(江東の花嫁 結)
北郷一刀の死は晋国全体に大きな衝撃と悲しみを与えた。
特に長年に渡って共に生きた呉の面々は他の国の者達以上に深い悲しみに暮れていた。
ある者は嘆き悲しみ、ある者は病に伏せ、ある者はその死を受け入れることが出来ずにいた。
そんな中で一刀の正室である雪蓮は悲しみを内に押し込み、悲しみに暮れる蓮華達にこう言い放った。
「一刀が遺したこの国を守るのよ」
それを頼りににしてのか、自ら遺言通りにまだ幼い孫和の代わりに政を行った。
だが気丈に振舞っている雪蓮に反発する者もいた。
「お姉様は悲しくないのですか?一刀が死んでしまったのに」
亡くなったその日はさすがに雪蓮も深い悲しみにその身と心を沈めていたが翌日になっていつも通りになっていたことに対して蓮華は怒りと悲しみをぶつけた。
「だからなに?」
自分に激しく詰め寄る蓮華にそう冷たく言い放つ雪蓮。
その表情も妹を見下しているとしか思えないものだった。
蓮華は姉のこの態度が理解できなかった。
「一刀は死んだ。それはもう変えられない事実よ。いつまでも悲しんでいても一刀は生き返らないわよ」
現実を受け入れる。
そして彼の遺したものを自分達の手でしっかりと守っていく。
それが遺された者の責任なのだと雪蓮は言う。
「今日ほどお姉様を見損なった日はありません」
蓮華はそんな姉が許せなかった。
自分達にとって何よりも大切な存在をもう忘れたかのような態度に憎しみを覚えた。
「気に入らないのなら私を殺しなさい。それで蓮華の悲しみが消えるのであればね」
「消えるわけがありません!」
そんなことをしても自分の悲しみが消えることなどありえない。
これから何十年とその悲しみを背負っていくだけに今は時間がまだ足りなかった。
それでも雪蓮の態度だけは許せなかった。
「思春、南海覇王を持ってきなさい」
「蓮華様!」
「いいから命令を聞きなさい」
「し、しかし……」
思春からすれば雪蓮と蓮華の両方の気持ちは痛いほどわかっていた。
自分も一刀を失った悲しみからまだ立ち直れそうにもないだけに、蓮華の暴挙とも思える命令に従うことに戸惑いを覚えていた。
「ならいいわ。私が取ってくる」
「蓮華様、お待ちください」
部屋を出て行こうとした蓮華の前に祭が現れた。
そして彼女にぶつかり睨み返した。
「蓮華様、そのように殺気めいておっては誰も味方をする者はおりませぬぞ」
「どきなさい、祭」
「いいや。儂としてはここを通すわけにはいかぬ」
「どいて!」
強引に抜けようとする蓮華を祭は肩を掴み、容赦なく蓮華の頬を平手打ちした。
何が起こったのか一瞬わからなかった蓮華は祭の顔を見るとそこには穏やかな表情があった。
「蓮華様、もしここに一刀がおれば悲しむでしょうな」
「悲しむ?」
「あやつの死は確かに儂にも堪えておる。この老体よりも先に逝くなど許しがたいことじゃ。じゃが、儂らに後事を託したなら儂らはそれに応える義務があるとは思わぬか?」
「…………」
祭は叩いた頬を優しく撫でていく。
「雪蓮様とて本当は悲しいのじゃ。誰よりもあやつを愛しておった。それでも気丈にもああやっておるのは一刀の想いを受け継いでおるからじゃ」
「一刀の想い……?」
「そうじゃ。この国を平和でみなが幸せでいられるようにする。争いで悲しむことのないようにすること。それが一刀の願いであり想いなのじゃ」
それはこの国の民だけではなく自分達にも向けられているのだと祭は蓮華にもわかって欲しかった。
国が平和で民が幸せならば一刀は自分のように喜び、そして共に歩んできた雪蓮達とその喜びを分かち合うであろう。
「雪蓮様は一刀の遺したこの国を守ることでその想いを果たそうとしておるのじゃ」
「でも、一刀は……一刀は……」
自然と溢れてくる涙を蓮華は止めることはできなかった。
「蓮華様、一刀はもういないのじゃ。それから目を逸らしてはならぬ」
「祭……」
「なあに、儂らがこの世での役目を終えて一刀の元にいった時に遺していったことを餌にして言うことを聞かせればよいのじゃ」
嬉しそうに話す祭。
その心の中は蓮華と同じく悲しみに染まっていたが、雪蓮ですら必死になって立っている姿を見て自分がそれに流されるわけにはいかなかった。
「蓮華様……」
思春の呼ぶ声に蓮華は涙を拭い彼女の方を見た。
「思春」
「はい」
「私を引っ叩いてほしいの」
「蓮華様!」
主君にそのようなことができるわけがなかった。
「いいの。一刀に呆れられないように気を引き締めたいから」
王として自分の成すべきこと。
そして人として成すべきこと。
それを理解した思春は蓮華の前に進む。
「それでは」
「できるだけ力を込めてね」
蓮華の注文に戸惑いながらも最終的には頷いた思春は右手を振り上げて勢いよく蓮華の頬を叩いた。
「ありがとう、思春」
笑顔を見せる蓮華に思春は何も言えなかった。
ただ決して涙を見せまいと我慢をしていた。
「向こうで尚華様が美味い茶を淹れて待っておられますぞ。そちらにいかれてはどうですかな?」
「そうするわ。ありがとう、祭」
礼を言った後、蓮華は思春と共に娘達が待っている部屋へ向かった。
それを笑顔で見送った後、後からやってきた冥琳と共に部屋に入り、入り口をしっかりと閉めた。
「さて、雪蓮様」
それまで黙って立っていた雪蓮の方を二人は見た。
雪蓮の表情はいつもと変わることはなかった。
外見ではそう見えた。
祭と冥琳は静かに彼女に近寄っていった。
「雪蓮、一人で何もかも背負わなくていいのよ」
冥琳のその言葉に雪蓮の表情が一瞬、変わった。
それを見逃すほど冥琳と祭はお人よしではなかった。
「まったくそうやって何でも自分の内に秘めるのは遠慮していただかなければ、儂らとて毎回、庇い立てなどできませぬぞ」
「そうよ。貴女一人の問題でもないのだから」
「わかっているわよ」
そう答えながらも雪蓮は決して自分の弱さを見せようとしなかった。
それが二人にとって危うさを感じさせていた。
「雪蓮、旦那様を失って一番悲しんでいいはずの貴女はどうしてそこまで我慢するの?」
「別に我慢なんてしてないわ。ただいつまでも泣いていても一刀が戻ってくるわけがないじゃない。ただそれだけよ」
「じゃが儂らからみればどこか無理をしておるようにしか見えませぬぞ?」
祭の指摘は間違いではなかった。
一刀が死んでからというもの雪蓮はほとんど眠っていなかった。
まるで彼の死を忘れるかのように政をし、食事もほとんど口にしていなかった。
「今日はほれ、いい酒が手に入ったから五人で呑もうと持って来ましたぞ」
「五人?」
自分達以外に誰かを呼ぶのだろうかと雪蓮は思ったが、四人目が誰のかは二人の微笑んでいる姿を見て理解した。
「そうね。それもいいわね」
「そうと決まれば月達に何か作ってもらいましょう」
「私達だけでいいの?」
「月達がそうして欲しいと言ったのじゃ」
雪蓮が無理をしている事を一番に気づいたのは冥琳でも祭でもなかった。
月が誰よりも早く気づいたため、そのために冥琳と祭に頼んで少しでも無理をしなくなればと願っていた。
