[簪をありがとう。お陰で毎日髪を結うようになった]
いつものように二人、公園で世間話をしている時に、そう言うと、お礼は何度も聞いたよ。とハヅキが笑った。
この少年は、出会ったころからは想像できないくらいに優しくなった。朝、早い時間からバイト先にやってきて、リウヒと共に子供たちと遊び、勉強の時間になると、同じように丁寧に教えてくれる。
本を読み上げる声は、静かで耳にすとんと馴染み、その心地よさについ、うたたねをしてしまったことがある。ふと頬を撫でられる感覚に目を覚ますと、ハヅキが手を自分の頬に付けたまま、「いねむり厳禁」と微笑んだ。恥ずかしさのあまり、慌てて本で顔を隠すと、子供たちから冷やかしの声が飛んだ。
仕事が終わるとここの公園で、色々な話をして、帰りはわざわざ宿まで送ってくれる。
なかなかに苦労人らしい。
この時代、大学は金も時間もかかる為、貴族の者か、ものすごく裕福な者しかいない。学校に通いつつもバイトをしているのはハヅキだけだそうだ。それでも全て兄の金で補われるのは嫌だと、勉学と仕事を両立している。仲の良い友達もいるが、どうしても育ちの差を感じる時がある。幼いころは、兄と妹に疎外感を感じて育ってきた。その兄、妹も今はどこにいるのか分からないらしい。生きているのかでさえ。
きっと、色々寂しくて辛いんだろうな。だから、こんなにボディタッチが多いのだろう。
横のハヅキは、リウヒの手を両手に包みこみながら、何か話している。
いいよ、いいよ。手ぐらいどんどん触ってくれて。その横顔を見ながらお姉さんになったような鷹揚な気持ちになる。わたしは年上なんだし。
[ねえ、ジン語を教えてくれないか?君の国をよく知りたいんだ]
深い茶色の目に覗きこまれて、リウヒは戸惑った。自分の言葉と今の言葉は違う。それに、君の国と言われても、出てくるのは現代の世界だ。空には飛行機が飛んでいて、町には車や電車が走っていて、マンションの一室に暮らしています、なんて言えない。
[わ、わたし、田舎育ちで訛っているから!それに、話せるようないい国じゃないよ…]
現代が誇れるものって何だろう。便利さぐらいしか思いつかない。この時代に慣れれば慣れるほど、現代の良さが分からなくなってくる。
[じゃあ、二言だけ、教えてほしい]
それぐらいなら大丈夫だろう。頷いて了承した。
[君が]
「君が」
[大好きだ]
「大好きだ」
男の子にしてはロマンチックな事を聞く。思わず微笑んだ。ハヅキは口の中で、二、三度繰り返して覚えた、と呟いた。
[そろそろ帰ろう]
手を引っ張ると、そのまま絡めてきた。本当にこの子は、淋しがり屋さんだ。クスクス笑ってハヅキを見ると、少年も嬉しそうに笑い返した。
宿に入ると、カスガとシギがご飯を食べて酒を飲んでいた。
「今日もおそかったじゃねえかよ」
「うん、ちょっと話し込んじゃって」
急いで、おかみさんの手伝いをしようと台所に入ると、もういいからご飯を食べなさいと笑われた。申し訳なさに、頭が下がる。ハヅキとの時間をもっと早く切り上げたほうがいいのかもしれない。
空腹のため、夕飯を夢中になって食べていると、二人がこちらを見ていることに気が付いた。
「なに?お肉はわけてあげないよ」
「馬鹿」
シギがため息をつく。
「そろそろさ、ここから出て他へ旅してみようかなと思って」
つい箸を落としてしまった。そんなバイト先の子供たちや、ハヅキと別れなきゃいけないなんて。
「ど、どうして?ずっとここにいれば、その内王女は帰ってくるんでしょう」
二人で話し合ったんだけどさ。カスガが猪口に酒を注ぐ。
「ずっと、ゲンさんの好意に甘えている訳にはいかないし…。ここだけじゃなくて、外の世界を見たいんだ。それに、あんまり一つの所に居て、慣れ過ぎるのもよくないし」
「どうして慣れ過ぎるのが悪いの?」
「あくまで、ぼくたちは現代の人間なんだよ。歴史の中に関わり過ぎるのはまずいんじゃないか」
ほら、よくあるだろう。変にいじくってしまって、辻褄合わせに必死になる映画とか。
「だ、だけどさ」
リウヒは食い下がった。
「以外と好都合に出来ているものじゃないの?時間って。あれ、こんな感じだったっけ~、とか、実はパラレルで他の時間軸にいっちゃったりして、とか…」
「時間は君が思っているほど、甘くはないんだよ」
厳かな顔でカスガが言う。どこかの映画のセリフか?
