのさ、一つだけ教えて欲しいんだけど』

『うん。何?』

『……どうして、僕なんかに声をかけたの?』

『なんで?』

 

 なんでと言われても、返答に困るのだが。俺は続けた。

 

『なんで、僕なんかに』

『なんでって、寂しそうだったから』

『寂しそうだったから?』

『うん。寂しそうだったから』

 

 そう言って、彼女は明るい顔で笑った。そんな安直で良いのだろうか。何か決まった返事を期待していた訳ではなかったが、なんとなく肩透かしを喰らった気分だった。ひょっとしたら困っている人は助けたいとか、そんな高尚な言葉を期待していたのかもしれなかったけど、彼女が続けた言葉はもっとずっと重みのあるものだった。

 

『寂しいのは、悲しいことでしょ? でも、誰かが話しかけてあげれば寂しくはなくなるもの』

『え……』

 

 そんな事を考えた事は無かった。寂しいのは誰も居ないからで、声をかけてくれる人なんて居ないものだと思っていたのに。

 

『ねぇ、椿君は私の友達一号』

『え?……うん』

『私は、椿君の友達何号?』

『え……』

『どうして、寂しそうにしていたの?』

 

 あまり言いたくない、関わられたくなかった事に真っ直ぐ突っ込まれて、少したじろぐ。こんな事はできれば彼女には言いたくなかったのに。

 

『……友達一号』

『どうして、友達がいないの? 私みたいに、引っ越したりしていないのに』

 

 それは、一番最初に俺が彼女に対して思った事だった。彼女は俺とは違って、引っ越しをしているから友達が居ないのだと。そう思ったら、何だか彼女と俺では全然次元が違う気がして、嫌な気分だった。

 俺は半分泣きそうになりながら、でも彼女に話す事を決めた。彼女ならきっと、俺を嫌いにならないと。そう信じたから。

 

『いじめられていたから』

『……どうして?』

『椿は、花の名前だから。おまえは男じゃないって、みんなが言うんだ』

『……みんな?』

『みんな。友達なんかできないよ、僕は椿だから。みんな椿ちゃん、って僕のことをからかうんだ』

 

 彼女はしっかりと俺の目を見て俺の言葉を受け取った。暫くしてから、彼女は俺に聞いた。

 

『椿君は、自分の名前が嫌いなの?』

『嫌いだよ。もう嫌だよ、こんな名前。だから、僕の名前は違うって言った事もあったけど――嘘をつくのも、嫌だよ』

『嘘をついたの?』

『ついた。僕は翼だって。高堂翼だって言った』

 

 もうそんな話をする頃には大泣きしていて、まともに喋れていなかったけれど、彼女はそれでも俺の話を聞いていた。やがて慰めるように俺の頭を二、三度撫でると、彼女は言った。

 

『椿君が、自分の名前を好きになればいいんだよ。そうしたら、きっと皆からかわないよ』

『そんなことないよ。何も言わなくても言われるんだよ』

『椿君が気にするからだよ』

『嫌だよ! だって椿なんて、女の子につける名前なんだ! 僕は……』

『ねぇ、椿君のお父さんとお母さんは、どうして椿って名前をつけたのかなあ?』

『え……』

 

 そんな事は考えた事が無かった。自分に嫌がらせをするためだ、なんて卑屈な意見しか出てこなかったので、俺は何も言わなかった。

 

『私、どうして椿って名前をつけたのか分かるよ』

『……どうして?』

『だって、椿の花言葉はね――誇り、だから。きっと、それってとても良い名前なの。お母さんもお父さんも、そう思ってつけた名前だと思うの』

 

 彼女は、その言葉をとても大切そうに言った。まさかそんな意味があるなんて思わなかったけど、その一言で俺の頭の中は真っ白になってしまった。

 

『え……』

『私、椿って名前好きだよ。かっこいいし、男の子らしいと思うよ』

『…………』

『だから、胸を張っていいと思うよ』

 

 そんな、とんでもない事を言われて驚いた。自分が今まで悩んでいた事はなんだかよく分からなくなってしまった。他でもない俺自身が自分の名前を嫌がっていたから、みんながからかってきたと言うのだろうか。……あったかもしれない。自分の名前を隠そうとしていたし、嫌がっていた。

 

『椿君は、自分の名前を好きになれないかなあ?』

『……』

『なれない、かな』

 

 彼女にそう聞かれて、まだ全く頭の整理がついていなかったけれど。俺は『うん』と一言頷いた。少なくとも、彼女の話には説得力があった。

 すると彼女は嬉しそうに笑って、いつものように顔をふやけさせた。この広い花畑からスズランの花を一本摘んできて、俺の手に握らせた。

 

『明日も明後日も、ずっとここで遊ぼうね!』

『……うん』

 

 同時に、一瞬の事だったけど――彼女は俺のおでこに軽くキスをして、ぺろっと舌を出して走って行ってしまった。

 全く頭の整理がつかないまま、俺は放心していたけど――真っ赤になった彼女の顔と、すごく嬉しそうな笑顔が印象的だった。

 

「……そうだ、確かにあった。そんな事が」

 

 彼女は俺に、俺の名前の素晴らしさを伝えてくれた。だから俺は自分の名前を好きになって、これで解決したはずだったのに。

 どうして、忘れていたのだろう。

 

「……あれ?」

 

 気が付くと、そこに彼女は居なかった。既に朝で、俺は自分のベッドに寝ていた。ついさっきまで彼女と話していたはずなのに、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。

 台所に行っても、朝御飯を作る彼女の姿は見当たらない。家中探したけれど、彼女はどこにもいなかった。

 

「……あれ」

 

 一体どこに行ってしまったのだろう。俺が記憶を思い出している間に、彼女は影も形も無く、どこかに消えてしまった。

 嫌な予感がしたが、その実態が掴めないでいた。まるで彼女に出会ったその日の朝、どこからともなく現れたように。なんとなくこうやって消えてしまうような、そんな予感がしていた。そんな事を考えていたら、急に彼女に出会った日の朝に会話した事が頭の中に蘇ってきた。

 

『うん、それなんだけどね。何だか花畑が力を貸してくれたみたいなの。気が付いたらここに居て』

『ほら、昨日。会ったでしょ? 花畑で』

『まさか、こんなに時間が経ってから見付かるとは思ってなかったんだけどね。私はずっと椿君に見つけて貰える時を待ってたから、これも巡り合わせかな』

 

 それを思い出したとき、理由は分からないけど何かが解決した気がした。

 

「……そうだ」

 

 確かに彼女はあの時、花畑が力を貸してくれたと言った。蘇っていく記憶の中で彼女がずっと俺と居たなら、俺は今こうしていない筈だった。何かがあった事は間違いなかったが、何が起きたのかはまだ分からないままだった。