「でもあそこに埋葬してよかったの?」
冥琳のいうあそこというのは雪蓮、蓮華、小蓮の母親である孫堅の墓がある場所だった。
皇帝としてあまりにも質素な墓だったが、一刀が死ねばそこに埋葬して欲しいといっていたため、その通りにしていた。
「私達が命数を使い切って旦那様の元に逝った時、文台様に喰われていたらどうするの?」
「母様なら一刀を好きになるわね」
「堅殿が相手なら一刀も干からびるかもしれぬの」
想像するとあまりにも自分達の予想通りの展開になっているであろうと思うと笑いがこみ上げてくる。
「注意しておかないとダメね」
「そうね」
「うむ」
そして自分達を置いていった一刀に対して愚痴の一つでも言っても罰など当たるわけがないだろうとも思った。
ふと冥琳が雪蓮の表情を伺うと瞼に涙が溜まっているのを見つけたが何も言わなかった。
「さあ、出かけましょう」
「そうね。今日は旦那様に報告したいこともあるしゆっくりと語りましょう」
「たっぷり呑んでやろうぞ」
「それは祭殿が呑みたいだけでしょう?」
「まぁの」
「では呑みすぎない程度に私が見ていて差し上げましょう」
「むぅ、それでは安心して呑めぬではないか」
冥琳と祭のいつもどおりのやり取りを見ていた雪蓮は笑顔を浮かべつつ、自分の気持ちを察してくれている二人の親友に心からの感謝をした。
それと同時に彼女達がいるために泣くことなどしたくないという気持ちもあった。
(もしここに一刀がいれば……)
失った者の大きさは簡単に克服できるものではないと雪蓮は思った。
それから出発した三人は時間をかけて孫堅と彼女達の愛した男の墓前にいた。
「母様、一刀」
そう言って雪蓮は二人の墓に向かって手を合わせる。
冥琳と祭もそれに倣って手を合わせる。
「母様、一刀はもうそっちに着いたかしら?いきなり押し倒してなんかないわよね?」
面白おかしく言う雪蓮。
自分達姉妹が全員、同じ男を好きになって娶られたと知れば、自分も仲間に入れろと言うだろう。
そうなれば一刀とは父親とも夫ともいえる立場になる。
それはそれで楽しめそうだが、一刀は本気で泣いて許しを請うだろう。
結局、雪蓮自身、一刀にはどこまでも甘く、母親に対して一刀だけはやるものかと言い放つつもりでいた。
「私達がそっちに逝っていきなり弟か妹だって紹介しないでよね」
「文台様ならやりかねないわね」
「その時はその時で楽しめそうじゃな」
生きていれば今と違った天下があったことは疑いの余地もなかった。
それだけに英雄としての器を備えていた孫堅。
「でも母様が生きていたら一刀と出会えなかったかもしれないわね」
「そうかもしれないわね」
自分達と一刀が出会ったのは運命だとすれば、孫堅が引き合わせたのではないかと思った。
娘達や友、それに家臣達を置いて逝ってしまったせめてもの罪滅ぼしのように。
「でも母様がそこまで気を利かすとは思えないわね」
「どちらかといえばそうね」
「堅殿の性格を考えればの」
本人が聞けば何か言い返すこと間違いない文句。
そう言いながらも彼女達は隣で眠る一刀と同じぐらいに孫堅のことを愛している。
祭は酒を取り出して杯に注いで孫堅の墓の前に置いた。
「今年出来た一番の酒じゃ。なかなかの一品ゆえ堅殿も呑んでくだされ」
それに応えるかのように風が吹き酒が揺らいだ。
もう一つの杯を取り出して酒を注いで雪蓮に手渡すと、彼女はそれを一刀の墓の前に置いた。
「一刀、あなたのせいでみんな大迷惑しているのよ。それなのに呑気に母様といるなんて許せないわよ」
自分用の杯に酒を注いで一気に呑み干してさらに酒を注いでいく。
「今の私達はあなたがいないこの世に何も楽しみが見えてこないのよ。誰もが辛そうにして毎日を過ごしているわ。彩琳なんてあの日以来、笑うこともできなくなってしまったのよ」
未だに自室に閉じ篭り、誰とも会おうとしない彩琳。
誰もが立ち直るに時間がかかっているため、今はそっとしていた。
「だから寂しい思いをさせていると反省しているのなら戻ってきなさい。一度だけなら許してあげるわ。でも、二度目は許さないから」
その言葉は雪蓮だけではなく冥琳も祭も同じ想いだった。
天命に逆らっても愛する者を守り抜く。
知略、武略の限りを尽くしてでも運命と戦うことなど彼女達にとってこれほどやりがいのあることなどなかった。
「だから……戻ってきなさい」
雪蓮は涙を流していく。
拭き取る指も抱きしめる温もりもなく、ただ風だけが穏やかに五人を包み込んでいた。
酒がなくなる頃になると黄昏が大地を照らし始めた。
冥琳も祭も瞼を閉じて静かに時が流れるのを感じていた。
雪蓮は一刀の墓の前に座ったまま動かずにいた。
「お姉様」
その声に振り向くと蓮華達が両手にたくさんの物を持って立っていた。
彩琳を除く北郷一刀と家族になった者達が全員いた。
「蓮華?」
「私達もご一緒してもよろしいでしょうか?」
「そうだよ。シャオ達だって一刀の奥さんなんだから」
蓮華だけではなく小蓮もここに来て一刀と話がしたかった。
別れを悲しむのではなく、一刀と語り合う。
一刀が生きていた頃と同じように、なんでもないことで笑いあう。
「そうね。みんなで一刀とたくさん話をしましょう」
雪蓮の許可を得た蓮華達はそれぞれに座っていき、持ってきた物を広げていく。
灯りも点けていきまるで春の花見のような賑わいが起こっていく。
酒を呑む者、料理を頬張る者、そして語り合う者。
「賑やかね、一刀」
その様子を墓の横に座って眺めている雪蓮。
『賑やか過ぎて周りに迷惑じゃないか?』
「そうね。でも、たまにはいいでしょう」
『そうだな』
二人は寄り添うようにして家族の賑やかな風景を眺めた。
『ごめんな』
申し訳なさそうな声が聞こえてきたように感じた雪蓮は横を向こうとはしなかった。
ふと木の陰を見るとそこには彩琳がこちらの様子を見ていた。
表情まで読み取ることはできなかったが、彩琳も他の者達と大好きな父親に会いにきたのだろうと思った。
できれば一緒にと思ったが今の彩琳の気持ちを考えると声をかけることはできなかった。
「なんや、雪蓮。そんなところにおらんと向こうに行けばええのに」
「ここでいいわ」
霞は雪蓮の横に座って彼女の杯に酒を注いでいく。
「なんや、ウチはまだ実感がないねん」
「そうなの?」
「だってそうやろう。ウチは一刀と添い遂げたというてもそれが今生の別れやったんやで」
霞はこうなることをがわかっていたらもっと早く、誰の目を憚ることなく一刀にもっと迫っておくべきだったと悔しく思っていた。
「洛陽で一刀に親友やって言われてそれで引き下がった自分が情けないわ」
「でも一刀は霞とは対等な友人でいて欲しいって言っていたわ」
「まぁ、何度か愚痴というか惚気というか、そういう相談はしたことあるけどな」
霞からすればそれは何の嫌がらせだと思ったが、一刀からすれば親友として助けて欲しかった。
それだけに信頼を寄せていたということなのだが、今になっては過去の思い出でしかなかった。
「なぁ雪蓮」
「う~ん?」
