第73話 扁鵲
「さて、冥稟さん。あとは調合したこの薬を数ヶ月、頭痛が完全に消えてから三十日ほど飲み続ければ、治療は完了です。」
冥稟の治療がほぼ終わり、今日は俺たちの領土に滞在する最後の日となった。迎えには雪連が来ている。
「ありがとう。
ところでこの薬を、
「傷寒雑病論、ですか?」
しょうかんざつびょうろん??
「うむ。軽くではあるが読んだことがあってな。やはりご存じだったか。」
「冥稟、何それ?」
「張仲景、という人物が書いた医術に関する本だ。いつ頃書かれたのかは定かではないが、こういった薬の配合について、様々な考えと、配合に名を付けた薬の名前が書かれている。そういったものも参考にしているのだろうか? 大変失礼な質問なのだが、好奇心が上回ってしまってな。」
天和と冥稟の医療に関する話。そもそも天和が仲間になるまで漢方薬の生薬すらほぼ見たことがなかったわけで、俺にとってはすべてが初耳だった。
「失礼などということはありませんよ。参考にしている、と言えるかはわかりませんが、なるほどなあと思うことは多々あります。一刀さんにならって私もこれらの薬剤のことを『生薬』と呼び始めましたが、結局のところ薬を飲んでもらう場合は、この生薬のうちどれをどのくらい飲ませるか、という所にかかってきます。この方がどうやってこの書物に書かれた考えを身につけたのかなどは書いていませんのでわかりませんが、処方そのものは理にかなっているものばかりです。
私の場合は、鍼灸による治療と生薬での治療を並行して行うので、両者の均衡の取り方といいますか、それを重視していますね。」
「なるほど……。さすがは天和どのというべきだな。当代の扁鵲と言っても差し支えないのではないだろうか」
何事もバランスが大事なんだなあ……と思いながら2人の話を聞いていたら、冥稟が謎の人物の名前を出して天和を苦笑いさせていた。
「へんじゃく……?」
「ああ。一刀さんは詳しくないのでしたね。脈診から鍼灸、生薬による治療まで、今に伝わる医学のすべてを編み出した人物です。医術の“祖”といって差し支えないでしょう。俗に言う春秋戦国時代に活躍した伝説の名医です。
私はまだまだです。扁鵲の足下にも及びません。治せない病気も存在しますし、患者が消えることがない以上、医術に終わりはない。まして、これから病にかかる可能性のある人物のことを私は『未病』のある人物と考えていますが、それを全て見抜いて先に芽を摘むことまではできません。冥稟さんの場合は現在の症状に頭痛があり、奇跡的に知ることができましたが、それが、今私がいる下邳城下の人すべてにできるか、と言われれば、それはできません。
ただ……。そうですね。余生が送れる、といえる時まで長生きがもしもできたなら、私の知ることを全て、一つの書物にまとめたいとは思っています。」
その話を聞いて、天和を運良く仲間にできたのは正解だったと心の底から思った。自分の力が全知全能だと思っていたりするならば、今の言葉は絶対に出てこない。天和自身が本当に謙虚だからこそ出てくる言葉だ。自分から相手に『謙虚になれ』と諭すことはないけれど、本当に偉大な人物は常に謙虚である、と、過去に読んだ偉人の話を読んだりして思ったことがある。
自分に自信がある、それ自体はすごくいいことだし、あって然りだと思う。しかし、ありすぎれば他の人の言うことに耳を傾けなくなったりする。結果として部下の離反を招いたり、足下をすくわれたりする。
俺自身もこの世界に来て、その謙虚な姿勢は決して忘れないようにと心がけてはいるけれど、本当に実践できているかは怪しい。結局ある程度は他人の評価によるところも大きいし、自分を完全に客観視できる人物などいない、と俺が思っているからかもしれないけれど。
過去、俺が指導を受けた教師の大半は「自己を客観視できるようになりなさい」と、学期最後の授業なりホームルームなりで決まり文句のように言っていた。しかし、できるように努めることはできても、果たしてできる人が本当にいるのか、と俺は常に思ってきた。でも今、もしもできる人が本当にいるのだとすれば、天和のような人物なのかな、と思い、また同時に、そんな人物が俺たちの仲間になってくれていることに喜びを感じた。
