No.117986

徒花散華

ようやくできました。やっぱりとある青年将校がメインです。
何となく色っぽい…??

これまでの作品 (【】内は作品No.です)
*「寂しい花束」【106922】

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2010-01-11 16:33:08 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:891   閲覧ユーザー数:884

 “客の私事には踏み込まない”。

 

 それが此処の――花柳の鉄則だ。

 

 なのに―…

 

 なのに、どうして

 

 どうして自分は、男の上着の胸隠しに入っていた写真を、手にしているのだろう…。

 

 

 

=徒花散華=

 

 

 燭台の灯が揺れている。

 

 一間半の広くもない部屋は、ほの暗い闇と生ぬるい空気に満たされていた。遠くから

微かに聞こえてくる、歌舞の音と女たちの嬌声が嘘のように、此処は暗く、静かで、重い。

 

 奥の間に目をやると、濃灰色の闇の中に、男の広い背が見える。たかだか十歩に満たぬ

はずのその距離が、何故だかひどく遠い。

 

 待ち望んでいたはずの喜びは、今や急速に萎んでいた。怒りも嘆きも悲しみも、焼け付く

ような憎しみすらも消え失せて、あるのはただ、勢いよく燃え尽きた後の蝋燭のような、

ぽっかりとした虚しさだけだ。それは、客の相手をした後にはいつも感じている、肉体の

虚脱感よりも、ずっとずっと強烈で――それゆえにひどく、現実感のないものだった。

 

 抜け殻、という言葉が、不意に浮かぶ。そう、今の妾(わたし)は抜け殻だ。この

抜け殻から遊離した実の妾(わたし)は、一体何処にいるのだろう。ああでも、そんな

ことすらも、もうどうでも良い。妾(わたし)は空(から)であるという、その事実だけで

十分じゃないか。

 

 呆(ぼう)と彷徨う瞳が、もう一度、男を映す。ピクリとも動かぬ広い背中は、あらゆる

ものを拒絶するかのようだ。

 

 つい数刻前まで、自分が触れていたはずの背中。

 

 ――自分のものだと思った男。

 

 なのに、その口から漏れ出たのは――。

 

 自分のそれとは、似つかぬ名前。

 

 うわごとのように呼んでいた、誰か。

 

 

 初めて見たのは、半年ほど前のことだったろうか。

 

 得意の客が連れてきた青年将校に、目の肥えた花街の女たちが、少し色めきたったのを

覚えている。長身を薄黒の軍服に包んだ目許涼しい青年は、酒で乱れるわけでもなく、ただ

淡々と杯を重ねていた。

 

 女たちに色目を使うわけでもなく、場を盛り上げる冗談ひとつ口にするわけでもなく。

いや、そもそも何か話をしていたという記憶すら無い。連れの言葉に時折、相槌を打つくら

いで、あとはほとんど黙りこくっていたように思う。

 

 「面白味がない」という女もいたが、紳士的だと思った。素っ気無いとすら言える態度を、

誠実さだと感じた。

 

 それはおそらく、ひと時の憧れとして終わっていたであろう感情――あの一度きりならば。

 

 その後、男が思い出したようにふらりと現れた時、正直ひどく驚いた。先の男の態度からして、

到底、興味があるとは思えなかったからだ。同時に、再び男に会えたことが、とても嬉しかった。

それが二度、三度と重なるにつれ、喜びもまた大きくなっていった。

 

 何度来ても、男の態度は相変わらず素っ気無かった。特に何か声をかけてくるわけでも、

まして色を求めることなど一度も無く、ただ黙々とひとしきり杯を空け、落ち着いたら背を

向けて眠る。…その繰り返し。

 

 それでも良かった。言葉をかけられることなど無くとも、ただの使い女だと思われて

いようとも。ただ、傍にいられるだけで幸せだった。その筈だった。

 

 いつからか、その先を求めるようになった。おそらく、自分が、自分だけが、この男の傍に

いることを許されているのだという優越感を自覚した時から。

 

 もっとこの男を知りたい、と。

 

 もっと、この男を独占したい、と。

 

 できるなら、特別な女として、独占してほしい、と。

 

 厭われる恐怖よりも、狂おしいほどの欲望が勝り始めようとしていた、ちょうどその時に。

 

 ――望みは叶ったと思った。

 

 なのに、真実は違った。

 

 

 …この世界の暗黙の了解を破ってまで、何故確認したのか、自分でもよく分からない。

 

 あるいはやはり、嫉妬、だったのかもしれない。束の間得られたと錯覚した、だが自分には

けして向くことのないその愛情を、一身に受けられる幸せな同性への――。

 

 まず目に入ってきたのは、着物姿の娘の肖像写真だった。年は二十歳になるかならぬか。

黒髪を項の辺りで一つにまとめ、はにかむように微笑みながら、優しげなまなざしをこちらに

向けている。同性の自分でも見惚れるほどに美しいが、どこか儚げな印象の娘だった。

 

 その下に重ねられていたもう一枚には。

 

 思わず、目が眩みそうになった。

 

 咲き誇る花々に囲まれて、一組の若い男女が幸せそうに微笑っている。娘の肩を包み込む

ように回された青年の腕と、寄り添い並んだ距離の近さが、二人の親密さを表していた。

薄黒の軍服に身を包んだ青年は、間違いなく今、奥で眠っている男であり、その隣で笑っている

メイド姿の娘は――

 

(一枚目の…)

 

 あの娘だ。

 

 髪は下ろしており、服装も違うが、間違いない。少しはにかんだような、清らかな笑い方も、

優しげな光を宿した瞳も――見間違えようが無かった。

 

 その娘の隣で、男は、同じように柔らかな笑みを浮かべていた。

 

 初めて見る男の笑顔だった。

 

 世の幸せが、すべて自分たちに集まっているかのような。

 

 不安など何一つ存在しないような。

 

 幸福という言葉を表情にすれば、この二人のようになるのだろうか。

 

 あの男は、このような表情もできたのか――。

 

 それは素直な驚きだった。

 

 そして、その表情を共有できるのは、自分ではないのだという、染み入るほどに思い知ら

された、単純な事実だった。

 

 写真の上に、透明な雫が落ちる。

 

 ――ああ、ようやく妾(わたし)が還ってきた。

 

 滲む世界を感じながら、そんなことを想っていた。

 

 

 濃灰色の闇の中で身支度を整えている男を、褥に横たわったまま、ぼんやりと見つめていた。

 

 燭台の灯を受け、陰影が深く刻まれた横顔からは、あの写真が嘘のように、何の感情も

読み取れない。それは、自分がよく見知った男の表情。

 

 無機的とすら感じられる手際の良さで支度を終え、こちらに一瞥をくれることも無く出て

行こうとする男の背を眺めていたら、不意に言葉が零れた。

 

 

「“あや”とは…写真の女性(ひと)の名前ですか」

 

 

 一瞬の間の後、男がこちらを振り返る。目が合う。男から目を合わせてきたのは、これが

初めてのことだった。

 

 声をかけるつもりなど無かった。黙って送るつもりだった。なのに、一度溢れた言葉は、

止まらなかった。

 

「……呼んでいました。何度も、何度も」

 

 男は何も言わなかった。一瞬だけ浮かんだ驚きと不審の光もすぐに消し去り、ただ黙って

部屋を出て行った。

 

 遠ざかる足音を聞きながら、目を閉じる。もう二度と自分の元へは来ないだろうと確信しな

がら。

 

 瞼の裏にいつまでも焼きついていたのは、愛しい男の面影ではなく、写真の娘の笑顔だった。


 
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