「ウチは一刀の子を授かることはなかった。それでも果報者やって思うのは自惚れかな?」
「そんなことないわ。逆を言えば霞に種を植え付けないで逝った一刀が情けないだけよ」
死者に対して何の遠慮もなく文句を言う雪蓮に霞は笑った。
そして一刀の墓の方を見て雪蓮の言っていることに反論したいのなら戻って来いと思った。
「せやけどこれからどうするんや?」
深い悲しみがあっても大きな混乱は起きなかったが、それだけに不安を感じる者も少なくなかった。
「全ては遺言どおりよ。一矢が成人するまで私が面倒を見るつもりよ。それに華琳達もいてくれるから、反乱を起こす度胸がある者なんていないわよ」
雪蓮が言うように華琳も一日、喪に伏せたがすぐに立ち上がり一刀が遺したこの国を守るためにその手腕を振るった。
辺境の地で反乱に匂いがすると華琳は平和的解決策を持って事前に抑えたことは雪蓮を含めて数人しかしらないことだった。
「それに司馬家のお譲ちゃんや」
「あの子は大丈夫よ。ただ、今は仇がいなくなって戸惑っているだけよ」
天音も一刀を失ったことで衝撃は受けたものの、それを表面に出すことはなかった。
それよりも後事を託され、また幼い一矢の正室としてこの国を守ろうとしていた。
「しかし仇の息子に嫁ぐなんて普通はありえんわ」
「そうね。でも一刀に関わった者は誰一人普通でいないでしょう?」
「それもそうやな」
一刀がいて彼に接した者はいい意味で普通ではなかった。
彼の優しさと温かさに感染した者達はみな、何かと成長をしている。
やがて天音が一矢の子を宿せばその憎しみも愛情へと変化を遂げるだろうと雪蓮は思っていた。
「これも天の御遣いの力なのかな」
「不思議とそう思えてしまうのだからおかしくなっちゃうわね」
「せやな」
酒の肴にされている彼女達の夫。
本人が聞けば反論の余地もなかった。
「さて雪蓮には言うとくわ」
「何を?」
「一刀の喪が明けたら旅に出ようと思ってるんや」
「どこへ?」
「羅馬」
なぜそのような所にいくのだろうか質問をしたくなった雪蓮。
「別に理由なんかあらへん。ただ、何となくや」
「そう。それは寂しくなるわね」
「正直言うとな、ウチは一刀がおらへん国には興味ないんや。たとえ一刀の血を引いている者が皇帝になってもな」
霞は一刀がいるからこそこの国にいた。
いなくなってしまった以上、ここに居る理由がなくなっていた。
「それにここにおったら後を追いたくなるんや」
霞の気持ちは雪蓮もわかっていた。
だが、後を追って死ぬことを硬く禁じられているため、霞には旅に出るしか今の苦しみや悲しみを和らげることができなかった。
「許してくれへんやろうか?」
「私に聞かないでよ」
「じゃあ誰に言えばええんや?」
「本人に言えば?」
雪蓮の言う本人を指差すと霞もなるほどと納得した。
そして瞼と閉じて心の中で一刀に旅に出る許しを請う。
「ええやて」
嬉しそうに言う霞に雪蓮は何も言わずに微笑んだ。
そして喪が明けた日に霞は雪蓮達に見送られて羅馬に旅立った。
それが今生の別れであることは誰もが理解していたことだった。
宴も終わりに近づき全員が一刀の墓の前に正座をしていた。
酔いも醒め静けさが漂っていた。
「一刀、ここに来るのはしばらくやめるわ。だって私達にはやることがあるの」
雪蓮は全員の代表として一刀に語りかける。
誰もが穏やかでそれでいて何かを決意したような表情だった。
「あなたが私達に遺してくれたこの国を今以上に幸せで温かい国にするわ。もしできなければこの国をあなたの手で滅ぼして欲しいの」
一刀の想いを受け継ぐ者達。
彼が満足してくれるようにそれぞれが持てる力を発揮して生きていく。
そうしてこの国が長きに渡って争いのない平和で幸せであることを目標とする。
「まだ立ち上がって前に進むことができない者もいるわ。でも、いつかは立ち直ると思うわ。だってあなたのことが大好きだから」
それは一人離れた場所で正座をしている彩琳のことを言っていた。
彼女に聞こえるように雪蓮は大きな声で続けた。
「だから私達を見守っていて欲しいの」
自分達が一刀に恥じることなく生きたという証を残す。
そしてこの国を守る。
人並み以上の努力と喪失感に押しつぶされない心の強さがなければできないことかもしれない。
それでも雪蓮は、他の者達は誓いを立てる必要があった。
一刀と過ごした時間をいつまでも忘れないようにするために、そして過去ばかりを見て未来を拒絶しないように。
「一刀、この国は今よりもきっとよくなるわ。でも、どんなによくなってもあなたのいない場所はこんなにも冷たく寂しいものなのよ」
心が求めている渇き。
もう二度と癒されることのないその渇きに雪蓮達は立ち向かわなければならない。
「私が怖かったのはあなたを失うことじゃなかったの。あなたを失った後の自分が自分でなくなってしまうような気がしたの」
雪蓮の言葉は彼女自身のことを物語っていた。
これまでも何度もその恐怖を感じた。
だが、天運が彼女達を守り続けてくれた。
だから久しく忘れてしまっていた。
失った後の恐怖というものを。
「一刀、私はきっと心のどこかであなたのことを憎んでいるわ。でもそれは私があなたを愛しているからよ」
愛が憎しみになるのではなく憎しみが永久の愛へと変わっていく。
杯に酒を注ぎそれを一刀の墓の前に置いた。
「愛しているわ。今もこれからも」
その言葉に後ろに座っている者達の中からすすり泣く声が聞こえてきた。
我慢などする必要などどこにもなかった。
泣きたい時に泣かなければ惨めでしかない。
「ここに誓約するわ。もう私は泣かない。どんなことがあっても今日限りで涙を流すことはしないわ」
過去との決別ではなく過去を受け入れて未来へ進む。
「ありがとう…………一刀。私達に会ってくれて。私達を愛してくれて」
心からの感謝を述べると雪蓮は笑顔をつくった。
蓮華達も涙を零しながらもゆっくりと雪蓮を見習って笑顔になっていく。
「さあ、明日からまた忙しいわよ」
かつて小覇王と呼ばれた女人は元気よく振り返ってその場にいた全員に活を入れた。
蓮華達はそれぞれの想いを胸の中に大切にしまいこんでいつもの彼女達らしい笑顔をみせた。
そして……………………。
「こうして天の御遣いはその役目を終えて天に還ったの」
そこまで語ると子供達に囲まれて椅子に座っている老女はお茶を一口飲んだ。
晋が建国してすでに三十年。
天の御遣いの威光は薄れつつあるもの、彼の望んだ世界は未だに平和を謳歌していた。
「大婆様」
「何かしら?」
「大婆様はその天の御遣い様のお嫁さんだったんだよね?」
「そうよ。とても素敵な人だったわ」
彼女が未だに想いをはせる相手。
彼女と同様に彼を愛した者達はみな老い、次々とこの世から旅立っていた。
遺された者は集まれば昔話に花を咲かせていた。
「愚かまでに他人を優先して、どこまでも優しく、それでいていつも傍にいてくれたわ」
お人好しの枠を超えていたのではないかと今になって思っていた。
「みんなもそんな優しくて強さを内に秘めている者と添い遂げなさい。そうすれば私のように幸せになれるわ」
