それからの日々を初音はよくは覚えていない。
仕事を休むような真似はさすがにしなかったが、身が入ってなかったのも事実だった。
売り場にいるときは、とにかく早く帰りたくて帰りたくて、苦しかった。
駆けるように家に戻ると、今度は直隆と二人でいるのに苦痛を感じてしまう。
そして、縋るように逃げるように、体を重ねる。
焦燥と狂気を伴って。
何もかもどうでもよかった。ただ、暗闇に中を彷徨っているような、そのくせ何を求めているのかも分からない。
林田の戸惑いも、洋子の白けた眼差しも目に入らなかった。
そんな初音に活を入れたのは船橋である。
かつての上司は、ある日突然売り場にやってきて、
「お宅の店長、借りてくぜ」
と問答無用で初音を居酒屋に拉致したのだった。
「あの、船橋さん。あたし、こんな所でこんな時間から、あなたと飲んでいる場合じゃないんですけど」
「悲しいことをいうじゃねえか、おい」
おしぼりで手と顔と、ついでに脇までふいた船橋は構うことなくビールを二つ注文した。
「林田からSOSがあって行ってみりゃ、なーんだ、そのツラは。やりすぎなんじゃねえの」
思わず初音は顔を撫でる。
これだから女は、と船橋は息を吐いた。
「店長の様子がおかしいんです。この前は慶事用の包装紙を巻いてお客さんに渡そうとしていました。僕が気付いたから良かったものの、本当に最近おかしいんですってほとんど泣きそうな声で電話があったぞ。大方、男と悶着でもあったんだろうが、しっかりせんか、この馬鹿者」
「すみません……」
「人間だからしょうがねえとは思うがな。仕事にプライベートは持ち込むな。俺たちは働いて会社の利益を上げる。会社は見返りに俺たちに給料を払う。しかもお前は責任者だ、部下に心配かけてどうする」
「はい……」
ふん、と鼻を鳴らすと船橋は注文したつまみをずずいと初音に押しやった。
「食え。とにかく食え。お前、まともに食っとらんだろう」
「はい」
食欲はさっぱりなかったが、あえて箸を取る。
「なあ、木村」
「なんですか」
ししゃもをほおばっていた船橋が顔を上げた。
「俺はな、今までずっと女が男の土俵に上がってくるんじゃねえって思っていたよ」
「はあ」
「中途半端に三、四年仕事をして、やっと使いもんになれたところで、結婚だ、自分探しだとかいって辞めていく。女は気楽でいいね、逃げる場所があって。結局は親や旦那に依存して生きていけるもんな」
「それは…」
「まあ、聞け。それが幸せってもんなんだろう。時代が変わったからって世間はそうそう変わらねえ。お前も親に仕事辞めろ結婚して早く孫の顔を見せろとせっつかれているクチだろう」
「はあ、まあ」
「お前はよくやっているよ。逃げずにあの日本橋山中屋で頑張っているよ。本社も評価している。だからな、木村」
ししゃもはきれいになくなり、船橋は今度はから揚げに箸を伸ばした。
「あそこが無くなっても、本社はお前を離さねえよ。多分、またどこかの売り場に配属になるだろうさ。そして、お前ならどこにいっても成果を出してくれると期待しとるんだ。その期待にこたえるのが、お前の役目だ」
「すみません、ちょっとトイレに」
「なんじゃい、人がいい話をしている時に」
船橋の声を背に聞きながら、初音はサンポール臭いトイレに飛び込んだ。鍵をかけて、そのまま扉に額を付ける。
涙が出てきそうになり、身を震わせた。
心配してくれる人がいる。必要としてくれる仕事がある。
店長会で会う以外、連絡もとっていない船橋が、わざわざ初音を連れ出してくれた。
説教をしてくれた。
あたしはもしかして、酔っていただけではないのか。
大切な人が死ぬ、もうすぐ目の前から消える。そんな不幸にただ酔って、自分がなすべきことを放棄していたのではないか。
あたしはそんな女が腐ったような女じゃない。
一息ついて、初音は顔を上げた。
直隆は大事。でも仕事も大事。
やるべきことはしっかり果たして、これからの直隆との僅かな時間も大切にしよう。
だが、別れはあっけなく来た。
思ったよりも早く。
帰宅した初音を待っていたのは、無人の室内だった。
覚悟をしていたものの、喪失は思ったよりもひどかった。
さようならくらい、言いたかったよ。
誰もいない部屋の真ん中で、初音は声を上げて泣いた。
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おっさんの説教は時にウザく、時に身に沁みる。