揚州全土を制圧し、完全に独立を果たした雪蓮たちに待っていたものは軍備の増強や内政などの政治行為だった。だが、反董卓連合で洛陽に侵攻した際にくすね…徴収した台帳により、幾分か楽なものへとなっていた。
「さて、と。今のところの目標は軍備拡張と税収増加、といったところだけど…うまく調整しないと民衆からの不満が上がることになるね」
「そーですよー。均衡を保ちながらその二つを達成しなくちゃいけないんですよー」
「それを成し遂げるのが我ら文官ということなのだ。ヨシュアも含めてな」
元々ヨシュアは武官としての働きを期待されていたのだが、文官としても優秀であるということが分かると、当然のごとく仕事が持ち込まれるようになっていた。この世界に来た当初は文字を理解できずに困ったのだが、穏の怪しい雰囲気の授業のおかげですっかり習得していた。
「幸い、ヨシュアは優秀だ。亞莎と共に私の後継にしてもいいと考えている。だから、まだまだ覚えてもらわなければいけないことはたくさんある」
「う、私は、勉強はあまり得意ではないのですが…」
「焦る必要はないよ。亞莎は亞莎にあった方法と速度で学んでいけばいい。焦ってもなにもいいことはないからね」
「そう…そうですね。ヨシュア様の言うとおりです。私なりに頑張ります!」
亞莎の言葉にヨシュアは満足そうな顔で頷き、雪蓮はそんな亞莎を見て悪戯な輝きをその瞳に浮かべた。
「あら、ヨシュアの言うことには素直に頷くのね」
「そ、そんなことは…ない…です…」
「あらあら、顔を赤くしちゃって。可愛いわね。シャオと蓮華にも見習ってほしいわね。ヨシュアに嫌われるわよ」
「シャオは元々かわいいもーん。それにヨシュアは私の旦那様になるんだから!」
「悪かったですね。私にはどうせ可愛げなどないですよ。だいたいヨシュアは小蓮のものじゃない」
雪蓮の言葉にシャオは頬を膨らませ、蓮華はその見事な胸の前で腕を組んでそっぽを向いた。蓮華の顔は赤く染まっていた。
「あら、拗ねちゃった。ヨシュア、なんとかしてー」
「僕に振らないでくれるかな」
「…ヨシュア、お姉様の肩をもつの?」
「…蓮華。気のせいかもしれないけど、声が怖いんだけど」
若干の上目づかいで見つめられて可愛いな、とは思いながらも、その声には何か籠っていて少しだけ背筋が寒くなるヨシュア。これはエステルと結婚した後、女王となっていたクローゼに秘密の情報収集を依頼され、一晩城に泊まり、次の日準備のために家に帰った際、エステルに何もなかったかと、訊かれたときのようだった。
「…こ、これ以上ここにいてもお姉様にからかわれるだけなのでもう行きます!亞莎!ついてこい!」
「は、はひっ!?」
顔を真っ赤にしたまま外へと出ていく蓮華を、亞莎はこちらに一礼してから慌てて追いかけて言った。それを見送る雪蓮たち(ヨシュア除く)の顔は微笑ましいものになっていた。
「蓮華様も可愛くなられたものだ」
「うむうむ。良い傾向じゃな」
「ヨシュアさん、いつか蓮華様の嫉妬の炎で丸焦げになったりして」
「嫉妬で丸焦げだけならまだいいけどね」
ヨシュアは何か思うことでもあるのか、若干青ざめた顔でそれに応えた。そんなヨシュアの反応に冥琳たちは笑うと、それぞれやることがあるので外へと出ていった。
「雪蓮。蓮華をからかうのもほどほどにね。彼女はああいったことを笑って流せるような性格じゃないんだから」
「あんな性格だからついついからかっちゃうんだけど…でも安心したわ。あの子の様子を見ていたら安心したわ。まずまずは上手くいっているみたいで」
私がいなくなってもこれなら大丈夫。という言葉は胸の中だけで留めておく。ヨシュアはそういった言葉を言うと、不機嫌な、それでいて悲しげな顔をして文句を言ってくるのだ。そんなヨシュアの顔を、自分は見たくなかった。
「ま、ほどほどに頑張ってるよ」
「ふふ、期待してるわ。でも、蓮華に譲るの、少しだけ早かったかな」
