魔導を志した切欠(きっかけ)は、ともすれば其れであったのかもしれない。
だからだろうか。こうして、忘れた頃に夢を見るのは。
抜け落ちるような青空を背に、朽ち落ちた巨大な魔方陣がそびえ立つ。
術者にも観客からも忘れ去られ、きぃきぃと小さな悲鳴を上げている。
もう二度と動かない、死んだ鉄屑のそれを眺めながら、
――果たして。
その頃の私は、どうしてやりたいと願ったのだろう。
・揺り篭と子供達(ムーン・チャイルド)
「前から思ってたんだけど、あなたの趣味ってやっぱり理解できないわ」
涼やかに降りしきる雨の中、そんな声が唐突に静寂を遮った。
魔理沙は本を読む手を止めたが、声の主は視線を上げようともしていない。その彼女が先程から読みふけている本は図鑑のように巨大な黒革張りの大書であり、少女はベッドの柵に背を預けながら、いかにも重そうなそれを胸の上で抱えるようにして読んでいた。
その表紙には題名がない。彼女持参の魔導書は紐から解かれることすらなくソファーの上に放り出してあったから、その本も間違いなく目を通しているはずではあった。だが、どうしてもその内容が思い出せない。
何となく興が醒めた気がして、彼女は本を傍らに置くと数時間ぶりに立ち上がった。ここ数時間にこの部屋に響いた物音と言えば、雨音と微かな衣擦れの音、それ以外はときおり思い出したように響く、紙のページをめくる音くらいのものである。
窓ガラスに手を当てると、そこから伝わる冷気が全身を浸す気がした。寝起きのような、気だるく温い午後の気配に触発されてあくびを漏らす。時間が、粘ついた泡の中をかき分けながら進んでいるかのように、ひどく緩やかに流れていた。雨は、まだ止みそうにない。
彼女――アリスが唐突に訪れてくるのはさして珍しいことではなかった。「雨だから、遊びに来たわ」と口にした彼女は、先日は「日差しが強いから遊びに来た」と言っていた。
どの道さして追い返す理由もなく、と言って仲睦(むつ)まじく雑談に華を咲かせるわけでもなく、そんな日は、それぞれが勝手に勝手な本を隣り合って読む一日になることが多かった。最近では、彼女が次に来るときに持ってくる本を注文するようにもなっている。
「そんなことは有り得ないぜ。それどころか、幻想郷の中でもダントツで一番だと自認してるくらいだ。何と言っても、私の趣味の良さは私だけにしか分からない」
「そういうのを趣味が悪いって言うのよ。ほら」
ようやくこちらへと顔を向けると、彼女は隠れていた右手を本から出した。血の気も感じないような白すぎる指先には、その白さとは裏腹なまでに赤黒く汚れた物体がつままれている。彼女はそれを特に嫌悪する様子もなく、指先でくるくると回して弄んでいる。どうやら今まで読書の手を止めて、ずっとそれをいじくっていたらしい。
それは干からびた小動物の死骸のように見えた。
井守(いもり)か、蜥蜴(とかげ)か。厚みをほとんど失ったその形は、かつて生きて動いていたときの名残など欠片も遺してはいない。二次元化(トゥーンレンダ)され、生々しさを完全に失った姿は、どこか皮肉めいた愛嬌(あいきょう)すら感じられた。
「なんだ、そんなところにあったのか。それは昨夜のシチュー用の材料だぜ。昨日は読書の傍らに料理してたからな。代わりにページが具材になっていて、どうしたものかと思ったぜ」
「てっきり栞のつもりかと思ってたわ。まいったわね、これで三冊は読み通したわよ」
流石にアリスの方も身体が痛くなってきたのか、上体をベッドから起こして軽く伸びをした。気にした風もなく、読みかけのページに死骸を挟んで本を閉じる。気がつけば、時刻は夕暮れに差し掛かりかけていた。
もっとも、ここ幻想郷において時間の流れは一部の人間もしくは人外を除いてさほど意味を成さない。それどころか、自分の都合に応じて時を止めたり夜や冬を延ばしたりするような途方も無く傍迷惑な存在が、堂々と跋扈している程である。時間の流れを気にするのは、時計の螺子を巻くときだけで十分だった。
「それは悪かった。今夜はとびきりのシチューを用意するから、楽しみにしておいてくれ」
「心から遠慮するわ。最近は人間以外の食材はなるべく控えるようにしているの。今、ダイエット中だし」
「安心しろ。井守を入れるのは妖怪限定だ」
「代わりに、今そこで喋ってる具材を入れてもらえると助かるのだけど」
そこでまた、会話が止まる。
二人ともが本を読む手を止めたことで、部屋の中に満ちる音は一色だけに閉ざされていた。何をするでもなく、琥珀色の瞳から放たれる視線が合わせられるようなことも決してなく、ただそこに「在る」ことに浸ってでもいるかのように、沈みつつある風景の奥に立ち止まる。自分達が落とす影の長さだけが変わる様を、アリスが片目で追っていた。
「それにしても」
次の均衡を破ったのは――なんとなく意外なことに――魔理沙の方だった。先程から全く身体を動かすことなく視線だけで向き返しているアリスの傍らに指を向ける。そこにあるのも、本だった。彼女が先程まで読んでいたものではなく、未だ封印されたままの赤い魔道書(グリモワール)。
「前から思っていたと思うんだが、お前の趣味はよくわからない気がするぜ」
「真似しないでよ。著作権料頂戴。腎臓でいいから」
「まぁ、いいから聞いとけ。私が言いたいのはな、そいつのことだ。お前、つい昨日までは前近代の精神現象学読んでたろ。なんでそれが、いきなりギリシアの十字架集団になってるんだ。ちっとばかり、飛びすぎだぜ」
「……希少サイン本なのよ。この世で一番素敵な詐欺師(アレイスター・クローリー)の」
「最も小さき栄華の跡(A Least Glory)とは洒落ている。なんだ、意外とミーハーだな」
む、と少女の眉が一際(ひときわ)固く結ばれた。彼女は知らない。その表情が、魔女の一番のお気に入りになっていることに。
「それなら魔理沙の読んでた本なんて、表紙こそ魔導書だけど中身は少女漫画じゃない。なんでわざわざ石工協会(フリーメーソン)のカバーになんて差し替える必要があるのよ」
「そりゃ、この方が夢とロマンがあるからな。好きなものこそ、隠れてこっそり読むべきだろ」
「否定しないけど、意味もなく否定したくなるような理屈ね」
会話を打ち切りたかったのか、アリスは跳ね上がるようにしてベッドから立ち上がった。自分の本を引ったくり、真っ直ぐに扉へと向いかけて、すぐに止まる。
改めて見やれば、部屋の中は半ば本に埋まっていた。寝台、机の上は言うに及ばず、半分開いた洋服箪笥(だんす)に窓枠の上、どういうわけか急須(きゅうす)の上にも絶妙なバランスで乗せられた小型の辞典が揺れている。ついでに、つい先程まで彼女が寝転んでいたベッドまで続く床も高々と積み上がった本の群れによって一分の隙も無く占められていたが――それは、どうでもいいことだろう。
それらをざっと見渡して、呆れたように目を伏せる。
「というより、あなたの家にある本ってどれもてんでちぐはぐじゃない。これじゃ、今日読んだ本の内容が次の日の本の内容で奇麗に上書きされかねないわよ」
ちょうどいい高さに本があったので、アリスは何となく手を伸ばした。左手と右手で一冊ずつ。どちらも、持ち上げた瞬間に手首へとずっしりとした負担がかかった。どうやら、見た目の厚みよりもずっとページが詰まっているらしい。
顔の前で、表紙を並べる。
一冊は「実践、串刺し公の優雅な昼食」、もう一冊は「メイドさん超入門」。
「……まったく共通項がないよりも、むしろ壮大なカオスを感じるわね」
「著者が同一人物でないことを心から祈るぜ」
「捨てなさいよ、こんな震度基準並に役に立たない代物」
落とすようにして放られた書物たちが、周囲にあった山を崩す。その様を見て、魔女はけらけらと笑い声を立てた。
「役に立つものを集めてもしょうがないだろ。魔女は世界の裏側を詠む者。もし役に立たないものを捨てろと言われるのなら、真っ先に魔法を捨てるしかないぜ。なにせ、存在自体からしてないことにされている代物だ」
「幻想卿の外での話ね。ここでは、あまり意味を成さないわ」
アリスの呟きに合わせるかのように、魔理沙はぴたりと哄笑を止めた。どこか悪戯めいた、ある巫女の言う「魔理沙の顔」になって、ベッドの上に胡座をかく。どこから根拠を得ているのか、意味もなく自信に満ちた顔で自称「普通の魔法使い」は言い放った。
「そうかな? 魔法使いにとっての魔法とは、常に術者オリジナルだ。もっとも人の真似事を自分の個性にする奴はいるけどな。お前は人形、私は魔砲。どちらにせよ、互いに相容れないことに変わりはない。この真理は、外でも中でも変わらないぜ」
その言葉を聞いても、しばらくの間アリスは何の反応も示さなかった。肯定しているのか、否定しているのか。表情からは、その違いすらも感じられない。
それこそ何の意味も無く、急に空間が重くなったような錯覚が迫ってくる。魔理沙は夕闇を背に、アリスはそれに向かい合う形で、ただ感覚の流れるままに身を任せる。
先程と違うこと。それは、二人の視線が一分の隙も無く向かい合っていることだけだった。
再度止まりかけた時間の流れを、
「あなた、やっぱり変わってるわ」
その一言が、遮った。
返事があったことそのものが意外だったのか、魔理沙が「ほぅ」と声を漏らす。顔の片側だけを崩した笑みで、彼女はからかうように鼻を鳴らした。
「お前に変と言われちゃあ、おしまいだぜ。魔法使いは教会の教えに従順に逆らう連中のことを指すわけだが、それでも自殺を推奨されてないのが残念だ」
「いいえ。わたしが言ったのは異質(exception)ではなく変化(transration)。まぁどうせ魔理沙のことだから自分では気付いてないんでしょうけど、幻想卿初心者の頃とは本当に別人よ。ひょっとしたら、遺伝子まで違っているかもしれないわね」