「「「「「は~~~~~い」」」」」
この国の次世代を担う子供達にこうして話をすることが老いてなお、美しさが増している北郷雪蓮は楽しそうに隣同士で話をしている子供達を見て微笑んでいた。
「雪蓮」
そこへ雪蓮と同様に老いてなおその美貌を損なうことのない冥琳が入ってきた。
「はいはい、それじゃあ今日のお話はこれまでよ。また明日、お話してあげるからちょっと外に出てもらえるかしら?」
子供達は元気に「また明日」と言って楽しそうに部屋を出て行った。
賑やかさが消えると冥琳は椅子に座って、雪蓮は彼女にお茶を淹れた。
「毎日、話をしているのね」
「他にすることがないからよ」
時代はもはや彼女達を必要としていないところにきていた。
二代目皇帝として一矢は父親達が建てた国をしっかりと守り、天音との間に授かった子供達の中で長男の孫皓は三代目皇帝となるべくして毎日、勉学に励んでおり、長女の司馬師、次女の司馬昭は女の子のような孫皓に女人物の服を着せて遊んでいた。
「雪蓮はまだ待っているの?」
不意に冥琳はそんなことを口にした。
彼女の盟友が一人になっても何かを待っていることを知っていたが、それが何なのかは聞かなかった。
というよりも聞く必要などなかった。
「それが老後の楽しみよ♪」
雪蓮は初恋を知った時の少女のようにはにかむ。
「祭殿が聞いたらさぞ羨ましく思っているわね」
「そうね」
先年、国の安泰を見届けた祭はその命数を使い果たした。
臨終のときに、
『これで一刀の元に行ける』
と嬉しそうに話していた。
彼女より若くして世を去った者達も多くいるが、祭にとってそんなことはどうでもよかった。
「あの頃の者で生き残っているのは私と雪蓮だけね」
「そうね」
孫呉を再建して数多くの困難を乗り越えて手に入れた平和の中で雪蓮達は共通の愛しい男と添い遂げることができた。
毎日が賑やかで楽しかった。
そして過去形で語るほど彼女達は長い年月を生きている。
「まさか私が妹達を先に送り出すなんて思いもしなかったわ」
孫家三姉妹のうち先に逝ったのは意外にも小蓮だった。
最愛の人がいなくなってからというもの、小蓮は以前のような明るさは鳴りを潜めて物思いに耽ることが多かった。
それでも自分に残してくれた娘を大切に育て満足して逝った。
もう一人の妹である蓮華は小蓮より長生きをした。
祭よりもほんの少し長生きをし、彼女にとっても最愛の人が遺したこの国の行く末を静かに見守っていた。
「穏や亞莎、思春まで先に逝くとは思いもしなかったわ」
冥琳にとって大切な仲間達が次々と先に逝くことで寂しさを募らせていた。
だが、完全に押しつぶされなかったのは盟友である雪蓮がまだいてくれたからだった。
「他の子達も私達を置いて逝くのだから失礼しちゃうわね」
「そうね。あの方は私達にまだくるなと言っているみたいね」
「三十年も放置されているのよ。いい加減、迎えに来ていいと思わない?」
老いてなお雪蓮はそんなこと言って不満をあらわにする。
それを見て冥琳は昔とまったく変わらない彼女に苦笑いを向ける。
「ねぇ冥琳」
「なにかしら?」
「私を一人にしないでね」
それは生き残った者の孤独。
雪蓮にとっても自分と同じ時代を生きた者がいなくなのが嫌だった。
「そうね、雪蓮がこれ以上の苦労をかけないというのであればいてあげてもいいわね」
「何よそれ。いつも迷惑かけているように聞こえるのだけど?」
「かけているのだから仕方ないでしょう」
彼女の性格を知っててなお、傍を離れることなく共に高みを目指した冥琳にとってそれも楽しい出来事の一つだった。
「それに雪蓮も私を置いて逝くなど許さないわよ」
「それは一刀次第よ。もし一刀が冥琳より私を選んだら向こうで文句を言ってあげたら?」
「それも楽しそうね」
姿形がなくとも彼女達の心の中にいつまでもあの時のあの人がいる。
だが温もりが感じられない寂しさ、抱きしめてもらえない冷たさが彼女達に『何もない平和な時代』という無常な現実を与えていた。
「それにしてもあの時の彩琳は凄かったわよね」
「何よ、唐突に」
「だって一刀が逝ってから性格が変わったみたいに見えたのもの」
「あの子は旦那様を本当に心から愛していたからよ」
「そうね」
娘達から愛されていた。
それだけでも十分すぎるほどの果報者だった。
だが、あまりにもその想いが強すぎたために失ったときの反動は大きかった。
特に彩琳は常に父親の支えになりたいと思っていただけに、それが他の姉妹より大きかった。
政務を人の何倍もこなし、朝早くから夜遅くまで朝廷内の自室に篭っていた。
まるで人が変わったかのように仕事ばかりをしていた。
心配になった冥琳達が何度も休むようにと諭しても一切聞こうとせず、病に倒れてしまったがそれでも政務を続けようとした。
そしてその傍らで酒に溺れかけてもいた。
「挙句に旦那様が自分を嫌いになったから逝ってしまったなどと言ったり、自分との約束を守ってくれなかったと酒に溺れかけたりもしたわね」
娘の気持ちが痛いほどわかっていたからこそ、冥琳はその悲しみを乗り越えて欲しいと思っていた。
だが彩琳が復活するまでには二年もの歳月を必要とした。
その復活ができたのは姉の氷蓮と妹の尚華のおかげだったかもしれなかった。
特にあまりにも惨めな姿に氷蓮は本気で怒り、庭に引きずり出されて問答無用に殴った。
「パパはもういないのよ。あんたのそんな情けない姿をもし見たらさぞかし幻滅するわね」
氷蓮自身も彩琳同様に最愛の父親を失ったことに大きすぎる衝撃を受けた。
だが、それでもいつまでも嘆き悲しんでいても戻ってくるはずがないと半年で無理やり自分に言い聞かせた。
そして悲しみに暮れる妹達を励ましていた。
「今のあんたはただパパを失ったことが悲しいってだけで何もかもを投げ捨てているのよ。そんなことをしてもパパは戻ってこないわよ」
激しい言葉をぶつけていく氷蓮に庭に横たわっている彩琳は何も反応をしなかった。
「そりゃあ私だって未だに忘れろなんて言われても忘れられないわよ。死んだことすら信じられないわよ。でもね、私はパパの娘なの。パパの想いを受け継いでいるの。私達はパパの娘なのよ。」
空から雨が降り始めてもお構いなく氷蓮は彩琳に言葉をかけ続けた。
「それともあんたはパパの想いを踏みにじるっていうの」
誰一人としてもらすことなくたくさんの愛情を注いだ彼女達の父親。
元気で明るく、そして幸せになって欲しい。
その想いを愛情というものとして彼女達に与えていた。
そのことは彩琳も理解していた。
だが、あまりにも大きすぎる喪失感がそれすら覆い隠していた。
「彩琳、あんたがこのまま立ち直れないというのならそれでもいいわ。でもね、北郷一刀の娘だからっていつまでもそんなことが許されると思っていたら大間違いよ」
自分達は天の血が流れていると同時に誰からも後ろ指を刺されないようにしっかりと前を見なければならなかった。
北郷一刀の娘だからという甘えなど通じるわけがない。
もしそれに未だに縋っているのならば自分達の最愛の父親を侮辱しているようなものだった。
