No.1131483

錆びぬもの

青柿さん

約四〇〇〇字。二〇一五年十一月二十四日完成、最終更新二〇一六年十月九日

2023-10-18 20:23:25 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:155   閲覧ユーザー数:155

 今日太陽系を訪れる宇宙船は少ない。人類は地球と云う()(かご)で長い揺籃期(ようらんき)を過ごした後、更に長い太陽系だけの支配者としての時代を過ごした。千年紀を(いく)つも重ね、ようやっと母なる太陽より彼方へと飛び立った人類は、最早この領域に殆ど何も興味を抱くものを残していなかった。ただ、母なる地球への望郷・愛情を忘れない者だけが時折宇宙の彼方よりやって来る。時代が下るにつれ、それも少なくなったが。

 イヴァン=マルコヴィチ=ペトロフは土星観測衛星「S-2097-3」に勤務する保守要員だった。この甚だ旧式の衛星は、古の土星開発事業に先行して建設されたこの星の補給基地であった。幾度となく改修と切除、それにオーバーホールを繰り返した()()ぎだらけのこの衛星に、常勤の人員は彼一人だった。最盛期には1000人を数える人間がここで暮らし、仕事をしていた。すっかり人工知能の発達した今、そのような大人数を必要とするあらゆる理由が失われていた。その事実を彼が思い返す度に、彼は土星をそのガラス越し、宇宙の虚空越しに見る。かつての巨大な惑星は人類の科学の進歩によって、多大な燃料・鉱物資源を供給する大鉱山となった。人類の太陽系外への飛翔には土星(と木星)が大いなる息吹を与えたのだった。そうして、それらの星々は今や古の姿より遥かに小さなものと成り果てた。すっかり使い果たされたのだ。

 歴史の教科書の出来事でしかないそれをペトロフはひどく感傷的な気持ちで見ていた。あらゆるものを(かて)羽搏(はばた)く人類に、太陽系の星々は幾つもの試練と恩恵を与えて来た。さながら、階段を上ってゆくのはお前たちだからとばかりに。他の誰にも恩恵を与えず、この星々は宇宙のただ中で静かに時を待ち続けていたのだった。そして今はただ、これまた待ち続けているのだ。

 

 地球の数え方で言う春先の頃、ペトロフは客人を職場(であり住処)に迎えた。サーラ=イヴァノヴナ=ペトロヴァ、彼の娘である。齢50を超すペトロフにとって初めての実子はこの年さる高名な研究機関に勤めることになり、その報告へとやって来たのだった。

 月に一度、この衛星には配給船がやって来る。衛星と結合しての積荷の積み下ろし・不要物の回収と検品は皆ロボットがやってくれるので彼はその結果を確認するだけでよかった。年季の入った素材もいやに新しげな部品も入り混じったおんぼろのデッキで待ち、配給船に乗り合わせて来た娘を見てペトロフは顔を(ほころ)ばせた。滅多に会わない親子であり、ペトロフは自分の勤めによる稼ぎは殆どこの娘の自由に使える様にしていた。彼はその前半生に稼いだ金を持て余していたので、彼にとり娘の成長を陰ながら支えてやることが唯一の趣味と言っても良かった。サーラは父親を見つけるとその笑顔を一瞥して静かに歩いてきた。二人は暫く他愛のない会話を交わした。元気だったか。悪い虫に振り回されたりしてないか。父親のどこか過保護な労りの言葉が次々と飛び出てくるのにサーラは些か気疲れしたが、この父に支えられていることを常々意識する彼女は静かに押しとどめて相槌を打っていた。二人は無人の食堂に入った。食堂には古びた厨房ロボットが一台あって、毎月決まり切った献立をペトロフに供していた。客人が来る度にその内容は在庫と相談しての修正が掛けられるので、自炊の出来ないペトロフにとって来客はささやかな楽しみだった。

 二人の前にビーフシチューと三枚のライ麦パン、それに野菜サラダが運ばれてきた。運んできた無機質な台座上のロボットが車輪を(きし)ませて二人の机の所で停まり、備え付けられたアームが正確に、対称するように皿を並べた。ペトロフは料理を見て眉を吊り上げた。

「ちぇっ、サラダに牛蒡(ごぼう)が入ってら。こんな保存の利く野菜を出すなんて、本当にここのメシは気が利かねぇな」

「父さんは牛蒡、嫌い?」

「こんな木の根っこ食い始めた連中の気が知れねぇな!」

 そう言ってペトロフはビーフシチューを(さじ)(すく)ってすっと口に含んだ。サーラもパンに手を付けた。今日新しく運び込まれた食糧であることをペトロフは知っており、それで彼はシチューに舌鼓を打った。普段ならこんな規定の配合通りに調理された出来合い品(もど)きに何の感慨も抱く所無かったものだが、愛娘と卓を囲めるだけでどんな料理もご馳走(ちそう)に思われるのだった。サーラは特段の感想を抱きはしなかったが、父親が心底美味しそうに食べ、やはり他愛の無い話をあれこれと振って来るのを見ていると俄かに口元が綻んだ。

「俺が若い頃にゃまだ他にもジャン、ジュン、ジョンの連中も居たもんだ。配給船が来たらみんなして一斉に(かじ)り付いたものを、今じゃ運び込みさえ全部ロボットがやってくれるもんだ。手伝おうとしたら邪魔者扱いされて、退屈だったらねぇや」