気がつけば、アリスの声色が変わっていた。白磁器の肌、色硝子(いろがらす)の瞳。まるで彼女自身が人形に置き換わったかのように、存在が、気配が、うっすらとかすれて遠ざかっていく。
それは彼女の、もうひとつの顔。「七色の人形遣い」アリス=マーガトロイド。
「あの頃の魔理沙は、ずっとわたしに近かった」
静かに断言するアリスの言葉は、問い掛けよりもむしろ呪詛へと近かった。
「……そう、か?」
「ええ。それこそ、わたしの人形とほとんど区別がつかない程に」
何時の間にやら、アリスの右手の平には彼女自慢の上海人形が腰掛けていた。細面(ほそおもて)に沿った長い鼻。白すぎて、余計に作り物めいて見える首筋。透けそうなほど儚い彩りに飾られた民族衣装。どこか見覚えの在る色硝子(いろがらす)の虚ろな視線が、真っ直ぐに魔理沙を射抜いている。
目線は、逸らせず。魅入られたように、光の輪舞する迷宮の奥へと誘(いざな)われる。視界からアリスが消える。部屋が消える。自分が消える。世界は人形の瞳に呑み込まれ、飛び交う一筋の光となる。同時に、意識が何かを知らせてくる。何か、しなくてはならないことがあることを懸命に伝えてくる。胸が張る様を感じ、口の中に唾が溜まっていることを確認し、それからやっと息苦しさを覚えた。
――窒息、していたのか。
魔理沙はその事実にようやく気付いて、意識的に肺へと空気を流し込む。そのときには、当のアリスは彼女のすぐ傍らにいた。魔理沙を魅了していた人形の姿は、もう影も形もない。アリスが、先程放り出した読みかけの本を大事そうに手に取る。その仕草に、どこか愛情の残滓さえ感じられたのは気のせいだろうか。
「魔理沙、この本少し借りていくわよ? 貸し出し期限は、あなたの寿命が尽きるまでと一日。ついでに、遺言で譲ることも忘れないでね」
一方的に言うと、返事も聞かずに自分の本と共に縛り上げていく。その様子を、魔理沙は多少の驚きが混じった目で眺めていた。
「なんだ、珍しい。うちにある中で、そんなに気になる本があったのか?」
「ええ、久しぶりに本気で読んでみたい本だわ」
手を止めることなく、アリスは即答した。魔理沙が彼女の本を借り受けることは多いが、その逆は滅多に無い。1人と1匹の魔法使いは、その嗜好にかなりの差がある。アリスが顕在する知識を求めるのに対し、魔理沙は既存という概念を極端に嫌う。彼女に取って、魔法とは文字通り神秘としての「魔」、すなわち現在ではまだ生まれていない「法」の体系なのだ。中身に依らない知識の累積は求めても、直接の答えを求めることは決して無い。
「ひとつ言えることは、この家のものである限り役には立たないということだ。これは、私の美学だぜ?」
得意気に言い放つ魔理沙に対し、少女は怪訝(けげん)な顔をした。
「あら、そうでもないみたいよ。ほら」
言うと、結びかけていた紐を再び解く。適当なページを開いて、彼女はその本を魔理沙の方へと突きつけた。
「そんな、ばかな」
そこにあるのは、確かに魔女が高らかに宣言した内容とはあからさまに異なっていた。具体的・直接的・実践的な、魔女と魔術と魔法の理論。それまで笑っていた魔理沙の顔が、それを見て確かに凍りつく。
だが、それもまた道理。
(……この本は焼いたはずだ。確かに)
その本のタイトルを、魔理沙は思い出していた。名を、「魔女幻想」。原型(ドルイド)から最期の白魔術師(レディー・オルウェン)に到るまでの有りとあらゆる魔女の歴史。魔女の、魔女だけのための定理を記した、世界の裏側を統べる法。
著者は――3年前の、霧雨魔理沙。
・幼き幻像の日々(ペガサス・ファンタジー)
とりたてて意識することもなく、魔理沙は窓の外の月を見ていた。更待月(ふけまちづき)。大狼によって食らわれつつある、死骸の月。
改めて思い返してみれば、月を見ることなんてはほとんどなかった。魔女は、常に月夜に生きる。昼夜を問うことなく天空に月と月読命(アルテミス)を感じ取る彼女にとって、月も星もその先にある壮大な世界(ピュトス)も、日常で特別に意識されるような存在ではなかった。それは、人間が持つ自分の心臓の捉え方に近い。そこにあることを確信し、時には激しい動悸で強く意識付けられることはあってもそれを見たことはなく、そして日々に置いては存在すらをも忘れている。だが、無くては確実に生きられない。そんな関係。
喘ぐような寝息を意識して視線を泳がせれば、腕の下にはアリスの幸せそうな寝顔があった。先日の月の歪な夜の一件から、彼女が泊まっていく回数が増えた気がする。あのとき、何度も同じ夜を繰り返す羽目になったことが原因か。
普段着のまま、毛布を被ることもなく手足を縮こませて眠る少女の姿は、どこか怯えた小動物を連想させた。それでも、本当に安らかな顔で眠り続ける。夢の中こそ、彼女の本当の世界だとでも言うかのように。
床の上には、彼女の持ち物である魔導書が、解かれた束ねの紐と共に放り出されている。
月明かりだけを頼りにして、魔理沙はページをめくっていた。そこにいるのは、彼女の知らない自分である。――いや、それはただのごまかしにしか過ぎないだろう。覚えている。取り憑かれたように書き刻み込んだ一字一字、寝食だけでなく自分が人間であることすら忘れて記し上げたその証しは、彼女の七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)だ。
それでも魔理沙は、その文字の奥にどうしても自分の姿を重ね合わせることができなかった。分からない。この本の著者の思考(嗜好)が理解できない。自らの腕で書き記した記憶は、むしろ現実的な恐怖を感じさせた。
「これは……いったい、誰の本だ」
振り切るように呟くと、彼女はようやく本を閉じた。滲み出たように広がる柔らかな光が、彼女のいる小さな部屋を満たしている。それは、白夜ほどではないにせよ、わずかに息を呑みたくなるほどの空想的な明るさだった。その中で、自分は今どんな表情をしているのだろうか。この家に、鏡がないことは幸運だった。
寝付けることは期待しないで、目を閉じる。過去を振り返ることもまた、魔理沙には珍しいことだった。魔法とは歴史の上に積もる知識。だが、過ぎさった栄光など最早何の輝きも持たず、魔法使いが見つめる先は過去(ウルズ)でもなければ未来(スクルド)でもない。ただ、そこにある累積としての現在(ベルザンディ)だけ。だが、その枷(かせ)が今この時だけは揺らいでいた。
瞼の裏に、何の親近感も伴わない当時の自分が浮かんでくる。そのときの彼女は自分が狂っていることを確信しており、そしてその認識は今になっても変わらない。ただ、求めているものは僅かに違っていたようだった。それが分かったことだけが、今になってわざわざあんな本を読み返した、たったひとつの収穫だろう。
幻想卿に入る前の自分が求めていたもの――目的。そのためにあらゆる文献に手を出し、自己の論理をまとめるだけのつもりで他人に伝えるつもりもない魔導書を書き上げ、未知の素材を噂に聞いては骨の髄まで研究し尽くしていた。熱心や執心という領域はとうに超えていた。彼女は、まさにただそのためだけに生きる生物だった。
そう。「その」魔理沙は、何か大いなる力を求めていたのだ。それは二十二の小路から成る遥かな天球(ケテル)への道程であったり、悪霊の放つこの世ならざる負の想念であったり、そして幻想卿と呼ばれる異界を定める巫女の持つ、知られぬ秘封(陰陽玉)であったりした。それが持つ意味、齎す結果、文化的意義、協会(ギルド)への貢献さえも、初めから興味すら持たなかった。ただ、そこに力があること、それだけが重要であり、彼女が追い求めるものであったのだ。
あるときは、真理をも掻き消す言葉を。
あるときは、父を殺し母を犯すだけの禁忌を。
あるときは、涙で世界を溺(おぼ)れさせるほどの愛を。
あるときは、地平の彼方まで貫通する意志を。
そして、それら全てを踏み躙る支配者の光を――。
(どうか、してるぜ)
過去の自分にではない。そんなことに疑問を持ちかけている今の自分へと向かって、魔女は呟く。
その時の彼女の姿は、自身の理論を追求する魔導師ではなく、ただ破滅に向かってひた走るだけの野ネズミにしか見えなかったことだろう。だが、もとより魔術師は異端であって然るべき存在なのだ。ならば、本当に可笑しいのは、あの時か、今か。
(――それは、何の意味もない問いかけだ)
頭の中だけでは、あっさりと正解の答えを導き出す。過去も、未来も、そこにいるのはたったひとりの魔法使い(霧雨魔理沙)。同じ答えを選択するだけの命題など、言葉遊びにしても程度が低い。そうして過ごす輩の無為な時間を、かつての自分はどれだけ嫌悪していたことか。
迷いとは、弱さだ。それは、少しも強くない。
確かに、この本の中にいる彼女には躊躇の気配など微塵も無い。其処に力(ルーン)があるならば、世界樹の下で片目を差し出し逆さ吊りにされてでも、嬉々として出かけて行ったに違いない。交わした契約の数だけでも、十や二十では済まなかった。二度と帰って来れないと分かり切っていた異界にさえ、彼女はその日のうちに門を結び――
「待て。どこか、おかしいぞ」
跳ね起きる。それは、確信めいた不安だった。
二度と帰って来れない。そのことは、確かに間違っていなかった。現に魔理沙は、今もこうして異界(幻想卿)の内側にいる。覚えている限りでは、帰る方法を考えてみたこともない。
いや、違う。帰ることなど、魔理沙は本当に一度も考えたことが無かった。かつて、幻想郷を自由に移動する妖術(スキマ)の研究をしたことがあったが、それで外の世界との道を繋ごうとは露ほどにも思わなかった。今の魔理沙は、ここでの暮らしもおおよそ気に入っていた。だから、外の世界への興味などとうに亡くしていたのだろう。
――いや、それもまた違う。
ならば、ここでの暮らしに馴染む前――力を欲し、無為な時間を嫌って決して一箇所に留まることのなかった魔理沙はどうであったというのだろう?
