月日が経つのは何と早いことか。
シラギは、ふと目の前の少年をみて感慨深くなった。
東宮の一角、小さな広場でトモキの剣の稽古をつけている最中である。休憩をとろうか、と声をかけると、はい、と返事が返ってきた。
「トモキ、お前いくつになった」
「今年で十七になりました」
滴る汗をぬぐって、トモキが答える。幼かった顔が大人びてきている。身長もかなり伸びたようだ。
「あれから四年か」
早いな、と呟くとそうですね、と笑顔でトモキが答える。
トモキが宮廷に入って、四年。その四年で東宮は変わった。
一番変わったのは王女だった。十一になる。表情はまだ若干乏しいものの、笑い、会話をするようになったのだ。癇癪を起して物にあたることもなくなった。女官や教師たちにも愛されて過ごしているらしい。以前に比べて考えられないほどの進歩である。
投げた匙を、トモキは拾って丁寧に磨いてくれた。そして匙は輝きつつある。
感謝しても、し足りないくらいだ。
「さて、再開するか」
「お願いします」
双方、構える。
と、トモキが目にも止まらぬ速さで繰り出してきた。シラギは余裕で受け止める。
「脇がまだ甘い。足さばきも軽い!」
幾度も剣のぶつかりあう金属音が木霊する。
それを東宮の宮の窓から見ているものたちがいた。
リウヒの女官三人である。
「トモキさん、こうみるとかっこ良くなったわねぇ」
「えー、まだまだ子供よ」
「あたしはシラギさまの方がいい」
思い思いに勝手なことを言い合っている。
そこへ。
「何を見ているんだ」
リウヒが顔をのぞかせた。
あら、殿下。と一人が声を上げた。
「だめですよー、殿下はお勉強の時間じゃないですか」
「いいじゃないか、減るもんでもないし」
そういう問題じゃないんですよ、と三人がキャアキャア言っているとカガミもやってきた。
「殿下、ぼくの講義がそんなに…あ、トモキくんだ」
青年と少年は、青空の下激しく打ち合う。
娘四人とオヤジ一人が、団子になって見学しているとは気が付かずに。
****
気が付いていないのかしら、全く。
朝日を浴びながら、マイムは疲れた体を引きずりつつも、北寮へ帰る途中だった。
昨夜の宴は、もう醜悪を通り越して、滑稽だった。
今や、ショウギの独り舞台である。王族など国王しかいない。しかし王も年だ、力尽きて毎回脇息にもたれて居眠りをしている。その横で、ショウギは人目も憚らず若い男といちゃついているのだ。銀髪の美しい男だった。
そこまで調子に乗っておいて、いざ後ろ盾をうしなったらどうなるのか、気が付いていないのだろうか。それとも分かった上で、不安を紛らわす為にはしゃいでいるのだろうか。どうでもいい、あたしには関係ない。
後ろで後輩たちがさえずっている声がする。更に疲れが増した気がした。
何故、この子たちは注意しても注意しても聞いてくれないのだろう。どれだけ言わせれば気がすむのか。ああ、それすらもどうでもいい。面倒くさい。
後輩たちに先に行かせ、一人庭石に座って空を仰ぐ。透き通るような青空、天高く舞う鳥。緩やかに吹く風が心地よい。
ふと辺りを見渡した。東宮の小庭園。
かつて、ここで小さな王女にであった。どれくらい前になるのだろう。
「あの」
背後から声をかけられて、驚いた。完全に無防備な状態だったのである。
「御気分が悪いなら、お水をお持ちしましょうか」
「いいえ、そういう訳ではないから大丈夫。ありがとう」
答えながら振り向くと、少年が一人立っていた。
明るい茶色の髪の毛と、こげ茶の目が可愛らしい。
こんなに朝早くから、何をしているのだろう。もしかして。
「迷子…じゃあないよね?」
「違いますよ」
少年は心外だというように、目を見開いた。
「どこから来たの」
しなやかな手が東宮を指差した。聞けば王女の教育係をしているという。王女は、人前に姿を現したことがない。マイムもあの時見たきりだ。
「王女さまは、お元気?」
「ご存知なんですか?」
驚いた顔で聞いてくる。
「昔、ここで」
地を指差す。
「寝ていらっしゃったわ」
くすりと笑う声が聞こえた。
