No.166921

リトバスSS 「バッドエンド」

機工さん

沙耶さんに仲間たちとの想い出を。結構長いです

2010-08-20 10:41:27 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:4500   閲覧ユーザー数:4446

 

【ネタバレを含みますので、未プレイの方はご注意ください】

【Arcadiaさんおよびハーメルンさんにも投稿してあります】

 

 

バッドエンド

 

 

波は寄せ、波は返す。

『世界』もまた、波のごとく輪廻を繰り返す ――

そんな哲学じみた話はどうでもよくて、昼休み開始のチャイムと同時に僕、直枝理樹は学食に向かった。

カツカレーにしようか、A定食にしようか、実はまだ決めかねている。

よし、先に真人の姿が見えたらカツカレー、謙吾だったらA定食。

そうしよう。

「ちょっと、あなた」

食堂の入口を見張っていると、女生徒に声をかけられた。

白いリボンをつけた、綺麗だけど見たことのない人だ。

「はい? 僕?」

「そう。あなた」

睨まれている気がして、僕は因縁をつけられるのではとドキドキしてきた。

「何か……用?」

「あなたは今夜、大事なノートを教室に置き忘れたことに気付くわ。命が惜しければ、直ちに夜の校舎にノートを取りに行くこと。分った?」

「……ええと、何を言っているのか理解できないんだけど」

もしかして、変な人に絡まれてしまったんじゃないか?

美人なのに気の毒に。

僕は退路を確保しようと、後ずさりした。

「待ちなさい。なに逃げようとしているのよ」

「いやいや、やっぱりそれは……」

「もう一度言うわよ。今夜、夜の校舎にノートを取りに行くこと。しっかり頭に叩き込んでおきなさい」

「……どうして? 今夜って先の話だよね」

僕は誰か知った顔がいないか、あたりを見回した。

「あなたが来てくれないと、話が進まないからよっ」

「はい?」

「まったく、とぼけた顔して。毎回毎回、待ちぼうけ食らわされる身にもなってよ。どうしていつも『明日でもいい』って考えちゃうわけ? 一度くらい『取りに行く』って選択肢はないの? ホワーイ?」

女生徒は顔を紅潮させて叫んだ。

「そ、そうだね。気をつけるよ、あははは……」

逃げよう。

僕は心に決めた。

「ちょっと待ちなさいよっ」

しかし、襟首をつかまれて引き戻される。

「あなた、わざとやってるの? たった一度しかないチャンスを逃したら、あたしの出番は二度と来ないのよ? リセットがかかるまで、あたしは夜の校舎でひとり寂しく過ごさなけりゃならないのよ? こんな扱いってありなの? 間抜けすぎて笑えちゃうわよ。あなた、笑いたくてやってるんじゃないの? だったら笑っちゃいなさいよっ! あーっはっはっはって!」

「うわぁ……」

「あーっはっはっはっ!」

女生徒は勝手にキレて、つばを飛ばしまくっていた。

言いがかりの理不尽さは、あの真人をも超えている。

「と、とにかくっ!」

女生徒は呼吸を整えると、また僕を睨んだ。

「今夜、夜の校舎にノートを取りに行くこと。分った?」

「う、うん……そうするよ」

僕は相手を刺激しないことだけを考えた。

「絶対だからね」

「うん……」

言いたいことを言って立ち去るナゾの女生徒。

僕はほっとした途端に力が抜けて、カツカレーでもA定食でも、どうでもいい気分になっていた。

「……何だったんだろう、あの人」

 

そして、夜。

真人が僕のノートを教室に置き忘れてきたことが発覚する。

「予言通りになった……」

明日テストがあるのに、何ということをしてくれたのだ。

あの人はいったい何者なんだろう、どうして先のことが読めたんだろう。

様々な疑問が湧いてくるけど、考えたって分りっこない。

「理樹、顔が青いぜ」

「青くもなるよ」

「そんなにノートが恋しいのか? 明日でいいじゃねぇかよ」

「……」

そうだ、あの人はきっと妖怪に違いない。

この学校にも、とうとう妖怪が住みついたんだ。

言われた通りに出かけたら、捕まって食べられてしまうかもしれない。

妖怪きょげー。

そう名付けると、何故かしっくりくる。

わけの分らない奴には、関わらない方がいいに決まってる。

「明日にしよう」

僕は決断した。

 

 

 

また時が巡って次の世界。

何も知らない僕は学食に向かう。

今日は麻婆豆腐にしようか、おしゃれにサンドイッチセットにしようか。

「ちょっとあなた」

「はい? 僕?」

「そう。あなた」

券売機を前に迷っていると、見知らぬ女生徒に声をかけられた。

「こっちに来なさい」

「ええっ、まだ食券を買ってないんだけど」

「つべこべ言わずに来いっての!」

「うわぁっ、人さらいっ」

有無を言わさず、学食の裏に引きずられていく僕。

「さて。言い分があるなら聞くわよ?」

逃げないように壁に身体を押し付けられ、正面から睨まれた。

「あれほど言ったのに、よっくも約束をすっぽかしてくれたわね」

「人違いだって! キミとは初対面……あれ」

何故かその女生徒を見たことがあるような気がした。

「……どこかで会ったっけ?」

「……」

唐突に『妖怪』というキーワードが頭に浮かぶ。

「あ、妖怪きょげー……」

「誰が妖怪なのよ!」

顔を近づけて叫ばないでください。つばが飛んできます。

「ご、ごめん。でも何だかしっくりくるんだ」

「……ふぅん、まるっきり振り出しに戻るわけじゃないのね」

女生徒は意味不明なセリフをつぶやいて、腕を組んだ。

少し落ち着いてきたようだ。

「えーと、それじゃそういうことで……」

「なに立ち去ろうとしてるのよ。話は終わってないわ」

それから僕は、今夜は校舎にノートを取りに行かなければならない、と告げられた。

納得しようがしまいが、そうしなければならないらしい。

だけど僕の行動によって自分の出番がなくなるとか言われても、何がどうつながっているのやらさっぱりだ。

その辺を突っ込むとキレた末に「あーっはっはっ」と笑い出す始末で、僕の手に負えそうもなかった。

とにかく、僕が「行く」と約束するまで解放するつもりがないことは理解できた。

「あーもー、分ったよ。行くよ」

「よろしい」

僕が根負けして言うと、女生徒はすこし表情を緩めた。

理不尽な脅しに屈したみたいで、かなり悔しい。

「行くったら行く! 行くなと言われたって行ってやる!」

「意地にならなくてもいいわよ。だけど、今回は監視させてもらうわ。悪いけど」

「監視?」

「ええ、そうよ」

「気味が悪いなぁ。やっぱり妖……」

最後まで言う前に頭をひっぱたかれた。

「乱暴な人だなぁ。じゃあ、名前くらい教えてよ」

「……朱鷺戸沙耶」

女生徒がぶっきらぼうに名乗った。

「珍しい苗字だね。朱鷺戸さん……何だか呼びづらいな。沙耶さん……うん、こっちの方がいい」

「ちょっと、いきなり名前で呼ぶってどうなのかしら」

「『沙耶さん』の方が一文字少なくて効率的でしょ」

「そ、そんなことで決めないで欲しいわ」

「駄目。沙耶さん」

僕は意固地になって言った。

 

 