「何故だ」
帰れないことは分かっていたから。戻ることなど、初めから未練すらもなかったから?
そんな莫迦(ばか)な話があるか。東方(ペルシャ)から来た3人の賢者に聞いたその話(幻想郷)が、彼女を虜(とりこ)にしたことは真実である。近代化(マルクス主義)に伴い、合理主義と自由哲学の波に掻き消されて消えてしまった怪異と異端、そして妖魔。それらが、共に手を取り踊っている地獄があるというのだ。そんな美味し過ぎる百鬼夜行を、彼女が見逃すことなど有り得ない。
だがそれでも、「幻想郷」とは数多(あまた)ある怪奇譚(かいきたん)のひとつにしか過ぎないということもまた事実だった。彼女がかつていた世界には不可思議(10の64乗)に足るだけの謎があり、矛盾があった。そこに人がいる限り、異端が消えることなど有り得ない。だと言うのに、自分はその美味を全てしゃぶり尽くすこともなく捨て去ったというのか。
幻想郷に赴(おもむ)くことは、噂を聞いたその瞬間に決めていた。そこに、撤回の余地など挟まるはずもない。一方で、そのために他の可能性を捨てたということもまた、有り得ない。
断言できる。私なら、矛盾する二つの力(強さ)を全て疑いも無く騙(だま)し取る。
「何故だ。何故だ。何故だ?」
何故、私は此処にいる?
それこそが最も矛盾する怪奇(謎)だった。もし本当に幻想郷から戻る手段が存在しないのだとしても、かつて霧雨魔理沙がそうあるべきと定めた以上、自分は幻想郷という力を吸い尽くし、その後は外の世界で次の力を追い求めているはずなのに。
魔理沙は、音も無く立ち上がった。あどけなく眠るアリスを起こさないように注意してベッドから跳び降り、手早く身支度を整える。トネリコの樹の箒。その方が魔女らしいという理由だけでわざと先端を萎れさせた黒帽子。特に意味は無い純白のエプロン。そして、召喚の儀式。
儀式、といっても彼女がしたことは指を鳴らしただけだった。詠唱も呪符(スペルカード)もなしに、手順はそれで完了する。
月明かりだけが支配していた部屋の中を、突如として意志ある輝きが侵入した。赤。青。黄。緑。光はまったく無音のまま、それでいて暴虐的なほど荒々しく夜闇を切り裂き、主の周囲を回り続ける。
それが彼女の使い魔だった。四色(四大要素)の天球儀(オーレリーズ・サン)。
果たしてこれが生物と呼ばれるべき存在であるのかは実のところ魔理沙自身にも分からない。これは生まれる前の世界の姿、概念(イデア)から派生した、過去か未来に有り得る可能性の一つとしての意思であり存在だった。形を定義されていない故、力も限界も彼ら自身には設定されていない。主たる魔女の力を、どこまでも忠実に映し出して行使する。言わば、それは自律的な魔力の鏡であると言えた。
縮小し光量の収まった天球達を手の平の上に乗せ、エプロンの中へと収める。睨(にら)み付けるようにして窓から月を見据えると、魔理沙は不適に言い放った。
「考えてみりゃ、わざわざ待つのはどう見ても私の趣味じゃないぜ。何かあるなら、こっちから出向かないと失礼ってもんだ。私にな」
結実する理屈は、ただひとつだけだった。
つまり、それ(手段)はこれから起こる。
ひゅう、と吹く風に髪を流される。
由緒正しく煙突を通って夜空へと飛び出した魔女は、箒(ほうき)の先端に釣らしたカンテラに明かりを灯した。伝統に従うのは魔女(ウィッカ)ではなく修道女(ノンヌ)の性(さが)だが、魔理沙はこうした風習をおおよそ守る。第一、魔理沙の家は床暖房であるから暖炉はない。この煙突は、家の中から箒で空へと飛び出すとき専用の代物だった。
「ったく、黒猫がいないのが残念だぜ」
呟く魔女の表情に、先程までの焦りの面影は微塵もない。
それが本来の霧雨魔理沙の、いや「普通の魔法使い」の姿なのだ。彼らは、非常識をも常識として取り込むほどの、理不尽なまでに合理的な思考しかしない生き物である。魔理沙の場合、徹底的に合理的に無駄なことしかしないためどこぞの巫女と一緒にされたりもするわけだが、それは彼女にとっては甚だ不満な話であった。
魔理沙は、ラジオ代わりに口笛をひとつ吹いてみた。上空を切る風の音と見分けも付かぬような単旋律。それは悲鳴のように高く尾を引き、夜空の闇を更に深いものにする。もう一度。悲鳴が、更に一つ増える。それとも、この風そのものがどこかの誰かの悲鳴だろうか?
「いいね」
満足気に、自信に満ちた微笑みを浮かべる。かつて夜雀(よじゃく)に鳥目にされなかったことを感謝しつつ、魔理沙は下界を見下ろした。
月夜に広がる一面の黒は、踏み入れた者を永遠に現世から隔絶する魔法の森(シュバルツヴァルト)だ。人に飼い慣らされた自然ではなく、原世から残り続ける悪意に満ちた異形の森。歪(いびつ)に伸び競った枝々は、天空に座すこちらを引き込もうとしている亡者の手のようにも見える。その怨嗟(えんさ)が、地平線の彼方までどこまでも果てしなく続いていた。
堕ち沈みそうな世界の中、月だけが空々しいまでに白すぎる。
「さて、どっちへ逝ってみるかな。心当たりなんて便利なものは一切ないが、そんなものはそのうちあっちから勝手に飛び込んでくるものだぜ。そうでないと色々と困る奴もいるわけだしな」
季節柄、月は南に傾いている。なら私は北へ向うかと箒(ほうき)を向けて、
「ほらな」
と、満足気に魔女は呟いた。
病的なまでに広がりを見せる「黒」の中、彼女が決めたその一方向にぽつんと異質の何かが見える。それは、先程見渡したときは確かになかったものだった。それ以前に、あんなものがこの森に存在していたならば、この森の主たる魔理沙が気付かないわけがない。それに、幻想郷の住人は誰もがいい感じに騒ぎ好きだ。もし以前からあんなにも格好の森見場所があったならば、連中は四十九日に渡って宴会を催していたに違いないだろう。幸いにしてと言うべきか、その場所はまだ静寂を保っているようだった。
異様な光景ではあった。のたうつような森の蓋(ふた)を、巨大な魔法円が突き破っている。ここからでも、内側に刻まれた五芒形(ソロモン)の星が見える。だが、その一部はとうに朽ち果てており、もはや完全な道を構成してはいなかった。未開の自然だけが飄々(ひょうひょう)と広がる光景の中、まるで一点だけこびり付き取り残された汚れのように、そこだけが頑(かたく)なに人工物の残滓(ざんし)を残している。畏怖堂々と聳(そび)え立つが故に、月明かりに照らされたその姿は尚更哀れに感じられた。
普通に考えて、それは有るべきものでも在るはずのモノでもなかった。この幻想郷には、決して無いもの。彼女の心の、常にどこかを占めていたもの。
それは、錆び付いた観覧車。それが、彼女の原風景。
森の一角は、まるでこの奇妙なオブジェのためにあらかじめ用意されていたかのように、開け放たれた綺麗な丘になっている。完全な真円の形で取り囲む木々たちは、まるでこの小さなステージを見守る素朴な観客のようにも見えた。
「さて。これは、何の冗談だろうな」
呟き、劇の主役はそれを見上げる。
真下から臨(のぞ)めば、意外と小さなものだった。いや、記憶の中の彼女とは年齢も視線の高さもまるで違う。それとも、かつての自分が思い描いた空想は、初めからこれほどまでにちっぽけなものだったのだろうか。
どうでもいい。それは、どちらでも同じ事には変わりない。ただ、魔理沙がこの光景を知っていること、彼女にとってこの光景(まやかし)に意味があることだけが真実だった。
――実際に、観覧車というものを見たことがあったわけではない。
ただ、そういうものがあることを聞いただけだ。どこの誰から聞いたものか、それを知る術は最早永遠に失われた。両親からではないだろう、ならば、決して多くは無かった彼女の当時の友人からか。それとも、何かの弾みで目にした魔道書の一ページにでも書いてあったものなのか。
それは、人を乗せ、そしてただ同じ場所で回るだけの巨大な無駄だ。妖精たち(陸のケルト)さえ為し得なかったであろう人の力、そして彼らには想像もつかないほどの滑稽な存在理由。人のためのものでありながら、その行為にすら意味の有る理由など無い。その空想に、強く惹かれたことにも理由などなかった。この異形(偉業)は、果たして誰が想像し得たものなのだろうか。
開かれた丘の上に聳(そび)え立つそれは、一本の巨大な樹にも見えなくは無かった。枝葉代わりのゴンドラが、ゆらゆらと風に揺らめいている。だが、それだけ。錆び付いた鉄骨、鍵が壊れたのかだらしなく開け放たれたゴンドラの扉。それでも頑強に作られた支柱がしっかりと大地に根を下ろす一方で、この玩具が回り出すことは二度と無い。そんなところまで、彼女の空想と変わりなかった。
観覧車が回るためには人が要る。それがいかに幼稚な行為ではあっても、人を乗せて動くことこそが、彼に定められた意味なのだから。
「まぁ、それだけの話だけどな」
呟くと、魔法使いは観覧車の根元まで歩み寄った。
乗ってきた箒の柄を深く握ると、先端で土台の鉄骨を打ちつける。カァン、と鈍い響きの音色が木霊(こだま)した。ふむ、と一息吐いた後、彼女はもう片方の手で石を取り、鉄骨を断続的に打ち鳴らし始める。カン、ガカン、カァアン、ギィン。魔女の、メロディーとも雑音とも取れない響きが夜を満たす。
――それが、この幻想夜の序曲のようで。
旋律を聞きつけてか、森の枝で羽を休めていた鴉(からす)たちが次第に彼女の周りへと集まってきた。それだけではない。大地からは兎(うさぎ)や蜥蜴(とかげ)、木々の間からは栗鼠(りす)、さすがに魚はいなかったものの、魔女の伴侶とされるあらゆる生物がこの宴(まつり)へと集い来る。本来は天敵であるはずの鼠(ねずみ)と蛇までもが隣り合って並ぶ様は、やはり異様でしかなかった。
他にも来る。蝙蝠(こうもり)、蚯蚓(みみず)、蛙(かえる)に大小様々な猫(ねこ)たち。彼らは身を寄せ合い、やがてはまるで詠(うた)うようにそれぞれの声で鳴き始める。合わさったひとつの声は、泣いている様にも、叫んでいるようにも聞こえた。だが、それはやはり笑いであった。誰もいない深夜限りの大合唱。声無きモノたちの詩。
「うふ。ふふっ。うふふふふっ」
いつしか、月までもが哂(わら)っていた。
夜の幻唱は終わらない。欠けた月を背に降り立った少女は、その唱和が終わるまでの長くも短くも無い時間を、その場で人形のように待っていた。嘲(ワラ)いながら。
「――――。」
魔女の指揮棒が落ちる。片手の石を投げ捨てながら、魔理沙は鷹揚(おうよう)に振り向いた。動物達が、彼女の動きに合わせるように一斉にやってきた少女へと顔を向ける。