 でももし、彼女が花畑に力を貸してもらってここに現れたのだとしたら。彼女は一体、何をきっかけに俺の傍から居なくなるのだろう。

 

 結局、勝林がいつも通りに迎えに来るまで俺はそのままでいた。

 学校に行っても何も解決することは無くて。でも、学校に着いたときに手紙が机の上に置いてあった。それはすみれ先輩からのもので、放課後になったら屋上に来て下さいと、簡潔に一言書いてあった。

 

「あれ? 高堂、どこ行くんだ?」

「すみれ先輩が何か用事みたいだから、先に帰ってて」

 

 勝林は不思議そうな顔をしていたが、「わかった」と言うとそのまま歩いていった。屋上に指定通りに向かうと、そこにすみれ先輩はいた。

 

「先輩? 何の用ですか」

「ちょっとね。あなたに聞きたい事があって」

 

 すみれ先輩は苦笑いをしながら、俺に向かってそう言った。風が少し吹いている屋上で、その長い髪をなびかせていた。

 

「高堂君は、あの子とどこで会ったの?」

 

 またその話か、と一瞬思ったが、すみれ先輩の質問は勝林がただ疑問に思った事と多少違う意味を持っている気がした。すみれ先輩の瞳はどこか寂しそうで、その質問には何かの意思があるように思えたからだ。

 

「……気が付いたら、家に居たんです」

「気が付いたらって?」

「気が付いたら。そうとしか言いようがなくて……訳が分からないと思いますけど、すいません」

 

 暫くの間、すみれ先輩は俺の言った事が分かっていないようだった。無理もないだろう、彼女がどうして気が付いたら家に居たかなんて、俺自身も分からないのだから。

 すみれ先輩は俺の言った事が嘘だと疑ったりはしなかったが、俺の言った事が嘘のように聞こえない事が、逆に信じられないでいるようだった。

 

「……世の中、不思議なことばかりだわ」

 

 すみれ先輩はそう言って、屋上から遠くを見つめた。一体どうしてそんな事を聞いたのか、俺には分からなかったけど。暫くすると、とんでもない言葉が返ってきた。

 

「前の学校でね。……私、彼女に会っていると思うのよ。信じられないと思うけど」

「……え」

 

 その言葉を聞いたとき、俺は彼女が記憶喪失だとか、何らかの理由で素性を隠しているとは思わなかった。今朝思い出した事がまた蘇ってきて、そんな事は考えられなかった。

 

『何だか花畑が力を貸してくれたみたいなの。気が付いたらここに居て』

 

 突然消えてしまったり、突然現れたり。彼女と居ると何故か昔のことを思い出すのは、彼女がただの人間ではないからだ、と無意識のうちに思っていたのかもしれない。

 

「会った時におかしいな、とは思った。私の知ってるあの子はあんなに明るくなかったし、あんなに笑わなかった。一度も笑ったところを見た事が無いくらいだけど……でも、姿形も声も、そっくりそのままなのよ」

 

 俺の知っている彼女は、すみれ先輩の知っている彼女とは別人、という意味なのだろうか。同じ人物で、何かあって俺のところに来ているという意味なのだろうか。

 

「でも、同一人物だったら、何で俺の家に居たんだろう」

「そう。でも、私はあの子に確かに会ったのよ」

「……彼女が実は多重人格だった、なんて言わないですよね?」

「それは無いと思う。だって、私が転校するその日まで、彼女は私の学校に居たんだから。あの子は私の友達だったの。こっちに来るなんて聞いてないし、向こうを出るその時まで一緒に居たのよ?」

 

 すみれ先輩が何を言いたいのか、俺には分からなかった。てっきり、彼女は多重人格だったり、記憶喪失じゃないのか――そんな事を吹っかけられるのかと思ったが、すみれ先輩は彼女の事を友達だったと言う。

 

「私のよく知っている、笑わないあの子にそっくりだわ。でも、私の知っている彼女だったら――あんな風には笑わない。いえ、笑えないでしょうね」

「……何が言いたいんですか」

 

 今度は、はっきりとそう言った。すみれ先輩はそれでも遠くを見つめたまま。少しずつその瞳が流れていって、やがて俺を見た。

 

「つまり、私が聞きたいのはね」

「はい」

「あなた、一体どんな魔法を使ったの?」

 

 そこまで話されて、ようやく分かった。すみれ先輩自身もどうして彼女がここに居るのか分からないでいるということが。姿形だけがそっくりな、中身は全く違う二人の彼女に出会って、すみれ先輩も混乱しているのだ。

 

「……俺にも、分からないです」

「……あの子の名前、本当は鈴蘭じゃないわよね?」

 

 ここまで話されて、本当の事を話さない訳にはいかなかった。

 

「はい。でも名前なんて知らないですよ。彼女自身も分からないんですから」

「高堂君は、あの子の友達?」

「――多分。記憶はまだ完全に戻っていないから、分からないけど」

「じゃあ、私の知ってる名前を聞いたら思い出すかもしれない?」

「……分からない」

「じゃあ、私の知ってるあの子の名前を言うね。あの子の名前は――」

「ちょっと待て!」

 

 その時、激しい音がした。驚いて振り返ると、屋上のドアが強く開かれた音だった。屋上のドアを蹴飛ばして開けた本人は勝林で、走って戻ってきたのか、その息はあがっていた。

 

「なぁ高堂、今日は一度もあの変わった帽子の彼女に会ってないけど。彼女はどうしたんだ?」

 

 何だよ急に、と思ったが勝林の話し方は一刻を争うようだった。俺は時間が無いのだと判断した。

 

「朝起きたらもう居なくて。それからずっと彼女には会ってないけど」

「彼女を探すんだ、お前の記憶が戻る前に。できるだけ彼女と一緒にいないとダメだ」

「……どういう意味だよ」

「彼女の願いは、お前と一緒に居ることじゃないか!」

 

 勝林に怒鳴られて、俺はよく分からなかったけど屋上を飛び出した。勝林が何かを知っているのは明らかだったけれど、俺にそれを伝えるのはいけない事なのだろうか。なんとなく聞いてはいけないと、そう察したから、言われるままに俺は彼女を探しに出た。

 

「……ごめん先輩、先輩を遊園地に連れて行ったのは間違いだったかもしれない」

「一体どうしたの? そんなに慌てて」

「今はまだ、高堂に彼女の名前を伝えちゃダメなんだ。高堂が自分自身で思い出すことを、彼女は望んでる」

「私と高堂君の話を聞いていたの?」

「あぁ」

「……あの子は一体、誰なの?」

「多分、先輩の知ってる人。でも、多分先輩の知らない彼女だ。彼女は――」

「――本当に世の中、何が起こるか分からないものね」

「信じて貰えなくても良い、ただ彼女のことは椿には教えないで欲しい」

「……分かったわ。でも」

「でも?」

「高堂君が全てを思い出したら、あの子はどうなってしまうの?」

 