「理樹。何だよそいつ」

「朱鷺戸沙耶さん」

「いや俺が訊きたいのは、どうしてそいつが俺たちの部屋にいるのかってことだ」

「僕を監視するんだってさ」

「……」

僕と真人の対面に、沙耶さんが当たり前のような顔で座っていた。

「なあ、それっておかしくねぇか?」

「うん、僕もそう思う」

「理樹はいいのかよ?」

「よくないけどいい」

「……」

真人が首をかしげていた。

僕は真人の言いたいことがよく分っているつもりだ。

でも大見得を切ってしまった以上、後には引けない。

何があろうと、ノートを取りに行ってやる。

決意も新たに時計を見ると、いい時間だった。

「真人、僕のノート、教室に忘れてきたよね」

「え? な、何で知ってるんだよ」

真人が目を丸くしている。

「僕には分るんだ」

「そ、そうなのか?」

「うん。行くよ、沙耶さん」

僕は沙耶さんの手を取って立ち上がった。

「え? ちょっと待って。あたしが先に行って段取りをしないと……」

「駄目。沙耶さんには、僕が確かに約束を果たしたことを見届けてもらうんだから」

「いや、こっちにも色々と準備があって……」

「いいから、早く」

「ちょ、理樹くんっ」

意固地モードの僕は、沙耶さんの手をつかんだまま部屋を出た。

「理樹、どこに行くんだよ」

「ノートを取ってくるんだ。止めたって無駄だからね」

尻ごみする犬を引っ張るみたいにして、ずんずん歩く。

「理樹くん、待ってったら」

「駄目」

夜だから正面玄関は閉まっているけど、侵入ポイントを押さえている僕に隙はない。

非常口の階段を登って鍵がこわれているドアを開け、難なく夜の校舎に忍び込む。

気合がみなぎっているから、真っ暗な廊下だってへいちゃらだ。

そして僕たちは教室に入り、問題のノートを手に入れた。

「やった!」

ちょっとした達成感があった。

その頃には、沙耶さんは抵抗しても無駄だと諦めたのか、大人しくなっていた。

「どう? これで約束を果たしたよ」

僕は胸を張った。

「……はぁ、すっかり予定が狂っちゃったわよ」

「ため息なんかいいから、褒めてよ沙耶さん」

「はいはい。よくできました」

「何だか投げやりだなぁ」

ともあれ、目的達成だ。

何かを成し遂げるのは、気分がいい。

「よし、寮に戻ろう」

「……こんなことって……一体どうすればいいのよ」

沙耶さんはしょぼくれた足取りで、後ろをついてきた。

「ねえ、言われた通りにノートを取ってきたけど、これで何かが変わるの? ……って、あれ?」

いつの間にか、沙耶さんはいなくなっていた。

待っても現れる様子がない。

「沙耶さんが取りに行けと言うから、行ったのになぁ」

まあいいや、これで明日のテスト勉強が出来る。

何がしたいのか分からない人だったけど、結果オーライだ。

僕は意気揚々と、真人が待つ部屋に引き揚げた。

 

「実はあたし、スパイなの」

数日後、中庭で沙耶さんを見つけて話しかけると、また妙なことを言い出した。

「何よその『うわぁ、話しかけるんじゃなかった』って目は」

「いやいや、そんなこと思ってないから」

「ま、信じなくてもいいけど。もうこの世界にあたしの出番はないから」

沙耶さんがスカートの下に手を入れたと思うと、次の瞬間には拳銃が握られていた。

スチャッと格好よくポーズを決める。

脚にホルスターなんかつけて、ミリタリーマニアなんだろうか。

「ちょっと沙耶さん! そんなオモチャを学校に持ち込んだら駄目だよ」

「あ」

僕は沙耶さんの手からオモチャを取り上げた。

「風紀委員に見つかったら大変だよ? これは僕が放課後まで預かっておくから」

「それはオモチャじゃ……いや、いいわ。何でもない」

沙耶さんはあきらめたように笑った。

「どうせ使うことはないんだし」

そして「ちょっと貸して」と僕の手からオモチャを取って素早く何かを外し、返してよこした。

多分、弾倉を抜いたんだと思う。

扱いなれてるなぁと思ったけど、マニアならそんなものだろう。

「出番がないと、この先長いのよねぇ」

沙耶さんがごろんと芝生に寝転んだ。

「もしかしてヒマなの?」

「ええ、退屈で死にそうになるくらい」

「そっか……だったら、僕たちと一緒に野球しようよ」

僕は思いつきを口にした。

我がリトルバスターズは、メンバーが足りなくて困っている。

沙耶さんなら運動神経もよさそうだし、うってつけの人材ではないか。

「野球ねぇ……」

沙耶さんは、あまり気乗りしない様子で雲を眺めていた。

「ヒマにしてるより、ずっと充実した生活をおくれるよ?」

「そうかしら」

「ダラダラしていたら、身体がなまっちゃうよ?」

「自分でトレーニングくらいするわよ」

「思い切りかっ飛ばすとストレス発散になるよ?」

「それはそうでしょうけど」

「だからやろうよ、沙耶さん」

ありきたりな文句しか浮かばない自分が情けなかったけど、僕は手を差し出した。

 

「理樹。まだこいつに監視されてたのかよ」

沙耶さんをグラウンドに連れて行くと、真人が呆れた顔をした。

「あはは、あれはもう解決したんだ。みんな、この人は朱鷺戸沙耶さん。新しいメンバーだよ」

僕は苦笑して、沙耶さんを紹介した。

「綺麗な人なのですっ」

「理樹くんも隅に置けませんなぁ。ねえ、姉御」

「うむ。どうやって懇意になったのか、後で詳しく聞かせてもらうとしよう」

沙耶さんはたちまちみんなに囲まれ、困ったような顔をして立っていた。

「恭介、例の入団テストやるんでしょ」

「……」

振り返ると、恭介は何故か愕然としていた。

「恭介?」

「ち、ちょっと待ってくれるか」

そして沙耶さんを少し離れた場所に引っ張って行き、何か話しはじめた。

「どういうことだ」「だって仕方ないじゃない」―― そんな会話が聞こえてくる。

二人は初対面ではないようだ。

「話が違うだろうが」「だから不可抗力だって言ってるでしょ」

僕は、ああそういうことか、と納得した。

全部、恭介が仕組んだシナリオだったのだ。

ノートを取りに行かなければ出番がなくなるだの、学生の身分でスパイだの、あんな馬鹿げた話が本物であるはずがない。

沙耶さんと知り合い、仲間に誘うのはあくまで僕の役割。

そうとも知らずに、すっかり踊らされてしまったわけだ。

あんな驚いたふりまでして、まったく恭介と来たら。

「ふっ。まさかあいつを引っ張って来るとはな」

やがて恭介が戻ってきて、肩をすくめた。

「これで、恭介の筋書き通りってことだよね?」

「筋書き? そうなのか?」

「またまた、とぼけなくていいから」

「いいや、あいつを連れてきたのはお前の力だ」

「あはは、僕の行動力も捨てたものじゃないでしょ」

「ああ、恐れ入ったよ。……少々勘違いが入ってるようだが」

「勘違い?」

「まあいいさ」

恭介がメンバーの顔を見回した。

「みんな、『今回は』そういうことにしよう。いいよな?」

僕はもう一つくらいツッコミを入れたかったけど、恭介が真面目な顔をして言うのでタイミングを逃してしまった。

「マジかよ」

「俺は構わんぞ」

「異議なしなのですっ」

真人は呆気に取られており、謙吾は腕を組んで微笑んでおり、女子メンバーはおおむね歓迎ムードだった。

鈴だけは頭の上にはてなマークを浮かべていたけど。

「よし、合格!」

恭介が宣言した。

「え、テストしなくていいの?」

「ああ」

こうして、沙耶さんが僕たちの仲間に加わったのだった。

 

打ってよし、守ってよし、走ってよし。

僕が見込んだ通り、沙耶さんは運動神経抜群だった。

とりわけ、フライをキャッチするのが上手い。

目がいいのだろう、空高く上がったボールを見失うことなく、正確に落下地点を予測して動くことが出来た。

「このくらい、スパイに必要な能力の基本中の基本よ。どうってことないわ」

「まだスパイとか言ってるし」

鈴のリリーフ用にどうかとマウンドに立たせてみると、球威はともかくコントロールが良いことが分った。

「これは使えるな」

「ああ、いい素材だ」

謙吾と恭介がうなづき合っていた。

バッティングも悪くない。

ほとんど空振りすることなく、バットにボールを当てることが出来る。

そして甘いボールが来たら三塁線ぎりぎりに引っ張ってみろと指示が出ると、あっさりとランニングホームランを放つのだった。

「沙耶さん、ポイント高いよ」

僕はダイヤモンドを一周して戻ってきた沙耶さんを出迎えた。

スカウトしてきた身としても鼻が高い。

「だから、このくらい基本だって言ったでしょ」

沙耶さんはすました顔をしていたけど、まんざらでもなさそうだった。

「理樹くん、スパイの世界は厳しいのよ。バットやボールに罠を仕掛けられている可能性はないか、物陰から狙撃される可能性はないか、あらゆるイレギュラーな事態を想定して気を配らないと生き残れない世界。一瞬の判断ミスが命取りになるんだから」