雪蓮はヨシュアに後ろから抱きつき、その体重を彼に預けながら少し…どころではなく残念そうな声で呟いた。しかし、ヨシュアはなにも言わない。ただ、黙ってその体重を支え続ける。そして少し、心地よい時間が過ぎ、唐突に雪蓮は口を開いた。
「ヨシュア、今日暇?」
「…雪蓮にむりやり押しつけられた隊の訓練はすでに終えているから、あとは雑務をこなすだけだから暇と言えば暇だよ」
「ヨシュアも呉の立派どころじゃなく、筆頭武将なんだから隊の一つや二つ持っていないとだめでしょ?でも暇なら…ちょっと付き合ってくれる?」
「ああ、いいよ」
行き先は聞いていないが。彼女の様子とかけられていた体重の様子が変化したことから恐らく彼女にとって重要な場所なのだろう。そう思い、ヨシュアは快諾した。そして、雪蓮に手を引かれ、城の外へと出ていった。
それよりも数日前。魏国内
「くそっ!孫策とあの天の御使いとかいう野郎め!」
一人の男がいらだたしげに悪態をついた。そのまわりには数十人の男がいる。彼らは許貢の残党で、好き勝手やっていたところを、雪蓮に、そしてヨシュアに圧倒されて呉を追い出され、魏へと流れていた。そして今は魏の一兵士と言う立場だった。
「あいつらさえいなければオレたちは今だって好き勝手やれてたんだ!」
別の男が凄まじく理不尽な怒りの声を上げる。そこに、一人の男が駆けこんできた。
「おい、曹操が呉へ侵攻するらしいぞ!これってチャンスじゃないのか!?あいつらを暗殺することができれば!」
「あいつらに意趣返しできると同時に、敵の大将と筆頭武将を討ち取った褒美に取り立ててもらえるかもしれねえってことか」
男の情報にまた別の男がいいことを聞いたというように舌なめずりする。だが、別の男が口を挟む。
「でも、孫策も、そしてあのヨシュアとかいう男はオレたちの手に負える相手じゃないぜ!どう考えても弓を構える前に、それどころか近づく前に殺されちまう!」
その言葉に男たちは考え込む。そこに、唐突に声をかけられた。
「ならば、私と手を組みませんか?」
男たちが声をした方を見ると、そこには見慣れない格好をして、杖のようなものを持つ男がいた。
「てめえ、何者だ!」
男の一人が声を荒らげ、斬りかかろうとするが、リーダー格らしき男が止めた。
「どういうことだ?」
「先に名乗っておきましょうか。私はゲオルグ・ワイスマン。ヨシュア・ブライトをよく知り、憎むものですよ」
男は冷酷な笑みを浮かべて言った。リーダー格の男は、その笑みに寒気を覚えながらも、この男ならなんとかできるのか、と思い口を開く。
「あんたならあの天の御使いとかいう男を殺せるのか?」
「ええ、あなたたちの協力があれば」
ワイスマンは冷酷な笑みに自信を付け加えて頷いた。リーダー格の男は少し考えて言った。
「いいだろう。あんたと手を組もう。なら、あんたの手を聞かせてもらおうか」
男の言葉に、ワイスマンは誰にも気づかれずに、嘲笑を浮かべた。利用されるだけの愚かな男たちに向かって。
雪蓮に連れられ、ヨシュアは城からそう離れてはいない森の中にある小川へとやってきていた。そしてそこには小さな墓石らしきものが立てられていた。
「これは…誰のお墓なんだい?」
「これはね、母様のお墓なの。ヨシュアにはもう話してあるから必要ないとは思うけど、袁術の城は、元々は母様が落とした城だったの。母様が死んでから奪われちゃったけどね。それで、死ぬ間際に母様が立派な墓を嫌がったのよ。死んでまで王という形式に縛られたくないってね」
「…なんだか雪蓮も寿命を迎えるときには同じことをいいそうだね」
「そうね。戦ばかりの毎日だったから…死んだあとくらいはのんびりしたかったのよ。きっと」
そう笑いながら墓石を磨く雪蓮の顔はとても綺麗で、汚れないもののようにヨシュアは思えた。ヨシュアは川から水を汲み上げては雪蓮へと預け、彼女が墓石を磨いているうちに、周りの掃除を済ませていく。穏やかな、それでいて尊い時間がそこには流れていた。
