きらきらひかる
目の前に広がるエメラルドグリーンが、随分貴重な光景であると知ったのはこの島を出てからだった。
いや、それは正確ではないかもしれない。貴重であることは知っていた。ただ、その事実を身をもって実感したのは、間違いなく島を出てからに違いなかった。
随分長い事波に乗っていた。心地よいくらいの疲労を感じたところで海から上がって、こうして砂浜に座り込んでいる。
暑くはない。日は陰りはじめているし、そもそも今は夏ではない。程よくあたたまった砂の上は、ウエットスーツ越しにも丁度いいくらいだ。
「あ、」
ざばん、と水面に人影が現れた。
「流くん」
「おお悪いな!」
さっきまで散々、それこそ獲物を見つけた鮫のような勢いで泳ぎ回っていた流くんは、ざんざんと裸足のまま砂の上を歩いてきた。白い砂が足元で跳ねて、傾き始めた太陽に照らされてきらきらと輝く。そういうきらきらしたエフェクトでもかかってるみたいだ、というのは言い過ぎだろうか。
手渡した清潔なタオルでがしがしと顔を拭って、俺の隣にべたりと座り込んだ。まだ水滴の乗ったままの肩が、呼吸に合わせて上下する。
「すんごい勢いだったね」
「人に当たる心配もしなくていいしな!」
「また世界記録更新できるんじゃない?」
「そう上手くいくかは分かんねぇが、やるだけのことはやるさ」
うん、とひとりで納得するように頷いた流くんの横顔は、言葉とは裏腹に自信に満ち溢れていた。そういう所がいいなあ、と思う。奢るわけじゃなく、ただ当たり前のように自分のことを信じている、そういう自信だ。
「帰らないのか?」
「ん?ああ、流くん泳いでるところ見てたら帰りそびれちゃって」
「なんだそりゃ」
「あはは、あとほら、やっぱり海の近くって落ち着くしさ」
海欠乏症、なんて冗談みたいな名前で呼ばれる俺の体質も、ここまで海に近い距離にいれば発症することもない。そもそもそんな体質が無くたって、海そのものが好きなのだ。一等いい席で、きれいな海と世界一の水泳選手の美しい泳ぎを眺めているのだから、時間を忘れてしまうのも仕方のない話だ。
「流くんはもうひと泳ぎ?」
「そうしたいところだが、荷造りしねえとな」
「今度はどこだっけ」
「オーストラリア」
「オーストラリア……」
オウム返しに繰り返して、どんな国だったかを思い出す。沖縄が少し気温が下がり始めたくらいだから、あちらは少し暑くなるころだろうか。
「あっちも海がきれいだぞ!」
「でも流くん、泳ぐのプールでしょ?」
「そうなんだよなあ」
心底残念そうに唇を尖らせる流くんは、そうしていると少しだけ幼くもみえる。少しばかり抜けているところはあるけれど、基本的には良き兄貴分だ。大して年の違わない成人した男相手に幼いも何もないとは思うけれど、そういう仕草を見つけるたびに、そういえば年下なのだということが思い出される。
「真那人はどうする?」
「俺も帰るよ。そろそろ夕飯作り始めたいしね」
「そうか」
二人して立ち上がって、濡れた水着に張り付いた砂を払う。どうせ後で砂は流してしまうし、シャークハウスは目と鼻の先だ。乾いたタオルを肩に引っ掛けて、荷物を纏める。
「お、真那人」
「ん?……ああ」
いいね、と呟いた声に、流くんは無言でうなずいた。本当に随分長い事海を見ていたらしい。橙色の太陽が、海の向こうに姿を隠し始めていた。
毎日のように見ている光景だ。飽きることはない。綺麗なものは、いつ見たって綺麗だ。
「流く、」
いつまでもここにいては、流石に風邪をひいてしまうかもしれない。ふと頬を掠めた風の冷たさに流くんの方を向いて、思わず息をのんだ。
夕焼けの光の中に、流くんのエメラルドグリーンがきらきらと輝いている。それはまるきり、今の海と同じ色をしていた。
「ん?どうした」
「あー……ううん、なんでもない。風邪ひいちゃうといけないから、そろそろ戻ろう」
「そうだな!」
にか、と笑って目を細めて、それから流くんはずんずんとシャークハウスに向かって歩き出した。つられて俺も、少し後ろを着いていく。
「今度海欠乏症になったら流くんの目見ようかな」
「わんの目ぇ?」
「うん」
「なんでまた」
「うーん、」
秘密かな、と答えた俺の顔を不満げな視線が刺す。それに気が付かないふりをして、歩みを速めて流くんを追い越した。
