No.149949

潭月亭日々綴 1

◆“他所で話せば胡乱に疑われそうな――” 片田舎の湯治宿「潭月亭」に長期逗留する客の日常的幻奇のつづり  ◆一話読みきり
 タイトルイラスト◆某ぎぼし様 →http://www.tinami.com/creator/profile/12751

2010-06-12 12:20:43 投稿 / 全10ページ    総閲覧数:491   閲覧ユーザー数:466

 

 

 

 

 某県その山間の村は、山裾に沿って南北に細長い。

 辺鄙は辺鄙の土地であるが、北方面はいわゆる「街」に近いせいで、若干華やいだ気配がある。

 仮にこちらを表と呼ぶならば、南の側は裏に非ず「奥」と呼ぶ。

 私が宿泊する場所は、この「奥」の更に奥の方に位置している。

 湯治の宿で、潭月亭という。

 入母屋破風を戴く木造三階建の古色を帯びた風格は、この鄙びた村と不思議な釣り合いを見せている。

 

 思いがけず長逗留となり、宿泊を始めて間もなく、自炊客の身分を得た。

 思いがけずとは、自らの傷病……が、考えより重篤だったというのではなく、湯の効能を認めたためだ。

 他所で話せば怪訝、或いは胡乱に疑われそうなこの効能、その湯を商う潭月亭が、ここでは単なる日常である。

 明日の天気、今年の雨量と、心を砕くことはいくらもあって忙しい人たちの、ご養生くださいとただ告げて去っていく無関心や、炊事の足しでもならんかねと、散歩の途中で押し付けられるくず菜のお節介や、そんなものが私の腰を落ち着けさせた。

 

 治療に消極的であるつもりはないが、この日常の感に安穏とする私は潭月亭の女将の困りの種で、見て見ぬふりはできぬ質の女将にしょっちゅう世話を焼かせ、時にはお小言も頂戴した。

 憎まれ口に、女将というより下宿の大家だなどと言ってみれば、ならばさしずめ貴方は書生さん、志必ずや果し、故郷に錦飾るべし、と返って来る。それは自覚を促すためで、つまり心配をしてくれているのだ。

 宿の主意に照らせば、私は確かに、危うい、目の離せない、迷惑な客であった。

 

 

 その夜もまた、ふと目が醒めた時の闇の濃さ重さに、題目代わりに唱えた自重の二文字、それも二度目のため息が聞こえてくるまでの儚い効力であった。

 

 

 ――ああ、苦しい

 

 深夜と思しき頃、眠りを途切れさせたのは、昨夜来降り続く雨の音と、それに紛れたため息と、部屋に満ちた甘い香気とであった。

 記憶にあるような無いような、引き止められるような居たたまれないような、強い香に気をとられている時、二度目の声がした。

 

 ――苦しいよう

 

 ひっそりと漏れたそれは、ひとりごちと聞こえる。にも関わらず、軽佻の輩は礼を失して声をかけた。

「本当に、苦しいほどの、花の香〔か〕です」

 果たして相手ははっと小さく息を呑み、おそらくは、闇を透かしてこちらを伺っている気配。ややあって

 ――もしあのう、そこにおいでは、どなたでしょうか

 なんとも優しい誰何が届く。無礼者に勿体無い。

 

「こちらは潭月亭という宿、旅館です。そして僕はその宿の逗留者です。驚かせるつもりはありませんでした。この香が本当に胸に詰まって切ないので、もしや貴女も眠れぬなら、話し相手になれるかと思ったのです」

 相手はじっと聞いていたが

 

 ――ああそれでは、あなた様のお部屋でございますか。つい自分の寝所のつもりで振舞いましたから、あなた、煩く致しました。私としたことが、一体どうやってお邪魔してしまったでしょう

 

「たまたま夜が繋がったのです。空が白めば戻ります。楽にしていらっしゃい。今の時刻はちょっと分かりませんが、夜明けまでおそらくさほどは無いでしょう」

 

――恐れ入ります。甘えます。あのもしや、雨が降っているんでしょうか

 