少女は、もう笑うのを止めていた。
「非道(ひど)い女性(ひと)ね。それは、あなたの大切なものでしょうに。こんな風に使うなんて」
「なに、思い出の再利用だ。エコロジーだろ」
魔理沙は周囲に視線を一巡(ひとめぐ)りさせた。それで、集まっていた100を超える動物たちがのそのそと退散していく。その全てが森の茂みへと消えたところで、彼女はようやく後を続けた。
「で、お前がお迎えか?」
紅い瞳を正面から見据える。それは、魔理沙の知らない少女だった。
丸い赤毛に作られた小柄な顔に、どこか見覚えがあったのは確かだ。しかし、それ以上のものではない。黒より紫に近い魔女装束に身を包み、使い魔か魔術(スペルカード)か、宙に浮く巨大な一本の白百合を椅子にして座っていた。何より、自分からもっとも縁がないのはその表情だった。笑いと哂(わら)いと嘲笑(わら)いと微笑(わら)いを足したかのようなその笑顔は、もはやどの笑い方にも似ていない。
例えて言うなら――それは、人の手で造られた人形が持つ張り付いた笑顔。
「ええ、その通りよ。さて、此処(ここ)に来たからにはもう用は済んだわけよね。私の望みは手に入ったのかしら?」
「さあ、どうだろうな。お前の望む物かは分からないが、手に入ったものはいくつかあるぜ。温泉を引く魔法、自動かき氷製造妖精、終わらない図書館、名前を呼ばれない門番、足を運ぶ度によく分からない物を勝手に用意してくれる便利な人間、空を飛ぶ亀、紅白の巫女。この中にあるものなら、好き勝手持ってってくれて構わないぜ。私のじゃないしな」
その言葉にも、見知らぬ少女は表情を変えなかった。もっとも、彼女が他の表情を知って入ればの話ではあるが。
「驚いたわ」
口の動きだけで、そう呟く。
「まるで、別人ね。この世界であなたの中の何かが変わる特別な出来事でもあったのか、それともその変化こそがこの異界の性質なのか。あなたは、どう思ってるの?」
「残念。その質問は、ついさっき棄却したばかりだ。私は『普通の魔法使い』であり、それ以上でもそれ以下でもない。過程を含めた上で初めて結果があり、存在が成る。切り離したところで意味はないぜ?」
「それでも、ひとつの謎(怪異)として見るならば、そこそこ興味深い話ではあるわ。でも、まぁ、それよりも」
少女はそこで言葉を区切った。舐め付けるように魔理沙の全身に視線を這わせ、にやりという音がしそうなほど分厚い笑みを浮かべてみせる。
「色々と、修正が必要になりそうね」
少女が呟く。魔理沙が、エプロンに手を入れる。
彼女の目に、果たして自分はどう映っているのだろうか。無意味であると知りながら、魔理沙はそう思うことを余儀なくされた。
「何だ、もしかして困った事態になったりするのか?」
取り出した、魔理沙の左手が開かれていく。指の間から漏れ出でる四色の燐光。それは、次第に大きく、強くなり。
「そんなわけないじゃない。嬉しいわ、教えることが多すぎて容器を溢(あふ)れさせてしまわないかしら? 言葉の重さ
に耐え切れず、ぱちんと弾け飛んでしまわないかしら? ああ、心配で心配で……もう、笑いが止まらないわ」
「今更教えてもらいたいことなんて、こっちには心当たりもないんだけどな」
既に光の塊となった天球儀を投げ上げる。同時に頭上へと箒をかざすと、魔理沙の身体は一瞬の加速で夜空へと飛び出した。
そのままの勢いで、ゴンドラのひとつに飛び乗る直前。
風を切る轟音の中、魔理沙は絶対に聞こえるはずの無い少女の声を聞いていた。
「それを今から思い出させてあげるわ。さようなら、幻想郷(今現在)の霧雨魔理沙」
・忘却の果ての新世界(ニュースペース・オーダー)
魔理沙らしく、その幕開け(弾幕)は初めから派手だった。
「集え、幾億が夜を巡る運命。舞うように散れ、星たちよ。
――『燐符』希望の揺りかご(オールト・ウインド)」
月に向かって投げ上げ(宣言し)た呪符(スペルカード)が、彼女の声に応え、太陽を思わせる輝きを発し始める。
生まれ出たのは、夜空を覆い尽くすほど無数の小さな星形の光であった。見た目にはただの煌(きら)めく光の粒としか映らないそれは、対象の身体ではなく精神を灼く彼女の魔力の結晶体である。それが渦を巻き、全方位を埋め尽くしながら標的に迫る。
「これが、今のあなたの魔法?」
ひとりごとのように呟くと、少女は片手を空に向けた。呪符(スペルカード)を取り出すこともなく――それは、この幻想郷に来てから取り入れた概念だ――それでも、魔理沙と変わらない速度で言霊を紡ぐ。
「囚われよ、幾億が嘆きの声、たったひとつの死の形。望む煉獄は我が手の内に。
――『魔詛』散り消える子守唄(スターダスト・レヴァリエ)」
少女の、天に捧げられた手の先から溢(あふ)れ出る魔力。それは、黒い泥にも似た呪詛だった。
魔理沙の煌びやかに輝く弾幕とは対照的なほど、暗く、どよんだ弾幕が、主人を守護するべく広がっていく。だがしかし、その大きすぎる違いを除いて見ることができたならば、両者の弾幕は限りなく相似形に近かった。それによる当然の帰結として、2つの魔法は少女たちのちょうど中央で衝突した。
光が闇を呑み、闇は光を貪り食らう。
更なる当然の結末として、両者の弾幕は公平に消える――はずだった。
「あら?」
黒い弾幕の少女が呟く。それは、魔法を放った彼女自身にも意外なことだったのだ。
彼女の弾幕は、その半数がまだ消えていなかった。大半の勢いを削ぎながらも、十分な数の弾幕が光の弾幕が放たれて来た方向へと飛んでいく。
だが、そんなものに意味はない。
突き進んだ呪詛は観覧車のゴンドラをひとつ、完膚無きまでに破壊し尽くし……そして、それだけで終わった。
「二重弾幕(東方伝統芸)――」
呟いて、ようやく少女が周囲を見渡す。
彼女の死角から迫っていたのは、魔理沙の弾幕の更にその外側から飛来してきた四本の銀色の魔弾であった。魔力の半分を割いて作られたのだろうそれは、さながら尾を引いて飛ぶ巨大な彗星を思わせた。始めのは囮で、こちらが本命の攻撃ということだろう。
「でも、残念ね。ふふっ」
少女が微笑む。これは本来、最初の弾幕で逃げ場を塞いだ上で止めを刺すための時間差弾幕だ。その弾幕が先に掃除されているのであれば、避けることは非常に容易い。
そのことを証明するかのように、少女はひとつひとつの彗星を余裕を持って回避(グレイズ)していった。
一本、二本、三本。そして、四本目。
完全に魔弾をかわしたその瞬間、気がつけば彼女の腕は何者かによって囚われていた。
「ああ、実(まこと)しやかに残念だ。――お前がな」
間近で見やれば、彗星は数え切れない極小(ごくしょう)の弾幕の塊であった。その中から伸びた手に腕を掴まれている。その指先には、発動中(宣言済み)の呪符(スペルカード)。光の粒の間から、わずかに覗いた口元の動きだけが見て取れた。
「闇あるところに光あり(the justice is in your heart.)。鈴やかに鳴れ、銀星の舞姫。
――『極星』願いごとひとつ(ティンクル・セイバー)」
少女の目の前で彗星が吹き飛ぶ。その殻を突き破って生まれた魔法は、一本の巨大な剣であった。光でできた、少女の身の丈の三倍を優に超えるその剣の柄を、霧雨魔理沙が握っている。ゆっくりと顔を上げた魔女が浮かべる表情は、この上もなく明快な歓喜によって歪んでいた。
「……ふふふっ!」
悲鳴とも興奮ともつかない声を上げながら、黒い弾幕の少女が飛び退(すさ)った。その頬にはうっすらと一筋の汗が浮かんでいる。
後退と同時に放っていた牽制(けんせい)のための魔弾の射手(マジック・ミサイル)が、魔理沙の刀身によって弾かれた。だが、それで十分。一瞬の隙をついて少女は剣の間合いから抜け出し……同時に、そのことに気付いてしまった。
先程の彗星と同じである。剣は、一本の巨大な魔力ではなく無数の弾幕でできていた。
振り下ろされる裁(さば)き。その過程で弾幕は横に広がり――つまり、剣は伸びて――無防備な少女の身体へと襲い掛かった。
地面が盛大に爆発し、舞い上がる砂埃となって少女の姿を覆い隠す。
魔理沙はそれにあっさりと背を向けると、近くの岩を物色し始めた。やがて、その中に気に入ったものがあったのか、表面を几帳面に箒で掃き払ってからその上へと腰を下ろす。足を組み、その上に立てた腕の上に顎を乗せたふてぶてしい態度で、魔女は砂埃が晴れる様を待ち続けた。
数分もせずに視界が戻る。少女は、果たしてその中心にいた。深く裂けた大地の切れ目、その先端で立ち尽くしている。
少女は、大地に立っていた。初めに乗っていた、白百合の使い魔が消えている。少女自身にも変化がある。白い白い、白い顔の端にほんのわずかな一筋の朱。かすり傷程度の、しかし紛れも無く魔理沙が打ち勝ったことを示す証の刻印。
「余興はこれでお仕舞いか?」
態度を崩すことなく、魔理沙。
「私はな、お前に関することなんざ今までに食べた聖体(パン)の数まで分かってるんだ。だが、お前(過去)に私(未来)を知る道理なんてものはない。だから、これは茶番だ。役割の決まった劇なんてものは、キャスト次第では大喜びなんだが、今日は悪役に似合う奴がいない。今日は呼んでもいない客もいるもんでね、面倒なことは早めに切り上げたい気分なんだが」
冷たく言い放つ魔女に対し、その少女は地面を見つめたまま、一言だけ呟いた。
「怖い?」
びゅう、と風がその言葉を隠すかのように通り過ぎる。数拍の時間を置いて、魔理沙は感情の消えた表情で問い返した。
「……なんだと?」
「そんなに、私が怖いのかって聞いてるの」
その問いに、言葉による応えはなかった。
風が吹く。しかし、今度は魔女を中心に逆巻(さかま)いて。
その瞬間には既にその場から消えていた魔理沙の姿は、未(いま)だ俯(うつむ)いたままの少女の背後へと幻のように現れた。幻とは違うことに、その手には既に呪符(スペルカード)が握られ(宣言され)ている。もうひとつ、耳元で甘く囁くようにして魔女は告げた。
「お前、ひとつ勘違いをしているぜ」
それでも、少女は微動だにしない。魔理沙の両手の間では、四色の天球儀(オーレリーズ・サン)が一つの輪と成って回転していた。回転が増す度に、そこから放たれる光もより膨大になっていく。魔力の迸りが音となって空間に満ちる。小さな魔法使いを中心にして、世界の終わりが広がっていく。
嵐。いや、それは生まれる前の極小の宇宙そのもの。
「私はな、怒ってるんだ。それこそ、台所の湯沸しポッドより熱く。
その灼熱の意気を以て、星辰の高らかなるを謳い上げよ!