 自分の名前には誇りという大切な意味があって、とても素晴らしいものだった。あの日の追いかけっこが終わって、彼女に貰ったスズランの花を見つめながら、のんびりと俺はそんな事を考えていた。

 あの日からまた公園に行ってみたが、ぱったりと苛められる事はなくなった。名前のことをからかわれる事も無くなったし、自分自身が嫌っていたから周りがからかうのだ、という事も知った。

 

『スズランの花言葉は、幸福が訪れる』

 

 いつだったか、彼女がそう口にした言葉。俺はその言葉を繰り返していた。もしこのスズランの花がそういう花言葉なら、彼女は俺の心に本当に幸福を運んできてくれたのかもしれない、と思った。

 一番最初に彼女と出会った時に貰った花と、今持っている花を絡ませている。彼女がやったように、見よう見まねで花をいじっていたら――やがてそれは繋がって、一本になった。

 

『……もしもこれが完成したら』

 

 彼女にプレゼントしてみようか。彼女が俺にやったみたいに。彼女には内緒で、花畑から一本ずつ持ち帰って。もし俺が花の冠を作って彼女の前に現れたら、彼女は喜ぶだろうか。そう思った。

 だから、それから彼女と出会う度に俺はスズランの花を一本ずつ持ち帰って、花の冠を作っていった。

 

「それから、彼女と俺はあの花畑で暫くの間、遊んでいた……」

 

 勝林に言われて慌てて飛び出したはいいものの、どこを探したら良いのか分からない。でも当ても無く彼女を探していたら、また記憶が蘇ってきた。少しずつだけど、彼女と遊んだ記憶が繋がってきた。

 花の冠を作って、俺はきっと彼女にプレゼントしようと、そう思っていた。

 

「でも、贈れなかった」

 

 直感的にそう口にしていた。そんなに長く遊んでいるはずがない、と思った。彼女はずっと俺の傍に居た訳じゃない。少なくとも、俺は彼女と居た事を忘れていた。こんなに大切なことをどうして忘れていたのか疑問だけど――でも、今彼女が俺の傍に居ないということは、きっと記憶の内のどこかで離れた筈だった。

 

「……花畑に、行ってみよう」

 

 きっとそこに居る。記憶を思い出した俺は、迷わず花畑に向かった。記憶を思い出す度に流れる、あの優しいメロディーを思い出したからだ。音楽は俺を導いて、やがて花畑に辿り付く事を俺は知っていた。

 

「そういえば、彼女が歌っていたな」

 

 今更のことだったが、そう気付いた。俺の家で彼女と出会った朝、彼女が口ずさんでいたのはこのメロディーだった。歌詞まではよく聞き取れなかったが、そのメロディーは懐かしい。きっと昔彼女が歌っていたことがあるのだろう。

 そして――花畑に着いた時、そこに彼女はいた。花の冠をあの時と同じように作りながら。昔のことを思い出しているのか、その笑顔は優しそうで、そして、とても悲しそうだった。

 

「花の冠だよ」

 

 そう言って、彼女は俺の頭の上に今まで作っていた、花の冠をのせる。俺は彼女に微笑んで、言った。

 

「前にもこんなことがあった」

「思い出したの?」

 

 彼女は口に出してそう聞いていたが、俺の答えは分かっているようだった。俺はもう一度彼女に微笑んで、俺の頭にのっていた、その花の冠を手に取った。

 

「思い出したよ。多分、ほとんどのことは」

「うん」

「どうして俺が自分の名前を嫌いだったのか、今では分からないくらいだ」

 

 本当に分からない。幸せな日々はどうして今この場にどこにもないのか、不思議でならなかった。あの時、俺は確かに救われた筈なのに。

 

「明日はここで、椿君と追いかけっこがしたいな」

 

 彼女は俺にそう言った。それは、昔の事を思い出してだろうか。彼女は俺に向かって歩いて来て、やがて抱き締めるように俺に両手を伸ばした――だけど、その手は俺を抱き締めることはなかった。

 一瞬のことでよく分からなかったけど、その瞬間、確かに俺と彼女は完全に重なった。まるで透けるように彼女が俺と重なったとき、また昔の記憶が流れ込んできた。

 

『あ、椿君!』

 

 何度か彼女と遊ぶ日が続き、その日もいつも通りの追いかけっこのはずだった。だが彼女の様子がどことなくおかしい。俺が来るとどこか焦っているようで、落ち着きが無かった。その表情は暗く、頼りなかった。

 

『……どうしたの?』

 

 俺に言いたい事があるかのように、こっちの様子をチラチラと伺っている。一体彼女に何があったのかは分からないが、普通の様子ではなかった。何かを言いたいようではあるのだが、どうも言い辛いことのように思える。

 

『……なんでもないよ』

 

 どう考えても何でもないことは無いと思うのだが、彼女がそう言ったので俺はそれ以上聞くことが出来ずにいた。やがて彼女は決心したように顔を上げて、俺に向かって笑った。

 

『追いかけっこしよう』

 

 それから、いつも通り追いかけっこが始まった。彼女はいつも以上に本気で走っているのか、全く俺が追いつく事は出来なかった。彼女が何かを抱えているのは間違いがないようで、俺もどこか本調子で走ることが出来なかった。

 あっという間に日は沈み、一度も鬼は変わる事はなかった。

 

『じゃあ、願いを言ってくれよ』

 

 最近の追いかけっこでは、お願いはもうオマケみたいなものになっていた。向こうの端まで走れとか、駄菓子屋でお菓子を買うだとか――最初のお願いのような大切な意味はあまりなくなっていた。だけど、彼女は初めから勝とうと思っていたようで――俺がそれを聞くと、すぐに彼女は口を開いた。

 

『お願いの前に一つだけ、話を聞いて欲しいの』

 

 そう言う彼女は追いかけっこの間に勢いがついたのか、頼りなかった顔とは打って変わって真剣な顔になっていた。

 

『いいよ』

『……あのね』

『うん』

『……もうすぐ、この街から居なくなっちゃうの。私』

 

 その言葉はとても重みがあるものだった。太陽が沈んで、暗くなった周りに風が通り過ぎるまで、俺は彼女が言った事の意味が分からなかった。

 この街から居なくなる、と彼女は言った。

 

『お父さんのお仕事の場所が変わったから。私、また行かないといけない』

 

 彼女も辛いようで、少しずつ言葉は小さくなっていった。俺はどうしていいのか分からず、彼女に聞いた。

 