「ええ、もう昨日からずっと小止みにも止みません」

 

 ――ああ、この香がするんですものね。雨の季節になったわけです

 

それを聞いて、はたと閃いた。

「そうか、この香。覚えがあってずっと考えていたんです。百合とも思いましたが、雨の連想で分かりました。くちなしですね。そうでしょう」

 

 ――はい、そうです。随分懐かしげに、嬉しそうにおっしゃいますこと

 

「ええ、ええ。昔住んでいた所にもありましてね。路地の多い町並みで、雨など降ると、濡れた石畳の風情がいい。この時分、歩いているとふいにこの香に捉まって、ああ、咲いていると探して歩くんです。匂いを頼りに、こうやって」

 梅雨空の。

 けぶる景色に、ふいに匂う清烈な。

 眼を閉じて、瞼裏に、かつて憶えた路地を往く。

 雨音を吸〔の〕む石畳、辿って曲がり人家の庭先、竹垣の向こうに、雨に濡れてその花が

 

 ――見つかりましたか、あなた

「ありました。ありました。いやこれは、逢えたと言うべきです。毎年のことなのに、毎年のようにハッとする。毎年、初めて逢うようです。情の濃さを思わせる厚い花弁、雨滴を流し、ぞくっとするほど婀娜なくせ、白皙に紅ひとつささない姿はずるい。悩ましい香で誘っておいて、淑女の気品で待ち受ける。思うことも毎年同じで、もしも、こんな花が人間で、女のひとであったのなら」

 ――よかったものを?

「とんでもない。もしこんな女性と出会ったら、僕なんざは世間知らずですから、すっかり溺れて身を持ち崩すに違いない。いや、相手にされて溺れると思うんなら自惚れだ。花ならば、僕がこう、寄っていっても向こうを向いたりしませんが、これが人間だったら、きっとツンと顔を背けるんです。袖にされて、惨めな気分になるんです。いずれにしてもろくでもない。だから思うんです。つくづくお前さんが花でありがたい」

 訪問者は声あげて笑い、それは夜に咲いたようだった。

 

 ――ああ可笑しい。本当に、おっしゃる通り。あの花は。あのくちなしという花は。私はけれど、嫌いました。

その、そう、清楚とみせて人引きに長ける狡猾や、往生際の見苦しさを

 

 その告白は、少なからず予想を裏切った。

「嫌っておられたとは。この香はあなたから届いているようです。なのでてっきり、くちなしの化身があなたかと」

 言えば、訪問者はふと口つぐみ、酷いことを口走ったかと危ぶんだが、再び聴こえた声は思いの外朗らかで。

 

 ――卑しい花、憫れな花と、厭うて、憎んでおりましたから、今でもこの花が咲くのがいち早くわかってしまうんです。

こんな憎い憎いの念なのに、それがどう届くのやら、向こうから、ほほ、花のほうからですよ、ご機嫌伺いに来てくれます。こちらの戸惑いなんか気づきもせず。無邪気なんですねえ。この香は花の置き土産。毎年これが身体に残るうちは胸苦しくて、先ほどのよう、煩いことになるんです。

花がなくなるまでの辛抱ですが、あなたご存知ですか。くちなしは散りませんの。盛りを終えてなお、長く枝に残ります。それを私は憫れと言いました。

 

業の深い花ですよ。深まりゆく蒼が雨に洗われる美しい季節に美しい姿で咲くことを許されて、人が皆々、我の所在を探し来る様を眺めているうちに、自尊が高じたのでしょうか、老い枯れる定めを嫌って、朽ちたくない、朽ちたくないと唱えるあまりに、茶色く老いさらばえてなお、枝にしがみ付いているようになった。そう申せば、憫れな花と思えませんか。あなた私をくちなしの化身とおっしゃった。くちなしの、憫れな、醜いところばかり集めたら、私になるんじゃありませんか。きっとそうです。あなた、そうだとおっしゃいまし

 

 古来より、亡霊との問答に敗れた人間はむなしくなるものと相場が決まっている。ぞっとさせたい目的だろうがいかんせん、陰陰鬼気迫るというにはほど遠く、性根の善さが露見している。