「…人出がないからと言って、休みの日まで出ばらされるのもきついなぁ」
城壁の上で一人の兵士がぼやく。そして傍にいた兵士が苦笑を浮かべながらそれを諌めた。
「そう言うなって。今、孫策様は大切な時期なんだ。俺たちが協力しないでどうするんだよ。それを言ったら御使い様であるヨシュア様なんかいつ寝てるんだって言うぐらい仕事してるだろ」
「オレ、よくヨシュア様って人間なのかって思うときがある…」
「それは俺も思う。でも、あんなひとが呉にいてくれてよかったって思うよ。他の武将の方もそうだけど、あの方はそれに輪をかけて俺たちのことをきにかけてくれるじゃないか」
「そうなんだよなぁ。でも、疲れたまま戦場に立ったらオレたちじゃすぐにあの世行きだぜ?」
「しばらくは大丈夫だろ。そうだ、今回の仕事が終わったら呑みに行こうぜ。俺、いい店知ってるんだ」
「お、いいね」
二人の兵士が和やかな雰囲気で話していたところに、一人の兵士が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「お、おい!北の方からどこかの軍勢が押し寄せてきてるぞ!」
「ちょ、まじか!ちょっと待てよ、どこの旗か見てみるから」
「…この距離で見えるのかよ!?」
「ああ、俺の視力は10.0だからな」
「どこの原住民だよ!?」
そして一人の兵士が目を凝らして見ると、青ざめた顔で口を開いた。
「…曹だ。は、早く本城に伝令を出そう!」
「お、応!オレたちは籠城の準備だ!」
国教沿いの砦は俄かに騒然となった。
そして雪蓮たちが墓石を磨いている頃、本城に伝令が到着し、曹操の襲撃を伝えていた。砦からの伝令はそのほとんどが捕殺され、ようやくたどり着いた一人も、全てを伝え、事切れてしまっていた。冥琳はその知らせを受けると、少し、そのものたちに黙祷を捧げ、すぐに兵士へと視線を戻した。
「…敵はどこまで来ている」
「はっ!すでに本城より五里のところに!囲まれるのは時間の問題かと」
「分かった。下がっていてくれ」
「はっ!」
兵士が退出したのを見届けると、冥琳は、首を振った。
「曹操は一体何を考えている?未だ袁紹とは決着はついていないはず。なのにこの時期に南下するわけは…」
「呉に本城を映さなかったのが仇となってしまいましたね。…とにかく私は軍部に行って祭さまたちと軍議に入ります。冥琳様は雪蓮様たちを」
穏の言葉に冥琳は頷き、すぐに行動を開始する。一秒の遅れも命取りになるこの状況、本当に時間が全てだった。
その頃、雪蓮たちは綺麗になった墓石を前にしていた。
「なんとか綺麗になったね」
「うん。でも母様は怒ってるかもね。遅すぎだ!って」
「はは。雪蓮がそういうならそうなのかもね」
「…母様はね。とても凄い人だったの。江東で旗揚げしたと思ったら、江東、江南を制覇して孫家の礎を作ったんだから。あの人みたいなのを英雄っていうんだと思う。まだよちよち歩きしかできない私を戦場に連れていってたから、母親としては失格だとは思うけどね」
そうは言ってはいるが、雪蓮の顔はとても穏やかに笑っていた。そしてそっと墓石の前に跪いた。
「母さん…ようやくここまで来れたわ。あなたが広げ、その志半ばで去らなければならなかった…私たちの故郷。それがようやく戻ってきた。見てる?今から我ら孫家の悲願が始まるわよ」
墓石に…いや、母に静かに語りかける雪蓮をヨシュアは静かに見守る。この空気は自分が乱していいものではない。彼女の為だけの空気であると思って。
「呉の仲間が、呉の民が笑って暮らせる時代。きっと作って見せるわ。大丈夫。私には思信頼できる仲間がいる。それに、ヨシュアがいるもの」
そこでようやくヨシュアは口を開いた。
「人なんて矛盾だらけだよ。だからこそ、自分の理想を現実に出来れば、それだけで価値があると僕は思う。そして、僕の力は理想を実現しようと頑張る人の為の力。だから、僕は全力で雪蓮たちを支え、手助けする」