『……いつ?』

『明日。明日の夜、お日様が沈んだら。私はお父さんの車に乗って、別の街に行くの』

『…………』

『だから、椿君と遊べるのも明日が最後になっちゃうの』

 

 出会ってから、そこまで長い時間は経っていなかったけど。この花畑で、何度か出会って追いかけっこをしただけの彼女だったけど、俺を救ってくれた彼女は俺の中でとても大きな存在になっていた。

 

『ごめんなさい』

『……謝る事じゃないよ』

『でも、私は椿君と――もっと、遊びたかった』

『……うん』

『遊びたかったよ』

 

 耐え切れなくなった彼女が震えだした。俺はなんと声をかけたらいいのか分からず、ただ呆然としていた。俺自身も少なからずショックだった。彼女のように涙こそ流さなかったが、一体どうしていいのか分からなかった。

 

『せっかく、はじめて友達、できたのにな』

『……』

『遠い所に行くって言ってたから、もう、会えないのかな』

『場所は? もし場所が分かるなら、遊びに行くよ』

『でも、向こうで居る時間は長くないかもしれないの。場所はこれからすぐ変わっていくだろうって言ってた』

 

 その時、彼女が俺の住所を知っていたら、手紙くらいのやり取りはできただろうか。当時の幼い俺にはそんな事は思い付かなかったし、何より明日来るという彼女との突然の別れに、頭が真っ白になっていた。

 

『……だから』

 

 彼女は涙を拭いて、元の穏やかな笑顔に戻った。完全には戻れていないようで、半泣きだったけど。彼女は俺に向かって、確かに微笑んだ。

 

『だから、明日またここで――この花畑で、私と追いかけっこをしてください』

『…………』

『私の願い、聞いてくれる?』

 

 そんな、彼女から俺へのささやかな願い。俺はただ頷く事しかできなかった。彼女は一言俺に『ありがとう』と言うと、振り返って一目散に駆け出していった。呆然と俺はその場に立ち尽くした。

 多分必死で涙をこらえていたんだろうな、と思う。俺は真っ白になってしまった頭のせいで何も考える事ができないでいたけど、家に帰って彼女が去ってしまうという現実をかみ締めた時、俺も涙を流した。

 

「…………」

 

 その記憶を思い出したとき、もう日は落ちていた。記憶を思い出す前、俺と重なったはずの彼女はそこには居なかった。だけど、ここまで来て俺は彼女の存在にほんの少し、答えが見付かったような気がした。

 記憶の中で「明日またここで」追いかけっこをした俺達。きっとそこで、何かが起こったのだ。……あるいは、俺が何かをしたんだと思う。この記憶を俺が忘れていた原因に近付いているのか、記憶を思い出す間隔は少しずつ短くなっていたけれど、思い出す記憶も同時に少なくなっていた。

 

「……あるいは、彼女が俺に何かを伝えようとしているのか」

 

 彼女はただの人間じゃない。あるいは、この花畑そのものなのかもしれないと、俺は思った。ここに来ると不思議な気持ちになるのは、あるいはメロディーが流れてくるのは、彼女から俺へのメッセージなのかもしれないと、俺は気付き始めていた。

 やがて、記憶を思い出した後もまだ流れているメロディーに気が付いた。

 

「……お前は俺に、何を思い出させたいんだ」

 

 誰に対する訳でもなく、俺はそう呟いた。彼女がここに居る訳、俺が記憶を忘れている理由。きっとその答えは、記憶の中の最後の追いかけっこにある筈だと思った。

 メロディーに導かれるままに歩いていくと、そのメロディーは俺の家まで俺を運んで――そして、俺の部屋までついてきた。

 それは、引き出しだった。俺はその引き出しを見て、彼女が現れた日、俺に言った言葉を思い出した。

 

『そういえば、椿君の部屋にね、引き出しがあるでしょ?』

『え? ……うん』

『あの引き出し、中に何が入ってるのかすごく気になって。何だか嫌な感じがしたから……でも、開かないんだね』

 

 その会話を思い出したとき、彼女はこの引き出しの中に何があるかを知っているんだ、と思った。俺は覚悟を決めて、その引き出しを無理矢理こじ開けた。

 そこに入っていたのは、包みだった。どこか不器用で、綺麗とは言えない包装をされたプレゼント。開けてみようかと思ったけど、そのプレゼントを見た時に俺はまた記憶を思い出した。

 

『明日、これが完成する』

 

 一人で俺の部屋で、俺はそう呟いた。それは花の冠。彼女と出会ったときから一本ずつ持ち帰っていたスズランの花も、段々と花の冠を作れるまでの長さになっていた。

 部屋で泣くだけ泣いた後、俺は彼女の事を考えていた。突然最後の約束を告げた彼女に、俺は一体何ができるだろうか。その自分に対する問いかけは、すぐに答えが返ってきた。

 彼女にプレゼントをして、俺のことを覚えていてもらおう。

 そうすればきっといつか、彼女はこの街に帰ってくるかもしれない。帰って来なくても、会いに行けばいい。彼女は俺の事を覚えていてくれるのだから。それが俺の答えだった。

 

『きっと、伝えるんだ』

 

 彼女と出会ってから今まで、彼女と出会う度に一本ずつ絡ませて作っていった花の冠。次に出会う時には、きっと完成する。最後の花を繋げることで、きっと。

 そして、彼女に好きだと告げるのだと。

 俺は決心していた。明日、彼女と別れるその時に、俺はこれを渡すのだと。綺麗な包装紙を母親から貰って、不器用な指で必死に未完成の、花の冠を包んだ。

 

「……これが、彼女へのプレゼントだった」

 

 これは彼女に渡すべきものだと気付き、俺は開けるのをやめた。中に何が入っているのかを思い出したから。

 

『明日は、椿君と鬼ごっこがしたいな』

 

 俺に重なって彼女が消える前に、彼女は確かにそう言った。明日、記憶の中での明日と同じように、俺は彼女と追いかけっこをするのだ。それはきっと、俺と別れたその日をやり直したいという、彼女の最後の願いなんじゃないだろうか。

 

「……待ってろよ」

 

 俺はきっと、彼女との記憶を全て思い出す。そして必ず、彼女が俺に伝えようとしている何かを知る。そう、俺は決心した。

 次の日の放課後、チャイムが鳴るとすぐに勝林が俺の机に来た。隣にはすみれ先輩もいた。勝林もすみれ先輩も、彼女の事が気になるのだろう。勝林は俺の顔を見て、すぐに聞いてきた。

 

「……彼女は?」

「家には居ないよ。昨日花畑で会った。今日も会う」

「……そうか」

 

 勝林は何かを考えているようだったが、口には出さなかった。窓から外をただ見つめるだけで、すみれ先輩もそんな勝林と俺の会話を聞いて、また何かを考えているようだった。俺は聞いた。

