一.
梅雨の雨の日のある平日、私は自転車をこいで学校への道のりを急いでおりました。
うかうかと昨晩ゲームに没頭しすぎたおかげで見事に寝坊。口にパンを咥えて道をかっ飛ばします。
急いでいたものだから待ち合わせをする相手もいない、そこで私は普段の通学路から外れて先週開拓したばかりの学校への近道を進むことにしました。
水溜まりを走り抜けるたびにじゃああああっ、と飛沫を上げる音がします。傘を片手に持ちながら運転している身なのに、話し相手がいないからか大変その音がよく聞こえるのが何とも。
ああいやだ、靴が、靴下が濡れるじゃないか。これだから梅雨というやつは厄介な。
心中で吐き捨てそこでようやく口に咥えたパンの半分が口の中へ、喉の奥へ落ちまして。
右折したその前方には赤信号、ここを超えれば学校はもうすぐ。
そう思うと気が緩みます。ああやった、どうにか間に合うぞ。
そう思って右折した矢先、なんとそこで工事現場を目にしました。道が塞がって通れません。
何たる様だ、何たる不運か。急ブレーキが効かないなりに掛けて自転車が止まった時に思わず天を仰ぎます。
しょうがないや、遅刻確定、もうゆるゆる行くか、いっそバッくれるか。
口から出そうになる悪態をどうにか飲み込みつつ引き返します。疲れたので乗らずに押して。
山を正面に右手に住宅地、左手に田地。そんな景色ですが、今の私には何ら意味がありません。
ただとぼとぼと元来た道をなぞって帰るばかりです。
ふと、その山に登る道、そこに紫陽花畑があり、その前に一人のおじいさんが立っておりました。先程まではいませんでしたが、差し当たりこの狭い道では割と邪魔です。つーか羽織の背中模様が紫陽花ってのはどうかと思う。
そばを通り抜けようとすると、だしぬけにおじいさんが一言。
「また、来るからな」
なーにがまた来るだ、ちったあ他人迷惑を考えろ、そう心で舌を出しつつ私は聞いておりました。
おじいさんの背中が視界から外れて、私の視界に
見事な、といってもそれ程大きなものではなく、紫陽花単品なので紫陽花の季節以外は何ら花を咲かせない、いわば酸素泥棒な花畑。日光は雲に遮られて十分に届かない!
……何でしょうね、妙にこの時の私は紫陽花が憎たらしく思えた様子です。兎に角私はさっさとその場を離れることにしました。
おじいさんの言葉と、見事な紫陽花畑が妙に印象に残りながら。
二.
かくして梅雨の季節、また寝坊しました。今度はヤのつく自営業の方々に手違い勘違いの結果夜通し追い掛け回され、ようやく警察先生の庇護の元帰宅できたのが午前四時。
もう見てらんない、それぐらい眠たいのです。目の
今度は前回の二の
建物と建物の間の横断歩道、通学の際は一番気を付けるべき空間。
やってしまったのです、私は。ゆったりと緋色の唐傘差して歩いて出てくる紅色な着物の少女に一瞬見惚れて自分が速度出しまくってることを失念。
慌ててぶつかる手前で舵を切りましたところ、思いっきり自転車ごと転倒。私は適当に放り出されただけですが自転車は路上をカーリングでもやってるのかってぐらい滑りに滑り、反対側のガラス張りの電気屋に突っ込んでしまいました。の
あわわ、慌てて逃げようとする私に少女はゆっくり近づきます。
「どうなさいましたの?」
どうって、君が綺麗すぎて事故ったんだよ、思わず口から出てしまいまして彼女は可笑しそうに口元を綻ばせます。
「あら、それは御免なさい。私丁度そこの紫陽花の花に見惚れてまして」
彼女はでかい建物に沿って植えられた花壇を指さします。やっぱり紫陽花です。その他の花々もいろいろ植えられているようですが。
紫陽花に呪われてんのかな。舌打ちしつつ私はその場を離れようとします。
少女はきょとんとした表情で私に問いかけました。
「あの、あちらで何だか騒がしいようですけど、あそこに見えるのは自転車じゃないですか? あなたの」
や、目を背けていた事実をズバリと指摘されてこちらは恐縮ものです。というか、割と遠くに見えるはずのアレが自転車だって普通に指差して分かるとか視力良いな。
竦んでいると何処からともなくサイレンの音が鳴り響いてきます。ああ何だか、私の人生終わったな、そんな気分にこの日はなりました。
つか、よくよく見ると彼女の着物の文様も紫陽花なのね。
三.