「これだけ言われて言い返せないのならあんたはパパのいい面汚しね」
吐き捨てるように氷蓮は冷たい言葉を投げつける。
もしこれだけ罵声を浴びせても反応がなければ彩琳は再起不能だろうと氷蓮は思った。
それまで言われ放題だった彩琳が初めて反応をした。
「何よ?」
鋭い視線というよりも悲しみと絶望が入り混じっている視線を氷蓮に向ける彩琳。
「そんな顔をするぐらいなら自分で立ち上がりなさい」
「……………………い」
「何?聞こえないわよ?」
「……うる……い」
「聞こえないって言ってるのよ」
わざと聞こえない振りをする氷蓮に対して彩琳は勢いよく立ち上がったかと思うと、姉に飛び掛って押し倒してしまった。
「煩いと言っているのです」
「…………」
「姉上は悲しくないのですか?辛くないのですか?そんなに簡単に忘れてもいいのですか?」
雨に濡れ涙にも濡れている彩琳。
「父上は…………父上はずっと一緒にいてくれると約束してくれたのです。いつまでも私達と一緒に…………それなのに…………」
「でも今はいないわ」
はっきりとそう言い放つ氷蓮。
「もうパパはいないの。死んだの。これが現実なのよ」
「でも…………でも…………」
「いい加減に現実を見なさい」
彩琳の気持ちが痛いほどわかるだけに、ここで自分までもが彼女に同情をするような素振りを見せてしまえばきっと立ち直ることはできにと思った。
「彩琳。あんたの言っていることはただの子供の愚痴よ。もうあんたは一人前の大人の女なのだからパパに頼るのをやめなさい」
「でも私は……父上といたかった……。父上がいてくださったから私は頑張れたのです」
一生懸命頑張っている彩琳の姿は間違いなく一個人に向けられており、氷蓮は何度も羨ましいと思っていた。
「大丈夫よ。あんたがそ一生懸命に頑張っていれば、パパだってきっと喜んでくれるはずよ。そのために今は辛いけど立ち直りなさい」
「無理です……」
「無理って決め付けるから無理なのよ。あんたはパパに対して何一つやり遂げていない中途半端者でいいの?」
それは自分に対しても言っていた。
それでも氷蓮が前を見ていられるのは自分の心の中に確かに父親の想いがあったからだった。
彩琳にはそれがまだ見えていないだけだった。
「もう一度言うわよ。パパはもういないのよ」
「姉上!」
「いないったらいないのよ!」
感情のままに氷蓮は言葉を彩琳にぶつけていく。
雨に打たれていることなどささいなことだった。
それ以上に二人は心の中にある共通のものを吐き出していた。
「姉上に私の気持ちなんてわかるはずがありません。いつも私を振り回して楽しんでいるだけの貴女になんか」
「だったらどうするっていうのよ!」
氷蓮は膝をゆっくりと動かして彩琳のお腹に当てると勢いよく押し上げた。
不意打ちを食らった彩琳は宙に舞い後ろに落下した。
「そうよ。あんたの気持ちなんてわかるはずないわ。今のあんたはただ過去ばかりに縛られて前を見ない大馬鹿者よ」
「姉上だけには言われたくありません!」
すぐに立ち上がって氷蓮に再び掴みかかっていく。
お互いにどれだけ傷つこうとも離れようとせず、庭の池に落ちても離そうとしなかった。
「私にとって父上はすべてでした。父上がいらっしゃったから私は官吏になりたいと、父上のために少しでも役に立ちたいと頑張っていたのに…………」
「父上父上父上ってそうやっていつまでもパパにしがみついていていいわけなの?周循という人物はそんあヤワな奴なの?」
「それが私です。悪いですか?」
雨と池の水によってもはや濡れていないところなどない二人はそれでも離そうとしなかった。
「こんな思いをするならば父上の娘に生まれてこなければよかった」
「あんた!」
その言葉を聞いた氷蓮は今までにない力を入れて彩琳の頬に拳をたたきつけた。
弱っていた身体の彩琳はそれを受け止める事もできず、思いっきり庭の上に叩きつけられた。
「もういっぺん言いなさい」
「……こんな思いをするならば父上の娘に生まれてこなければよかった」
「このバカ妹!」
「姉上様!」
拳を突き出した瞬間、尚華が彩琳の前に飛び出してきたが止めることができなかった。
鈍い音と庭に尚華が叩きつけられた音が雨の音の中に鳴った。
「尚華……」
氷蓮は自分が誰を殴ったのかすぐにはわからなかった。
ただ、姉妹の中で一番優しい心を持ち、いつも守ってあげたいという気持ちに不思議となる尚華を自分が殴ったことにショックを隠しきれなかった。
「ダメです…………。氷蓮姉上様、彩琳姉上様…………」
尚華は痛みに耐えながらも立ち上がり、二人の間に割って入っていく。
呉王の位を蓮華から継承している尚華は雨や泥に汚れようとも関係なかった。
ただ、自分にとって大切な姉達の暴走とも思える行動を止めたかった。
「こんなことをしても父上様は戻ってこられないのですよ。どうしてそれを認めようとなさらないのですか?それに暴力以外で父上様の想いを伝えることはできないのですか?」
それは二人の姉達の心を貫く言葉だった。
尚華自身も大好きな父親を失ったことは何よりも深く悲しい事だった。
立ち直ることも氷蓮や他の姉妹達がいなければ難しかったであろう。
だが一度立ち上がれば彼女は北郷一刀と孫権仲謀の娘である。
自分より幼い妹達をしっかりと励まし立ち直らせようと必死になった。
王位に就いたのも自分のするべきことをしっかりと見つけ、また大好きだった父親の想いを胸に深く刻んでいたからだった。
「彩琳姉上様、確かに父上様がいなくなったの事実です。でも私達はこの世で会うことができなくとも心の中ではいつも一緒なのです」
「…………心の中?」
「はい。彩琳姉上様の中にも氷蓮姉上様の中にも、そして私の中にも。だから時間がかかってもいいです。また昔の姉上様に戻ってください」
自分達にはまだ数多くの姉妹や母達がいる。
そして心の中には父親の想いが刻まれている。
「父上様はきっと姉上様のことを見ておられるはずです。もはやこの世ではお会いできませんが、夢の中にはまだいてくださると思います」
「尚華……」
「それに今頃、姉上様達が喧嘩をしているのを見て慌てているはずです。今日はきっと夢の中に出てきてくださるはずですよ」
微笑む尚華に泥だらけの彩琳はしがみついて大声を上げて泣いた。
自分よりも幼い妹ですら現実と向き合っている。
それなのに自分はいつまでも氷蓮の言うとおり、現実から目を逸らしてばかりいた。
「父上……父上……」
「大丈夫です。きっと父上様は今でもお傍にいてくださっていますから」
泣きじゃくる姉に対して優しく包み込む尚華。
そしてそこへ氷蓮もやってきて二人を抱きしめた。
「ごめんね。彩琳、尚華…………」
姉だからという思いからしっかりしなければと頑張っていた氷蓮だが、尚華ほど強くなかった。
彼女もまた必死になって涙を抑えていただけだった。
二人の姉が泣きじゃくる中、尚華はかつて大好きだった父親にしてもらったように何度も姉達の頭を撫でていた。
