「雨宿り」(「傘」Ⅱ)
放課後に家へ帰ろうとした五年生の女子が教室を出て少しだけ図書室に寄ってから、一階の集中下駄箱で靴を履き替えて外へ踏み出そうとすると、いつの間にか雨が降り出しているのに気付いた。彼女は朝の登校前に観たテレビのローカルニュース番組で、夕方頃場所によっては一時的に天気の崩れる事があるが長くても一時間程で回復するだろう、と言っていたので傘を持たずに学校へ来ていた。それでどうしようか迷ったが、その予報通りなら暗くなる前には止むはずだからとしばらく待つ事にした。でもまた中に戻るのも面倒だし、そこでただじっと立って雨宿りしているのも退屈に思え、特に考えもなく校舎の周りを軒下に沿って歩き出した。そしてすぐに、どうせなら一階にある自分のクラスの様子でも見に行こうという気まぐれを起こし、そちらの方へと不意に足を向けた。
校舎の北面を真っ直ぐ西へ進み、突き当たりを左へ曲がって行く様な道順でそこの南表側の方に出た女子は、今度は逆に東向きで少し歩いて目的の教室の外側へと辿り着いた。すると、来るまでの途中の窓はほとんど閉まっていたのにそこはどれも全開だったので、まだ誰か残っているのかなと思って前角隅の桟の横から覗き込むと、中に一人だけ児童がいるのを見付けた。それはその日が日直の男子で、だから学級日誌のまとめを書くなど、当番としての作業をしていたのかと思いきや、ぼうっと席に座って何もせずにあらぬ方を見ているだけらしかった。でも誰かさんみたいに雨が降り止むのを待つ為でもない事は、朝登校して顔を合わせた時、彼がちゃんと自分の傘を手に持つのを目にした彼女には既に分かっていたのである。
─それならどうして戸締まりをしてさっさと帰ってしまわないんだろう─
普段から女子はその男子の行動を見るにつけ、その独特のマイペース振りというか優柔不断さに他人事でもやきもきさせられる場面が度々あり、この時もまた彼のそんな様子に対して勝手に歯痒さを感じていた。そして彼女は、……そういえばいつだったか前にも私達二人だけが放課後に残ってて急に雨が降って来た事があったな。それで傘を持ってなかったあの子に自分のを貸して、こっちは濡れて帰ったんだっけ。けどあれはそうする前に心の中で色々考えちゃったせいで、我ながらとてもおかしな行動になってたな……と頭の中で過去の記憶を思い返し始めた。
その時は女子の方が日直当番だった。先に校舎を出て教室の窓越しに男子へ傘を渡した後の彼女は恥ずかしさのあまり、誰も前に居ないのを良い事に校門の手前まで全速力で突き抜けた。けれど学校の外は危険で流石にそんな無茶をする訳にもいかず、そこでほぼ歩く寄りに勢いを落としたのだ。でも最初の交差点を渡ろうと横断歩道に出た瞬間、多分雨でお互いの視界が悪かったせいだろうが、走って来た車にもう少しの所で轢かれそうになってしまった。幸いタイヤが撥ねた水をソックスに被っただけで済んだが、しばらく行くと今度は側溝の濡れたアルミ蓋に靴の裏を滑らせて危うく転び掛けた。更に数歩先ではそれが嵌っていると見誤って中に片足を踏み入れそうになったりで次々と怖い目に遭った。だからこういう天候の悪い時は何が起こるのか予測不可能なので急ぐのは禁物だ、むしろいつもより特に気を付けて行った方が良いと悟った。そうしてもう半分諦めた気分で開き直り、今は別に何も降っていない、あるいは雨ガッパでも着ているのだと思う様にして歩調を普通に戻した。
せめて棟続きの通りか商店街でも途中に挟まっていれば、軒や店のテント下を渡って行く要領であまり雨に当たらずに距離を稼げたりするはずだが、生憎学校と家との間にはそんな都合良く立ち入れてしかも安全な庇付きの場所などほとんど見付けられないのだ。それに服と体を何かですぐに乾かせられれば別だが、もはやどこもかしこも濡れた様な状態では束の間凌げたとしてもただ寒いだけで無意味だろうし、だったら前へ進んで一刻も早く帰った方がましだ。そんな風に考えた女子は顎先から雫の滴って来る程の状態を我慢してそのまま歩き通した。そしてようやく自宅の玄関前まで辿り着いた時には案の定ショーツの中までぐっしょりで、危うく風邪を引き掛けるという散々な目に遭っていた。
今日は前回とは反対の立場だし、だから今度はこっちが傘を借りて行けばちょうど貸しはなしだからって言って、無理矢理向こうからふんだくって逃げてやろうか、と女子は少し意地の悪い事を考えた。けれどその後続けて、でも改めて思い返すとあれはただ一方的に自分の好意を相手へ押し付けただけの様な感じだった上に、いくら何でも理由が強引過ぎるだろう。それに……もし天気予報が外れて前の自分みたいに濡れて帰る羽目にでもなったらあの子が可哀想だ、とすぐに邪な心を打ち消した。