学校中で有名人になりました。警察その他からこってり絞られた挙句この扱いはどうよ。
しれっと校庭に植えられている花が紫陽花だし。一体どういうことなの。
で、そんなことはどうでもいい。また寝坊をしたわけです。今度は暫く謹慎させられ、ようやく学校に再び登校したところであの扱いを受け自棄になって親父のビールを奪ってがぶ飲みしていたのです。
未成年のくせになまいきなほど私の肝臓その他臓器各種は頑丈だったようで少なくとも二日酔いはしませんでしたが久々に
例によって例の通りパンを一切れ口にくわえて徒歩で走ります。妥協している余裕がない私には件の近道を選ばざるを得ませんでした。
またやって来ました、あの紫陽花畑。憎たらしい程に見事に紫陽花が咲いております。
前回と違うことは、あのおじいさんの他にあの唐傘少女も一緒だったということです。雨降るこの日、少女とおじいさんが片手づつ持って立っております。
お二人は孫と祖父の間柄かな。そんなことを考えながら少女を眺めつつ走っていますと、少女の方がこちらを振り向きました。
「あら、いつかのあわてんぼうさん。今日も急いでいますけど、どうなさいましたの?」
ええい貴様も人間なら私ぐらいの人間は学校という災厄に拘束されるものだということぐらい知っているだろうがっ。
心の中で飛び出たそんな文言は、ふとそれまで自分が全く気にしていなかった事柄を認識させました。
何でこの子は学校行ってないの? 何でこの子は私みたいなのには学校があることを知らないの?
立ち止まって私は考えます。……分かりません。欠片もね。
おじいさんがこちらを振り向き、少女は自分の質問に答えてもらえないでちょっと不満そうな声を上げます。
「あのー……そんなにどうして急いでいらっしゃるのですか?」
はっ。そうだ自分は急いでいるんだ。こんなところで油売っている暇はない。
唐突にまた走り出した私に少女はついに怒った顔を見せます。その時、おじいさんが言いました。
「放課後、時間が有ったら五時までにおいで」
そんなもん有るかこんちくしょう。言葉に出さず悪態をつきながら私はその言葉を聞き流して走り去ったのでした。
……結局遅刻。どうやら、私は紫陽花に呪われているようです。
四.
遅刻常習犯として恐怖の教頭先生による課外授業という名のお説教を終え、学年、いや学校中から笑いものにされながら私はようやくねんがんのほうかごをてにいれました。
すっかりネタキャラとして扱われ友達と思っていた連中からも笑いものにされ、傷心の私はとぼとぼと一人帰り道を歩きます。
それは果たして意識してのことだったのか無意識のことだったのか。私はあのおじいさんの言う通り五時前にあの紫陽花畑に辿り着きました。
疲れた表情をした私に、待っていた少女(とおじいさん)は微笑みかけます。
「いらっしゃったんですね。ありがとうございます」
傘をおじいさんに持ってもらって丁寧にお辞儀する少女についつい私もいえいえこちらこそ、とお辞儀し返します。
「こちらは私の祖父……」
彼女が言いかけたところで私はそれを制します。別にそれ自体に興味があるわけではありませんのです。むしろ君が名乗ってくれる方がうれしいぐらい。
とはいえそんな下心満載の言葉を投げかければきっと機嫌を損ねてしまうだろうなと思ってそちらはぐっと堪えます。
制止されてきょとんとする少女はこちらの心中をどれだけ推し量ったのかは分かりませんが、やがてクスリと笑ってにこやかな表情になります。
「あわてんぼうさんは紫陽花がお好きですか?」
いきなりそれかい。表情が猛烈にずっこけるのを意志の力でどうにか抑え込み、はいとてもすきですと答えます。棒読みに聞こえたのはきっと気のせい。