「その三人は今どうしてるの?」

「あいつらか? ジャンは違法薬物に手を出してお堀の中、ジュンは骨董人形職人だか何だかに転職、ジョンは……ある日急に未来から自分はやって来たとか言ってすったもんだの挙句解雇されてたような。その後は知らね」

「酷い言いようね」

「一番ひどいのは、結局一生ずっとここに齧り付いてる俺さ」

 こういう自虐を一生に数える程しか顔を合わせていない父親がその度毎に口にするのをサーラはずっと見て来た。彼は酒も煙草も薬もやらなかった。凡そ人を耽溺させるもの全てを。

「どうして、他のもっといい仕事を探したりとかしなかったの?」

「簡単だよ。俺は太陽系に愛着がある。その俺が仕事を探すとなるとこんな風なのしか在りはしないのさ。こと今日に至っては」

 この父が太陽系外の生まれであることは彼女も知っていた。サーラは今日こそはと尋ねようとしていた事柄を一時忘れて、その理由の程を考えた。その小さな沈黙に父親が口を差し挟んだ。

「俺はな、ガキの頃地球へ行ったんだ。俺が行った時点でももうすっかり殆ど枯れ果てたような侘しい惑星だったがね。そこで初恋ってやつがあったんだ。思い出ずっと暖めて今日まで生きてるって訳よ」

「……そう。ねぇ父さん」

「何だ?」

「その人、私の母さん?」

「……いや」

 半ば当然の事実を否定させようとしたかの問い。(まばた)きして直ぐに首を振った彼の仕草にサーラは不興を覚えた。頓着(とんちゃく)の無い否定。その癖に愛着と言う。

「俺は遠く土星の周りで思い出を彼方に見やりながら生きてるだけよ。世の中の偉い人ら、時代を変えて行くような吃驚(びっくり)する力持ち達とは違って、俺はこんな幸せだけ大事にしていれば満足なんだ」

「じゃあ」

「……そっか。そう言えば言ってなかったな。俺は人工子宮生まれだ。お前がそうであるように。……なぁ、サーラ」

 食堂を照らす電灯が空気を震わせている。それだけがあって、食堂は静かだった。二人の手は停まっていた。食べかけのシチューを匙に掬ったままのペトロフ。三枚目のライ麦パンに手を置いたまま静かに父を見つめているサーラ。その静謐(せいひつ)さにペトロフは何か運命じみたものを感じた。この不思議な感動を、我が娘は知覚しているだろうか?

「俺は親から愛された、なんて記憶はこれっぽっちも思い起こせない親不孝者だが、それでも人生何だかんだで楽しかったさ。お前はどうだ?」

「……」

「お前の幼年期について、もう少し親身になってやった方が良かったことは反省している。しかしお前も何だかんだでこうしてたまにはこの僻地に顔を見せてくれるんだ。俺はそれが幸せだ。お前がそうして幸せでないのなら、俺も何か考えなきゃいけないんだろうな」

「……うん。別に、苦しかったわけでもないし、うん、楽しかった。多分」

「そっか」

「気にしてただけよ。ただ当たり前のように親がいる人を見て、当たり前のように親が居ない自分の事を、ずっと。それがどんなに当たり前のことだとしても」

「済まなかった」

「いいのよ」

 放送が入った。配給船の作業がもうじき完了すると。二人は一緒に微笑んで、手早く残りの料理を片付けた。ペトロフは検品の確認等雑事があったので仕事場へと戻らねばならなかった。デッキで別れの挨拶、とは行かなかったので二人はここでそれを告げた。

「さようなら、父さん。次に会う時もお達者で」

「元気でな」

 二人は軽く手を振って直ぐに分かれた。ペトロフは足早に管制室へと乗り込んだ。他の誰も居ない管制室でペトロフは椅子に座って機器を確認してゆく。全てが恙無(つつがな)く完了した。ペトロフはマイクに電源を入れた。

「こちらS-2097-3、配給船SSS9264号、所定要項の確認を終えた。万事滞りない」

「こちらSSS9264、予定された全ての工程を終了した。確認感謝する。連結の切断と発進の許可を」

「許可する。順次開始されたい」

「了解」

 デッキから空気が抜かれ真空化し、続いて音を立てて連結部分が分離されてゆく。ひと月に一回。一年で十二回。何度目だったか彼は数えていなかった。若い頃は退屈凌ぎにそうしていたのだけを憶えている。やがて音の無い空間で振動を伴い二つの巨塊が徐々に離れ始めるのをこの場にいる誰もが感じた。両者に完全な空間が出来、配給船はエンジンを吹かして次なる目的地へと飛び立っていった。遠くへ消えゆく航跡を眺めながらペトロフは、備え付けた私物のホットココアに口を付けた。量産品の甘い単調な味わいが口の中に広がった。彼は(まぶた)を閉じて次に配給船が来る日の事を思った。その次に娘が再びここへ来る日のことを思った。そしてその次に……

「やめだ」

 彼はココアを飲み干して立ち上がった。彼は倉庫へと向かい、仕入れられた部品や素材を使っての衛星の整備に脳も体も働かせ始めた。要求と突き合わせて計画を立て、それを遂行してゆく。彼はずっとそうしてきた。まるで置いてけぼりにされたかのようなこの小さな星の内で幾度となく繰り返してきた。彼の一番大事な誇りを、ただ一人知っていればいいと考えながら。


 
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