「ふふ。やっぱり、蓮華に譲ったのは失敗だったわ。独占しとけばよかったかな。…でもヨシュアは皆のものだから。時々独占できるってことで満足するわ。…じゃないと蓮華に怒られそうだもの」
「皆のものってことは雪蓮のものでもあるんだけどね」
「あら、そういえばそうね」
ヨシュアの言葉に雪蓮は今気づいた、というようにおどけ、二人で顔を見合わせて笑った。
「さ、そろそろ帰ろ。本当に蓮華が怒鳴りこんできそうだし」
そして雪蓮は再度墓石の前に跪く。
「そろそろ行くわね、母様。これから忙しくなるから、なかなか来れなくなると思うけど。あなたの娘は命の限り戦うから。呉の民が描く未来へと向かって。…天国から見ていてね」
そのとき、ヨシュアは突然、何の脈絡もなく人の気配が周りに増えたことに気がついた。そして、その気配を追えば、そこには数人の男が弓を構え、雪蓮に向かって射出しようとしていた。なぜ、気付けなかったのか、どうやってここまで気づかれずに接近できたのか、という疑問はあったが、ヨシュアの体は雪蓮の方へと動いていた。
「雪蓮っ!」
「え…きゃっ!?」
ヨシュアは雪蓮の体を咄嗟に突き飛ばし、放たれた矢を引き抜いた双剣で弾く。そして。雪蓮のもとへと行こうとしたとき、巧妙にタイミングをずらして放たれた矢がヨシュアへと放たれていた。
(っ!?本命は雪蓮ではなく僕!?)
ヨシュアは咄嗟の判断でその場から跳躍し矢を回避する。だが、そこにどこか見覚えのある雷撃が叩きこまれた。
「がっ!?」
「ヨシュアっ!?」
雪蓮の悲鳴が聞こえる。
空中にいても矢ならば弾き飛ばせた。だが、予想外のものが飛んできたこと、そして体勢を変えられない空中であるということが重なり、それはヨシュアを直撃し、その体を弾き飛ばしていた。
だが、ヨシュアは双剣の特性であるアーツの無効、または軽減能力のおかげでなんとか倒れずに片膝をついて着地する。並のアーツでは抜くことのできない双剣の守りを抜いたのだから使用者はかなりの実力を持っているのだろう。守りがあってなお、体はしびれ、そして傷は深く、体の自由は効かない状態だった。それでもなんとか雷撃の飛んできた方向を見て、驚愕した。
そこには、ケビンが確かに抹殺したと言っていたはずの、自分にとっては仇敵と言ってもいい男、ゲオルグ・ワイスマンが立っていたからだ。そしてワイスマンは何か合図を出す。その次の瞬間、動けないヨシュアの右肩に一本の矢が刺さっていた。
「ぐっ!!」
ヨシュアはその矢を自由の効かない体を、精神力で無理矢理動かし、それを引き抜いた。傷だけではない痛みから恐らく毒が塗ってあったのだろう。だが、現在は毒消しのアーツを使える組み方はしておらず、ヨシュアはそれを無視する。そして男たちが茫然としている雪蓮に向かって弓を向けているのを見るや、地を蹴った。
「雪蓮に…手を出すな!」
もどかしいほど反応の遅く、何が何だかわからないほどの痛みを訴える体を酷使して、ヨシュアは男たちの命を刈り取った。そして、返す体でワイスマンへと一撃を入れようとし、それを防がれ、後退したところで、再び片膝をついた。
「久しぶり…といったところかね。ヨシュア。変わりないようでなにより。だが、その体で、ああまで動けるというのは驚いた。あの一撃で殺したと思っていたのだが。やはり剣聖に預けたかいはあったというべきかな。恐らくはあの場所の崩落の際、なにかの理由でここに飛ばされたのだろうが…私にとっては幸運だったというべきかな」
その言葉でヨシュアは意識の途絶えそうになる頭で一つの考えに思い至った。このワイスマンは、自分がオーリオールの起動を邪魔した時のヨシュアだと思っていることに。
「しかし、これでチェックメイトとさせてもらおう。使えない人形は処分するに限る」
そう言ってワイスマンが杖を掲げたとき、一つの影がワイスマンへと肉薄していた。
