秋蘭が立ち去った後、少しばかりその場に留まってどうしたものかと考えていると、
「・・・北郷」
孫権さんが来た。
おそらく秋蘭が俺がここにいることを教えたのだろう。
「ああ、すまない。話が途中だったね」
「かまわん。私こそ礼を失していた。秋蘭殿に呆れられても仕方あるまい」
「呆れるなんて・・・秋蘭はそんなこと思ったりしないよ」
「そうかもしれん。彼女はただお前を案じていただけのようだからな」
ふっ、と孫権さんは静かに笑い、だけどすぐにその笑顔を下げてしまう。
「私は、彼女が・・・いや、彼女たちが案じるほどの価値がお前にあるのか、未だわからない」
「は、はは」
「華琳の情夫であり、魏の幹部全員と関係を持っているという。姉様まで何らかの興味を持っている。そのうえ・・・そ、その、祭と・・・」
顔を真っ赤にして睨みつけられる。
・・・言い訳のしようがなかった。
「えーと・・・」
「皆がお前を認めているということは、お前に何らかの魅力かなにかが備わっているのだと思う。私にはまだ理解できないが、悪人というわけでもなさそうだ。
・・・北郷一刀」
「は、はい?」
「お前に頼みがある」
その目は、真摯で。
俺は逃れることができない。
「頼みたいこと?」
「・・・冥琳から、連絡が来ていると思う。我ら呉の考えを、全てではもちろんないが、そこに記したはずだ」
「連絡・・・?いや、そんなものは」
と、そこまで考えて思い至る。
冥琳から授かった三つの竹簡、そのうちの“弐”番目のことを。
曰く、“顔を合わせたら、参を読むように”。
これはすなわち、孫権さんと会ったら、ということだったらしい。
「あ、ああ・・・アレね。部屋にあるんだ。今、取って――」
「待て」
取りに行こうとすると、腕をがしと掴まれた。
「話はまだ終わっていない」
「いや、だから」
話を進めるために、竹簡を読むのでは?
「北郷」
「・・・なにかな」
ゆるぎない目で俺を見つめてくる孫権さんは、何かを堪えているみたいだった。
「呉は、桃香を抹殺することを決めた」
「――なに・・・?」
体が強張る。俺の腕をつかんでいた孫権はそれを感じたのか、より力を込めた。
「どういうことかな・・・」
わかっていることを、あえて聞き直さずにいられない。それだけのことを彼女たちは言っている。
「桃香・・・いや、蜀王、劉備玄徳の罪は重い。多くの犠牲の上にようやく平定した世を、悪戯に乱した。・・・許されることではない」
「だけど!」
「言うな、北郷!我々が好きでこんなことを選択したとでも思うのか!」
「・・・!」
「雪蓮姉様だって冥琳だって、何か他にできないかと考えた!だけど・・・」
彼女たちは劉備さんを心から心配すると同時に、怒りを感じずにはいられないのだ。
・・・それは俺も同じ。おそらくは孫権さんも。
みんなで勝ち取った平和だった。たくさんの人が志半ばで倒れたし、たくさんの人がなにかを失ったのだろう。
その人たちの心を、悪戯に乱していいはずがない。
結果的に勝ったのが魏であったとはいえ、華琳は蜀にも呉にも自治を認めている。よほどのことが無い限り干渉することはないだろう。
それ故に、蜀も呉も国の為に尽力することを民に、それ以上に自分に誓っていたはずだ。
その決意を踏みにじられて、何より民を再び危険に晒されて、怒りを感じない為政者がいるだろうか。
それはわかる。劉備さんを簡単に許してはいけないことも。
だけど・・・。
「・・・蜀はどうなる。最高の王を戴いていると信じている蜀の民は、そんなことを認めはしないだろう?」
「そのあたりは目下冥琳が考案中だ。実際には、でき得るならば生け捕りにすることが望ましいと言われている」
「まだ案ができていないのに行動に移すのは早計なんじゃないのか?」
「行動を躊躇い、挙兵が成ることのほうが問題だ」
「・・・挙兵は成らない。挙兵は劉備さんの独断であることがわかったから」
「なに?」
「星が言っていたろう?主を幽閉、と」
鈴々に襲われかけたときのことだ。
彼女は確かに言った。主を幽閉、と。そのうえで鈴々は「みんなお姉ちゃんを悪者みたいに」と泣いていた。
・・・蜀の中で、劉備さんの挙兵は認められていないということだ。
なるほど、と口の中で言う孫権さん。
何事かを考えているようにじっと黙ってから、不意に俺を見つめてきた。
「北郷」
「なにかな」
「私は桃香を助けたい」
「・・・え?」
決意を心に、彼女は俺に言葉をくれる。
その言葉は俺が言いたかった言葉で、だけど自信がなくて口に出すことを躊躇っていた言葉だ。
抹殺することを咎めたのも。
蜀が挙兵する可能性は既に限りなく低いことを示したのも。
――すべては、彼女を殺めることを良しと思えない、自分のためだった。
ようやくのようにそれに気づいた俺は、羞恥で顔が赤くなるのを感じた。
・・・俺は人のやることを批判するばかりで、何もしなかった。彼女のように、自分のしたいことを言葉にすることさえ。