 

「どうして勝林は、そんなに彼女のことを気にかけるんだ?」

 

 どうしても気になっていた。勝林が一体、彼女の何を知っているのか、俺は知らなかったから。すると勝林は少し困ったような顔をして、俺に言った。

 

「知ってるから。彼女がどうしたいのか、彼女が誰なのか。でも、高堂には教えられない。彼女はそれを望んでいないから、さ」

 

 それを聞いて、俺は納得した。勝林が俺とすみれ先輩の話に割って入ったのは、他の誰かが彼女のことを俺に教えてはいけないから。彼女自身は俺が自分自身の力で記憶を全て思い出す事を望んでいるからだ。

 

「……彼女に会ったのか」

「この前、遊園地に行った帰りに会った」

「そうか……じゃあ、彼女が一体何者なのかも知ってるのか?」

 

 すると勝林はまた困った顔になった。

 

「分かる訳じゃない。……でも、予想は当たっているんじゃないかと思うよ」

「……あのさ」

 

 勝林が彼女の何かを知っている。それだけでもう、俺は勝林に胸の内を明かしたくて仕方が無かった。自分の頭の中に描いている、「彼女がただの人間ではない」という理屈では考えられない結果を、どうにかして勝林に確かめたかった。例え勝林が何も教えてくれなかったとしても。

 

「変な事を言うかもしれないけど。聞いてくれるか? すみれ先輩も」

 

 すみれ先輩は話を聞いているだけのようだったが、俺に言われて慌てて頷いた。

 

「……なんとなく、なんだけど」

「ああ」

 

 勝林が後押しをしてくれて、俺はその言葉を口にした。

 

「なんとなくだけど、彼女はもうすぐ消えてしまうんじゃないかって」

 

 記憶の中の自分と現実の自分では、決定的に違う部分。もしも彼女との別れがうまくいっていたら、俺は彼女のことを忘れていない筈だった。

 

「どうして俺が忘れているのかは分からないけど、俺が彼女の事を思い出したら――彼女は消えてしまうんじゃないかって。うまく言えないけど、そう思うんだ」

 

 自分でも何を言っているのかよく分からなかったけど、勝林とすみれ先輩は驚いたように俺の顔を見て、納得したようだった。勝林は言った。

 

「彼女が何を願っているのか、もう分かってるんだろ?」

「……多分」

「彼女の願いを叶えて来いよ。それから、思い出して来るんだ。全部さ」

 

 勝林はそう言って、ごまかすように俺の背中を叩いた。

 

「もし私の知ってるあの子に会いたかったら、場所はいつでも教えてあげるから」

 

 すみれ先輩もそう言って、俺に笑った。

 

「……ありがとう。それじゃ俺、行くから」

「あ、高堂さ」

「何?」

「お前、最近『つまんね』って言わなくなったよな」

 

 そんな事を言う勝林に笑って、俺は二人に別れを告げて、教室を出る。彼女に会うために。

 

「……なんだか、とても必死ね」

「他人事?」

「他人事だもの。……でも、転校したばかりだけど。良い友達ができたわ」

「俺も、高堂のこともっと知りたくなったよ」

 

 メロディーに誘われて、俺は花畑へと急いだ。ずっと彼女は待ってる。俺を見付けたって言っていたけど、俺が全てを忘れていたから。彼女はまだ、あの花畑で俺のことを待ち続けている。

 花畑に到着すると、彼女は居た。俺の姿を見付けると、走って来た。

 

「椿君」

「ああ。少し遅れたけど、ごめんな」

「ううん。全然待ってないよ」

 

 彼女は首を振った。

 

「それじゃあ、今日も遊ぼう!」

 

 彼女が「今日も」と言ったのは、昔の記憶をやり直すための言い訳だったのだろうか。俺は記憶の中以外で彼女と追いかけっこをした事は無かった。

 

「昔と同じルールだよ」

「日が落ちるまで追いかけっこをして、負けた方が、勝った方の願いを叶える?」

「そう! 私、負けないからね」

 

 嬉しそうにはしゃいで、彼女は追いかけっこを始めた。俺が鬼。

 

「昔みたいに楽に勝てると思うなよな!」

 

 そう言った俺もまた、笑っていた。まるで遠い昔を思い出すかのように。蘇った記憶の中で、何度も追いかけっこをしたことを思い出すかのように、俺は彼女を追いかけた。

 

「椿君、遅いんだもん。負けないよー」

 

 そして、追いかけっこが始まった。彼女も分かっていただろう。昔と違って、今では彼女と俺の体格が全然違う事も。体力だって、幼いあの頃とは違う事を。でも俺は彼女に合わせるように、彼女との距離を繋いだ。この追いかけっこを楽しみたかったからだ。

 

「へへ、ここまでおいでー」

「待てよっ! ちょっとは手加減しろって!」

 

 そうだ。前にもこうして、追いかけっこをした。俺は彼女と何度も追いかけっこをして――とはいっても数えられるくらいの数だったが――そして、この時間がとても好きだった。

 周りの景色がめまぐるしく変わっていく花畑。通り過ぎる風や、草の匂い。春風に舞う彼女の髪と、変わらない笑顔を追いかけ続けた。

 

「ねえ、椿君!」

「なんだ?」

「どうしてそんなに本気で、私を追いかけるの?」

 

 直感的に、これは昔の会話の繰り返しだと思った。彼女は俺に、最後の追いかけっこの記憶を思い出させようとしているのだ。俺はそれが分かったから、記憶を探るように――何も考えずに答えた。

 

「伝えたい事があるから!」

「何、それ!」

「もし俺が勝ったら、教えてやるよ!」

 

 日没まであまり時間は無かった。俺は少しずつ、彼女との追いかけっこを昔と重ね合わせて見るようになっていた。

 自分には伝えたい事があったはず。そして、プレゼントも用意してある。

 彼女との距離がだんだんと近付いていって、彼女に手を伸ばして、やがて――幼い頃の花畑と、完全に混ざり合った。

 

『今日は僕が勝つからな』

『ううん、私が勝つの。勝たないといけないんだから』

 

 最後の遊びの約束が守られた。彼女のささやかな願いは、確かに俺自身の手で叶えられた。俺は用意してあった包みが鞄の中にあることを確認して、言った。

 

『それじゃあ、今日は僕が鬼の番だな』

『うん。ルールはいつもと同じだよ。それじゃあ、スタート!』

 

 彼女は本気で走って、遅れて俺も本気で彼女を追いかけた。二人とも笑っていて、何も考えずに追いかけっこを本気で楽しんでいた。

 もうこれが最後だと感じないために。ただ、通り過ぎる風を全身に受けて。俺達は笑っていた。

 

『ねえ、椿君!』

 