「なに!?」
ワイスマンは驚きの声を上げて、その人物が振り下ろした剣を受け止める。
「ヨシュアに…なにをしたぁぁぁぁ!」
それは怒りに震える雪蓮だった。その怒気にワイスマンは一瞬気を取られていた。そして鍔迫り合いに持ち込まれ、うかつに動けない状態へとなっていた。
「…あなたは油断しすぎだ」
そして、再び立ち上がり斬りかかってきたヨシュアの一撃を避けるが、振り下ろされた雪蓮の剣が彼の体を捉えていた。
「ぐ…少しこの世界の人間を甘く見ていたか。だが、目標は達した。ここは退かせてもらう」
そう言うとワイスマンはその姿を消していた。それを見送り、何もないのを確認すると同時に、ヨシュアは地面へと倒れた。
「ヨシュア!?」
雪蓮はヨシュアへと駆け寄り、その体を抱き起こす。ヨシュアから流れる血液が雪蓮の体を紅く染める。ヨシュアが酷い怪我を負っていることと、矢を抜いたあとの傷が変色しているのを見て、毒を受けたということを確認し、泣きそうな顔になっていた。そしてすぐ傷口を縛り、毒がこれ以上まわらないように(激しく動いたのだからもうあまり意味はないだろうが)、肩口をきつく縛った。そして必死に毒を吸い出そうとする。そのとき、雪蓮を探しにきたのであろう蓮華がその場に姿を現した。
「姉様っ!城で緊急…じ…たい…が」
蓮華は血で染まった雪蓮と、自らの体液で体を染めるヨシュアを見て言葉を失った。
「…なにがあったの?」
「…そ、曹操が国境を越えて我が国に侵入。すでに本城の近くにまで迫っているようです。それで、なにがあったのですか!?」
「…私を暗殺しようとしたやつらが襲撃をかけてきて、ヨシュアが代わりに攻撃の全てを受けたの。卑怯にも妖術使いまで持ち出してね。恐らく曹操の差し金ね。舐めた真似してくれるじゃない。すぐに城に戻るわよ。このままじゃ…ヨシュアが…」
死ぬ。という言葉は続けられなかった。分かっている。どうやっても、普通の医者じゃヨシュアは助けられない。ヨシュアの死はすでに決まっているようなもの。外見こそ冷静だが、頭の中は怒りや悲しみ、様々な感情でぐちゃぐちゃだった。蓮華は絶望的な顔をしてヨシュアを見ている。
だが、それでも、あるかすらも分からない希望にすがり、ヨシュアを抱きかかえて走り出す。蓮華もすぐに走り出し、雪蓮の後を追った。糸の切れた人形のように腕を投げ出したヨシュアの姿に、いつもは冷静に、そして周りを安心させるような笑顔を浮かべていたヨシュアの無表情な顔を見て、蓮華と雪蓮は知らず、涙を流していた。
「雪蓮、遅いぞ!一体何をして…何があった!?」
いつまでたっても来ない雪蓮に冥琳は苛立っていたのか、ようやく姿を現した雪蓮に怒声を浴びせようとした冥琳は、紅く染まった雪蓮と、その腕に抱えられたヨシュアを見て表情を変えた。
「…話は後で蓮華からでも聞いて。それより早く、この街一番の医者を呼んできて。私はすぐに陣るわ。ヨシュアをお願い」
雪蓮はそう言うと、朱に染まったままの格好で外で待つ兵士たちの前に立った。その姿を見た兵士たちに動揺が走り、その姿を見た祭たちも表情を変えていた。そして、その隣にヨシュアの姿がないということに疑問を感じていた。
そして雪蓮は軍の先頭までたち、同じく前に出ていた曹操と対峙した。
「遅かったわね。なにやら血で汚れているようだけど、着替えるくらいしてくるのが礼儀ではないかしら?それにいつもあなたの隣に控えているという天の御使いとやら、ヨシュア・ブライトはどうしたのかしら?」
曹操が何か言っているが、その内容は上手く頭の中に入ってこない。ただ頭に浮かぶのが、ヨシュアがああなったのは目の前にいる卑怯者のせいだ、ということだけだった。
雪蓮は曹操には何も告げずに、南海覇王を抜き放ち魏軍へと向けた。
「呉の将兵よ!我が朋友たちよ!
我らは父祖の代より受け継いできたこの土地を、袁術の手から奪い返した!