――『新星』光たちの産声(スーパー・ノヴァ)!」
その瞬間だけ、夜と昼とが逆転した。
強すぎる反動(リコイル)に、術者である魔理沙自身の身体も大きく後ろに跳ね飛ばされる。地面にしたたかに背中を打ち、何度も転がって辿り着いた先は、皮肉にも先程まで腰を下ろしていた岩の下であった。今度はそこでもたれ掛かるように背中を預ける格好で、再び自分が起こした魔法の結果を目の当たりにする。
その結果は、何もかもが初めの魔法とは異なっていた。この破壊は、地表だけには留まらなない。周囲にあった木や岩はもとより、地面そのものまでをも完全な球形の形に刳り貫き消している。
それも、当然。これは天球儀と彼女自身の魔力を一点に掛け合わせて放つ大魔法。数ある魔理沙の魔法の中でも十指に入る破壊力を持つ「取っておき」である。何者であれ、その直撃を受けた相手が無事であるはずは無かった。
そのはずだった。
「――私(過去)に、あなた(未来)を知る道理がない?」
魔理沙が目を見開いた。そこにいたのは、まったく変わらない少女の姿。まるで微動だにした様子すらなく、少女は先程と全く同じ様相で同じように地面を見つめ続けていた。今は地面のほうが抉れているため、その身体は宙に浮いている。これもまた変わりなく、少女は俯いたままの姿勢で呟いてきた。
「そうかしら、本当に? 全ては、あなたの思い違いかもしれないのに?」
まったく唐突に――振り向く。彼女自身に変化は無い。変化は、その周囲にあった。
少女の身体を取り巻くように、彼女の新たな使い魔が回っている。赤、青、緑、茶、金、紫。六色(空想元素)の至星天球儀(オーレリーズ・ソーラーシステム)。
「――まさか。そんなことが」
純元素具象化(オーレリーズ・コード)の秘儀を知る者は、世界で魔理沙ただ一人のみである。正確には、幻想郷に入った後の魔理沙だけの秘術であるはずのものだった。それ以前は、構想すらできてなかったというだけの話ではない。この秘術は、その多くの部分にこの場所でしか手に入らない失われた魔導を組み込むことでようやく体系化に成功した、幻想郷の存在なくしては絶対に完成し得なかった代物だった。
ましてや、魔理沙が今目にしている六色の天球儀は、創始者たる彼女にしても初めて目の当たりにするものである。何故ならば、その研究は今正に最終段階。実用化までは、まだ幾つかの月を必要としているのだから。
現在はまだ生まれてないはずの魔法。
それを、なぜこの少女が従えている?
「その思考が、今のあなたの到達可能な最遠景? 情けない。かつてのあなたが求めていた真理は、月よりも更に遠いわ」
少女は、開いた左手をゆっくりと魔理沙の方向へと向けた。
それは、明らかな魔法の仕草。それでも、魔理沙は動かなかった。動くことができなかった。自分が、此処に有ることを信じることができなかった。
岩に張り付いたままの哀れな格好で、それでも何故か耳だけははっきりとその呪詛を聞き届ける。
「光の終わりに。永き旅の終幕に。絶望の果てに。闇よ、あれ。
――『光檄』夢の終着駅(シュート・ザ・ムーン)」
「……ぅ。うわああぁぁぁっ!?」
暗色の光が自分を呑み込むべく広がっていく様を確認して、ようやく魔理沙の時間が動き出した。それは、本来は彼女がもっとも蔑むべき形。悲鳴という、明らかな恐怖の印として行われた。
彼女は、やらなくてはならない最小限のことだけを果たした。
箒(ほうき)を掴み、行き先を念じる余裕もなく闇雲な方句へと飛び立たせる。黒い光に身体を蝕まれるその寸前で地上を離れると、捻れるように夜空を駆け、その先にあった一際(ひときわ)背の高い木々の間へと逆さまになって突っ込んだ。
その、全てが幸いした。
魔理沙は、引っかかった木の枝からずり落ちる寸前に目にしたその光景に愕然とした。森の一部が、消えている。冗談のように巨大な葉虫にでも気まぐれに食い散らかされたかのように、木々が、大地が、奇麗な真円の形で抉られていた。先程の彼女の魔法と酷似した、しかし格段に大きな規模で。その破壊跡が一定していないのは、脈絡無く飛び回った魔理沙を追って来た結果だろう。
自分でも予測できない不規則な逃避行が彼女を助けた。冷静ならば、果たしてこうも上手く回避することができたものか。
「ふざけるな」
全てを認識した後で、魔女は小さく呟いた。
地面はそう遠くない。だが、落下などいちいち待っていられるものか。魔理沙は天球儀(オーレリーズ・サン)に意思を送る。あれだけのことがあっても彼女の周囲から離れずにいた彼らは、主の意志に従って彼女の身体を再び月の高さへと持ち上げる。
森の天蓋(てんがい)を抜けて現れた魔女は、酷い姿になっていた。
生身のまま木に飛び込んだせいで身体の場所を問わず無数の擦過傷(さっかしょう)に埋め尽くされ、そこから血が滲(にじ)んでいる。いつからか彼女のトレードマークである黒帽子も箒も失われており、解き放たれた金髪が夜風にたなびいていた。瞳は、それこそ獣の如く赤く塗れる。魔理沙らしさの全てをどこかへと置き去りながら、ひとつだけ彼女が手から離さなかったものがあった。
それを霧雨魔理沙の全てと定義するが如く、月へと向って掲げ上げる(宣言する)。
祈りでも、詠唱でもなく。その声はまさに叫びだった。
「果てしなき世界。終わり無き道を、ただ駆け抜けるだけの心!