「ぼくたちの未来は、ほんの些細な出来事や誰かの一言の積み重ねで、大きく変貌していく。じゃあ、現代は?過去をちょっといじっただけで大きく変わるんだよ」
「う…」
「仮にリウヒが言うように、ここがパラレルワールドだったと考えよう。そして、ぼくらが好き放題したとしよう。なんでもできるよね。ぼくらはこの時代が知らない知識を持っている。だけど、違う次元だという確証はない。未来に帰った時に、もし全く違う世界だったとしたら?それが自分のせいだとしたら?リウヒはその責任に耐えられるかい?」
言っている事はよく分かる。分かるけど、あの子たちと離れたくない。
「じゃあ、二人でいったらいいよ。わたしはここに残りたい」
固い声がでる。
「お前も一緒に行くんだよ。カスガの話を聞いてなかったのかよ」
「聞いてたよ。だけど、行きたくない」
「我儘いうんじゃねえ。ハイかイエスかどっちだ」
「それ選択の余地ないじゃん!」
あのな、とシギの声が一転して柔らかくなった。
「おれたちは、三人でチームだろう。一人でも欠けたらチームじゃなくなる」
「ぶふっ!」
思わず、ご飯を吹いてしまった。
「汚ねえな!米粒を飛ばすな!」
「チッ、チームって、チームって…センスなさすぎ。それにシギがそんな事をいうなんて…」
素直に君と離れたくないと言えばいいのに、とカスガが呟き、シギがその足を蹴ったが、リウヒは笑いが止まらずに気が付かなかった。
ようやく体が痙攣するほどに収まった時、カスガが静かな声で諭す。
「別に、今すぐ遠いどこかに行くわけじゃない。また、都に戻ってきた時に会えばいいじゃない。それに、いつかは別れなきゃいけないんだよ」
「うん…」
言っている事は痛いほど分かるけど。
だけど、わたしたちはまた現代に戻れるのだろうか。
もし、帰れなかったら、またこの都で暮らしたい。あの子供たちと、ハヅキの近くに居たいと思う。
そうだ、ちょっと離れるだけなのだ。ただ、それだけなのだ。
「分かった。わたしも一緒に行く」
目の前の二人が安堵したように、息を吐いた。
「三日後ぐらいに出ようと思うんだ。色々と準備もあるからね」
カスガたちの話を聞きながら、あの子たちにお別れの品でも買ってやろうかなと、ふと思いついた。明日、早退して市場にいってみようか。リウヒは、食器をまとめると台所に下げに行った。
****
リウヒが同意して良かった。本当に良かった。
ベッドから上半身だけを起こして、斜め前で寝息を立てているリウヒを見る。月明かりに照らされて、布団にくるまれた体が僅かに上下していた。
小さなため息をつく。
自分の気持ちを自覚したものの、今度はそこから動けずにイライラしている。なんてことはない、今まで人を好きになったことがなかったのだ。
彼女はいた。告白されて、なんとなく付き合って、いつの間にか自然消滅したり、別れたりした女たち。
女友達もいた。ただ体を重ねるだけで、恋だの愛だのは全くなかった。
だから、どうしていいのか分からない。下手に動いて嫌われることが恐怖だった。
おまけに相手は見事な鈍感ときている。さらに、ハヅキがリウヒに好意を持っていることは分かっている。ほとんど毎日二人で、公園で話し込んでいることも。
一度、屋根裏部屋の窓から、少年と手をつないで帰ってくるリウヒを見た。心臓が雑巾のように絞られたような痛さを感じた。別れを告げて宿に消えた女を、ハヅキはしばらく見て、踵を返して去って行った。浮立つような足取りで。
カスガがそろそろここから出ようかと言った時、チャンスだと思った。あの少年とリウヒを引き離すことができる。
おれは、なんて卑怯者なんだろう。
再び、小さなため息をつく。
だけど、お前と一緒にいたいんだ、なんて言ったらリウヒは大笑いするに違いない。笑われることすら恐ろしい。自分を否定されることが怖くて堪らない。
あの少年のように、真っ直ぐに好意をぶつけることができずに、こうやって己の中でモヤモヤと考えを巡らせることしかできない。傷つきたくないのだ。
おれはなんて小心者なんだろう。
好意を素直に見せようとすれば、シギじゃないみたいと目を丸くされる。驚かれる。結局は軽口やからかいに逃げてしまうのだ。
好きだから、ちょっかいをだしていたのか。小学生か、おれは。いや、今日び小学生の方が大人でスマートだろう。
本日何度目か分からないため息をついて、シギは布団の中に潜り込んだ。
****
扉の前で、リウヒはため息をついた。
旅に出るから、もうここには来られないというと、子供たちは泣いて縋った。泣き通しが通用しないと分かると、今度は怒って、部屋に閉じこもってしまった。
[どうしよう、今日で最後なのに…]
隣でハヅキも詰るような目で自分を見ている。
[ぼくも、あの子たちのように君を責め立てたいよ。どうして旅にでるの]
[ハヅキまでそんなこと言わないで]
わたしだってみんなと離れたくないのに。
奥さんは、悲しそうに微笑んで頷いた。
[子供たちがあんなに懐いたのは、あなたが初めてだったから、ずっといて欲しかったのだけど。仕方ないわよね。また近くを通りかかったら、遊びにいらっしゃいな]
[ありがとうございます。あの、これをみんなに渡してください]
ちびっ子たちへの餞別だった。少女たちには珊瑚の簪を、少年たちには帯を。随分慎ましいものだが、半日かけて一生懸命選んだものだった。
[わたしはてっきり、あなたはハヅキと結婚するものだと思っていたのに]
[はい?]