 相変わらず彼女はとても速くて、幼い俺の足では全く追いつけなかったけど。それでも俺は必死で彼女を追いかけた。彼女の問いかけにも、すぐには反応できなかったくらいに。

 

『なんだ?』

『どうしてそんなに本気で、私を追いかけるの?』

 

 彼女は少し俺の方を振り返って、そう聞いた。彼女は笑っていたが、質問は本当に聞きたい事だったみたいだ。俺を一瞬だけ見た彼女の目は本気だった。

 

『伝えたいことが、あるから!』

『何、それ!』

『もし俺が勝ったら、教えてやるよ!』

 

 彼女はもう俺の方を見ないで、走る事に集中しているようだったけど。少しその頬が朱に染まった気がした。

 二人はその小さい身体で、精一杯追いかけっこをしていたけど。やがて日没が近付いても、二人の距離はそのままだった。

 やっぱり彼女はとても速くて、俺の足では追いつけそうに無かった。何度か追いかけっこをしたけど、そのどれより彼女は速かった。彼女にも、勝たないといけない理由があったのだろうか。

 

『……ちくしょう』

 

 それでも、俺は勝たないといけなかった。プレゼントをきっと渡すんだと、そう思っていた。でも唐突に、ある疑問が俺の中に現れた。追いかけっこはとても楽しくて、どうしてこれが今日で終わりにならないといけないんだ、なんて。そんな事を考えていた。

 もしもこの追いかけっこが終わってしまったら、俺は彼女にプレゼントを渡して、その後どうするんだろう。もう二度と会えないかもしれないのに?

 気持ちと身体が別々に動いて、俺は手を伸ばして、彼女との距離を詰める。ふと、彼女の足が少し遅くなった隙を狙って――俺は、日没と同時に彼女にタッチした。

 俺はその瞬間にそのまま大の字に倒れて、肩で息をしていた。

 

『……私が、負けちゃったね』

 

 そう言った彼女は、嬉しいような悲しいような寂しいような、そんな複雑な表情をしていた。俺もきっと、複雑な表情をしていたのだろう。

 

『私も伝えたい事があったけど、椿君の勝ちだから』

 

 彼女は俺に手を伸ばした。その手を握って、俺は立ち上がった。彼女は悲しそうな顔をしていたけど、笑っていた。

 

『……渡したいものがあるんだ』

『うん!』

 

 俺は自分の鞄が置いてあった場所に戻って、鞄を掴んで彼女の所に帰ってくる。俺は鞄を開けようとして――そして、手が止まった。

 

『……どうしたの?』

『いや――これで終わりなのかなって、思っちゃって』

 

 自分で口にしてしまったら、本当にそれを嫌がっている自分に気付いた。もう追いかけっこは終わり? 彼女はこの街には戻ってこないのか?

 そう思ったら、鞄を開けなくなった。鞄のチャックがまるで鉄のように堅くて、それ以上動かせずにいた。

 

『……椿君』

 

 心配そうに彼女が俺を見詰める。気が付くと俺は汗だくで、プレゼントを渡したい自分と渡したくない自分が両方居る事に気付いた。時間は待ってくれないと分かっていたのに、俺はどうしても鞄の中を開けなかった。

 

『もうすぐお父さん、来ちゃう』

 

 彼女は俺の言葉を待っていて、それくらいは俺も分かっていた。でもどうしてもその鞄が開けなくて、たった一言『好きだから、また絶対に会いに行く』と伝えるだけだったのに、その一言が言い出せなかった。たった30cmの鞄のチャックが開けられなかった。

 

『……椿君』

『ごめん。……僕、終わりにしたくないよ。別の街に行っちゃうなんて、嫌だよ……』

 

 たったの30cmが開けなくて、代わりに幼い口から出たのは、現実を拒絶する言葉だった。彼女の笑顔が消えた。

 

『……それが、椿君の願い?』

 

 そう聞かれて、俺ははっとした。言いたかったのは、伝えたかったのは、そんな言葉じゃなかった筈なのに。でも彼女はそれを俺の願いだと受け取ったみたいで、今までで一番悲しそうな顔をした。分かっていたのに。別れずに居る事が無理だということくらい、彼女が一番よく分かっているのに。

 突然、彼女が急に笑い出した。

 

『あはは、あはははっ』

 

 突然の事でどうして彼女が笑っているのか、全く理解ができなかったけど。それは彼女が場をごまかすためだということに気付いた。眼が笑っていなかった。とても寂しそうな眼で、彼女は笑っていた。

 

『ごめんね、やっぱり今の勝負、なし!』

『……え?』

『手を抜くなんて反則だよね。だからこの追いかけっこは、無かったことにするの』

 

 ちょっと待て。そんな話、聞いていない。でも「自分が手を抜いた」と自ら口にした彼女によって、この追いかけっこは無かったことになった。

 

『……だから、願い事はなし。椿君の願いも聞いてあげない』

『……』

『もし私がここに戻って来られる時に、私のこと覚えていてくれたら――嬉しいな』

『……ちがう』

『ごめん。我侭だよね』

 

 そんな日は来ないかもしれなかった。でも彼女は、俺が今ここで『会いに行く』と言ってくれるのを待っていてくれているはずで――その長い沈黙の間、俺は何も言えなかった。

 居場所も何も分からないのに、どうやって会いに行けというんだ? だったらこのまま別れてしまった方が良い! だなんて、本心ではちっともそれで良いとは思っていない自分に言い訳をして、俺は何も言えなかった。

 彼女の顔がふやけた。今までのような笑顔じゃなかった。その大きな瞳いっぱいに涙を浮かべて、それでもプレゼントが渡せずにいる俺を、別れを認められない俺を、決して咎めずに。必死で笑っていた。

 そして、彼女が言った。

 

『……さよなら』

 

 走って行ってしまう彼女。確かに彼女は泣いていて、それは意気地のない自分のせいで――それが分かっていたのに、ただ俺は呆然としていた。もう彼女に会えないと分かっていたのに。結局、何も言えなかった。

 

『……こんな』

 

 別れを受け入れられなかったけれど、訪れてしまった別れをやり直す事はできなかった。結果、彼女を泣かせてしまっただけで。自分の伝えたい事も何も伝えられなくて。たったの30cmのチャックが開けなくて。

 どうして自分はこんなに情けないんだろう。椿の花言葉は『誇り』だって、彼女は教えてくれたのに。どうして俺は何も言えなかったんだろう。

 その日は泣きながら帰った。結局、彼女に渡せずに終わってしまったプレゼントを泣きながら家に帰って、引き出しの一番下に隠して、鍵までかけて。鍵は庭に埋めてしまった。

 

『…………』

 