――『永劫』響き合う未来(スターリー・ヘヴン)!」
その声に応じ、呪符(スペルカード)を掲げた先にある月が、かすかに歪んだように見えた。
しゃん、と軽い音をひとつだけ残し、その崩壊が決定的なものになる。月の影から漏れ出でた無限弾幕が、見る間に夜空を侵食していく。その様は、まるで魔理沙の生み出したもうひとつの月――ないはずの、巨大な満月のようだった。
「逝け」
弾幕の主が命ず。溢れ出た光礫(こうれき)が、一斉に眼前の少女ただ一人へと向って殺到する。瞬(まばた)きをする間もなく、その姿は、光の濁流(だくりゅう)、もしくは黙示録の蝗(いなご)の群れを思わせる圧倒的な物量の彼方へと消え去った。
それでも、彼女は手を止めない。魔女が生み出した弾幕は、どれだけの時間撃ち出したところで空になることはなかった。
五分か、十分か、それとも一月も経ったのか。彼女にとって永劫を思わせるだけの時間が過ぎ去り、それでも魔理沙は弾幕の波を止めることはなかった。
いや、できなかったのだ。
徐々に薄まっていく弾幕の隙間から、時折、少女の姿が覗いて見える。その様に、魔理沙は自分でも意外に思うことに、さして衝撃は受けなかった。
それは、無意識の中で初めから予想していた結果だったのかもしれない。黒い弾幕の少女は、極大の無限弾幕の中を身じろぎひとつせずに乗り切っていた。全ての弾幕を完璧な精度で叩き落しているのは、その周囲を周回する至星天球儀(オーレリーズ・ソーラーシステム)である。それこそが彼女の使い魔の本来の能力であることは、魔理沙自身が一番良く分かっていた。
「もういい。もう、あなた(私)には飽きたわ」
まるで、飽きた玩具に見切りをつけるような気だるさで告げる。少女の内から、光が溢れた。それは無限を有する魔理沙の弾幕を呑み込むほどの広大さ。例えるならば、太陽。それは、世界を喰らい尽くすための力だった。
「今のあなたには、最早何の価値も無い。今のあなたは、もはや『力』を求めてすらいないのね。霧雨魔理沙の誇りにかけて、そんな存在は許さない」
その言葉は、判決だった。光に満ちた世界が、彼女の両手の間で一本の帯となる。
「希望、運命、幸福、命。全ては、我が手の内にある世界。
――『憐詛』支配者の光陰(マスター・スパーク)」
その直後、魔理沙の意識は白一色に染められた。
感覚も、衝撃も、音すらも無い。いっそのこと世界(幻想郷)が消失したのではと疑いたくなったところで、剥き出しの神経に千枚通しを通されたかのように鋭い痛みが全身を貫いた。異様な痛みに今度は自分の正気を疑いかけ、そのことで逆にはっきりと意識が覚醒する。
どうやら四肢に致命的な傷は負っていない、らしい。少なくとも、身体と繋がってはいるようだった。
どこをどう飛ばされたのか、彼女は最初の場所に戻っていた。上を仰ぎ見れば、鉄屑と化した観覧車の威容が黙然としてちっぽけな自分を見下ろしている。
その半ばほどに、ちょうど人ひとりが高速でぶつかったような凹みがあった。これは、彼女が致命傷を負う前に受け止めてくれたのか、それともその逆と見るべきか。
(動かない観覧車(役目を亡くした無意味)、か)
そんなことをとりとめもなく考えて、自称「普通の魔法使い」は目を瞑(つぶ)る。どちらにせよ、そんなことは大した差異ではなかったのだ。
うっすらと目蓋(まぶた)を開ける。遥か遠くの空に浮かぶ、やはり自分とは似ても似つかない少女の姿を目に留め、魔理沙は笑うように嘆息(たんそく)した。
「まいったな。これは、本当に手も足も出ないぜ。私は、死ぬときは桜の木の下と決めてるのにな」
「莫迦ね。そんなわけないじゃない」
ないはずの応えは、あくまでも軽やかに。
そして、突如として現れた炎が速やかに過去の幻影を焼き尽くした。
・星屑英雄伝(スターダスト・ヒロイズム)
「――『沌符』無秩序よ永遠たれ(カオス・レギオン)」
呟く声は、息のかかる程の傍から聞こえた。
何時から其処に立っていたのか。魔理沙の視界の片隅を、見覚えのある少女の後ろ姿が占めている。すらりと揃えられた指の先には、力を無くした一枚の呪符(スペルカード)。意味(イデア)を失い、端から崩れ落ちていくその前に、彼女は自ら腕を振るってその跡を霧散させた。
遠くの空に、一本の綺麗な松明(たいまつ)。脂と髪の焦げる臭い。月よりも明るく世界を浮かび上がらせるその罪(光)を背に振り返った少女は、確かにその相手と瓜二つの表情をしていたに違いなかった。
「まいったわね」
彼女は心底迷惑そうに顔を顰めると、背後の松明を顎で指す。
「どうして、魔理沙が二人もいるのよ。おかげで、どっちを焼き尽くせばいいのか軽く二十分ほど迷っちゃったじゃない。考えてみれば、二人とも撃てばそれで良かったわけなんだけど」
「アリス。なんで、お前」
呆然と呟く魔理沙の前に、のそのそと一体の上海人形が寄ってきた。背後に、彼女が亡くしたはずの黒帽子(トレードマーク)を引きずりながら。魔理沙はその様子をどこか無感動な瞳で眺めながら、頭上の言葉を聞いていた。
「何でって、私だって起きたくなんてなかったわよ。あなたが起こしたんじゃない。暗幕もない部屋の中で、水晶球の光だなんて解き放つから」
彼女が一向に動こうとしなかったからだろうか。帽子を引きずったまま、人形は魔理沙の身体を勝手に這い上がってきた。肩口まで登ったところで、自分の身長を優に超えるサイズのそれを持ち上げようとする。黒帽子がゆっくりと宙に弧を描き、立て掛けるように本来の場所へと落とされる。人形はそれだけの動作で精一杯だったのか、かぶされた帽子は前後が逆さまになっていた。
「ほら」
アリスが、やはり迷惑そうに手を差し出す。無意識に差し出した魔理沙の指が彼女の手の平の上に触れた瞬間、その手がくるりと反転して魔理沙の手首を掴み上げた。
そして、乱暴に引き上げる。傷ついた身体へのぞんざいな扱いに文句を返すことを思い出してから、魔理沙はその怪我の痛み自体が無くなっていることに気が付いた。
呪の言霊が吹き込まれている呪符(スペルカード)は、傷を治すなどという殊勝な力など持ち合わせてはいない。では、何故この身体には、現に何の被害も無いのだろうか。
「で、アレは何なの? 人形遊びの真似事にしては、私の前で少し程度が低すぎない?」
そんな魔理沙の思惑には一切と関係なく、一方的にアリスが話を進めてくる。
アリスの点火した夜空の灯火(ともしび)は、今まさに力尽きて落ち崩れようとしているところだった。まるで、西の空へと向かって墜ちていく明けの明星(古き蛇)。横目でそれを見つめる少女の貌は、はっきりと侮蔑の色を含んでいた。
代わりにというか、彼女の腕の中で無造作に抱えられた先ほどの人形が、無機質なほど真摯な瞳でまっすぐに魔理沙の方を向いている。彼女は、むしろその人形へと語りかけるつもりで口を開いた。
「……言ってみれば、あれは目覚まし時計だな。過去に仕掛けた、私から私へと贈る呪い。呪い(幻想郷)から、私自身を無理矢理にでも引き剥がすベル。忘れられない、もはや過ぎ去って手の届かない未来」
「音量によっては、十分に永眠できそうね? でも。まぁ。それにしても」
人形の主は、どこかで見た乾いた微笑みを浮かべてから、
『………………はぁ』
と、深い溜め息をついて見せた。
それは、随分と唐突な溜め息であったに違いなかった。その動作の拍子にか、魔理沙に向いていた人形の首が傾いている。アリスの、これ以上ないほど明確な呆れ顔と向かい合い、
(………――)
――突如として、魔理沙の奥底に火が点いた。
言葉もいらない。人形遣いの日を知らぬ顔は、息よりも近い場所にある。
手を伸ばせば、フリルの肩掛け(ケープ)は簡単に引き掴めた。逆の拳を握りしめる。感情のまま、重い一歩を踏み出しかける。そこで、彼女の世界は暗転した。
見れば、アリスの腕の中から彼女の人形が手を伸ばし、魔理沙の帽子を下ろしていた。人形にしてみればずれた帽子を直したかっただけなのか、逆さまになっていた向きは今は正しく直っている。
閉ざされた視界に魔理沙が体重の乗せ場を失ったところで、アリスがつまらなそうにその足を払った。あっけなく、魔女が再び地面に転がる。
「さっきから何やっているのよ、魔理沙」
その様を見下しながら、アリスが呟く。
水をさされた気分にでもなったのだろうか。魔理沙は埃のついたエプロンを一度だけ手で払うと、幽霊のように立ち上がる。
「あれは」
掠れるように発された声は、魔理沙以外のどこか遠くから響いてくるようだった。
「あれは、もうひとつの私の可能性だ。本来はあったはずの、霧雨魔理沙の正当な進化形。道を違(たが)えていなければ、私がああなっているはずだった」
「あ、そう。でも、わたしにはあまり意味のない違いよね。だってわたしは魔理沙じゃないし」
魔理沙からの返事はなかった。魔女は、怒っているのか泣いているのか、いっそ口元で冷笑を浮かべているのかもわからない表情で、アリスの前に立ちつくしている。
その姿に、アリスは少なからず嫉妬していた。それは、彼女にとっての理想のひとつ。何度か縫製(ほうせい)を試みてその度に失敗を重ねていた、理想の人形の姿だった。人と同一の形をとり、そして中身だけがない。中身がないということは、自分の手で何色にも染められるということであった。それ故に、「七色」と呼ばれた人形遣いは、その果てに白磁の表情を持つ上海人形を好んだのだ。
伸ばしかけた手を、その先が触れる直前で止める。
しばしの迷いの後、彼女は行き場を無くした手で乱暴に髪をかき上げた。
やはり呆れたような溜め息を吐く。そして、「なんでわたしがこんなこと言わなくちゃいけないのよ」とぼやいてから、アリスは背後の空を指さした。
「――あのね。あなた、本当にアレを大したものだなんて思ってるの?」
アリスが指した空は、つい先ほどに彼女自身が過去の魔理沙を燃やし尽くした場所だった。
だがその先にあるものは、下幻の月だけではない。
果たして、幻はまだ其処に在った。確かに燃え落ちたはずのその影が、全く同じ位置、寸分も変わらぬ格好で、あたかもそこにいることが当然のように立っている。
改めて姿だけを見やれば、その姿に魔理沙との類似点は確かに少なからず見受けられる。だが、やはりそれらは異なるものであることに違いなかった。異なるというより、相容れない。入っているものが別の何かである以上、やはりそれらは同じでない。
表情すらも同じまま、過去の悪夢である魔女は微笑む。先程までと違うことは、その「続き」があることだった。
その魔理沙は、絡めた指をアリスたちの方へと向けた。魔理沙は、それが殺意(スペルカード)に相当する彼女の意志(宣言)であることを知っている。幻想郷の全体から見えない力が流れ込み、ひとつの力(魔砲)を発動させる。
それは確かに、幻想郷最大の力であるに違いなかった。
「――ああ、なんだ」
魂をどこかに落としたまま、魔理沙の口から声が漏れる。
そう。この幻想郷の中において、アレは誰よりも大きいに違いない。それは、当然。何故ならば、アレには初めから形(姿)がない。幻想の器にいくらでも水を入れることができるように、アレは魔理沙の想像し得ることならば如何なる荒唐無稽な神秘をも顕現するモノなのだ。
「確かに、それだけの話。――だぜ」
黒帽子を被り直し、その下にある魔理沙の表情がこのときに決まった。
空が、過去の魔理沙の魔法によって覆われていた。ただでさえ境界の曖昧な幻想郷の空が、昼夜の区別もつかないほど薄い異界になっている。
もうそれは、幻想郷の中の魔法ではない。幻想郷と言う名の怪異、それが形となったものだった。
「安心していいわよ、魔理沙」
その大魔法にもさしたる関心はないように、アリスは人形の解(ほつ)れを気にしながら呟いた。
「負けそうになったら、その前にわたしが殺してあげるから。あなたを」
「そいつは有り難い」
一度だけ軽く息を吐いて、それから魔女は天を仰いだ。空を喰らい尽くした怪異は、今や魔理沙らの周辺の空間
にまで食い込んでいる。
その魔法は、きっとかつての魔理沙の終着点。
力を求め、その目的を定めなかった霧雨魔理沙は、いつかこんな魔法(破局)を作り出したに違いない。その点は、今の魔理沙も同じこと。意味を求めず、無意味を蒐集する癖は彼女自身の存在定義だ。
違いはひとつ。今の彼女は、「無意味」という名の目的を片手に生きている。
「――来たれ、その時」
儀式は進む。術者の元に集った力はその手の中で光となり、光は黒化(ニグレド)と白化(アルベド)の過程を経て、物質(バリオン)と同じ存在にまで高められていく。それは、臨界密度の光子(フォトン)でできた魔星であった。密度が高すぎるためか、周辺の木や土を手当たり次第に吸い込み始めており、同時にそこから放たれる太陽以上の光量に、辺りが白一色へと染め上げられていく。世界を喰らって造られた力は、やはりひとつの世界として魔理沙に牙を向けている。
「おぉ、これはまたすごいな」
目の前に自分の過去の理想を見て、魔理沙は軽く頭を掻いた。
「だがまぁ、あれだ。とりあえず、それは私にはおおよそ関係のない世界。何故ならば、今の私は昔の私じゃないからな。当たり前だが」
彼女の声に曳かれるように、世界の中心が、叫びを上げた。
「裁定はひとつ。この先に光はなく、この先にはまた闇も無し。
永劫に渡りて、あらゆる思念は此処に留まる。受け入れよ。宣言するは、絶対者なり(我が他に無し)!
