No.107484

熾火

病院の一室での会話。色々と話したいことはあるんですが、自分の楽しみが無くなるので自重。掌編。

2009-11-17 00:54:16 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:798   閲覧ユーザー数:794

=熾火=

 

 病院というやつは、どうにも苦手だ。口の中で独りごちる。

 

 空間一杯に満たされた消毒臭い空気は、そのくせピクリとも動こうとしない。

 

 いかにも清潔だと誇示せんばかりの、白々しい照明の明るさや、塵一つ無い床や、

真っ白い壁も気に入らない。衛生第一の場であることは重々承知しているが、

こうも手入れされすぎていると、逆に嘘臭くすら思えてくる。

 

 要するに、繕っているように見えるから苦手なんだろう。本当は違うかもしれないのに、

あるいは本来のままでも十分なのに、なお、虚飾を重ねようとする。女の厚化粧でもある

まいに、これ以上どうしようというのか。

 

 それに煙草も吸えないしな、と、彼はひょいと肩を竦めた。なんだかんだ理屈をつけて

いるが、もしかしたら、これが病院嫌いの一番の理由かもしれない。

 

 そうこうしているうちに、目当ての部屋の前へと辿り着く。掛けられた名前を確認する

ことも、ノックすらもせず、彼は眼前の扉を開けた。

 

 

 部屋は個室だった。白を基調とした室内はそこそこ広く、そしてやはり清潔そのもので

あり――ひどく殺風景でもあった。

 

 奥には鍵のかかった窓。手前には洗面台。布張りの衝立のようなもので簡単に区切られた

その向こう、部屋のほぼ中央の壁際に沿ってベッドがある。誰かが身を起こしているのか。

衝立には、うっすらと影が映りこんでいた。

 

 彼は躊躇うことなく部屋に足を踏み入れると、まっすぐベッドへ向かった。そしていささか

乱暴とも言える手つきで衝立を退けると、ベッドの上に身を起こしていた人物に向かって、

にやりと笑いかけた。

 

「――よう」

 

 彼の視線の先にいたのは、青年だった。20代後半くらいなのだろうか。切れ長の涼しげな

目元が印象的な、なかなかの美男子だ。颯爽と外を歩けば、さぞ女たちの関心を引くこと

だろう。

 

 だが今、その姿は精彩に欠けていた。俯き気味の表情は虚ろですらあり、印象深い目にも

力はなく、ただぼんやりと中空を眺めている。全身の生気が失われている。そんな

印象すらある。少し痩せたのだろうか。頬の辺りの肉も落ちたように思う。それは彼が知る

青年の姿とは、あまりにもかけ離れたものだった。

 

(……やれやれ)

 

 彼は軽く眉を動かして項を掻くと、側にあった丸椅子を引っぱってきて、ベッドの側に

座り込んだ。予想はしていたし、人伝(ひとづて)に様子を聞いてはいたものの、実際

目の前にしてみると、やはり少々心動かされるものはある。そこにかかずらうかどうかは、

また別の次元の問題ではあるが。

 

「――余計な挨拶は腐るほど聞いてるだろうから、省くぞ。裏で指示したのはやっぱり

上の奴らだ。間違いない」

 

 彼はそこでちょっと言葉を区切り、青年の反応を見る。だが、青年は微動だにしなかった。

表情もよく分からない。おそらく特に変わってはいないだろう。無反応な青年に構わず続ける。

 

「揉み消しやすいと思ったんだろうが、それが仇になったな。ちょいと別の側面から叩いて

みたら、埃が出やがる出やがる。――よっぽど目の敵にされたな、お前」

 

 最後の一言に軽い冷やかしを入れて――どんなに真剣な場面でも、こうしないといられ

ないのという悪癖なのであるが――、彼は羽織っていたコートのポケットから紙巻煙草を

取り出した。無造作に口に銜え、火を点ける。深く紫煙を吸い込み、吐き出したところで、

改めて青年を見た。

 

「――で?お前はどうするつもりなんだ?」

 

 束の間、沈黙が漂う。室内をゆっくりと紫煙が流れては消えていく様子を、どれだけ

眺めていたか。

 

 煙草を吸い終わる頃、不意に青年はゆっくりと顔を上げた。もはや先刻までの虚ろな

表情は、無い。あえて例えるなら能面のような、だが能面と呼ぶには、その瞳から放た

れる光はあまりにも峻厳過ぎる。

 

「…………潰します。徹底的に」

 

 かつてないほど静かで、それゆえに苛烈さを秘めた、奇妙なまでに澄んだ声音。青年を

幼い頃から知る彼でさえも、これまで聞いたことはない。

 

 ――ぞくり、とした。

 

 青年が放つ、異様なまでに鋭い眼光に。

 

 その声音の奥に潜む、激しくも冷酷な響きに。

 

 軍部に属する大抵の者より遥かに多くの修羅場を潜って来たと自負する彼でさえも、背に

震えが走るのを抑えられなかった。

 

 息が詰まるような威圧感を受け止め、彼はしかし唇を曲げて――哂っていた。

 

(…とうとう、熾りやがったな)

 

 この熾火が、そう遠くない未来に、全てを焼き尽くさんばかりの燎原の火となることは

明らかだった。

 

 ――連中は必ず後悔するだろう。眠っていた猛虎を叩き起こしたのだから。それも、

“虎”が最も忌み嫌うやり方で。

 

(面白くなりそうだ)

 

 掌に冷たい汗を感じながら、彼は青年を――目覚めたばかりの、最も危険な獣を見つめて

いた。


 
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