「おからかいになっても結構ですが、きっと張り合いがありませんよ。だいたいその話を聞いても僕は、くちなしをちっとも醜いと思えません。思えないものは無いもので、無いものをいくら集めても貴女になりません」

 そう言えば、あっさり芝居を捨てて、また屈託なく笑う。

 

――いかにも三文芝居でしたねえ。ですが、すべてが嘘というわけでもないんですよ

「かもしれません。しかし今はもう、貴女はそれほど囚われていない。僕は貴女がどうやって枷を解いたか、それを聞きたいのです」

 ――なに、時ですよ

 ぽん、と空に紙風船を打ったように言う。

 

 ――くちなしが嫌いだったのは本当です。盛りの花はあてこすり。老い枯れの無残な姿は将来の暗示。

死んで最初の百年、私は生時の延長で、萎えながら枝にしがみつくかつての美花の成れの果ての、その醜さを憎みました。百年を終えるころ、私は思い出しました。私は老いる前に、死と縁があったんです。ああ、私はああはならなかった。それなのに、どうしてかまだあの花を見れば胸が騒ぎ、憎らしい心は無くなりません。

 

次の百年、私は自分の囚われるわけが、悔恨なんだと知りました。醜くても憫れでも、天からもらった命の限り、ああして私もしがみついていればよかった。自ら生の枝から手を離した愚かを今更悔やんで、自分が滑稽で泣きました。その私のところに、やはりくちなしは毎年しれっと訪います。いつしか、こんちくしょう、ってな気持ちになりました。

 

あなた、私は次の百年は、どうかもう、疾うに終わった生をつらつら思い煩うのはやめにして、笑っていようと思うんです。花の生涯に己を重ねて涙繰言は飽きました。笑ってこの花めを百回迎えて見送って、そうしてまだどこにもゆけずに居たのなら、その時また、次の百年のことを考えます

 

 清々と言ってのけるのが、聞くこちらにも涼しかった。

「貴女。たった今、まだ貴女はお苦しいですか」

 次の百年の間には、おそらく軽ろがろといずこかへと発つ女〔ひと〕の、ただ、今現在を思いやった。

 

 ――それが今はちっとも。……あなた、お宿は何とおっしゃいましたっけ

「潭月亭、といいます」

 ――不思議なお宿です。なんだかまるで、繭に包まれて、ぬくぬくと睡る心地がいたすんでございますよ

 少し考えた後、

「湯治の宿なのです。癒湯の湧く場所ですから、きっと、そうもありましょう」

 と、嘘はひとつもつかないが、かなりの部分を隠して言った。

 

 ――肉肌失くした剥き曝しの魂〔こん〕まで慰められた。あなた、効験は私が証になりますね

 それに応えようとした矢先、だしぬけに、鶏〔とり〕が鳴いた。

 

 ――ああ

 

「夜が……」

 夜が明ける。

 幾重にも重ねた黒絹が風に剥ぎ取られてゆくように、夜が次第に薄くなり、やがて透かした暁光に、棲み慣れた部屋の輪郭が見えた。

 

 ――あなた……

 慌しい暇乞いが届いた。貴女も、という、こちらからの声は追いついたのか。

 朝は何も変わらず訪れた。

 名残を求め、床の中から手を伸ばして畳に指をつける。ひんやりとした畳の目に、濃い花香が、丹念に塗り込められている気がしたが、起きていって窓を開け、朝の空気に散らすべきだ。

 初夏とはいえ山の朝はなお冷える。冷気が未練を後押しするが、思い切り、床を起き抜けて障子を開け、窓硝子の向こうにしとしと雨を見ながら、螺子締りの錠を緩めれば、枠が硝子ごとがたんと震えた。

 雨の日の常とて木枠の窓は開けるに重い。お前も未練か。しかし仮にも潭月亭の窓を名乗るなら、ここは部屋主が渋っても自ら開いてみせる気概であれ。叱咤すれば、呆れて窓はガランと開く。