「そして、お前にそれを助けてほしいのだ、北郷一刀」
「・・・え?」
恥じ入る俺に、孫権さんはそういった。
俺はしばらく理解ができず、呆然とする。
「私は無力だ、北郷。ひとりではなにもできない」
・・・違う。
言葉が心に湧き上がる。
それは俺だ。無力でなにもできないのは、俺だよ。
「だから仲間がほしい。桃香を助けたいと願う、仲間が。呉の中で結論は下されているから、助けを求められるはずも無い。だが、心のうちでは雪蓮姉様だって、桃香を助けたいと思っているはずだ」
「・・・」
「蜀勢が絡めば、魏も呉も止めずにはいられんだろう。だから私がやろうと思う。それをお前に手伝ってほしい」
「・・・どうして、俺を」
「私はお前をよく知らない。だが、皆がお前を認めていることは知っている。皆に認められるほどの人物であることを知っている。そして、さきほどの問答で少しだけ理解した」
孫権さんは、初めて俺に、とてもやわらかな笑みをくれる。
「お前も桃香を助けたいと思っているのだろう?」
「・・・っ」
「蓮華さま!」
突如現れるその影に、俺は驚かなかった。
明命が側に控えていることはわかりきっていたからだ。
「それは、その・・・!」
彼女は動揺している。主の命に逆らう主に戸惑っている。
「明命」
「は、はい・・・?」
孫権さんは視線を俺から彼女へと移し、強く、美しい笑顔のまま言ってのけた。
「姉様は言ったわ。部下の為に命を張れなくて何が王かと。
――ならば、友を守れない王が、どうして国を守れるというの?
私は何も見捨てたりしない。何もかも守る、そんな王に私はなりたいの」
・・・心が揺れ動くのを感じた。
初めて俺は才能が開花する瞬間というものを見る。
王の萌芽を、俺は見た。
――彼女は孫権仲謀。千八百年の後にまでその名を響かせる、守城の名君・・・。
返事は後で構わないが、できるだけ早くほしい。
そんな言葉を置いて去っていった孫権さんの後を俺は追えなかった。
その場に立ち尽くしたまま、足が動かせずにいる。
「・・・一刀?」
声に振り向けば、そこにいたのは祭さんだった。
「なんじゃ、ひどい顔をしとるぞ。早く宿に戻ったらどうじゃ?」
「・・・祭、さん」
「ん?」
俺が身動きできない間に、ずかずかと祭さんは近寄ってくる。
目の前まで来て、ようやくその歩みが止まった。
「なんじゃ、なにかあったのか」
「なんというか・・・凄いものを見たよ」
「権殿の才能に触れたか?」
その言葉に驚く。
俺の驚き様を見てくつくつと笑った後、祭さんは「悪いの」といった。
「え?」
「おぬしと権殿の問答、しばし見させてもらった。おもしろかったぞ。酒を持ってこなかったことを後悔したくらいじゃ」
「え、あ、じゃあ・・・」
彼女が劉備さんを助けようとしていることを、知られてしまったのか!?
計画いきなり頓挫してるじゃないか・・・!
「いや、あの、祭さん、アレは・・・」
「ぷっ」
「・・・ん?」
「かっかっか、おぬし慌てすぎじゃ。落ち着け」
「てっ」
ぺん、と頭を叩かれた。
そうしながらも祭さんは未だに笑いを止めない。
俺は憮然とした。
「・・・そんなに笑わなくてもいいだろう?」
「いや、なに。おぬしがおもしろくての」
「確かに慌てちゃったけど、それはさ・・・」
「違う、違う。先ほどはあんなにも権殿に驚いておったというのに、もう仲間になる気になっていることが、じゃ」
「・・・」
「なに、驚くことは無いぞ。王の才というのは、そういうものじゃからな」
祭さんは目を細めて、ひどく楽しそうだ。
「人を惹きつける魅力を持ち、その人の為に何かをしたいと、助けになりたいと周りに思わせられる。
あのお人は自分では気づいておらんが、堅殿にも策殿にも劣らぬ才気を持っておられる」
「・・・知っていたの?」
「もちろん。権殿は策殿に劣等感を抱いておられるらしいが、策殿は権殿にこそかなわないと思っておられたほどじゃぞ?」
「え、あの雪蓮に・・・!?」
「そうとも。特に、一応とはいえ乱世の収まったこれからの世では、権殿こそ呉をまとめるべき王になられるじゃろう」
雪蓮が攻めるに優れた王であるとするならば、孫権さんは守るに優れた王なのだろう。
それならば確かに、これからは孫権さんの時代が来るのかもしれない。
「儂が王の才を見たのはこれが三人目じゃなあ」
「ん?それって・・・」
「もちろん、堅殿と策殿じゃ。策殿にも驚いたものじゃが、なによりも堅殿との出会いは衝撃的でな・・・」
そういって、祭さんは孫堅さんとの出会いを話し始める。
その横顔は楽しそうで、嬉しそうで、ほんの少しだけ寂しそうで。
・・・俺は確かに、孫権さんを助けたいと思ったけど。
それ以上に、この女性の支えにこそなりたいと、そう思うのだった。
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展開が本当に進まない・・・
今回は蓮華のターン!