 忘れてしまおう。情けない自分が、自分を救ってくれた彼女のことをもう思い出さないように。初めから彼女との出会いなんてなかった。自分には救われる資格なんてなかった。きっと、彼女もそう思っているに違いない。

 そうやって、自分の記憶の奥深くに鍵をかけて、俺は全てを忘れた。名前を嫌っていた前の自分に戻っていた。

 

「……思い出した」

 

 まるで捕まえた瞬間に過去にタイムスリップしてしまったかのような気分だった。気が付くと辺りは一面星が輝いていて、それもかなりの時間が経っているようだった。俺は起き上がって、彼女の姿を探した。

 

「私が、負けちゃったね」

 

 後ろから声をかけられて、俺は振り返ると――そこに彼女はいた。見た目こそ記憶の中の彼女と違ったが、嬉しいような悲しいような寂しいような、そんな複雑な表情をしていたところはまるで同じだ。

 

「私も伝えたい事があったけど、椿君の勝ちだから」

「ああ」

 

 俺は立ち上がって、用意しておいたあの包みを出した。未完成の花の冠。彼女へのプレゼントを。

 もう間違えない、そう決心して。

 

「渡したいものがあるんだ」

「うん!」

 

 それは、彼女が一番最初に俺にくれたスズランの花から始まった。彼女とここに来る度に、一本ずつ繋げていった。

 

「俺、お前の事が好きだ。……だから、また必ず会おう」

 

 すると、彼女は赤くなった顔を隠すかのように、プレゼントを持ったまま後ろを向いてしまった。

 

「……私、もう帰ってこないかもよ?どこに行くのかも分からないんだから」

「それでも、必ず探し出すから。だから、忘れずに待っていて欲しい」

 

 彼女は、その言葉を聞いて振り返って、嬉しそうに笑って――そして、その笑顔と同時に涙が零れた。

 分かっている。これはあの時のやり直しが出来ている訳ではない。失われたあの告白は、もう二度と戻っては来ないのに。

 

「だったら、どうしてあの時そう言ってくれなかったの!」

 

 笑顔も消えて、彼女は俺の胸でただ泣いた。

 

「さよならなんて、言いたくなかった。言いたく……なかったよ……」

 

 悲痛な声で訴える彼女の頭を、俺は優しく撫でた。

 

「自分に度胸が無かったから。別れを受け入れたくなかったから、何もできなかった。……ごめん」

 

 それから、彼女は暫く泣き続けた。涙が枯れるまで俺は彼女を抱き締めていて、そして――ふと彼女は俺の手をすり抜けて、俺から数歩離れた。

 

「ありがとう」

 

 今度は彼女は、笑っていた。涙を流した後は消えていなかったけど、とても嬉しそうだった。

 

「私はずっと、その言葉が聞きたかったの。あの時聞くはずだった、その言葉を」

「……ずっと、ここで待っていたのか? 俺の、ことを」

「『わたし』は、私を置いて泣きながら走って行ってしまったから。あなたを好きな私はずっと、一人でここで待ってたんだよ」

 

 そういうことか、と思った。彼女は二人居た。俺のことを覚えていてくれている彼女は、俺のことを好きでいてくれる彼女は、ここに取り残されてしまったのだ。幸福が訪れる筈のスズランと共に、俺を待ち続けていたんだ。

 

「……だから、名前を覚えていないのか」

「うん。私の名前ももう――」

 

 彼女はそこまで言いかけて、ふと吹き抜ける風を感じた。頬に手を当てて、彼女が遠くを見た。

 

「……ごめん、もう私――」

 

 彼女は俺に向かって、そう言って笑った。きっと願いが叶ったから、花畑の力もこれまで、ということなんだろうと思った。

 

「あのね、椿君」

「何?」

「もう、私のこと覚えてくれなくても、いいよ。椿君はずっと、私に縛られていたから」

「俺はお前のことを忘れていたのに?」

「あなたは、高堂椿。自分の名前を好きでも、いいんだよ。私のことを忘れたからって、自分のことも嫌いにならなくていいんだよ」

 

 彼女の姿がだんだんと薄くなっていった。俺はまだ聞きたいことがあって、彼女に向かって叫んだ。

 

「お前はこれから、どうするんだ!」

「私は、『わたし』に置いていかれてしまったから。もう私の役目は終わり」

「必ず迎えに行くから! 元のお前の所に戻ってくれよ!」

「ね、椿君。キス、して……」

 

 そして、彼女は俺の方に歩いて来て――そっと、口づけを交わした。薄くなった彼女の身体を感じることはもうできなかったけど、俺はその瞬間にある記憶を思い出した。

 

『……うっ、うっ』

 

 せっかく仲間に入れて貰ったけど、それは自分じゃない。高堂翼は自分ではなかったから。誰も居ない花畑で、俺は一人で泣いていた。

 

『もう、大嫌いだ。こんな名前……』

 

 どうして、自分の名前を好きになれないんだろう。みんなにからかわれるし、名前なんて変える事はできないのに――

 ふと、俺の横を真っ白い帽子が通り過ぎていった。風に流されて、ふわり、ふわりと帽子は花畑を舞った。後ろから走ってくる子供の足音と、同時に流れてくるメロディー。

 

『あなたの、名前を、呼びましょう』

 

 とても楽しそうに、鼻歌を歌いながら。彼女は俺の後ろから現れた。風に流された少しつばの長い、変わった帽子を手に取って。彼女は振り返った。

 

『どうして、そんなに悲しい顔をしているの?』

 

 一瞬、誰に話しかけているんだろうと思った。でもその目がこっちを向いているので、俺に話しかけているのだと分かった。

 

『……何でもないよ』

 

 誰に話してもどうせ何の解決にもならないのだから。何だか楽しそうだし、嫌な気分だ。と思っていたら、彼女は俺の傍に駆け寄ってきて、顔と顔がくっつきそうなくらいに近付いてきた。

 

『あなたの名前は?』

 

 一体何なんだろう。当然のように俺は無視して、そっぽを向く。彼女は『うーん』と唸って、近くの花から一本、白い花を摘んできた。鈴のような見た目をしている、綺麗な花。

 

『その花はね、スズランっていうの。スズランの花言葉は【幸福が訪れる】だから、きっとあなたも幸せになれるよ』

 

 何も知らない彼女がどうして俺の事をなぐさめてくれるのか分からなかったけど、嬉しそうに笑われると、もう無視はできなかった。

 

『……君の名前は?』

『えー、自分の名前は教えてくれないのに?』

 

 彼女はぷくーっと頬をふくらませて、俺に抗議する。でもそれも一瞬のことで、すぐに笑顔に戻って言った。

 

『天も地も、千回晴れるって書いて、天地千晴(あまち ちはる)。千晴でいいよ』

 

 彼女の顔がふやけたように笑って、俺はその優しそうな笑顔を見て、つられて少し笑った。そうだ。彼女はこうやって、泣いていた俺の心を開かせたんだった。どうして忘れていたんだろう。……俺が忘れようとしていたからだ!