講釈をたれながら、沙耶さんはブラウスの胸のあたりを気にして引っ張っていた。

「沙耶さん、そろそろスパイネタから離れようよ」

「ネタって何よ、失礼な。あたしは生き残りをかけたスパイの世界でも超優秀な……ああ、もぅ!」

「ねえ、ブラウスがどうかしたの?」

「走った拍子にポロリしたのだろう」 来ヶ谷さんがニヤニヤしながら寄ってきた。 「さり気なく、おっぱいが大きいことをアピールしたいのではないか」

「……」

つい沙耶さんの胸元に目をやると、真っ赤な顔でにらまれた。

「うわ、ごめん」

「ん? スポーツブラを着ければいい話じゃないのか?」

「羨ましいのですっ。わたしも一度でいいからポロリを味わってみたいのですっ」

そこへ鈴とクドが火に油を注ぎにやってきてしまった。

「いやいや、スポーツブラは問題大ありですヨ? あのお色気のないシルエットに甘んじるくらいなら、あえてポロリの危険を冒す選択もまた乙女心」

さらに葉留佳さんまで。

僕は、今のうちにそっとこの場を離れるべきではないかと考えた。

「あーっ、うっさいわねもう!」

突然、沙耶さんが髪をかきむしって叫んだ。

「そうよ、ポロリしちゃったのよ! 舞い上がって後先考えずに走ったらこのザマよ!  黙っていればバレないんだからいいじゃない! あたしだって失敗することくらいあるわよ! あたしの持ち物なんだから、収まっていようがはみ出そうが勝手でしょ? スパイはポロリしちゃいけないって決まりでもあるわけ? それとも何? 間抜けなスパイだって言いたいわけ? ああそうね、その通りよ! だったら笑えばいいじゃない! あーっはっはっはって笑っちゃいなさいよっ!」

「うわ、出た。わけの分らない自虐パフォーマンス」

「あーっはっはっはっ!」

沙耶さんはひとしきりみんなの生温かい視線を浴びて笑っていたけど、やがて顔を赤らめて沈黙した。

やってしまった、と顔に書いてある。

「理樹」

真人が僕の横に来た。

「なに?」

「こいつ、面白ぇ」

真人の言葉が追い打ちをかけたらしく、沙耶さんは後ろを向いて座り込んでしまった。

何やらぶつぶつ呟く声が聞こえてくる。

「よし、今日の練習はここまでにしよう」

恭介の合図でみんなが後片付けを始めても、沙耶さんはまだ復活出来ずにいた。

小毬さんが「よしよし」と頭をなでており、西園さんが「人は失敗をバネに強くなれるのです」と教訓をたれていた。

「ねえ来ヶ谷さん、沙耶さんって打たれ弱いのかなぁ」

「勝手に自爆してダメージを受けているのだから、打たれ弱い以前の話じゃないか?」

「やっぱりそう思うよね……」

「でも、おねーさんは好きだよ。見ていて飽きない」

「あはは……」

 

僕たちの仲間に加わったということは、バトルランキングにも自動的に参加することを意味する。

小毬さんや葉留佳さんといった決定打を欠くメンバーは次々に撃破されて沈んでいき、ほどなく僕も挑戦を受けることになった。

「勝負よ、理樹くん」

どこからともなく野次馬が駆けつけて、早くも人だかりが出来はじめていた。

歓声が上がり、外野から様々ながらくたが投げ込まれる。

僕が手にした武器は風船(小)、対する沙耶さんの武器は拳銃だった。

「うん、悪くない」

僕はこの風船という武器がお気に入りだった。

地味なようだけど、うっかり踏んづけると連鎖反応で破裂するので、仕掛けた数次第でまさかの大逆転も可能だ。

「あたしの前で何秒立っていられるかしら」

「僕を舐めてかかると、痛い目を見るかもしれないよ」

「じゃあ、それを証明して見せなさい。レディ・ゴー!」

「行くよ!」

勝負開始。

もちろん、勝つつもりで行く。

僕は沙耶さんの動きを見ながら、風船を膨らませては足元に投げた。

ひとつ、ふたつ。

とにかく数を撒かなくては。

しかし立ち止まらないように注意していても、沙耶さんは攻撃を着実にヒットさせてくる。

ゴム弾でも当たると結構痛い。

「あたしの攻撃を」

―― ビシッ ――

「うわっ」

「そんな動きで」

―― ビシッ ――

「痛っ」

「かわせると思ったら」

―― ビシッ ――

「ううっ」

「大きな間違いよ」

―― ビシッ ――

「たまには外してよっ」

「あーっはっはっ」

―― カシャン ――

「くっ……」

タマ切れに救われた。

沙耶さんが舌打ちして弾倉を抜き、タマを補充する。

僕は今の連続ヒットで、HPを半分以上削られてしまった。

でも休んでいる暇はない。

この隙に風船を仕掛けなくては。

チャンスは今しかないのだ。

僕は顔を真っ赤にして次々に風船を膨らませては、沙耶さんの足元に投げた。

むっつ、ななつ。

「派手に撒いてくれたじゃない」

沙耶さんが横目で床に散らばる風船を見て、ニヤリと笑った。

「これなら、うっかり動けないでしょ」

「こんなもので、あたしの動きを止められるかっての」

タマの補充が終わった沙耶さんが立ち上がった。

次の瞬間には銃口を向けられ、僕は膨らませかけの風船を手に持ったまま逃げ回る。

―― ビシッ ――

「いたっ」

「オラオラ、いくわよっ」

ジグザグに走ったり、急に伏せて撹乱しようとしても、沙耶さんはまったく動じることがなかった。

―― ビシッ ――

―― ビシッ ――

―― ビシッ ――

「いたたたっ」

「そろそろトドメかしら?」

まずい、あと2発も食らったら終わりだ……

でも諦めるものか。

「これが一流のスパイの実力よ」

―― ビシッ ――

「くっ……」

また命中させられた。

僕の残りHPは一ケタだ。

何とかストレート負けは避けたい。

「今だ!」

沙耶さんが軸足を変えようと脚を上げたとき、僕は手に持った風船を足元目がけて投げ込んだ。

一か八かの賭けだった。

「あーっはっはっ、死になさい。ひゃぁっ!?」

沙耶さんが引き金を引くより、風船が破裂するほうが早かった。

スパパパパパパパーン!!

8個の風船が一斉に連鎖して破裂する。

「よし、行けぇっ!」

「ひゃぁああああぁぁぁぁっ!」

沙耶さんは愉快な悲鳴を上げながら、踊っているかのように見えた。

満タンだったHPががしがし削られていく。

「……くっ、倒し切れなかったか」

「はぁはぁ……やってくれるじゃないの」

沙耶さんもまた、HP一ケタで生き残った。

もう一発だ。

あと一回、風船を踏ませたら勝てる。

僕は急いで風船を膨らませようとした。

その瞬間 ――

「させるかっての!」

スパーン!

持っていた風船が破裂して、目の前が白くなった。

沙耶さんの必殺技、インターセプトを食らってしまったのだ。

「うわぁぁぁぁぁ!」

これまでか……

身体から力が抜けていく。

 

「勝者、朱鷺戸!」

「あーっはっはっはっ、ざっとこんなものよ。まあ、素人にしてはよくやったわ。褒めてあげてもいいくらいね」

恭介の勝ち名乗りに、野次馬たちから歓声が上がる。

沙耶さんは悠然と僕を見下ろして立っていた。

「ううう、無念……」

「さぁて、理樹くんにはどんな称号がお似合いかしら?」

「ねえ、お願いだから変なのつけないでよ」

「そうねえ……」

そして僕は『_ト ̄|○ 』という称号を賜った。

「……こんなの、読めないじゃないかー」

「今の理樹くんにぴったりかなと思って」

「ふむ、失意体前屈だな。少々ネタは古いが」

来ヶ谷さんがつぶやいた。

「それと、一箇所気になるんだけど」

「男の子だからよ」

「……………………」

僕はがっくりと地面に手をついてうなだれるのだった。

 