なのでやはり最初に決めた通り天気が良くなるまで雨宿りして待つ事にした女子は、ランドセルを背負ったまま、教室の窓下のコンクリート壁に背中を向けて胡坐座りに腰を下ろした。そして青白い両内腿を大きくくつろげたそんな姿勢で後ろに凭れ掛け、体の力を抜いて斜め上を見詰め出した。すると軒の縁を伝って遅いペースでその膝頭の先に落ちて来る雫と、背景に空の雲から直接降り注ぐ速い雨足という、それぞれスピードの異なる水滴を無為に眺める内に、少しずつ眠気を覚え始めた様であった。……今日は六時間目が体育だったし疲れちゃってるのかな……、などとぼんやり考えながら彼女は段々船を漕ぎ出し、ついには首を横へかしげる形で頭を肩に乗せて完全に寝てしまった。
いくらか経って目覚めた女子がすぐに瞼を開くと、傾いた視界の中で斜め向きの軒下から雫がまだポタッポタッと落ち続けてはいるが、そこを越えた先に広がる大空は既に雨も止んでとても明るくなっていた。更に西側では雲の裂けた隙間を通って差し込む夕日が薄白く何筋も伸びており、そんな時に立ち込める特有の水っぽい匂いを鼻先に感じた。ちゃんと朝の予報通りだったと分かってそれに安心しつつ、彼女は壁から上半身を起こして周囲を見渡した。すると庇がある校舎外縁より手前のコンクリート地面の側も濡れて濃い灰色に染まって見える事に気付いた。
どうやら眠っている時に風向きが変わって奥の方まで雨が降り込んで来たらしい。そう考えながら女子は膝頭に手を突く体勢でゆっくりと立ち上がったが、その際に又よくよく見ると、まるで円を描くみたいになぜか自分の居る周りだけが全く濡れていなかったので、それを不思議に感じた。そして彼女が再び教室の側に目をやると、どこも全開となっていたはずの窓が全て閉じられて内鍵が掛かっており、天井の蛍光灯が消えた中は無人だった。さすがに日直の男子もうたた寝している最中に戸締まりをして出て行った模様である。
私も早く帰らなきゃ、と女子がもう一度外の運動場の方を振り返ると、今度はそちらのぬかるんだ地面上に、自分の少し前横の位置からくっきりとした足跡が点々と続くのを見付けた。そして無意識に視線だけでずうっと先を辿って行くとその終わりには、折り畳んだ傘を片手にランドセルを背負って歩く、あの男子の後ろ姿があった。彼女は東側の校門の方へ向かう相手の様子をしばらく遠目に眺めていたが、そうする内、彼が縦向きに提げた雨具の表面に付く水滴や先端から滴り落ちる雫の所に、ちょうど天上より斜めに降りて来た陽の光が当たって微細に輝くのを、割と良い視力によってしっかりと捉えたのだ。すると途端にはっとした表情となり、早足でそれを追い掛け始めた。
男子の足跡はここから歩き始めた分だけで、おそらく自分と同じ様にこちらまでは軒下を通って濡れずにやって来たのだろう。そして未だあれ位の場所にいるのは時間的に考えて降り止んでから外へ歩き出しているという事で、結局本人に傘は全く不要だったはずなのだ。そうした上で軒下に入った雨が私の周りだけ当たっていない理由を考えれば……、と目を覚ますまでの状況をようやく把握出来た女子は、どうしても向こうに追い付いてそのお礼が言いたかったのである。
つまり雨脚が傾いて軒下に入って来ている時に男子は傍に立って傘を差し掛け、女子が濡れるのをずっと防いでいたらしいのだ。恐らくは戸締まりで窓を閉めようとした際にすぐ下で眠りこける彼女の姿を見付けてからの成り行きだろうが、あるいはもっと早く、朝に相手が傘を持たずに登校して来たのを知った時点で以前の借りを返そうと考えて、教室に残り続けていたという可能性もあった。
女子が早足で追って行く男子の背中越し、東側向こうの遥か上空には、そちらに移った薄灰色の雨雲をスクリーンにして虹の上縁部分だけが短い帯状になって映し出され、淡くきれいに光り輝いていた。
※ ※
「……上で差している間中、そっちが目を覚ました途端に周りを良く見ないでいきなり起き上がって来て、傘の骨の先で目の辺りでも突いたらどうしよう、って思うとひやひやしっ放しで、そうなったらすぐに避けられる様にずっと気を張り続けてて……」
「ハァ……、そこまで心配してくれてたのは嬉しいけど、……いや、私の事だから満更有り得なくもなかったかも……、それもありがとうね……」
終わり
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以前に投稿した「傘」の続きですが、視点を女子の方に移して独立した話になっています。
(※挿絵内の血管は正しく描かれた物ではありません。)