 

「千晴……」

 

 そして、夜が明けた。全く時間が経った気はしなかったが、確かに夜は明けていた。

 全てを思い出した。あの時から、彼女と追いかけっこをした。何度も、何度も。こんなに大切な人のことを俺は思い出さずに、今日まで生きていたというのか――

 

「千晴!」

 

 起き上がって、彼女の名前を呼ぶ。ようやく思い出した。彼女がずっと思い出せなかった、彼女の名前を俺は思い出した!

 どこにいるだろうか。きっと、この花畑のどこかに居る筈だ。まだ、きっと。彼女を探して、花畑を走る。何かにかまっている暇はなかった。

 

「千晴! 俺、思い出したよ! 千晴!」

 

 暫く走った。俺は確かに彼女の本当の名前を思い出したと、彼女に伝えたくて。でも、花畑の端から端まで探しても、彼女は見付からなかった。俺に自分の名前の大切さを教えてくれた彼女は、もうそこにはいなかった。

 花畑の隅から隅まで探して、初めてそこには誰も居ない事に気付いた。呆然と立ち尽くすと、静寂が一人である事を教えてくれる。

 

「……ちはる……」

 

 ずっと俺のことを待っていてくれていたのに、彼女はもう消えてしまったのだろうか。……消えてしまったのだろう。結局、俺は何も出来なかったのか? 花畑に心だけ残して、それでも俺の事を待ち続けてくれたというのに。たった30cmのチャックが開けなかった俺を信じて、ずっと俺の事を待っていてくれたというのに。この、何も無い花畑で。

 

「あ……」

 

 ……だけどその時、音楽が聞こえてきた。自然と口ずさんだ。懐かしいメロディー。一度聞いたら耳に残って離れない歌。

 

「あなたの、なまえを、よびましょう……」

 

 聞こえる。声が、聞こえる。

 彼女がずっと歌っていた歌。彼女はずっとここで俺のことを待っていた。もしも俺がまたここに訪れなければ、二度と再会はできないという事を知っていて、それでも彼女は俺の事を待ち続けていた。

 この、幸福が訪れるという花言葉の、スズランの花と共に。失われた告白を、ただ夢見ながら。幼い子供の心のまま。

 

「……ごめん。俺、間に合わなかった。お前の名前、思い出せなくて……」

 

 それに気付いた時、俺は涙を流した。過去の不甲斐ない自分と、今の彼女のことを忘れていた自分。どっちの千晴も、ずっと俺の言葉を待っていたというのに。身体を失くし、名前まで失くして、心だけをここに残して。

 目の前に、俺の傍に一本のスズランが落ちているのを見付けた。もうぼろぼろで、今にも枯れそうなスズランの花。一番最初にこの花畑を訪れた時、同じものを見た気がした。

 

「……そうか。千晴の願いはお前が叶えてくれていたのか」

 

 メロディーはそのスズランから流れていた。まるでそれは千晴が歌っているようで、俺はその時に自分が持っている包みを開いた。まだ、ここにあるのか? 彼女に渡した筈だったのに。偶然にも花は原型を留めていて、俺はそのスズランを未完成の花の冠に繋げて――そして、冠が完成した。

 メロディーが聞こえる。ぼろぼろの、今にも崩れそうな花の冠から。彼女が歌っている。遠い昔、まだ俺達が幼い子供だったときに、俺が彼女に渡す筈だった心の証。まだ記憶が残っていることを、繋がりは消えていない事を、教えるかのように。

 

「お前はずっと、俺達を見ていたのか?」

 

 俺は泣いた。待ち続けてくれた彼女を、俺は必ず迎えに行くと決心して。必ず迎えに行く。ずっと待っていたお前を、俺は必ず。そう決めた。

 

「千晴。俺――行くよ、お前のところに」

 

 完成した冠を見つめて、俺はそう呟いた。

 

 

 そして、時は経った。

 春は過ぎて、暖かいというよりは暑い、夏という季節が訪れようとしているそのときに、俺は電車に乗っていた。

 

『今頃、椿は千晴ちゃんに会っているかな?』

 

 電車に揺られて二時間とちょっと。すみれ先輩に場所を教えてもらって、俺は彼女の所に会いに行った。

 

『まさか本当に消えちゃうとは思わなかったけど』

 

 辺りはとても静かで、近くに花畑だと思わせる場所もいくつかあった。俺の住んでいる街とは違って、そんなに都会っぽくはないみたいだった。

 

『消えてはいないさ。きっと千晴ちゃんはここに帰って来るよ』

 

 電車を降りると、静かな空気が肺を満たした。春が過ぎて、随分辺りも暖かくなった。もう、肌を突き刺すような寒さは暫くないだろう。

 

『帰ってきた時にあの子が元気だったら、嬉しいわね』

 

 彼女の居ると思われる学校に着いた時、俺は一体何を言おうか考えていた。彼女が俺にしてくれたみたいに、校門前に立って。もう長い時が経ってぼろぼろになった、花の冠を持っていた。

 すみれ先輩はここに千晴が居ると言った。苗字も名前も被っているのだから、まさか他人だということは無いんじゃないだろうか。

 

「校門前に見た事の無い男の子が居るって?」

 

 そんな話し声が聞こえてきた時、俺の目の前をつばの長い帽子が通り過ぎた。

 明るい茶色の長い髪。もう何度も見た事のある、その特殊な帽子を被った彼女は、俺を見て立ち止まった。

 

「千晴、どうしたの?」

「ちょっと、先に行ってて」

 

 友達だと思われる女の子が数名、頭に疑問符を浮かべて歩いて行った。彼女は俺の顔をまじまじと見ると、言った。

 

「どこかで会った事がありませんか?」

 

 その言葉に俺は苦笑いをして、彼女にこう言った。

 

「どこかでも何も、俺は君を探してここに来たんだ」

 

 俺は言った。

 

「な、千晴」

 

 帽子を取って、彼女の頭に持っていた花の冠をのせると、彼女は恥ずかしそうに辺りを見渡した。

 

「あの……あなたの名前は?」

 

 今度はちゃんと名乗るんだ。あの時、彼女が好きだと言ってくれた、俺は嫌いだったその名前を。今日まで嫌い続けていたつもりで、本当はとても好きだった、俺の名前を。

 失くしたものは、心と名前。俺の名前は好きになれたから、俺はお前の心を返しに来た。あのスズランの花畑に置き去りにされた、千晴の心を。

 

「俺の、名前は――」

 

 

 

 

fin

 

 

 
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