昨夜の逢瀬の痕が鎖骨の下で小さな花を咲かせている。それにも気付かず彼はトーストを齧りながらとある公園でちょうど秋桜が見頃なのだと言った。行くも行かぬも態々問うこともせずに朝食を終えて猫に束の間の留守を言いつけると、ただ支度を整え彼を連れ立ち郊外へ向かう電車に乗った。
窓の外に馬が見えたのだと、さして興味もない中吊り広告を眺めていた此方に言う。外を覗いた時には既に車窓は色の無い住宅街だけを切り取っていたから、彼は本当にあっちにいたんですと、通り過ぎた方を指差しては自分を信用してくれない大人を睨む子供の視線をくれた。
休日の公園は良く晴れた小春日和とあって程よく人々が集う場となっている。街の喧騒は煩わしいと思う癖に、周囲が牧歌的な趣を持つと人々の声も最早風の音に同じと思えた。そもそも、今自分の耳には目の前で屈託なく笑う彼の声しか聞こえていないのかもしれない。
「すげー……」
案内板の通りに進み、突如目の前に広がった秋桜畑は秋空の薄い青色と対を成していた。まるで彼の感嘆の声を聴いて喜んでいるかのように風に凪がれた花が一斉に揺れる。ふたりの前に現れた桃色の海原は何処か現実離れしていて、例えば電車で彼が言った〝幻想の馬〟すら其処に潜んでいるのではないかと莫迦げたことを考えた。
秋風が彼の健やかな体温を奪っていくのが口惜しく、咄嗟に彼の左手を掴んだ。彼は驚いて此方を向き照れくさそうに手指を絡めて繋ぎ直すと、頬を秋桜色へ染めてはにかんだ。ああ、これは此方が背負った罪の証なのだな、と、その手を捧げ持ち唇を落とす。いよいよ小さな悲鳴を漏らした彼に意地悪く口角を上げたなら、その顔は最早紅葉のように上気していた。今まさに彼の心臓は早鐘を打ち、隅々にまで熱い血潮を巡らせていることだろう。それが堪らなく切なくなって、そのまま彼を抱き締めた。
……己が身を蝕むものを解っていて尚、この無垢へと触れることは罪ではないだろうか。
何度も自問自答しては、結局無様な私欲のままに彼を掻き抱いてしまう。彼はそれでも好きなのだと身体を預けて口づけをくれるから、これが結ばれた愛であるのか交わらぬ恋のままなのか、独占欲か庇護欲か、緩やかな破滅願望であるのかすらも解らずに寄り添って、夜毎に増える罪の数だけ彼の身体に赤黒い花が咲いた。
「八神さん、おれ、八神さんとここに来れて良かったです」
肩口に熱い吐息を沁み込ませたあとで頬擦りをする。抱き寄せたことを後悔はしていない、だが、彼を身勝手な腕の中に捕らえ続けることでことで彼の心に陰が出来ることは酷く惨たらしい光景だと思える。しかし何処までも勝手な此方をせせら笑う彼は陰など落ちようもない純真な光であり、此方と呼吸を合わせるように深呼吸をしてはそっと背へ腕を回した。
「来年も、見に来ましょう、一緒に」
「……それは」
「おれが連れて行きます、絶対です」
ジャケットを掴む手が少し震えていることに気付く。寒い訳では無いだろうと不安になって彼の名前を呼ぼうとした。しかしそれよりも先に、彼が「好きです、おれ、八神さんが大好きです」などと宣うものだから、秋風の凪いだ隙間に彼の耳元で「ならば、次は貴様が視た馬でも探しに行くか」と囁いて秋桜色の頬へ口付けた。
黄昏に何処か似ている秋の気配の中でも、陽だまりのような存在が変わらず傍にあるのなら、残された時間の合間に紡がれた罪の糸を織るのも良いだろう。そして彼には、それを罪とも思わず微笑んでいて欲しい。全てが終わった後で幻想だったのだと気付いたら、その時は此方が残した花をなぞって嗤ってもくれないか。
「真吾」
「はいっ」
帰り際、秋桜畑を名残惜しそうに写真に収めている彼に手を差し出す。迷うことなく重ねられた掌は、今はまだ遠い春より温かだった。
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G庵真、昨年11月のイベント合わせで公開したネットプリント用掌編の再録です。季節外れですみません。
ふたりでコスモス畑を見に行く(八神さんだけが一方的に)暗い話です。