ある昼休みのことだ。

部室の前を通りかかって何気なく中を覗くと、沙耶さんと小毬さんの姿が見えた。

テーブルの上にグローブやミットを並べて、和やかな雰囲気で談笑している。

何だろう。僕は入ってみることにした。

「こんにちはー……」

「あ、理樹君。いらっしゃ~い」

小毬さんの平和そうな声が迎えてくれた。

「二人で何してるの?」

「グローブのお手入れだよ。さーちゃんが一人でやっていたから、私もお手伝い」

さーちゃんと呼ばれた沙耶さんが、顔を赤らめていた。

あえて反論しないということは、その呼び名を受け入れざるを得なかったのだろう。

小毬さんって、結構芯が強いところがあるのだ。

あの来ヶ谷さんを、あくまでゆいちゃんと呼び続けているし。

だけど、もう一人さーちゃんがいるのに混乱しないのだろうか。

「大丈夫だよ。笹瀬川さんはさーちゃん、朱鷺戸さんはさーちゃん。ほらね?」

「う~ん……よく分らないけど、まぁいいや」

「ささ、理樹君もどうぞ。お菓子もたっくさんあるよ」

小毬さんが椅子を引いて是非と勧めてくれるので、僕は昼休みをここで過ごすことにした。

「それじゃ僕もお邪魔するよ、さーちゃん」

「『_ト ̄|○』にまでそう呼ばれる筋合いはないわよっ!」

ミットが飛んできた。

「やっぱり僕は駄目なんだ」

「どこか変かなぁ? 沙耶だから、さーちゃん。あれ?」

小毬さんが首をかしげている。

相変わらずのマイペースぶりだ。

「神北さんはもうあきらめたから……。あーもうっ、さっさと座っちゃいなさいよっ」

「うん」

僕は二人の横に座った。

「理樹君、お菓子どうぞ~。ベルギーワッフルでしょ、抹茶マフィンでしょ、おにぎりグミでしょ、まだ他にもあるからね」

「おにぎりグミ?」

聞きなれない名前が出てきた。

「でっかいグミなんだよ、ほら。レモン味とストロベリー味があるんだよ」

「うわ、本当に大っきいや」

誰が思いついたのか知らないけど、小毬さんが差し出したのはおにぎりサイズのグミだった。

「普通のグミじゃ満足できない、マニア向けなのかなぁ」

「日持ちしそうだし、あたしは気に入ったわよ」

沙耶さんは自分の横に、おにぎりグミを二つしっかりと確保していた。

雑談しつつも、グローブに皮革クリームを擦り込む手を動かし続けている。

僕もグローブとウェスをもらって、手入れに協力することにした。

「さーちゃん、偉いんだよ。誰に言うわけでもなく、一人でグローブの手入れをしていたんだから」

「沙耶さんってまめな性格だったんだ」

「そ、そんなのじゃないわよ。習慣になっているだけというか……」

沙耶さんがぶっきらぼうに答えた。

「習慣?」

「使った装備は次に備えてちゃんと点検して手入れしておく。消耗品は補充しておく。武器なんて、そのままにしておいたらすぐに錆びちゃうわ。いざという時に役に立たなかったら命取りでしょ」

ああ、例のスパイの話だなと思った。

どうしてそんなにスパイにこだわるんだろうと不思議だったけど、沙耶さんはそれでいいような気がしたので、突っ込むのはやめておいた。

「なるほど。それで使いっぱなしの備品が気になったんだ」

「まあね」

「さーちゃん、偉いよ。私は尊敬しちゃうな」

「うん、なかなか出来ることじゃないよね」

「あたしが好きでやっていることだから、べ、別に偉くなんかないわよ」

沙耶さんは、まるで怒ったように手を動かしていた。

同じ部分を磨き続けるので、古びたグローブが一箇所だけテカテカに光っている。

「ねえ、野球やってみてどう? 楽しい?」

僕は訊いてみた。

「そうね……悪くないわ」

沙耶さんは少し考えてから答えた。

この人がこういう言い方をするときは、かなり気に入っているに違いない。

「でしょ」

「うんうん。仲間も増えてにぎやかになったしね~」

僕は声をかけてみてよかったと思った。

小毬さんも、にこにこと嬉しそうにしていた。

 

僕はグローブを磨きながら、ここ数日で沙耶さんについて知ったことを思い返してみた。

自分をスパイだと本気で思っているらしいこと。

運動神経がいいこと。

おっぱいが大きいらしいこと。

自爆癖があること。また、立ち直りに時間がかかること。

素直じゃないこと。

物事に一所懸命取り組むこと。

そして、僕たちリトルバスターズに必要な人であること。

「ねえ、あなたたちって古くからの知り合いなのかしら?」

グローブの手入れが一つ終わったところで、沙耶さんが伸びをしてお菓子をつまんだ。

「ううん、違うよ。鈴ちゃん以外の女の子はみんな、理樹君に誘われて参加したの。最近だよ」

「ふぅん、それはちょっと意外ね」

「急に野球をする話になって、メンバー集め担当が実質僕一人でさ。気付いたらこうなってたんだ」

「理樹くんの趣味に合わせて、全員女の子ってこと?」

「いやいや、偶然だよ。まったくの偶然」

言い訳しながら、僕は結果的に恭介の思った通りに動いて、恭介の狙い通りの人に声をかけたのだろうと感じていた。

僕たちは、集まるべくして集まったメンバーなのだ。

決して偶然なんかじゃない。

―― このメンバーで野球をするのは初めてじゃない ――

そんな気がしてならなかった。

 

その翌日。

僕は購買でゲットしたパンを手に、いそいそと部室に向かっていた。

「あれ、いないや。ここでお昼を食べようと思ったんだけど」

今日もいるのではと予想して来たけど、部室はもぬけの空だった。

こんなホコリっぽいところで一人で食事というのも哀しいので、食堂に引き返すことにする。

「それとも屋上がいいかな、天気もいいし」

迷いつつ歩いていると、向こうから知った顔が走ってきた。

ハシゴを抱えた沙耶さんだ。

「理樹くん、また来たの? あなたもヒマねえ」

沙耶さんはあきれた顔をして言うわりには、嬉しそうだった。

「暇人で悪かったね。ところで何故ハシゴ?」

「あー、天井雨漏りしているでしょ。湿気は皮製品の大敵だから」

「へぇ、沙耶さんって大工仕事も出来るんだ」

「出来るってほどじゃないけど、雨漏り修理くらい何とかなるわ」

「そっか。じゃあ僕も手伝うよ」

僕は回れ右して、沙耶さんと一緒に部室に戻った。

「確かに雨漏りしているね」

今まで気にしたことはなかったけど、改めて見ると天井にシミのあとが拡がってふやけていた。

古い建物だから、仕方ないと言えば仕方ないんだけど。

表に出て屋根を見上げると、トタンがはがれてめくれている箇所があった。

「あそこをちゃちゃっと修理してしまえば、雨漏りしなくなるでしょ」

沙耶さんが大工道具と廃材を抱えてはしごをかけた。

「え、沙耶さんが上るの?」

「そうよ。理樹くん、悪いけどハシゴを押さえていてくれる?」

「えーと、その……スカートで?」

「……」

「僕が上るから、沙耶さんは下で押さえていてよ」

僕は気をきかせてみた。

いやそれは別にしても、男の僕が上るのがスジだろう。

「……そうね、廃材を打ち付けるだけよ。簡単でしょ」

「任せて」

僕は慎重に屋根に上った。

歩くと足元がベコベコ音を立てて、今にも踏み抜いてしまいそうな危うさだ。

ここは手早く修理を済ませてしまおう。

僕はトタン板がめくれている部分をはがした。

「うわ、中も駄目かも」

トタン板の下を覗くと、内側の木材が腐っているのが分った。

「どう? 直せそう?」

「うーん、きちんと補強した方がよさそうな気がするよ」

僕は試しに黒く変色した部分を靴底で押してみた。

その瞬間。

―― メリメリメリ ――

何が起こったのか分らぬまま、足を吸い込まれてバランスが崩れる。

「うわぁっ」

あわてて屋根にめり込んだ足を引っこ抜くと、今度は靴がない。

穴の向こう側には部室が見えており、僕の靴が床に転がっていた。

「何を屋根踏み抜いてんだ、あんたはーっ!」

ハシゴの下で沙耶さんが叫んでいた。

「あはは、ご、ごめん」

「とっとと下りて来なさいよっ! あたしがやるからっ!」

面目丸つぶれの結果に終わってしまい、僕は屋根から下りた。

「お二人さん、何してるんデスカ」

そこへ葉留佳さんがやって来た。

これは丁度いいところに。

葉留佳さんは自称整備委員で、大工仕事を得意としているのだ。

「どうしたもこうしたも、この役立たずが屋根踏み抜いちゃったのよ」

「やはは、理樹くんもヤクタタズ仲間でしたか」

「ごめん、返す言葉もないよ」

僕はうなだれた。

「まったく、直すところを逆に壊して、何を考えているのかしら」

「まあまあ、そう怒らずとも。やさしいはるちんが何とかしてあげましょう」

「助かるよ……」

せめてハシゴでも押さえていようと立っていると、沙耶さんにきっと睨まれた。

「理樹くん」

「は、はい」

「ハウス!」

沙耶さんがびしっと部室を指差した。

屈辱的な扱いだったけど、ゴネると誤解されそうな場面でもあるし、僕はしっぽを丸めて部室に引き返した。

 