 颯と吹き込んできた空気に夜の名残は一切散った。散ったはずである。

 

 顔を洗い朝飯の段取りをつけようと、布団もあげず手拭いを担いで部屋を出た。

 流し場に向かう途中で女将に会った。

 ずいぶん手前から丁寧にお辞儀をするのに近づくのが、どうにもぎくしゃくしていけない。

「おはようございます」

「おはようございます」

 ようやくすれ違うと、目を伏せてふっと溜息。それが不出来の息子を憂う母親の態で。

「あの……」

「藤生〔フジイ〕様、お朝食は」

「ええ、これから」

「では一食、お作りいたしましょう。お部屋へお持ちいたします」

「えゝ、でも」

「なんですか、その、サアビスと言うんです。お代は不要の」

「サアビス」

「はい。では後ほど」

 悪戯が発覚した子供なのだ。神妙にするしかない。

「そんなに窮屈になさらないでくださいな」

 卓袱台の前に堅く膝を折るのを気の毒そうに、女将も少々困った様子。

 手ずから櫃の白飯を碗につけて渡してくれるのを、俎上の魚は押し戴く。

「冷めませんうちに」

 豆腐の汁物、玉子巻、茗荷の味噌漬け、鯵の塩焼、香物の御膳を前にかしこみかしこみ、「お叱りをまず」。

「説教なんかしませんよ。ご様子を伺いに参りましたのは、そりゃあ隠しませんけれど」

 女将は言って、部屋の中へ目を移す。

「性の好い方でしたのね」

「はい」

「藤生様、暖かいうちに、本当に」

 深々と一礼して、汁物に箸をつける。豆腐の他にヒラタケが。豪勢な。

 

「性のよいひとだったと、どうして判ります」

「綺麗に、なにひとつ痕跡〔のこ〕っていませんから」

「潭月亭は心地が好いと」

「その方が?」

「ええ。繭に包まって睡るようだと」

「なんとお答えに」

「湯治の宿なので、と、それだけ」

「それだけ」

「だって女将。なんと言うんです。いや言いようはいくらもあるんでしょう、でも僕は考え付きません。相手の心持ちを悪くしない言いようは」

「そうですねえ」

 耳隠しを結う女将が小首を傾げると、仄かに少女らしく見える時がある。

「確かに幽明の境に居る方に、霊の障りを療ずる湯ですと言ったのでは、ちいと具合が悪いようにも聞こえますねえ」

 そうなのだ、と俄か居直った。

 

「霊の障りと一言で言って、それがどんなに深微であるか、僕もようよう知りかけています。が、とてもまだ他人に説いて聞かせる段じゃない。霊魂である身も慰められると言ったあの人は、わかってくれたかもしれない。でもうかつなもの言いをして、些しでもこの人の心に影落としたらと思ったらできません。百年を二度重ねたのだそうです。そんな長い歳月の中の、ほんの一瞬すれ違っただけの分際から、謂われのない非難を浴びるなどあっちゃならん。そんなことをするのは通り魔の所業です」

「藤生様の方が通り魔ですか」

「そうです」

 不貞ッ腐れた餓鬼のように憤然として言えば、女将はまた困り顔の笑、途端にすまない気持ちが蘇る。

 風来坊よろしくこの地を訪れた、それから散々世話になった。

 自ら治療の目的で来たくせに、とんと幽的に警戒心の無い不良客なのであった。女将は親身にいつまでも叱ってくれ、この身の疾病……が多少と言わず快〔よ〕くなっているのは、すべてここ潭月亭のおかげである。

 

「すみません」

 万感こめて頭を下げる。箸は持ったままの不精。

「藤生様の場合にはそのご性分が、お身体に好いやら悪いやら、分らないのが、悩ましいんでございますねえ」 

 女将は頬に手をあて、ほおっと息を吐く。

「以前は何区別なく、口煩くしましたけれども、あれはねえ、藤生様が無気力で、来るもの拒まずになっているように見えたからなんですよ。何ですか、そら、ぼーっと、薄い感じで」