「天和どのは本当にすばらしい人物だな……。我々とともに来てくれないか? いや、冗談だ。」
「冥稟でも真面目な冗談なんて言うんだ。でも今の言葉聞いて、私も同じこと思っちゃったケド。」
「雪蓮も冥稟も、勘弁してくれよ……。」
「いやー今の言葉聞いて連れて行きたくならない人はいないんじゃない? さーて。来年の春からはこっちに来て軍事演習ね! 水上の戦がどんなものなのか、教えてあげようじゃない! 本当に楽しみだわ」
いやそれが狙いだったんですが……。と突っ込むのはやめておいたほうがいいな。
「やれやれ……。まあこうなった以上は歓待しつつ、じっくり戦おう。陸上で自由自在に動ける君たちが、どう思い、どう動き、どう身につけ、どう改善する方法があると考えるのか。見てもらい、実践してもらい、その後で聞くのが楽しみだ。」
「お手柔らかに頼むよ……。さて、俺たちの領内にいる間は一応警備したほうがいいだろうから、俺と甄と愛紗で境まで送るよ。」
「ありがとう。」
そんな会話のあと、徐州と揚州の境まで移動し、あとは揚州側の警備している部隊にとりつぎ、終わりか……と思っていると、会ったことない、炎蓮、雪蓮と同じ紫色の髪の人物と祭さんがやってきた。
「蓮華!? なんであんたが……?」
「北郷殿と甄姫殿、関羽殿とお見受けする。私は孫権。字は仲謀。真名は蓮華という。冥稟の病を治して頂いたこと、本当に感謝している。ありがとう。」
冥稟に次ぐ、孫堅軍で2番目の危険人物と目される、娘の孫権とこんなところで会うというのは全く予想外だった。雪蓮も驚いているし、孫権は炎蓮に行くと伝えただけだったんだろう。
「いや。盟約を結んだ相手で、交易もしてくれるわけだし、治療は当然だよ。今はいないけど、天和ともし会う機会があったなら、そのときは直接言ってくれると嬉しい。本人も喜ぶと思う。」
「承知した。
姉様、我々にとっての柱である冥稟の身体を治して頂いた相手に礼を尽くすのは当然のことでしょう? 母様も来たがっていましたが、さすがに止めただけのことです。」
「それはそうだけど……。私がいれば充分じゃない?」
「雪蓮、まさかと思うが北郷殿たちの前で言い争いをする気ではなかろうな?」
若干雲行きが怪しくなったけど、さすがに体裁が悪いと思ったのか、雪蓮も自重してくれた。
「祭さんも元気そうで良かったよ。来年は揚州に行くことになるだろうから、そのときは改めてよろしくね。」
「この中で蓮華様と儂以外は全員呼び捨てなのに儂には『さん』がつくのがどうも納得いかんが、まあそのときは歓待しよう。折角じゃし、孫家の武勇を見せるいい頃合いじゃろう。」
「特に他意はないんだけど……。日程は来年詰めよう。俺たちも楽しみにしているよ。」
そんな会話で見送り、徐州に戻ってきた。
「眼光は母親、姉と違いませんね。あの人物が孫権……。」
周りに俺と女媧と愛紗しかいなくなってから、愛紗がそう呟いた。
「ここで会うのは正直予想外だったよ。」
「全くです……。」
「確かに、炎蓮や雪蓮とは違うな。炎蓮の血を色濃く引き継いでいる人物とはあまり感じなかった。理論派という印象だ。」
「そうなんだよな……。そういう人のほうが相手にするのは大変だよね。とはいえ、向こうに行く前に会えて、少なくとも表面上は友好的なのは良かったことなんじゃないかって気がする。」
「間違いありません。願わくば、この平穏が続きますよう。」
愛紗、女媧とそんな会話をしつつ、俺たちは下邳城へ帰った。
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第5章 “貞観の治
話が全く思い浮かばず地獄でしたがなんとか書けました。未完で終わるつもりはないので、時間をつくりつつ頑張っていこうと思います。