部室の中から天井の穴を見上げると、ぽっかりと切り取ったような青空が見えていた。

あっちは異世界で、あの穴が世界を結ぶゲートだ。

ふと、そんな感覚にとらわれた。

葉留佳さんの顔があらわれて、「やはは」とこちらに手を振った。

僕はぎこちなく笑って、手を振り返す。

よし、『ハルカ』とのコンタクトに成功だ。

これで『ハルカ』と『リキ』の間につながりが出来た。

沙耶さんも手を振ってくれないかなぁ。

期待して待ったけど、沙耶さんの顔は見えないまま穴がふさがれて、青空が消えてしまった。

トントンと釘を打つ音が無情に響く。

どうしよう『サヤ』と接触できなかった。

あのゲートは『サヤ』にはつながっていなかったのだろうか。

だとしたら、別のゲートを探さなければならない。

ボスのコードネーム『(21)』に報告しなくては。

「……って、何を考えているんだろう。僕も暇だな」

 

釘を打ちつける音が止まって、急に静かになった。

修繕が終わったようだ。

そうだ、食事をすませてしまわなくては。

二人はすぐに戻ってくるだろうし、僕はパンが入った袋を取り出した。

「おーい!」

「理樹くーん!」

食べ始めようとしたところで、屋根の上から声がする。

「どうしたの!?」

天井に向かって叫ぶと、「ハシゴ、ハシゴ」と声が返ってきた。

部室を出て裏に回ってみると、立てかけてあったはずのハシゴが倒れていた。

屋根の上から二つの顔が覗いてこちらを見下ろしている。

なるほど、これじゃ降りられない。

「ちょっと待ってて」

僕はハシゴを起こして屋根にかけた。

「理樹くん。回れ、右」

沙耶さんが、手でスカートの裾を押さえていた。

「分ってるよ……」

僕は後ろを向いて立った。

振り返りたい気持ちがないと言えばウソになるけど、ここは我慢だ。

僕は紳士なので、本能の人になってはいけないんだ。

一時の衝動に身を任せては、道を踏み誤る。

そう自分を納得させていると ――

「ひゃぁぁああっ」

「うひゃーっ」

悲鳴がハモったかと思うと、身体に衝撃が走った。

景色がぐるりと回り、肌色とピンク色の『何か』が迫って来て、僕は地面に叩きつけられた。

「うわぁっ!?」

目の前が真っ暗だ。

何だか甘いいい匂いがする。

顔面に柔らかいものが密着しており、少し湿った感じがした。

「ひゃぁっ」

その『何か』は瞬時に離れ去り、視界に青空が戻った。

「えーと……」

「やはは、ラッキーだったですネ、理樹くん」

「……」

僕が身を起こしたときには、二人とも何食わぬ顔をして立っていた。

沙耶さんの顔が若干赤い。

ハシゴが倒れて地面に転がっているのが見えた。

きっと足を滑らせたか何かで、僕の上に落ちてきたのだ。

困ったな、一体どんな顔をすればいいんだろう。

「そういう時はね……」

突然、小毬さんの声が聞こえた。

「うわ、いつの間に」

「まーるく収まる、いいおまじないがあるんだよ」

そして僕を指差して「ユー、見なかったことにしよう」、続いて沙耶さんに「見られなかったことにしよう」、とにっこり笑った。

沙耶さんが、「黙っていれば、三枝さんなのかあたしなのか分らなかったのに」とぶつぶつ言っている。

「おっけー?」

「ぼ、僕は構わないけど」

「さーちゃんも、おっけー?」

「わ、分ったわよもう。事故なんだし」

「これで解決。じゃあ、みんなで楽しくグローブのお手入れをしよー」

小毬さんが先頭に立って、部室に入っていった。

手にはお菓子が沢山入った袋をさげている。

何だかよく分からないうちに、小毬さんに丸く収められたようだ。

 

「……ひっそりとグローブの手入れをしていただけなのに、どうしてこんな大事になっちゃったのかしら」

沙耶さんが横でため息をついていた。

そして僕は、つい余計なことを言ってしまう。

「あはは、僕もまさか空からパンツが降ってくるとは思わなかったよ」

「うがーっ!!」

 

「沙耶さんはどこかな」

パンツ事件を経てフラグが立ってしまったらしい僕は、沙耶さんの姿を探してうろついていた。

はじめは妖怪扱いだったのに、今や気になる女の子の筆頭だ。

僕は、もっと沙耶さんのことを知りたい、と思い始めていた。

「やあ、理樹君も一緒にどうかね」

沙耶さんは、裏庭の一角で来ヶ谷さんとお茶を飲んでいた。

植え込みの間に設けられた、テーブルや椅子、ポットといった備品付きの、来ヶ谷さんの秘密基地だ。

僕は何度かここで来ヶ谷さんにつかまって、授業のサボリ仲間にされていた。

「お邪魔でなければ」

「なに、構わんよ。沙耶君にも、徒然なるままに与太話に付き合ってもらっているだけだ」

それならば、と僕も座らせてもらう。

「ああ、でももうすぐチャイムが鳴るね」

「時間ならいくらでもある。次は数学だろう」

「来ヶ谷さん、また出ないの?」

来ヶ谷さんは黙って頷くと、ポットを傾けてカップを差し出した。

「あ、いい香り」

「ジャスミンティーだよ。こんな晴れた日によく似合うと思わないかね?」

「お茶のことは分らないけど、優雅な気持ちになれるよ」

隣で沙耶さんが、「へぇ」とカップに鼻を近づけていた。

その様子を、来ヶ谷さんが慈しむように見つめている。

こんな優しい目をした来ヶ谷さんを見たことは、あまりなかったと思う。

「沙耶君、もう一杯どうかね」

「ありがとう、いただこうかしら」

「沙耶さんは授業はいいの?」

ここに座った以上、僕はサボり確定みたいなものだけど、沙耶さんはどうするんだろう。

「別にいいわ。出たって意味がないもの」

「そ、そうなの?」

「ええ」

沙耶さんが当たり前のような顔をして言った。

「やっぱり、その……スパイなんたらの関係かな」

「厳密には違うわ。今のあたしにはクラスなんか必要ないってこと」

「……」

僕には、沙耶さんの言葉の意味が分らなかった。

そう言えば僕は、沙耶さんがどこのクラスなのか知らない。

でも沙耶さんが必要ないと言うのだから、訊いてはいけない事のような気がした。

「こうして過ごす時間の方が、退屈な授業よりはるかに有意義だ。理由としてはそれで十分だろう?」

「いいこと言うわね。まったくその通りだわ」

木漏れ日がテーブルに落ちてゆらゆら揺れる。

肌を撫でる風が心地よい。

やがてチャイムが鳴ったけど、誰もその場を動こうとしなかった。

僕を含めて、サボリ確定だ。

「沙耶さんってさ、クールな印象だったけど結構面白いよね」

「はっきりと間抜けって言えば?」

「いやいや、親しみやすいっていいことだよ?」

「そうかしら」

沙耶さんは唇をゆがめて笑った。

きっと、そんな人間はスパイとして失格だとか考えたに違いない。

「まだスパイをやってるんだ?」

「そうよ。当然じゃない」

「……」

でもどうしてスパイなんだろう。

僕の眠り病みたいな、特殊な病気なのかもしれないと思った。

思い込みが強すぎて、現実と混同しているとか。

「今は信じなくてもいいけど、そのうち分るわ。この世界では理解できなくてもね」

「この世界?」

「ええ」

「沙耶さんって、時々謎めいたことを言うよね」

僕は『世界』の意味について考えてみた。

まるで宇宙人か未来人みたいな言い方だ。

「少年はずいぶんと沙耶君に興味があるようだな」

来ヶ谷さんがニヤニヤしていた。

沙耶さんが少し驚いた顔で僕を見ている。

「いや、そういうわけじゃ……」

「はっはっはっ、さっきから質問攻めではないか」

「じゃあ、来ヶ谷さんは『世界』の意味が分るの?」

「ああ、分るよ」

「……」

あっさり肯定されても困る。

何だか僕だけがすごく頭が悪いように思えてきた。

「なに、少年もそのうち分る。たとえ知りたくなくても、な」

「うーん、二人ともそう思うんだ。それなら、楽しみに待つことにしようかな」

「楽しみ……とは言い難いだろうな。残念ながら」

来ヶ谷さんが目を伏せてつぶやいた。

「何だか大変みたいね。あたしはそっちの事情はよく知らないけど」

「ああ、大変すぎて泣けてくる」

 