――『終焉(Last Word)』神が告げる破局(ブレイジング・スター)!」
集った力が、放たれる。
迫り来る圧倒的な力に対し、魔理沙が行った動作は簡潔だった。左手を前に差し出す。その手には、呪符(スペルカード)も握られていない。それはただ、目の前で急に開けられた扉を受け止めるときのように、軽く前に突き出されただけだった。
そして、実際にそれは本当にただそれだけのことにしか過ぎなかった。
光が爆発、――することはなかった。
潮が引くように、幻想郷を満たしていた光が収まる。
その先にあるものは、いまだ腕を掲げたままの「普通の魔法使い」の姿だった。
何が起きたのかも分からないのだろう。過去の魔理沙(愚者)が顔色を失くす。その様を見届けて、魔理沙は満足そうに笑みを浮かべた。
「夢の時間は終わりだ。私は、これからおおよそ本格的な眠りに入る。覚めない夢であるならば、それは現実であるに違いない。……ああ、別に推理小説に興味はないぜ?」
応えはなかった。彼女はすぐさま、次の魔法を装填する。
「永遠の時間。終わり無き世界。その果てを、今に見る。
――『魔空』愛憎の連鎖劇(アステロイド・ベルト)」
周辺の木と岩が地表ごと持ち上がり、幾重にも折り重なる直線軌道の弾幕となって魔理沙一人に降り注いだ。岩たちは迫り来る間にもみるみる崩壊を繰り返し、より複雑奇怪な結界と化して魔理沙を襲う。が、
「やっぱりな」
魔理沙は落とした箒を呼び喚せると、自ら弾幕の最中へと飛び込んでいく。
この弾幕と同じだけの規模の魔法を、今の魔理沙は実現できない。だが、その横顔は凛とした自信に満ちていた。
「こんな、殺す気満々の分かりやすい弾幕。幻想郷(ここ)じゃぁ、誰も当たってくれないぜ」
その言葉に、嘘はない。
魔理沙は混沌に満ちた弾幕の中を、まるで意も介さぬ様相で擦り抜けていった。まるで、弾が自ら魔理沙を避けているように見える。だが、そうではない。魔理沙は、単にその弾幕の中に相手の意志を見取っているだけだった。
弾幕には、常にそれを放つ者の本質が顕れる。
無論のこと、この幻想郷に一筋縄で済むような素直な人妖がいるわけもない。
それを考えれば、この弾幕はなんと退屈なのだろう。
「着いたぜ」
不敵に、魔理沙が口の端を上げる。其処はもう弾幕の外側。呆気にとられた、過去の魔理沙の目の前だった。
「なんなの、あなたは――」
「私か? 私は、しがない普通の魔法使いだ。取り立てて説明するところと言えば、巫女とは相性が悪いことくらいだな」
「あなたは、霧雨魔理沙ではないの? そんなはずはない、あなたが貴女である限り、現実が理想を超えない限り、わたしを凌駕するなんてことは有り得ない――そんな自己矛盾、許されているはずがない!」
吼えるように絶叫する少女に、魔理沙は
「超えちゃないさ」
と、素直にそれを認めた。
呆気に取られている相手を視界の端に納め、鼻を鳴らしてから後を続ける。
「ここまで愚かしいと、我ながら嫌になるな。魔女とはあくまで異質の徒。比べるのは、ベクトルの長さではなく向きだけでいい。一斉に同じ方向を向いた怪異ってのは、魔術ではなく技術と言うんだ。だからこそ、この幻想郷は永遠の異質。こうまで相容れない似た者同士の集まりなんざ、外の世界じゃちょっとお目にはできないぜ?」
それにな、と魔女は帽子を深く被り直し、はにかむように宣言する。
その言葉こそが、彼女の本質。それこそが、彼女が紛れもない霧雨魔理沙であるが故の魔法(スペル)であることを意識しながら。
「――勝手に決めるな。こと私の世界に置いては、いつだって私ひとりが最強だぜ?」
「あら、思ったよりも頑張っているようね」
人形を縫製する手を止め、アリスが呟く。
「まぁいろいろと頑張って頂戴、魔理沙。結局どちらも魔理沙なわけだけど、騒ぎは取り返しの付かない方が賑やかでいいわ」
それだけを口にすると、彼女は再び手元に視線を落とし、右手の針を動かし始めた。彼女の人形はその心臓に縫いつけた呪符(スペルカード)の力で動かすが、間接はあくまで人形のそれだ。もとより、大きく動くようになどできていない人形を無理に動かしている以上、こうした修繕(しゅうぜん)は欠かせないことだった。
「まったく、困ったものよね。最近ではどこか異界の電気街で全身フル稼働の人形(フィギュア)が売ってるとか聞いたけど、本気で香霖に用立てしてもらおうかしら」
彼女は、寂(さび)れた観覧車の下に座り込んでいた。どこから持ってきたものか羅紗(らしゃ)の絨毯を地面に引き、その上で行儀良く正座している。弾幕の流れ弾が周囲に降り注いでいたが、彼女はさして気にも留めていなかった。
空中では、まだ2人の弾幕劇が続いている。
それなのに。彼女の背後から、もう一人の過去の魔理沙が近づいていた。
その魔理沙は、ゆっくりとアリスの首筋に手を伸ばし、
「邪魔よ」
その声が響いたときには、更にその背後から現れた上海人形の集団に全身を串刺しにされていた。
人形遣いは、顔を顰(しか)める。一体の人形が取り繕い終わったところで、また修繕をしなければならない人形が増えたことに気が付いたからだった。
八つ当たりをしようとしてその相手がいないことを思い出し、アリスは諦めたように空を見上げた。愚痴の代わりに、自分の率直な気持ちを声に出す。
「夜更かしは肌にも悪いし。でも約束した手前、一人では帰れないわね。早いとこ、終わらせてくれるといいんだけれど」
「は。はは。はははははははっっ!」
魔女の哄笑が、弾幕を覆い尽くす勢いで響き渡る。
その世界は、最早魔理沙ひとりのものであった。放たれる無理無数の弾丸を、そよ風の中を撫でるようにその一粒一粒を全身で感じながら抜けていく。
彼女は、楽しんでいた。だが、余裕があったわけでは決してない。如何に弾幕の流れが読めるとしても、量次第では意味がなくなる。非常識な弾速と密度。何よりもそのひとつひとつに込められた魔力は、一度の直撃で彼女の全機(全霊魂)を失うに足るものだった。
その境地において、尚も魔理沙は笑い続ける。死地だからこそ笑う。魔理沙だからこそ、笑うのだ。
ただ避けるだけでは飽き足らず、彼女は自ら弾幕のもっとも密集した地帯へと踏み入れていく。そして、存分に致死の殺意を堪能した後、蜘蛛の糸に例えられるような紙一重の差で身をかわす。その行為に意味などない。それ故に魔理沙は楽しみ、そしてそれが彼女に取っての「力」となる。
「天地開闢(かいびゃく)し、土色満ち足り。月影蒼くして、日は煌々と照らしめり! 宴よ、此処に記すは磐石(ばんじゃく)の理。付き従うは、世界の陰にして主なり!