「さあ、中に入って濡れた身体を温めましょう。今日はみんなでお風呂に入りませんか?」
同じ悲しみを持つ者同士。
それはある意味で強い絆へと繋がるものでもあった。
屋敷の物陰からその様子を見守っていた雪蓮と冥琳はその出来事を忘れることはなかった。
同時に自分達はあまりにも失った者が大きすぎたことを改めて確認していた。
「一刀ならこういうときどうしたかしら?」
雪蓮のその一言に冥琳は答えることができなかった。
なぜならば愛する一刀は自分達では追いつけないほどの愛情を自分達や自分達の愛娘達に向けていたからだった。
人として一刀に及ばないことに気づかされてもいた。
そしてこの日を境に誰も一刀のことを表立って思い出して悲しむことはしなくなった。
「でもいろいろあったわね」
「そうね」
時代が自分達を取り残しているかのように進んでいく中、雪蓮と冥琳は自分達が生きた証を残していた。
それが後世に受け継がれていくのであれば嬉しいことであり、自分達と同じように愛する人に対する正直な想いを描いてほしいと思った。
「一葉、待ちなさい!」
「兄上~」
元気のよい声が廊下から聞こえたかと思うと部屋の入り口が勢いよく開いた。
「大婆様、かくまってください」
入ってきたのは三代目皇帝となるべき人物である孫皓こと真名を一葉がそう言いながら二人の間に身を隠していく。
「まったくまた何かしたの?」
「ち、違います。あの二人が……」
「「あの二人?」」
入り口を見ると女人物の服や紅を持っている司馬の姓を受け継いでいる姉妹が立っていた。
それもどこか興奮しているように見えた。
「一葉、大婆様のところに隠れてもダメよ」
「兄上~覚悟~」
雪蓮と冥琳は二人の様子と自分達の間で震えている一葉の様子を見ていると、大体の内容は理解できた。
「ほらほら、しっかり遊んできなさい♪」
一葉を引っ張り出すと司馬姉妹の前に差し出した。
「大婆様!」
「男は我慢する時があるのよ。頑張りなさい♪」
「いや~~~~~!」
姉妹に引きずられていく一矢。
「大丈夫よ。今日のは今までよりも可愛くしてあげるから♪」
「兄上~可愛い♪」
「助けて~~~~~!」
哀れな一葉を生暖かく見送った雪蓮と冥琳は思わず笑ってしまった。
自分達の愛している男の血を受け継いでいる一葉。
彼が皇帝になればまた新しいものが始まる。
だが二人はそれを見ることはないだろうと思った。
「司馬の血って本来はあの二人のように明るいものなのかもしれないわね」
「そうね。母親は未だにあのままだけどね」
一矢や自分が産んだ子供達に対しては多少の感情表現はあるものの、それ以外の者には相変わらずだった。
「あのままだけどきっと私達の見えないところでは変わっていると思うわ」
「それって変わらないものはないってことかしら?」
「そうね。私や冥琳はきっと何一つ昔から変わってないけど、周りは変わりすぎているわね」
「私達は変わっていないのか?」
「ええ。何一つね」
幼き日から幾十年、共に手を取って生きてきた二人。
そしてその間に愛する人がいた。
「きっと私達は変わっているようで何も変わっていないのよ。一刀に出会う前と出会った後も」
「そうかもしれないわね」
ただ周りが変わっただけだと冥琳も瞼を閉じて積み重ねられた過去を思い返していた。
「そうだ、雪蓮」
「な~に?」
「一つ頼まれごとをしてもいいかしら?」
「いいわよ」
お茶を置いて冥琳は真っ直ぐに雪蓮を見る。
「私はきっと貴女より先に逝くと思うわ」
「何よ、それ?」
「いいから聞きなさい。私はもう十分すぎるほど生きたわ。だから私の最後の日、日記を貴女に記して欲しいの」
これまでも毎日のように日記を記している冥琳は最後の日は書けないであろうと予知していた。
それを長年の盟友に託したい。
これは雪蓮にだけにしか頼めないことだった。
「冥琳、貴女まで私を遺して逝くわけ?」
「きっとそうね。自分でもそう長くないって最近思っているのよ」
「ここまで図太く生きてきたのに?」
「ここまで生きたからよ。最後の時ぐらい同じ時代を生きた誰かに見送って欲しいのよ」
「そして私は誰からも見送られることなく逝くのね」
何の因果があってそんな風になったのか雪蓮にはわからなかった。
「文句言わないの。私だって貴女を遺して逝くのは不安なのよ」
自分がいなくなってしまえば雪蓮を抑えることができるものがいなくなってしまう。
それが不安でもあり、若者達に押し付けたらどういう反応をするか楽しくもあった。
「大丈夫よ。貴女もそう遠くまで生きないわよ」
「あのね、普通は喜ぶような言い方じゃあないわよ?」
「仕方ないわよ。これが天命なのだから」
冥琳には珍しく冗談を言った。
「だからお願い。貴女に最後の日記を託したいの。私達が彼と共に生きた日々を」
「一刀達と過ごした日々ねぇ」
そう言われると少しは楽しめそうだったが、冥琳はあまりその日記を他の者には見せようとしなかったためにその内容までわからなかった。
「ちなみに言っておくけど他の日記を読んだらお仕置きするわよ?」
「冥琳、それって人に物を頼む態度なの?」
「雪蓮限定ならば通用するわよ」
悪びれた様子もなく冥琳は柔らかな笑顔を浮かべて反論する。
「冥琳ったらひどいわね」
「貴女と長いこと一緒にいるのだから貴女の意地の悪い部分が移ったのよ」
「もう、そんなことを言っていたら日記見ちゃうわよ?」
「私の惚気に耐えられるのであればいいわよ」
冥琳には勝てないと判断した雪蓮は諦めて素直に冥琳の願いを受け入れた。
「ありがとう、雪蓮。これで私も安心できるわ」
最後の願いのように冥琳の心の中は穏やかになっていった。
「それじゃあ私は今日の日記を書いてくるわ」
「はいはい。しっかり書いてきなさい」
立ち上がる冥琳を見送る雪蓮。
そして部屋から出て行く彼女の後ろ姿を見て今も幸せなのだろうと思った。
「私も何か残そうかしら」
そう思ったが冥琳のように日記を書くのもめんどくさいと思い、他に何かあるだろうかと悩んだが、結局何も思い浮かばなかった。
それだけに雪蓮は幸せであると同時にこれから自分と一緒に生きた者がいなくなってしまうという寂しさが訪れることに不安を感じていた。
そしてその半年後、冥琳は微笑みを浮かべながら逝った。
彼女の願いどおりに雪蓮はその日の出来事を詳細に日記に書き記した。
「ありがとう、雪蓮」
それが冥琳の最後の言葉だった。
『ありがとう』という言葉にはたくさんの意味が込められていた。
そして『雪蓮』という言葉にはそれ以上の意味が込められていたことを雪蓮は知っていた。
「結局、私一人になっちゃったわね」
天の御遣いと駆け抜けた時代の最後の生き残りである雪蓮。
一人酒を呑んでも何も味がしなくなり、また対等に話ができる者がいなくなってしまい物思いに耽る毎日が続いていた。
「ママ」
かつて一刀が使っていた部屋で酒を呑んでいると氷蓮と彩琳が入ってきた。
「どうしたの、二人とも?」
雪蓮と冥琳の娘でありその美貌も受け継がれていた二人だが、決して婿を娶ろうとせず未だに一人身だった。