ジャスミンティがなくなったので、3人で芝生に寝転がった。

さっきは穏やかに感じた日差しも、直接浴びると少々きつい。

「ねえ。あたし、浮いてないかしら」

沙耶さんが、手の平をかざして日陰を作っていた。

「どうしてそんな風に思うの?」

「だって、みんなでわいわい野球したり、お茶会したり。あたし、自分のそういう姿って想像もつかないのよ。ほら、ス、スパイだから」

「はっはっはっ。スパイだって、息抜きが必要だろう?」

「……本当に、こんなことをしていてよかったのかしら」

「なに、焦ることはない。人生一度きりではないのだからな」

「……そうね」

ほら、またナゾの言葉が出てきたぞと思った。

沙耶さんは、本当に人生一度きりではないと思っているのだろうか。

来ヶ谷さんは、本当に沙耶さんがスパイだと信じているのだろうか。

「むしろ、沙耶君に必要なのはこういう経験だったのではないか。求めている、いないにかかわらず」

「そうなのかしら……」

沙耶さんはしばらく考えて、「来ヶ谷さんの言う通りかもしれないわね」とつぶやいた。

この人たちは、僕の知らない何かを知っている。

でも、沙耶さんが知っていることと、来ヶ谷さんが知っていることは、おそらく別物……

「理樹君、考えすぎるとハゲるぞ」

来ヶ谷さんがポケットからもずくを取り出して、僕にくれた。

何故もずく?

「これを食して気持を落ち着けるといい」

「あ、ありがとう、いただくよ」

来ヶ谷さんがもずくの効能について熱く語るのを聞きながら、ふと横を見ると沙耶さんは眠ってしまっていた。

そよ風に白いリボンが揺れている。

綺麗な人だなあ。僕は率直にそう感じた。

「さて、おねーさんは行くとしよう」

来ヶ谷さんが立ち上がった。

「え、それじゃ沙耶さんを起こさなくちゃ」

「少年は沙耶君を見ていてくれ。無防備な寝姿に、あんなことやこんなことをしてはいかんよ?」

来ヶ谷さんは僕の返事を待たずに、どこかに行ってしまった。

「あんなことやこんなことって何さ……」

僕はしばらく番犬のように沙耶さんの横で座っていたけど、寝顔がすごく心地よさそうでうらやましくなり、ごろんと寝転がった。

チャイムが鳴るまで、ひと眠りしよう。

「……」

隣からシャンプーのかすかな匂いが、風に乗って運ばれてくる。

くすぐったくて気持ちいい。

僕は沙耶さんのことが、好きになりかけているのだろうか。

そう思うと何だかドキドキしてきて、眠ることが出来なかった。

 

 

 

沙耶さんが備品の手入れをしていることはやがてみんなの知るところとなり、メンバーが入れ替わり立ち代り手伝いに来るようになった。

部活で忙しい謙吾でさえ、何度か顔を出してくれた。

僕は沙耶さんに会いたくて、毎日通っていたけど。

たわいもない馬鹿話をしたり、時々沙耶さんがキレて自爆する様子を見て笑ったり。

僕たちらしいにぎやかな時間が、駆け足で過ぎていった。

「朱鷺戸」

「朱鷺戸さん」

「沙耶さん」

「沙耶ちゃん」

「沙耶君」

「さーちゃん」

みんなが思い思いに沙耶さんの名を呼ぶ。

鈴だけは、人見知りして直接話しかけようとしなかったけど、まあいつも通りだった。

やがて僕は気付いた。

みんなも沙耶さんに会いに、やって来ていることに。

そして、みんなの目がとても優しいことに。

 

「あーもうっ、悔しいなぁ」

「キャプテンチーム相手に一点差まで追い上げたんだ。俺は善戦したと思うぞ」

「どうせなら、勝ってメシウマしたいじゃねぇかよ」

野球の試合は、僅差で力及ばずだった。

だけど謙吾が言うように、急ごしらえの寄せ集めチームにしては頑張ったと思う。

鈴もよく投げてくれたし、僕たちもよく守ってよく打った。

「まあ、終わったことだ。負けたとはいえ、みんな楽しかっただろ?」

恭介がメンバーを集めた。

「わふっ、私は楽しかったですよ」

「ええ、いい経験が出来ました」

「むきーっ、次はボコボコにしてやるデスよ」

「ところで恭介、これからはどうするの」

僕は訊いてみた。

恭介のことだ、野球の代わりに何か新しい遊びを考えていそうな気がした。

「これからか? 特にはないが……」

「え、ないの?」

「ああ。理樹、何か提案があるか」

「いきなり僕に振られても」

この人数で出来る面白いこと……

女子メンバーが多いから、きつそうなスポーツは無理だし。

「とりあえず、みんなで打ち上げの食事会ってどうかな」

とっさに思いつかなかったので、僕は無難なところに逃げた。

「なるほど、いいんじゃないか。メニューは何にする?」

「ええと……」

みんなでわいわい作って食べることが出来て、難易度が高くないメニュー……

ありそうなのに、すぐに出てこない。

「カレー」

隣で沙耶さんがボソッとつぶやいた。

「あ、そう言えばしばらくカレーを食べていないよ」

小毬さんがポンと手を打った。

「おねーさんもカレーは大好きだぞ」

「うーみゅ、カレーか。うまそうだ」

そういうわけで、今度の休みは打ち上げの昼食会、メニューはカレーに決定した。

休日なら厨房も借りられるし、丁度いい。

「ただのカレーじゃつまらんな。闇カレーというのはどうだ。みんなで食材を一つづつ持ち寄る」

恭介が恐ろしいことを言い出した。

「いやいやいや、食べられないものが出来てしまったらどうするのさ!」

「絶対に変なものを持ってくるやつがいるぜ? おはぎとかキムチとかくさやとか」

「げげごぼおうぇっ」

即座に反対の声が上がる。

僕だっておはぎカレーだのキムチカレーだの、トラウマになりそうなものを食べさせられるのは御免だ。

「そうか? じゃあ、こうしよう。カレーに適した食材に限定だ」

「それは各人の主観でもいいのか?」

「来ヶ谷さん、もずくなんて入れたら駄目だからねっ」

「……」

来ヶ谷さんは残念そうに黙ってしまった。

「とにかく、カレーに合う食材を各々持ち寄ること。それで行こう」

「……大丈夫かなぁ」

不安は残るけど、みんなの良識にかけるしかない。

 