いっそう嬉しげな表情を見せる少女がすっごくかわいいです。
「紫陽花は娘の好きな花だった……」
おじいさん、脈絡のない話は止めてよね。お願い。
残念ながら、おじいさんの脈絡のない話は止まるところなくその口から披露されてゆきます。
話を掻い摘みますと、この少女はおじいさんの孫娘だけれど、おじいさんの娘さんは悪い男に引っ掛けられて望まない妊娠を強いられます。病弱な娘さんには堕胎手術は無理な話だったようです。
娘さんはこうしてこの少女を出産するわけですが、自身は間もなく亡くなります。この少女には親というものが居なくなってしまいました。
それに加え娘さんは頑なに相手の男のことを思い出すことを拒みまして、そしてその間に生まれたこの少女を自分の娘と認めたがらず産婦人科へ行かないで、出生届を出しませんでした。出産はおじいさんの家で親類などの手により密やかに行われたそうです。
その結果少女には戸籍がありません。公的教育を受けることの出来ない彼女はおじいさんによって育てられ、友達のいない孤独な人生を歩んできたとのことです。
娘さんはおじいさんが言った通り紫陽花が好きでした。少女もまた紫陽花が好きだそうです。たくさん寄り集まって咲いていて、雨の多い
聞き終えたとき、私は不覚ながら涙ぐんでおりました。少女も悲しそうな表情です。
「私は娘の遺言であの娘の遺灰を紫陽花畑に撒いた。あの娘は今もこの紫陽花畑に生きているんだよ」
そう閉めに言っておじいさんはもう何も語りませんでした。目元には微かに湿り気が見えます。
「おじいさま、もういいでしょう。母様は私がお嫌いでしたけど、私は母様が好きです。
母様が私を生んで下さったから私は母様と同じ紫陽花を好きになれて、それを眺めていられるのですから」
静かに、少女が言いました。そして、また私を見ます。
「あわてんぼうさん、わざわざつまらない話なんか聞きに来ていただきありがとうございました。
また、紫陽花の花の前で会いましょう」
少女はおじいさんから唐傘を受け取り二人揃って歩き出します。
私は何も言えぬまま、ただずっと二人の影が見えなくなるのを雨の中見続けていました。
五.
遅刻は既に私の中では既定事項らしきことになりつつあります。少なくとも梅雨の季節の内は。
あの日の後も、おじいさんと少女には何度か会いました。ですが、梅雨が明け、紫陽花の季節が過ぎてからは私が遅刻魔の汚名を晴らしたこともあってか夏以降すっかり出会わなくなりました。
……
再び季節は巡り、梅雨がやって参りました。何故か梅雨は私にとって遅刻を引き出す季節らしく慌ててパン一切れ口に挟みながら自転車を走らせます。
あの紫陽花畑におじいさんは居ませんでした。あの小道を通ってそれを知った時、私はなぜか悲しくなりました。
学校ではそんなことは忘れたかのように馬鹿騒ぎを繰り広げます。人の噂は七十五日、一年も経てばすっかり何時ぞやの事故は皆から忘れ去られていたようです。もっとも鬼の教頭先生だけは私が遅刻した際にこれに言及しましたが。
そしてまた放課後。私は仲間たちに断りを入れて一足先に帰ります。
時刻は五時前。帰り道としてここを使うのは二度目でした。
あの紫陽花畑の前には、去年は見慣れた緋色の番傘を背に向けて人が立っておりました。
自転車が水しぶきを上げその存在を相手に知らせると、彼女はゆっくりと振り返ります。
「あら、あわてんぼうさん。こんにちは」
去年はすっかり見慣れた少女が、ほんのちょっぴりだけ大人になって待っていたような気がしました。
――終――
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約四九〇〇字。最終更新二〇一一年七月一日
※二〇二三年十月十六日振り仮名追加