父親である一刀のことを未だに思っているのか、まったくそういった話には興味を持つことがなかった。
初めは心配をしていた雪蓮達だが、本人達はどんなことがあっても結婚はしないと言い張ったためにいつの間にか何も言わなくなっていた。
「母上が亡くなってから元気がないように感じられるのです。まるで心ここにあらずで心配なのです」
「そうね。冥琳が先に逝っちゃったから寂しいわね。でも、貴女達がいるから大丈夫よ」
同世代の者達がいなくなったが彼女にはまだ大切な娘達がいた。
それが辛うじて彼女をこの世に引き止めてもいた。
「ママ、せっかくだからお墓参りにいかない?」
「お墓参り?」
「だってこんなにも天気がいいのよ。それにパパだって会いたがっていると思うし♪」
楽しいこと明るいことをするときはいつも嬉しそうにしている氷蓮。
彼女の言う『墓参り』は特別な意味がこめられていた。
「そうね。たまには行かないとね」
そう言って杯に残っていた酒を一気に呑み干して勢いよく立ち上がった。
「それにしてもずっと私のことをママって呼ぶわよね?」
「だってママはママじゃない。何十年経とうが私のママには変わりないじゃない」
「まったく、変な子ね。お互いオバサンなのにね」
「ママの娘だから仕方ないわよ♪」
何十年と親子をしている二人。
そしてそんな彼女達をどことなく羨ましそうに彩琳は眺めていた。
「彩琳」
「えっ?」
気がつくと雪蓮と氷蓮は彩琳の方を見ていた。
「どうしたの?」
「いえ、何でもありません」
「彩琳、私は貴女のことも実の娘のように思っているわよ」
冥琳の代わりだとは思っていない。
雪蓮はすべての娘達を自分の娘だと認識しており、また冥琳達も氷蓮達を自分の娘だと認識していた。
彩琳はゆっくりと雪蓮に近づいていくと優しく抱きしめられた。
そこには冥琳とは違った温もりがあった。
三人は皇帝である孫和こと一矢にしばらく出かけてくることを話した。
そしてその場で雪蓮は氷蓮と彩琳にある物を持たせていた。
「これを家宝にしなさい」
そう言って二本の剣を姉達から渡された。
「私と一刀の形見のようなものよ」
「形見?」
「私もお婆ちゃんだからいつ逝くかもしれないわ。だからそうなる前に一刀の血を受け継いでいるあなたにそれを渡しておきたかったの」
鞘から抜かれた青紅と倚天の剣は長い年月が経ってもその美しさはまったく衰えることはなかった。
「しかし孫家代々の南海覇王もありますが」
「それを含めて三本を家宝にしなさい。これは私の最後の願いよ」
年老いてなおその美貌を損なうことのない雪蓮の微笑みに一矢は反論をすることはなく、謹んで二本の剣を受け取った。
「わかりました。義母上のおっしゃるとおりにいたします」
「ありがとう。それともう一つついでなんだけどいいかしら?」
「何ですか?」
「屋敷というか小さな小屋でいいから建てて欲しいのだけど」
「どちらにですか?」
雪蓮は嬉しそうに答えると一矢は驚いたがすぐに了承をした。
「わかりました。それも近日中にしておきます」
「無理を言って悪いわね」
「いえ、義母上のそのお気持ちに私も賛同していますから」
一刀の面影がある一矢にとって彼女の提案は喜ばしいことでもあった。
自分も皇帝という柵から解放されたら同じようにしたいと思っていた。
「それじゃあ行ってくるわ」
「護衛はいかがしますか?」
「いらないわ♪」
そう言って礼をして一矢の前から辞した。
それと入れ替わりに質素な服と両手に山のように持っている書簡と共に彼の愛妻が入ってきた。
「どこか行くの?」
「父上のところだそうです」
「そう」
十年以上、歳が離れているため夫婦というよりも姉弟のように見える二人だが、皇帝とその妃であることは誰もが知っていた。
「本当は付いて行きたかったのでしょう?」
「どうしてそう思うんですか?」
「顔に書いているわよ」
何年夫婦をしているのだと言わんばかりに少し呆れ気味の天音。
彼女からすれば自分の夫は父親の記憶もほとんどないうちに死んでしまったために、それほど感傷的にならないのだろうかと思っていた。
心無い者から陰口を叩かれても意に解することもなく常に一矢の傍にいる天音は、自分と同じように親を失っている一矢を放っておけなかった。
「今はまだ行かないって決めています。父上のように天の知識などないけれどそれでもこの国をもっと良くしたいから」
「そう。それじゃあ、この書簡、全部に目を通してもらうわ」
「はい」
机の上に置かれた書簡の山を見て一矢はさすがに困った顔をしたが、これも自分がするべき役目だと決めて一つ一つ目を通していく。
それを傍らで妃になっても宰相として政務をこなしている天音が一緒になって書簡に目を通していく。
その表情は他の者には見せない柔らかく穏やかなものがあった。
雪蓮達が訪れた場所には数多くの墓石が所狭しと一つの墓石の後ろに並べられていた。
「久しぶりね」
半年振りに訪れたそこは彼女達にとって聖地のようなものだった。
ここに雪蓮は小さな居住空間を作り、残りの人生を過ごそうと思っていた。
そのための必要なものを一矢にお願いをしたのだった。
「何だかこうして見ていると私を本気で仲間はずれしたとしか思えないわね」
一刀の愛妻の中でただ一人生き残っている雪蓮はいきなり不満をぶつける。
今頃、一刀を囲んで賑やかに過ごしていると思うと少々面白くなかった。
「ママ、仕方ないじゃない」
「何がよ?」
「パパから昔聞いたけど、ママは死ぬ運命を変えたからそれだけ寿命が延びたんだって。冥琳様だってそうだったでしょう?」
「そうね」
一刀が雪蓮と冥琳を死という運命から懸命になって救ったことで、未来が続いている。
それには感謝をしているがまさかこの日になって自分だけが取り残されるとは思いもしなかっただけに、複雑な気持ちだった。
「絶対に向こうに逝ったら文句言ってやるんだから」
「ママ、大人げないことはやめてね。私達が逝った時にそれについて愚痴を聞くのだから」
「知らないわよ、そんなこと」
「雪蓮様、私もそれはちょっと困ると思います」
彩琳も困ったように答える。
三人は笑いあう。
「さあ、みんなのお墓に持ってきた物を備えましょう」
「「はい」」
三人はそれぞれに手分けして彼女達が生前好きだった物を備えていく。
備えては手を合わせて、そして二、三言心の中で語っていた。
時間を掛けてゆっくりと彼女達は一人一人に手を合わせ、最後に一刀の墓の前に並んで手を合わせた。
「パパ。パパがいないから私と彩琳はいき遅れたのよ。この責任はきちんととってもらうから待っててね」
自分が華燭の典を上げなかったのは自分の花嫁姿を見てくれるはずだった大好きな父親がいなかったからだった。
そのために自分に好意を抱いてくれていた男の求婚も断った。
その責任を自分が逝ったときにしっかりと取ってもらおうと氷蓮は強く望んでいた。
「父上。私はきっと父上に叱られるでしょう。でも、それだけに私は父上をお慕い申し上げていました。いいえ、今でもお慕いしております」