そして当日。

「豚バラ、タマネギ、トマト、牛スジ。合格です」

西園さんが、みんなが持ち寄った袋を開けてチェックしていた。

「マッシュルーム、タマネギ、タマネギ、タケノコ」

「タマネギ、タマネギ、タマネギ、タマネギ。これはちょっと手を抜きすぎです……」

「ラム肉、牛豚ひき肉、にんにく、タマネギ」

「鶏モモ、りんご、アスパラ、じゃがいも、タマネギ」

「しいたけ、ごぼう、タマネギ、ブロッコリー」

「冷凍貝柱、冷凍枝豆、冷凍にんじん、タマネギ。みなさん、意外とまともですね」

「そりゃ昼飯抜きにしたくねぇからな。でもよ、やたらにタマネギが多くねぇか」

「確かに」

食材を種類ごとにまとめると、タマネギがごろごろしていた。

実は僕も、タマネギを持ってきた一人だ。

「恭介氏。あまりタマネギを入れると甘くなるぞ」

「それも楽しみのうちだ。食材は全て使う」

「ふむ、なるほど」

タマネギはともかく、まともなカレーが出来そうで、僕はほっと胸をなで下ろした。

みんな、ちゃんと食べられるものを作ろうという意識を持ってくれたようだ。

「理樹、お前が料理長だ。指揮をとれ」

「え、僕? 料理が上手い人の方が適任だと思うけど」

「心配するな、何が出来ても残さず平らげてやるさ。そうだろう、真人」

「あ? まあ、俺の筋肉に消化できないものなんかねぇけどよ……」

「そういうわけだ。やってみろ」

なぜ僕がと思ったけど、キャンプでわいわい作るようなカレーなら何とかなるだろう。

「分ったよ。まずくても文句言わないでね」

とりあえず、包丁を使える人は食材を切ってくれるようお願いした。

そうじゃない人は、鍋を洗ったりルーの分量を量ったり、色々と手伝いをしてもらう。

「理樹くん、お肉はどのくらいの大きさに切ればいいデスか」

「一口サイズでいいと思うよ」

「リキ、りんごはどうしましょうか」

「えーと、すりおろして後から加えようか。トマトも細かく刻んだ方がいいね」

トントンと軽快な包丁の音が聞こえ始める。

僕も少しなら包丁を使えるので、適当に空いているまな板に向かった。

「うわ、沙耶さんはタマネギ担当なんだ……」

隣で沙耶さんが、タマネギの山と格闘していた。

皮むきの段階で目をしょぼしょぼさせている。

「どうってことないわ、たかがタマネギじゃない」

「僕も手伝うよ」

「そう? じゃあ皮をむいてくれるかしら。あたしはこっちで木っ端微塵に切り刻んでやるから」

「何だか気合が入ってるね……」

「だって、こういうのって初めてだし」

「へぇ、そうなんだ。遠足やキャンプの定番だと思うけど」

「あたし、参加したことないから」

「……」

あっさりと言ってくれるけど、それもスパイの関係なのだろうか。

「やっぱり目に来るね」

皮を2、3個むいただけで、目が痛くなってきた。

沙耶さんも、半分泣きながらタマネギを刻んでいる。

「きつかったら、ざっくり大きめに切ってもいいよ?」

「凄腕スパイがタマネギごときに負けるわけにはいかないのよっ」

「スパイでもプロレスラーでも、目は鍛えられないから同じだと思う」

「いいから、さっさと皮をむいて寄越しなさい」

また、料理長ということで、色々と気を配らなければならないことも多かった。

米を炊き忘れていることを指摘されてあわてて研いでもらったり、乾杯用のお茶やジュースを買いに行ってもらったり。

「さーちゃん、急がなくていいよ~。こっち終わったら手伝うからね」

「平気よ、このくらい一人で充分だっての。あーっはっはっ……」

沙耶さんの高笑いも、泣きが入ってしめりがちだった。

 

『やはり、なり手がなかなか見つからないらしいですよ』

『精神的にも肉体的にも、大変な仕事ですからねぇ』

学食のテレビが何かボソボソしゃべっていた。

画面は見えないけど、音だけが聞こえてくる。

紛争地域における医療ボランティア活動について、討論しているようだ。

そりゃあ大変な仕事だろう。

本気でいつ死ぬか分らない中で奉仕を続けるなんて、並大抵のことじゃない。

でもこっちだって大変なんだ。

泣きながら頑張っているのに、まだ半分以上残っている。

「真人、手が空いてるなら手伝ってよ」

「おっと、わりぃ。ちょっくら買出しに行ってくるぜ」

「謙吾」

「皿は汚れていないか? どれ、俺がきれいに磨いてやろう」

二人とも、友達甲斐がないなあ……

『そう言えば、ボランティアから帰国してすぐに事故に遭われた方がいましたね』

『土砂崩れに巻き込まれたんでしたっけ。たしか、娘さんと一緒に ――』

へぇ、そんな事故があったんだ。

ついてない人っているもんだなぁ。

「沙耶さん?」

包丁の音が止まっていることに気付いて横を見ると、沙耶さんが固まっていた。

まるでストップモーションをかけたように動かない。

一体どうしちゃったんだろう。

もしかして、知っている人なのだろうか。

「沙耶さん、どうかしたの?」

もう一度声をかけると、沙耶さんは首だけ回してこちらを見た。

芯が抜けたような頼りない表情に、僕は何を話せばいいのか分らなくなった。

でもそれは、ほんの数秒の間。

「理樹くん、タマネギむけてる?」

沙耶さんが正面を向いたまま手を出した。

「え、うん。でも沙耶さん……」

「うぉらーっ、どんどん持って来いっつーの!」

そして、まるで怒ったようにタマネギを刻み始めた。

包丁からしぶきが上がる勢いだ。

「うわ、そんなに無茶しなくてもいいって!」

「うるさい、うるさい、うるさい!」

沙耶さんがボロボロ涙を流しながら、包丁を動かし続ける。

「鼻水たれてるって!」

僕はティッシュを取って、沙耶さんの顔を拭いてあげた。

それでも包丁の勢いは止まらない。

「目が腫れちゃうよ!?」

「いいから早く皮をむいて!」

仕方ないので、僕も皮むきのペースを上げた。

沙耶さんを止めたほうがいいんじゃないか?

何だか様子がおかしい。

「理樹くん、次!」

「あ、うん」

僕は沙耶さんの迫力に負けて、必死になって皮をむいては手渡した。

涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、沙耶さんはタマネギを刻むのをやめない。

「ねえ、沙耶さんってばっ」

「……」

ボソボソした話し声に代わって、にぎやかな音楽が流れてきた。

食堂の方を覗くと、恭介がテレビのチャンネルを変えているのが見えた。

「これで最後の一個だよ」

皮むき地獄が終わったとき、僕もまた涙で周りが見えなくなっていた。

包丁を下ろした沙耶さんが天井を仰いで肩を震わせている姿が、視界の中でかすんでいた。

 

「さーちゃん、すごいよ。あっという間に一人で全部刻んじゃったんだよ」

「やはは、目が赤いですネ」

「あーっはっはっはっ! 次はどいつを切り刻んでやろうかしら?」

「……」

顔を洗って戻ってきた沙耶さんは、いつもの沙耶さんだった。

さっきのは何だったのだろう。

「リキ、あとは材料を鍋に移して煮込めばいいですか」

考える間もなく、クドが身体の半分ほどもある大鍋を持ってやって来た。

「あ、待って。先にフライパンで炒めなくちゃ。それと、もっと小さい鍋で十分だよ」

「ほう、ちゃんと分っているではないか」

「いやいや、そこから先の知識はないんだけどさ」

それから僕は西園さんにお願いして、ルーの箱に書かれてある通りに、きっちりと水の分量を量ってもらった。

いい加減に目分量ですませると、水っぽくなったり煮詰まったりするから、ここは大事なところだ。

どうせ作るなら、おいしいカレーを食べてもらいたい。

「煮立ってきたら、鈴と葉留佳さんにはあく取りをお願いするよ」

「よし、まかせろ」

「ようやく、あく取り名人の出番ですネ」

材料が柔らかくなったらルーを加えて溶かす。

リンゴやトマトといった隠し味もそのタイミングで投入して、あとはひたすら焦げないように注意して煮込むだけだ。

メンバーに交代で鍋をかき混ぜてもらおう。

沙耶さんが刻んだタマネギがとけて見えなくなる直前で火を止めて、一時間ほど寝かせる。

僕が知っているカレーの作り方はこれで全てだ。

「理樹、まだか。俺はもう餓死してしまいそうだ」

「この馬鹿は一時間くらい待てんのか」

「真人少年、カレーを寝かさずに食すなど阿呆のすることだぞ」

「アホでいい、俺は腹が減ったんだよっ」

さっさと食わせろとゴネる真人をなだめすかすのも、また楽しみのうちだった。

「リキ、さささささーさんが見てますよ」

クドが、窓の外から物欲しそうに覗いている笹瀬川さんを発見した。

「ソフトボールの練習が終わったのかな。クド、招待してきてよ。いいよね、恭介」

「ああ、構わんさ」

クドと小毬さんがパタパタと走っていく。

笹瀬川さんは二人に手を引かれ、渋々といった様子で入ってきた。

「何ですの? あなたたち、試合に負けたんでしょう? 祝勝会ならぬ祝敗会のつもり?」

「まあまあ。おいしそうなカレーが出来たから一緒に食べて欲しい。それだけだよ」

憎まれ口は相変わらずだけど、表情は穏やかだ。

「まったく……まあ、キャプテンチーム相手にコールド負けしなかった点は、褒めてさしあげますわ」

「はい、さーちゃん座って座って」

「そろそろかな」

厨房に入って鍋を覗くと、落ち着いたいい色合いになっていた。

「あ、お姉ちゃん」

今度は葉留佳さんが、食堂の入口でうろうろしている二木さんに気付いた。

遠慮がちに「いいよね」と訊くので、僕は「もちろんだよ」と答えた。

やがて二木さんも葉留佳さんに背中を押され、ぶつぶつ言いながら入ってきた。

「責任者は誰? 許可は取っているんでしょうね」

「俺がちゃんと寮長に話を通してある」

恭介が悠然と構えていた。

「そ、そう。それなら私がどうこう言うつもりはないけど」

「ほら、お姉ちゃんも座って」

「ち、ちょっと葉留佳。私は見回りの途中で……」

「じゃあ、ちゃんと食べて確認するのが責務だよね」

「……」

「よし、始めるか」

恭介の言葉に、机に突っ伏していた真人がゆらりと起き上がった。

「危なく……餓死するところだった……ぜ」

 