半歩分先を歩いて、未だに感じる強い視線。それはきっときれいな海の色をしているに違いない。
わたしのかみさま
ざんざんと降る雨はいつだって信乃の行動を阻害する。頭は痛むし、動こうという気力を根こそぎ奪っていくのだ。磨りガラスの窓の向こう側はいつもより白く煙っていて、雨樋から溢れた水がどぼりと溢れる音が雨音に混じって聞こえて来る。
いつもならとうに起き出している時間だった。信乃は、料理こそできないが食器を並べたり茶を注いだりは出来る。それなのに今日は殊更症状がひどく、体を起こそうとするたびに鈍く痛む頭のせいで、未だに毛布にくるまってこうして布団の上でぼんやりと雨音に耳を澄ませている。
こつ、と控えめなノックの音が自室に響いた。
「とうりょう、」
目を覚ましてからまだ一度も震わせていない声帯から出した音は、随分と情けなく掠れていた。頼りない、小さな子供のような声だ。
遠慮がちに開いた扉からコウが心配そうに顔をのぞかせた。はいるよ、と声をかけて、そのまま真っ直ぐ信乃の横たわるベッドへと歩いてくる。信乃が日頃から綺麗だと褒め称えてやまない顔は心配げに曇っていて、そのことがひどく申し訳ないように思えた。
「すまね、っ」
「ああ、無理はしなくていい。痛み止めは?」
「まだ飲めてねえんだ」
慌てて体を起こそうとした信乃を制して、コウがベッドのふちに腰かけた。
信乃の自室には、こういう時のためにと弱い痛み止めが常備されている。けれど、弱くても痛み止めだ。空腹時に飲むのは現在の保護者であるコウから禁止されているし、そもそも今日は体を動かすのすら億劫だったから、薬を取り出すところまでたどり着いてすらいなかった。
「なにか食べれそうか?」
額にかかった髪を除ける指先の感触に、思わずほうと息を吐き出した。優しい、やわらかい触れ方だ。
きっと信乃が食欲があると言えば、すぐにでも出せるよう食事が準備されているのだろう。コウの性格を考えれば、それは当然の想像だった。
「……悪ぃ頭領。ちょっと、食欲が」
「気にするな」
自分のために用意されたであろう食事を断るのが心底から申し訳なくて、けれどそういうふうに考えてしまう信乃の思考を先回りしたように苦笑交じりに頭を撫でられた。平素から、福岡支部の幹部として子ども扱いされることの少ない信乃にとっては、いっそ珍しいほどに甘やかされている。
「眠れるなら眠ってしまうといい」
「けどよ、頭領」
「昨日から眠れてないんだろう?」
「……バレバレだなあ」
昨晩から延々と降り続く雨のおかげで痛みはひどくなる一方だった。眠りの浅かったことまですっかりと見透かされてしまっていては、もうベッドに横たわっている以外の選択肢はなかった。
諦めたように深く息を吐いて毛布をかけ直した信乃に、コウの口元が安心したように緩んだ。いつもは年下の信乃に対しても一人の人間として対等に接することの多いコウに、こうして幼い子供にするような態度をとられてしまうと、信乃はどうしていいのか分からなくなる。
嬉しくないわけではない。ごくまれに出てくるだけのちょっとした甘やかしに、矜持を傷つけられることもない。ただじりじりと、胸の内側をくすぐられているようなむず痒い思いがあるだけだ。
コウの手のひらが、寝かしつけるように柔らかく、けれど随分たどたどしいテンポで信乃の肩あたりを叩く。
いつの間にか落ちてしまったまぶたを持ち上げることはしなかった。頭の痛みは消えたわけではないけれど、ひとりで毛布にくるまっていた時よりも、今の方が余程軽い。
「食事は信乃が起きたらにしよう」
半分眠ったような頭で、信乃はなんとか首を縦に振った。あたたかな人の気配と、窓の外で鳴りやまない雨の音がどんどんと遠ざかっていく。おやすみ、と呟くように落とされた声に、返事ができたかどうかはもう分からなかった。
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※2019/12/3にPixivへ投稿した作品をTINAMIへ移行したものです
CPなし短編ふたつ
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