父親に対して憎しみを抱いたことをを思い出すだけでも自分がなんと小さな人間なんだったのだろうと反省をしていた彩琳。
彼女もまた誰かと添い遂げることなど考えることは出来なかった。
姉とは違ってただの我侭と言われてもそれを甘んじて受けることは今の彩琳には難しいことではなかった。
「一刀、こんなお婆ちゃんになった私も愛してくれる?もしダメなら天の知識で私を若返らせてね」
彼と過ごした二十年、彼と肉体的に離れて三十年。
気づけば彼の温もりを感じなくなった時間の方が長くなっていたことに気づいた雪蓮は思わず笑みがこぼれる。
(もう少し待っていてね。そうしたら私もあなたの傍に逝くわ。そうしたら……)
それ以上先は何も言葉にはしなかった。
それは楽しみであり、実際に再会できたときに改めて声に出して伝えたい言葉だったからだった。
三人はそれぞれに祈り、そして再会することを心待ちにしていた。
死ぬのではなく会いに行く。
そう思えるだけでも彼女達は十分に幸せなのだということを彼女達自身が一番知っていた。
墓の近くに小さな屋敷が建てられ、雪蓮と氷蓮、彩琳はそこに移り住んだ。
もはや国政に関与することもなく残った余生をここで過ごしていた。
そんなある日、雪蓮は一矢達の提案でささやかな宴が開かれた。
「ふぅ」
久しぶりに酒を呑みすぎて一人庭に出てベンチに座って夜空を見上げていた。
屋敷の中では賑やかな声が聞こえてくる。
「今日は気持ちがいいわね」
夜風はによって火照った身体に心地よく彼女を包み込んでいた。
瞼を閉じればまるで屋敷の中の賑やかさも聞こえてこないように思えた。
(このまま眠ってしまってもいいわね)
それほどまでに穏やかで心地よかったために雪蓮は笑ってしまう。
老女として生き続けている自分。
若いままで逝った愛する男。
どちらが幸福でどちらが不幸など関係なかった。
「もう十分ね」
誰に言ったのか雪蓮自身もわからなかった。
十分に生きたことは彼女も知っていた。
一刀と共に作り上げた新しい国。
もはや三国が共存していた時代の面影はどこにもない。
天の知識もこれ以上、増えることもない。
それは自分達が『生きた』時代が終わり新しい時代になったのだという証明でもあった。
「一刀……」
愛する男の名を忘れることなどない雪蓮。
その一言を口にするたびに自分の中にある想いがこみ上げてくる。
「一刀……」
もう一度口にする。
すると閉じられた瞼から雫が零れ落ちていく。
あの日、もう二度と泣かないと誓った雪蓮。
その約束を守っていた彼女の涙が本人の意志とは関係なく流れていく。
「北郷一刀。天の御遣い。そして私の大切な人。」
初めて出会った頃の情景が思い返されていく。
打算のために身体を重ねていた日々が、いつしか本気で愛するようになっていた。
自分が死ぬべき時にその身を呈して守ってくれたあの日。
本気で愛していると言ってくれたあの日。
結婚、新婚旅行、そして出産。
その前後にあった数々の悲しみ。
それでも幸せだと心から思っている。
永久に続くはずだった幸せもあれほどあっさり終止符を打たれるとは思いもしなかった。
『一刀と天の国で暮らす』
いつの日かそんなことを話したこともあった。
天の国、そこには自分の知らないものがたくさんあるだろう。
しかし一刀がいれば何も恐れるものはない。
愛が二人を何事からも守り、何事にも臆することなく前に進むことが出来る。
もう一度、この身体を、この心を強く、強く抱きしめて欲しい。
壊れてもいいと思うほど深く愛して欲しい。
叶うことならば彼が望むことをすべて叶えてあげたい。
それで彼が幸せになれるのであれば自分も幸せになれる。
「栲縄の長き命を欲りしくは、絶えずて人を見まく欲りこそ」
一刀から教えてもらった万葉集の一句。
それは雪蓮の気持ちそのものではないかと当時の一刀は思った。
誰よりも愛し、共に生きることを望んでくれた相手だからこそ一刀は彼女には生きて欲しいと思っていた。
「一刀……」
三度目の言葉。
その声に応えるかのように風がやんだ。
そして白く輝く何かが彼女前に降り注いでいく。
「遅いわよ、バカ」
瞼を開けるとそこには彼女が最も愛した男が立っていた。
出会った時と同じ姿。
「ごめん、ちょっと遅くなったよ」
申し訳なさそうに答える男。
「ちょっと遅くなった?あなたね、何十年も待たせておいてちょっとで済むと思っているの?」
そこには老女ではなくうら若い女人がいた。
「仕方ないだろう。俺だって大変だったんだから」
「何がよ。どうせ母様に襲われたんでしょう?」
「全力で貞操は守ったよ。でも、改めて思ったよ。血は争えないってね」
「悪かったわね」
拗ねてみせる女。
それに対して男はゆっくりと近づいていき、彼女を抱きしめる。
「でも、俺が一番好きなのは雪蓮だから」
「本当かしら?」
「本当だって。そりゃあ冥琳や祭さん、蓮華達も大好きだけど一番は雪蓮だよ」
「じゃあその証拠を見せなさい」
わざとらしく彼から離れて背を向ける。
これまで散々自分を放置していた侘びをしろとその背中は言っていた。
「わかったよ」
男は真面目な顔をして背を向けた女を後ろから強く抱きしめた。
そして手で彼女の顔を動かしてその唇に自分の唇を重ねた。
決して離さないという気持ちがそこには込められていた。
「これで許してくれないか?」
唇を離した男に女はこう言った。
「嫌よ。こんなものじゃ足りないわ」
今度は女が男に口付けをした。
さっきよりも深く。
「これからもっとしてもらわないと嫌よ。きすだけじゃないわ。私の中にあなたを感じさせて。愛しているって言って。私を離さないで」
「うん。もう二度と雪蓮を一人にはさせないよ」
「本当?」
「約束する。今度こそ絶対に」
そう言って男は女に口付けをした。
それに満足したのか女は幸せな微笑みを浮かべた。
「絶対よ。浮気もしたらダメだから。私だけを愛して」
「うん。雪蓮だけを愛するよ」
「愛しているわ」
「俺も愛しているよ」
男と女はお互いに抱きしめあって四度目の口付けを交わした。
すると眩い光りは二人を祝福するかのように包み込んでいき、結婚式の時のように彼らと共に生きた者達に囲まれ、ウェディングドレスに身を包んだ女はこの世で最高の微笑みを男のために送った。
「愛しているわ、私の大切な…………」
そう言い終わると光りは消えていき、後に残ったのは幸せな表情をして瞼を閉じて眠る老女だけだった。
『一刀、大好き♪』
『俺も雪蓮が大好きだよ』
『愛してる?』
『愛しているよ』
『本当?』
『本当だよ。だからこれからも一緒に…………』
完。
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完結編、最終話です。
オリジナルキャラがこれまで多く出ましたがお許しください。
そしてこういう結末になったことは私にとって悔いは残っていません。
皆様一人一人がどのように思われるかはすべて皆様にお任せいたします。
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