 

「かんぱーい!」

「いただきまーす!」

僕たちのカレーは会心の出来だった。

タマネギが程よくとけてコクがあり、沢山の具がしっかりと調和を保っていた。

「沢山タマネギを入れたのに、こんなに小さくなるのねぇ」

沙耶さんが、溶けかけたタマネギのかけらを不思議そうにつついていた。

「ふむ。甘くなるかと思ったが、そうでもないな」

「うん、おいしいよ」

「理樹、おかわりしてもいいんだよな?」

「山ほどあるから、好きなだけ食べてよ」

真人があっという間に皿を平らげてしまっていた。

男連中の分は大盛りにしたけど、全然足りなかったようだ。

「きしょい奴だな、皿をなめるな」

「西園さん、どうかな?」

「合格です。満点を上げてもいいくらいです」

「良かったじゃないか、理樹。料理長デビューは大成功だな」

「いやいや、僕一人で作ったわけじゃないでしょ」

二木さんが端っこの席で黙々と食べていた。

この人の性格から考えて、何も言わないということはきっと気に入ってくれたに違いない。

「沙耶さん、みんなでワイワイやるのっていいでしょ」

「そうね。未だに自分がこの場にいることが信じられないけど」

にぎやかな午後の時が流れていく。

僕は、仲間と過ごすこんな時が大好きだ。

でもゆっくり流れているはずの時が、実はとても速いことに僕は気付いていなかった。

「あれ、なんで?」

沙耶さんの目からぽろりと雫が落ちた。

本人もびっくりした様子で、指先で目を拭っている。

「きっと、まだタマネギの呪いが解けていないんだよ」

小毬さんが自分で言っておきながら「ふぇぇ」とビビっていた。

「刻まれたタマネギの呪いですかっ 怖いのですっ、あんびりーばぼー、なのですっ」

「そんなちゃちな呪い、あたしのお腹の中で消滅させてあげるわよ」

また、隣のテーブルでは真人と謙吾がどちらが沢山食べられるか、暑苦しい戦いを繰りひろげていた。

 

「も、もう食えねぇ」

「真人、何杯食べたの」

「……数えきれねぇ」

「俺もギブアップだ」

食事会は大成功だった。

作りすぎたようで、これだけ食べたのにまだみんなの夜食になるくらい残っている。

「なに、足りないよりいいさ」

「あはは、僕もしばらく動けないくらい食べたよ」

明日から何をやろうか。

みんなで出来る楽しいこと……

僕は腹ごなしに空いた椅子に横になりながら、あれこれと考えを巡らせた。

 

クラスに欠席者が目立って増えていた。

昼休みの学食もあんなに混んでいたのに、誰もいない一角があちこちに出来ていた。

明らかに学校から人がいなくなっている。

学級閉鎖の話も聞かないし、何かおかしい。

―― あたし、スパイだから ――

―― この世界にあたしの出番はもうないのよ ――

沙耶さんが残した不思議な言葉が頭の中を駆け巡る。

僕は不安でいたたまれなくなり、沙耶さんの姿を探して歩き回った。

「沙耶さーん!」

平日の放課後なのに、誰もグラウンドを使っていない。

クラブ活動はどうなったんだろう。

校舎の中にも、ほとんど生徒は残っていなかった。

「沙耶さーん!」

砂時計の残り時間は、外から見える人にしかわからない。

僕は駆け出した。

 

「理樹くん……」

沙耶さんは、部室に一人で残っていた。

おそらくもう使うことのない備品を、整理しているところだった。

「沙耶さん!」

窓から差し込む夕陽に照らされた沙耶さんが、とても儚く見えた。

白いリボンがひらりと揺れる。

「どうしたの。そんな顔して」

「いや、えーと」

沙耶さんの表情は、普段と変わらなかった。

「突っ立ってないで、座ったら?」

「うん……」

僕は沙耶さんの隣に座った。

どうしてこんなに不安なんだろう。

沙耶さんを見つけたのに、ちっとも気持ちが落ち着かない。

「ねえ、次は何をしたらいいと思う? 一緒に考えてよ」

「次?」

「うん。得意なスポーツはある? スポーツ以外でも構わないよ?」

「……」

「みんなで出来ることなら、何だっていいんだ。バンドとかでも」

僕は焦って話しかけた。

「理樹くん」

「缶蹴りとか、くだらないことでもいいから」

話しかけていないと、沙耶さんまでいなくなってしまいそうで。

「理樹くん」

「カレーの次は、焼肉なんかどうかな。バーベキューもいいかもしれないよ?」

「……あたしの出番は、もうおしまい」

「どんなアイデアでも、あったら出して欲しいんだ」

「……」

窓の外が、妙に白っぽくかすんでいた。

こんな景色を前にも見たような気がする。

―― あれ、沙耶さんは今、何を言ったんだろう。

 

恭介が入ってきた。

「やはりここだったか」

「恭介! 何か変なんだよ。人がいないんだ」

「……」

「沙耶さんまで変なことを言い出すんだ」

「……」

恭介は僕の問いに答えてくれなかった。

「ねえ、恭介!」

「そろそろいいか」

「ええ。みんなは?」

「俺たちの他は、退場完了だ」

「そう」

「退場って!?」

僕を無視して話が進んでいく。

わけが分らずにうろたえていると、沙耶さんがすっと立ち上がった。

「理樹くん」

「え?」

「あたしを誘ってくれてありがとう」

「……」

「棗さん、すてきな世界をありがとう」

「ああ」

「そして、たくさんの思い出をありがとう」

沙耶さんがゆっくりと頭を下げた。

「次はこうはいかないぜ?」

「分ってるわ。負けないわよ」

「恭介、次って何さ!?」

「知りたければ、解き明かして見せろ」

「そんなの分らないよ! 沙耶さん、どこかに行っちゃうの!? 僕は沙耶さんに告白しようと思っていたのに……」

「理樹。バッドエンドだ」

 

 

 

―― そしてまた、世界は巡る ――

チャーハンにしようか、ナポリセットにしようか。

僕は昼休み開始のチャイムと同時に学食に向かう。

「……」

食券の販売機の前でふと気になってあたりを見回したけど、誰も知った顔は見えなかった。

「変だな、何を気にしているんだろ」

心に引っ掛かるものがあるのに、それが何であるのか分らない。

もどかしさを感じながら、僕はチャーハンのボタンを押した。

更にその夜、真人が僕のノートを教室に置き忘れてきたことが発覚する。

「明日テストなのに、どうするのさ!」

「細けぇこと気にすんな。理樹ならテスト前にちょろっとおさらいすれば、合格点くらい取れるじゃねぇか」

「あーもう、真人になんか貸すんじゃなかったよ」

「まさか、今から教室にノートを取りに行く気かよ」

「……」

「おい、理樹」

「……あれ?」

心の中で何かがつながった。

そうだ、行かなくては。

僕はノートを取りに行かなければならない。

何故なのかは分らない。

でも、そうしなくちゃならないんだ。

「ちょっと取ってくるよ」

「え、マジか。明日でいいじゃねぇかよ」

「すぐ戻るから」

僕は、夜の校舎に向かって駆け出していた。

 

 

fin 2010/08/19

 

 
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