[庭であなたたちがいた光景は、とても微笑ましくて、幸せそうだったから]
思い出すように奥さんはクスクスと笑った。えらく突飛なことを言う人だなと、リウヒも引き攣りながら笑った。もう一度頭を下げて、子供部屋へ向かう。ハヅキが扉の横壁に凭れて、腕を組んでいた。こちらに気が付いても、拗ねたように横をむく。
[みんな、ごめんね。もう行くよ]
返事はない。
[キキ、ネネ、ラン、クジャク、タイ。本当にありがとう。今まですごく楽しかった]
タイの小さく押し殺した泣き声が聞こえた。胸が痛む。
[さようなら。みんな、元気で]
子供たちの嗚咽が聞こえたが、扉は開かなかった。小さく息を吐いて、そのまま下がる。
[ハヅキも、色々ありがとう]
手を差し伸べると、少年はそのまま手を取り、リウヒをひっぱって歩き出した。
[えっ、ちょっと、どこいくの]
[公園]
[だって、まだあなたの仕事は終わってないんでしょう!]
[こんな状態じゃできないよ。君のせいで]
それを言われるとつらい。黙って手を引かれながら、ついて行った。商家を出ると、空が茜色に染まっている。毎日通っていたこの家に、もう明日はこないんだと思うと、涙が出てきた。
公園のいつも話し込んでいる場所で、ハヅキが向き直る。
[本当に、いっちゃうの?]
[うん…]
[本当に、いっちゃうんだ]
濃い茶色の目に真っ直ぐ見詰められて、頷くことしかできない。
[そうだ、これ…]
懐から、小さな根付を取り出した。ハヅキへの餞別が思いつかなくて、結局根付にした。銀色で三連の大小の輪が連なっており、細長い棒状の飾りと小さな鈴がついている。根付は女性のアクセサリーだが、このユニセックスなデザインなら男の人でもいけるかなと思った。
いつもはシンプルな装いのハヅキだが、この根付を帯にさしたらさぞかし映えるだろう。
[そんな高価なものじゃないけど、良かったらもらって]
少年に近づいて、その帯に差し込む。予想通り似合っていた。
[ああ、良かった。やっぱり似…]
突然ハヅキの腕が背中に回って、抱きしめられた。息が止まる。腕の中に閉じ込められたまま、しばらくどうしたらいいのかうろたえてしまった。
[リウヒ]
[…なに?]
耳元でハヅキがゆっくりと囁いた。教えてあげた、現代の言葉で。
「君が」
胸が締め付けられた。
「大好きだ」
痛くて堪らない。
自然と腕が上がって、ハヅキの背に手を回した。しばらく二人はそのまま抱きあっていた。
[もう一つ、もらっていい?]
[え…]
頬に手がかかり、上を向くとハヅキの唇がおりてきた。大切なものを愛しむような、優しいキスだった。
夕日が沈んで辺りが暗くなりはじめても、離れがたかった。
[宿まで送っていく]
リウヒは静かに首を振った。大丈夫だから。本当に、離れたくなくなってしまうから。
[ぼくが送っていきたいんだ]
もう一度キスをすると、手をとって歩きはじめた。しっとりと温かい手に、自分から指を絡める。するとぎゅっと握り返された。
[ハヅキに貰った簪ね]
[うん]
[一生、大切にする。おばあちゃんになっても持っている]
クスクスと少年は笑う。
[じゃあ、リウヒに貰った根付、ぼくは生まれ変わっても持っていよう]
[そんな大げさな]
リウヒも笑った。
[いつか、君の国にいくよ。また会いたい]
[ハヅキはいつまで大学にいるの?]
うーん。国試次第だな。もし近くにきたら必ず大学を訪ねる、と約束した時に宿の前についた。
[じゃあ、元気で]
[ハヅキも]
頬に一つ、唇に一つ、優しくキスを落とすと、ハヅキは静かに離れた。
大丈夫、また会える。
リウヒは小さく笑うと、手を振って宿の中に消えた。少年はそのまま佇んで、扉を見ていたが、踵を返すと肩を落として歩きはじめた。
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ティエンランシリーズ第三巻。
現代っ子三人が古代にタイムスリップ!
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「ぼくたちの未来は、ほんの些細な出来事や誰かの一言の積み重ねで、大きく変貌していく」
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