だが!今、愚かにもこの地を欲し、無法にも大軍をもって押し寄せてきた敵がいる!
敵は卑劣にも、我が身を消し去らんと刺客を放ち、この身を毒で侵そうとしたのだ!そして、妖術師までも使い、この身を消し去らんとした!
しかし!我が身は天の御使いによって救われた!我を消し去らんとする悪意を、天の御使いはその全てを己が体で受け止めたのだ!受け止めきって見せたのだ!
そして今もなお、その悪意に負けまいと戦っている!
この孫伯符!それを知って黙っていられるような人間ではない!
我はその思いを受け、鬼神、戦神となりこの戦場を駆け巡ろう!
我が怒りは、我が悲しみは、呉を侵す全てを討ち滅ぼす、一対の牙となろう!
御使いの想いは皆を守る盾となるだろう!
勇敢なる呉の将兵よ!その猛き心を!誇り高き振る舞いを!勇敢なる姿を我と彼に示せ!
呉の将兵よ!我が友よ!愛すべき仲間よ!愛しき民よ!
この孫伯符は、怒りの炎を燃やし、ここに天の大号令を発す!
天に向かって叫べ!心の奥底より叫べ!己の誇りを胸に叫べ!その全てを天の御使いまで届かせろ!
その雄叫びと共に、曹魏を討ち滅ぼせえぇぇぇぇぇっ!!」
雪蓮の号令が終わり、一度全てが静まりかえる。だが、すぐに怒りの籠った雄叫びが轟き渡り、一斉に突撃を開始した。
「どういうことだっ!誰が孫策を暗殺せよと命じたのだ!それに妖術師とはどういうことだ!」
雪蓮の言葉を聞いた曹操は深い怒りと困惑、悲しみをその胸に抱いていた。最初は何を馬鹿な、と思っていたが、孫策を染める紅、彼女から感じる、まぎれもない怒りがそのすべたが本当なのだと曹操に確信させていた。
「わ、我らがそのようなことを、するはずがありません!ましてや妖術師など!」
「ならばなぜだ!なぜ、天の御使いが!ヨシュア・ブライトが毒を受ける!傷を受ける!なぜこのようなことが起きる!」
曹操の声は既に泣きそうなものだった。そこに荀彧と郭嘉が血相を変えて飛び込んでくる。
「か、華琳様――――っ!」
「事情が判明しました!許貢の残党で形成された一団が孫策とヨシュア・ブライトの暗殺を行ったようです!そして、妖術師らしき男との接触も確認しました!」
「その者どもの頸を刎ねよ!」
「えっ!?」
曹操の言葉にそこにいた人間は驚きの声を上げた。どして曹操は怒りと悲しみに震える声で命令を繰り返した。
「その者ども、全ての頸を刎ねよ!知勇の全てを賭ける英雄同士の聖戦を、下衆に穢された怒りが分からないのかっ!」
「ぎょ、御意!」
「春蘭!呉へ使者を出せ!我らは一度退く!」
「し、しかし華琳様!この状況での退却は尋常ならざる被害が!」
そう反論してくる夏侯淵を曹操は怒鳴りつけた。
「ならば戦えというのか!?このような戦いを続けることに何の意味が、何の意義がある!もはやこの戦いに意味はなく、大義もなくなったのだ!軍を退かなければ、私は、私はっ!」
「駄目です!敵軍突撃を開始しました!これは…速いっ!!」
「く…なんだこれは!このような戦い、誰が望んでいるというのだ!…追撃や無駄な戦いはするな!穢されたこの戦い、せめて無事に収拾せよ!」
「はっ!」
曹操の命令にそこにいた人間は深く頭を下げた。
「進め!進め!進め!進め!曹操の兵どもを血祭りにあげよ!仲間の…ヨシュアの血を!奴らの命で償わせよ!殺し尽くせ!腐った魂を持つ下衆どもを!その血を呉の大地に吸い込ませるのだ!」
蓮華は目の端に涙を浮かべて声を張り上げている。
「…なぜこうも若いものばかりが。まだ死んだとは決まっておらぬが…天は何を考えているのか」
「黄蓋様!早く!奴らを皆殺しにし、その血の全てをヨシュア様に捧げましょう!我らが英雄を傷つけた卑劣な輩に、死を!」
「ああ、分かっておる…。黄蓋隊に告げる!一兵たりとも敵を逃すな!みなみな殺し尽くせ!敵兵の耳を削げ!鼻をもげ!目玉を抉りだせ!敵の骸を踏みにじり、我らの怒りを天に示せ!」