――ふはははは、踊れ、踊れ! 今宵に降り頻(しき)る流星雨は、ちっとばかり容赦が無いぜ!」
弾幕の最深部、極限にまで密度が高まっているその場所で、魔理沙の叫び(宣言)が空虚(ヴォイド)を満たす。
彼女を襲う弾幕が、その形を変えていた。線から弧へ。弧から円へ。次第に、魔理沙を取り囲むようにではなく魔理沙へと従うように規則的な軌道を為して行く。そこに、魔理沙自身の天球儀(彗星)までもが加わった。ただ一つだけの軸を持ち、楕円に潰れて回周する弾塊たち。その様を表す言葉は、ただひとつしか有り得ない。
まるで、誇るような魔理沙の笑み。それが露ほども逸らされることなく、彼女自身の過去の像へと向けられる。
続く言葉は、彼女の口の中でだけ呟かれた。
「――『銀河』少女群像幻想(ギャラクシー・エンジェル)。
星より生まれる、ひとつの世界」
その瞬間を境に、弾幕が解放された。
あるモノは月へ、あるモノは地へ。あるモノは木へ。あるモノは人へ。あるモノは、幻想郷の外へまで。
銘々(めいめい)が、まるで無秩序に、自由に夜空を駆け巡る。今や、この夜の支配者は月でも、魔女達でもなく、彼らのものになっていた。直線と曲線の区別もない、天蓋(てんがい)という下地(キャンバス)を塗り潰すが如き自在な筆跡。誰にも、その権利を縛ることなどできなかった。
それは、広場へと手を引かれた子供達のように。篭(かご)から放たれた鳥のように。手枷(かせ)を外された魔女のように。
不思議なことに、それでも空を裂く無数の弾幕の奏(かな)でる音はひとつの旋律(メロディー)として聞こえていた。伝統(クラシック)。反逆(ロック)。背徳(メタル)。律動(ダンス)。流行(ポップス)。不規則に調子を変え、時には融合する気まぐれな感情。魔女の拍子(タップ)が、同じ気まぐれさでそこに合わさる。
やがて、その上に悲鳴までもが加わった。
親の目を放たれた少女達(弾幕)は、誰からも制御されない。それらは、二人の魔女に残酷なまでの公平さで襲いかかる。にも関わらず、悲鳴はどこまでも一色だった。もはや滅んだ、過去の魔理沙だけが延々と苦痛の声を上げている。
「そんな、なんで――きゃぁっ!?」
「教えてやろうか」
それまで弾幕とのダンスを楽しんでいたはずの魔理沙が、陰のようにその背後から現れる。ぼろぼろになった少女が振り向こうとした瞬間、途方もない力で全身を跳ね飛ばされた。至星天球儀(オーレリーズ・ソーラーシステム)の防御も間に合わず、下位概念であるはずの魔理沙の天球儀(サン)にあっけなく弾き飛ばされる。
落下の衝撃は、地に落ちるよりも早く来た。そこは魔理沙の夢の残骸、錆び付いた観覧車の中心だ。彼女は、円陣を支える二本の主骨、その交差点に整備用として設けられた、わずか数フィート四方の足場の上に叩きつけられたのだ。
彼女が力のない足で立ち上がろうとしたそのとき、トン、と恐ろしいほどの軽快さでそこに降り立つ者がいた。
過去の魔理沙は目の前の少女(現在)を恐れ、魔法を放つことすら忘れていた。ただあたふたと、半ば這いずるように逃げ出そうとし、
「とどめだ」
魔理沙の腕が、容赦なくその背後の壁へと突き立った。その手の先には、光を放つ(宣言された)一枚の呪符(スペルカード)。
逃げ道を封じられ、少女はすがるように魔理沙を見上げる。
「見やがれ。これが今の私の魔法(スタイル)、だぜ」
舌を舐めるような不吉極まりない笑みを浮かべ、そして彼女は宣言した。
「囁きが、声になり、唄を紡ぎ、祈りへと至る。
――『幻灯』聖夜に灯す夢(スター・パレード)」
同じ刻(こく)、そこはかとなくだけ離れた場所。
小高い丘の上に儲けられた社のその縁側で、ひとりまったりと杯など傾けている少女が居た。
少女にしてみれば、それは別に珍しいことでもなんでもない。いつも通り、寝る前にささやかに行う彼女ひとりの月見であった。
彼女は花と鳥と風邪も好きだが、月はその中でも特別に好きだった。月見はお酒と団子を摘むための理由としては十分だし、何よりも花や鳥と違って、雨さえ降っていなければ夜空を見上げるだけで年中無休そこにあるのが素晴らしい。
風邪のときはまた別の理由で、黒いのが大人しくしてくれるのが、楽で良かった。もっともその大半は仮病なわけだが。
満月には程遠い弧を眺めながら、湯飲みをゆったりと口へと運ぶ。その中身は当然の如く白湯(さゆ)ではなく御神酒(おみき)であるが、以前の騒動で連日の宴会騒ぎに懲りていた彼女は、代わりの徳利(とっくり)を用意しないことにしていた。そのため身体は火照(ほて)るほど暖まっているわけもなく、夜の寒さに震えながら、それでも部屋の中に引っ込もうとは一向にしない。
夜風に息をなびかせながら月とそれに照らされる森を見つめていた彼女は、そこに常ならば見かけないものを見つけた。遠目に映る森の一角、不自然に盛り上がった場所が、淡い光を発している。
目を細め、それが何であるかを朧気(おぼろげ)に理解した少女は、やがて満足気な表情をして呟いた。
「あら。これはまた、幻想的(素敵)なこともあるものね」
・贈る言葉(ラスト・スペル)
夜の森に無数の燐光が降り注ぐ。
辺りから、もはや闇は払拭されていた。飽和するような柔い光が、上ではなく足下から広がっている。
魔理沙は周囲を見渡して、なんとなく予想していた通り、自分の幻影がもう跡形もなく消えていることを確認した。呪符(スペルカード)の力ではない。役目を亡くした幻影は、愚かにもそのまま崩れ去るしかなかったのだ。
硬いだけの鉄は、むしろ脆い。激流は、その早さ故に川底を流れる小石に気付くことはなく、積もった小石が流れを変える頃には、勢いのついた激流に自身を制御する術はない。ましてや力だけを求めた結果、ただ死んだだけで壊れる存在(もの)など、初めから彼女には何の脅威にもならなかったのだ。こと、この幻想郷においては、死んでからの方が元気な奴も多いと言うのに。
戯(たわむ)れるように一度だけ目の前の鉄骨を箒の柄で打ち鳴らすと、魔理沙は足場から身を投げた。
「呆れた。ここまで素晴らしく意味のない魔法なんて、本当に初めて見たわ」
地面に足を下ろすと同時、アリスがそんなことを言ってきた。
彼女の視線に釣られるように、その姿を真下から見上げる。
それこそが、魔理沙の答え。光を発しているのは、錆び付いて二度と使い物にならないであろう観覧車そのものであった。
各所に色取り取りの光の華を裂かせているその姿は、さしずめ星屑の花壇のようだ。様々な光が点いては消え、消えては浮かび上がり、ひとつひとつは決して大きくないその光量が集まって、観覧車の全体をまるで幻のように儚く浮き立たせている。
動かない観覧車に意味はなかった。だから、その無くした下地の上に、魔理沙が新しい理由を授けたのだ。それが、誰かにとって必要なものであるかどうかは関係ない。たとえ彼女以外の者に取ってはそれが死と変わらないものであれ、そこには彼女の定めた意味がある。だから、魔理沙は満足していた。
「それは、褒め言葉だと受け取っておくぜ」
魔女は笑う。心底から、自分の為した結果を見て笑いしきる。これで笑えないならば、彼女は他に笑うべき場所を見つけることなどできなかった。
「……あら?」
アリスが、それを見つけて声を上げた。地面に、一冊の魔導書(グリモワール)が落ちている。どこか高い場所から落ちたものか、周囲の土が抉れていた。
初めから予想していたのか、アリスはその表紙を見ても眉ひとつ動かすことはなかった。それは、午後に彼女が魔理沙の家で読んでいた魔導書に他ならない。ただし今は、あのときには薄くしか感じられなかった魔力の残滓がはっきりと残っていた。
魔導書は、それ自身がひとつの呪符(マジックアイテム)である。そこに込められた魔法の系統を解き明かすことは、彼女にとってはさして難しいことではなかった。
「――まぁ、本当に普通の黒魔法。なるほど、幻想郷から自分自身を追い出すには、其処にいる資格のない者、幻想郷へ入る前の自分自身へと戻してしまうのが一番いい。そのために過去の自分を理想化させて、その幻像に屈服させようとしたわけね。さしずめ、『記憶を幻実にする程度の能力』ってとこかしら」
くだらない、と呟きながらページを捲る。
「これが、若さ故の過ちってものだぜ。たぶんな」
魔理沙は、苦笑で応えるしかなかった。その魔法を仕掛けたことを忘れさせるため、魔導書を焼いたと自分自身の記憶まで差し替えるあたり、本当に「あの」自分らしいと思ったからだ。
「それにしてもこの本、本当に私好み。昔とは言え、そこの魔理沙が書いたものだなんて、とても――」
ぱらぱらとページを捲っていたアリスの手が、そこで止まった。
「……ごめんなさい。どうやら、私の勘違いだったようね」
魔理沙はぎょっとして振り返る。彼女が謝るなどと、ましてや自分の誤りを認めるなどという異常事態が有り得るとは思いもしていなかった。
「今も昔も同じことだったわ。この本の著者、やっぱり魔理沙以外には有り得ないみたい」
惚けた表情で口にするアリスを不審に思い、その背後から魔導書を覗き込む。開かれているページは、その本の最後。大部分を真っ白な余白が埋める中、一言だけ手書きの文字が見て取れる。
「まいったな、これは」
返すべき言葉が思いつかず、仕方なく魔理沙は夜空に浮かぶ観覧車を見やった。
その姿は、異様でもあり、滑稽でもあり、それでも、畏怖堂々と誇っているかのように見えた。
『 私は、究極の魔法を思いついた。
だが、この本はそれを記すにはページが少な過ぎる。
もし誰かが100万ページの余白を用意してくれるなら、
その時は中身を書いてやることもやぶさかではないぜ? 』
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ここに一つの命題がある。その魔法使いは、何時から「普通」であったのか。
魔導を学び始めた後か。あるいは、普通であるからこそ更なる異端を求めたのか。
そして、幻想郷に入る前の彼女は、果たしてどちら側だったのか。
――人形遣いが見つけてきたその本は、もはや切っ掛けにしかすぎない。
凍えるほどまでに穏やかな夜の中、魔女と幻影の輪舞が始まる。