「王女は、めいっぱい元気です」
少年はクスクス笑いながら答える。
「元気すぎて、困っています」
マイムも笑った。
いい気分だ。計算だの、相手に何を言わせるだの媚を売ることを考えずに、ただ会話をしている。偽の笑顔を常に貼り付ける日々に、もしかしたら心が擦れていたのかもしれない。
何も考えずに、話し笑うことがこんなに楽しいなんて。
「あなたの名前は、なんていうの?」
「トモキです」
心臓が跳ねた。弟と同じ名前だった。
「マイムよ」
手を差し出す。何も考えずに、ただ手を差し出す。
トモキがその手を握った。温かくて、さらりと乾いた手だった。
****
トモキの手がリウヒの襟首を掴んでいる。そのまま引きずられるようにして王女は歩いていた。後ろ向きに。
「なあ、わたしは王女だぞ」
「存じ上げております」
トモキは一瞥もくれずに答えた。
「しかるべき態度があると思うんだが」
「ならば王女らしく、慎ましくなさいませ」
ふんっとリウヒは鼻をならした。
まったくもって慎ましくない。
襟を掴む手を緩めず、トモキは黙々と歩く。
四年前に比べ、王女は格段に成長した。箸をつかって食事をする。癇癪を起こすこともない。会話をするようになった。顔色も明るくなったし、目の隈も消えた。何といっても笑うようになった。
すべて当たり前のことだが、以前とは想像できないほど前進した。
トモキも、昔のようにつきっきりでいる必要はなくなったので、一人図書部屋にこもったり、シラギの仕事を手伝ったりした。
ただ、多少ぶっきらぼうに育ったこと、未だ触れられるのは嫌がること。そして脱走癖は残った。
思い出したように逃げる。トモキがいる時に限って。
今日も、ジュズの講義の前に逃げた。慣れているもので、すぐに追いかける。
王女の捕獲率は九割五分。殆どの割合で成功している。なんせ、トモキの頭の中には、宮廷の地図が叩きこまれているのである。散歩と称して、色んなところに出かける。国王がいる本殿や、ショウギの住んでいる南宮は基本的に立入禁止だが、最近の警備が緩いこともあり、平気で歩き回った。堂々としていれば怪しまれないのだ。事実この四年で、宮廷生活に完全に馴染んでいた。
所々に配置されている警備の者はおろか、門番とまで顔見知りになった。彼らは基本的に兵士であり、それを総ているのは右将軍であるシラギである。無愛想なシラギも面倒見は良いらしく、二人の副将軍を始め兵士たちに壮絶な人気があった。中には信者らしき男までいる。シラギに剣の稽古をつけてもらっているトモキを、みな一様にうらやましがった。
知り合いが増えると、情報も集まってくる。
東宮におけるリウヒとトモキの追いかけっこは、名物となっていると聞いて驚いた。
話題を提供しているわけではないのに。
だが、笑いを元となろうとも王女が逃げたら捕まえるしかない。
体に触るのを嫌がるので、毎回、仕方なしに襟首を掴む。ゆえに王女は、猫のように引きずられるか、後ろ向きに引きずられるか。
どちらにしても、間抜けな恰好である。これも笑われる一因なんだろうな。ため息をついて顔をあげると、タイキとカガミが向かいから歩いてきた。
リウヒが目ざとく発見してもがく。教師たちはこちらに気づき、ほほ笑んだ。
「タイキ、カガミ、見てないで助けてくれ」
リウヒは、ここの教師たちに愛されている。その事を本人も知っている。哀願するように暴れた。しかし。
「いやぁ申し訳ありません。本日、わたくしめっきり目の調子が悪うございまして…」
何も見えません、と老人は目を瞬かせた。
「ぼくも、耳の聞こえがどうも悪く…」
何も聞こえません。横でオヤジも耳をほじくる。
韜晦する二人にトモキは黙礼すると、再び王女を引きずって歩きだした。
「タイキ、カガミ、おぼえてろー」
とリウヒの悲痛な叫びが廊下に木霊した。
Tweet |
|
|
1
|
0
|
追加するフォルダを選択
ティエンランシリーズ第一巻。
過酷な運命を背負った王女リウヒが王座に上るまでの物語。
「王女はめいっぱい元気です。元気すぎて困っています」
続きを表示