「はあ」

「藤生様が実はしっかりしたお方だともう分りましたので、何でも彼でも口を出すのは、しないつもりなのですけれど、やはりこうちょっとしたことがあると、ご様子を伺わないわけにはいかない。お許しくださいねえ」

「いや、そんな。未だにこんなに気を揉ませて、ちっともしっかりしていない」

 女将は今度は手を口元に、くすくす笑う。 

「ご気力の話でございますよ。無気力でも、投げ遣りでもなかったというお話です」

 ふむ。つまり、か。

「つまり、ぼーっとしているのが生来だったということですね」

 それ以上笑い出すのを堪える女将の袖の、鉄色の地につつましく描かれた白い花影を見ているうちに、ふと尋ねてみる気になった。

「女将。この辺りにくちなしなんかは咲きますか」

「はあ、くちなしですか。ええ、裏山に。上に見晴台がありますでしょう。その手前、右に折れるところですね、あそこでちょっと気をつけると、本道と分かれて小道があるんです。行けばお分かりになりますよ。そこをしばらく行きますと、野生のがたんと咲いてます」

 すらすらと答えるので、

「よく採るんですか」

 と聞くと、

「ええ、秋に」

「秋?」

「お花はねえ。葉ごと採ってきて水盤にあしらったりするととてもいいのですけれど、香が強いでしょう。内に飾るのは難しいんです。だから花の時期には山でお花見してそっとしておいて、あとの実を摘むんです」

「へえ。くちなしの実は食えますか」

「染めものに使います。そりゃもう、綺麗な優しい色に染まります」

「ほう。何色になるんです」

「何色……そりゃ、あなた、支子〔クチナシ〕色ですよ。柔らかい、優しい、はしゃがない、黄金〔こがね〕になった麦の海に風が渡って、波が打って、明るいところと暗いところ、そのかすかに影さした、きらきらしいのより一段沈んだそのところが愁いをのんで、さらさらとぬくまって、昔を思うような、そんなお色です。

 あれは、くちなしの、盛り終わりの色なんですねえ。色に、花の思いの丈がこもるんです。色に化身した思いがやがて実になって、人の手を借りて様々なものを染める。だからあの色は、見る人によって、寂しかったり、暖かかったり、懐かしかったりするんでしょう」

 じっと聞いたままの私を置いて、続けて女将ははぽんと手を打ち、

「でも食べるものも染めますから、実を食べるとも言えますね。お菓子やきんとん、そうそう、これなんかにも」

 そう言ってさしたのは香物鉢。

「漬物?」

「だいこん漬け。沢庵です」

「沢庵!」

 それは話の中で場違いのようでいて、人の生業の中にそっと入り込んでいる花の思いを忍ぶのに申し分ないような、可笑しく、しみじみと受け取れた。

「ではごゆっくり。あとで下げに参りますから、器はそのままに。お散歩へ出られるなら、お足元お気をつけて」

 畳に指をついて挨拶をして、女将は部屋を出ていった。

 

 襖が閉まるとまたしんと、雨音だけが聴こえるようになった。

 すべてをぼんやりと沈ませて、雨が降る。午睡の眠気に似たものに侵食される脳髄を蹴飛ばして、花が薫る。鮮烈に。鮮明に。

 束の間繋がったのがいずくの夜であったのか、今となっては辿る術もない。

 彼の女〔ひと〕にも、雨が優しくあるといい。

 くちなしはきっと最後まで、小づら憎しの相手でいよう。

 あの人の、こんちくしょう、は可愛らしかった。

 沢庵を一切れ口に入れ、こんちくしょう、で噛みしめる。

 ぼり、と音がする。

 

 こんちくしょう、

 ぼり、

 こんちくしょうこんちくしょう、

 ぼり、ぼり、

 

 花に憑いたか。花が憑いたか。分かちがたく境も溶けた思いの丈に雨は降り、花は薫り、雨が降る。

 湯治の宿の男は一人、雨を聴きつつ沢庵を噛む。

 

 こんちくしょう

 こんちくしょう

 こんちくしょう

 

 

 

 

 

 【不朽花/終】

 

 
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