祭は冷酷な顔で命令を出している。
「ヨシュア様…ヨシュア様…っ!皆、頑張れ!ヨシュア様が無事に治療を受けられるように!安心して治療に専念していいんだって、それをわかってもらうために!」
亞莎は涙をこらえつつ指示を下す。
「殺せ!殺せ!殺し尽くせ!我らの怒りを獣どもに叩きつけろ!王を穢そうとした罪を、我らの仲間を穢した罪を、奴らの命で購わせろ!投降するものは殺せ!逃げるものも殺せ!孫呉に二度と刃向かえないように、徹底的に!!」
思春は初めて心を許したと言える男の負傷の報に怒りを滾らせる。
「邪魔者は殺して下さい!一人として逃がしてはダメです!ヨシュア様を傷つけたやつらに、この世の地獄を味わわせてやるのです!」
明命は戦場を駆け回り、敵を根絶やしにせんと武器を振るう。
そして、最も凄まじかったのは、やはり雪蓮だった。単騎で敵陣深く斬りこみ、辺りを血で染め上げていた。恐怖に腰を抜かす敵兵の頸を刎ね、逃げようとする兵士を後ろからその四肢を刎ね飛ばす。そして、辺りに敵兵がいなくなり、敵兵が後退していくのを見ると。手から力が抜け、南海覇王が地面に突き立った。
「姉様!敵が後退します!追撃を!」
「いえ、ここは後退するわ。ここが退き時よ」
「なぜですか!!ヨシュアがあそこまで傷つけられたのに!姉様はなんとも思わないのですか!?」
怒りで、もうこれ以上熱くはならないと思っていた頭に、一瞬で熱が上り、気がつけば蓮華の頬を打っていた。
「何も思わないわけないでしょう!ヨシュアは!私が気抜いていたせいでああなった!私が連れ出したからああなった!でも私は王!いくらヨシュアの為でも、これ以上呉を危険に晒すわけにはいかないのよ!」
蓮華は打たれた頬を押さえながら俯いていた。そして雪蓮は浮かんでいた涙を振り払うと、南海覇王を握り、声を張り上げた。
「今、敵は敗れ去り、この地を去った!その事実を天に向かい謳い上げろ!皆の誇りを、皆の願いを!皆の想いと共に!勝ち鬨をあげよ!」
兵士の勝利の声が響く中、雪蓮たちの心はヨシュアのことで埋め尽くされていた。
兵を引き上げ、最低限やらなければいけないことを終わらせると、呉の将は全員がヨシュアの元へと集まっていた。そして、ヨシュアを治療していた部屋から一人の赤毛の男が姿を現した。
「あなたが華佗ね。冥琳から聞いたわ。よく、この時にこの街に来てくれたわ」
「ああ、統治者が変わったと聞いて、その混乱で怪我をした人がいないかと思ってきたんだが、ちょうどよかった。それで、彼のことなんだが…」
華佗の言葉に皆に緊張が走る。雪蓮や冥琳、蓮華はヨシュアの状態を知っていただけに、最悪の事態を想定してしまっていた。
「毒のほうは、彼は異常ともいえるほどの毒に対する耐性があったから大丈夫だった。だが、怪我の方は酷い。まるで雷に撃たれたような傷だった。だが、なんとか一命は取り留めた。恐らく、命の心配はもうないだろう。でもしばらくは絶対安静だ」
その言葉を聞いて、雪蓮は涙を流しながら地面に崩れ落ちた。
「よかった…本当によかった」
他の武将も安心して地面に座り込むものもいた。華佗はその安堵した様子を嬉しそうに見て、しばらく経過を確認するために滞在する旨を告げて去っていった。
そしてそれぞれが自分の持ち場へ戻り、雪蓮と蓮華はヨシュアの下でずっと看病をしていた。
ちなみに小連は冥琳に引きずられ、後始末に狩りだされていた。
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へたれ雷電です。
今回は若干早い更新です。そして文も長め。
今回、色々と妄想しながら書いてました。
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