指呼の間(しこのかん)に大蝙蝠が迫るが、全力の攻撃を回避された事で崩れた戦乙女の態勢はまだ戻り切っていない。
避けるか、迎え撃つか。
考えている時間は無い。
今からでは完全な回避は不可能ではあるが、直撃は何とか避けられる、被害は多少減らせるだろう。
だが、それは結局、大怪我を負っての、この戦いからの離脱を意味する。
それは、選びたくない。
そう思った時、戦乙女の口元に微かな笑みが浮かんだ。
(これは、帰ったら召喚師殿に怒られますね)
「危ないと思ったら逃げてくれ、誰に義理立てする必要もねぇ、お前さんたちにゃそれぞれの生が有るんだからよ」
いつでも彼は、あの庭に集った式姫にそう言ってきた、仲間になった折に、戦乙女もそう言われた。
それは決してお為ごかしでは無い、彼の本心からの言葉だと、皆知っている。
逃げようが、戦いを止めようが、彼の自分達への態度は、僅かの変化も無いだろう。
だけど多分、これは庭に集った式姫達が唯一従わない、彼の命令。
……それは私も。
戦乙女は不完全な態勢ながら槍を握る手に力を籠めた。
この難敵、何れ自分達の敵になる相手と見て間違いない。
ここで止める。
あの勢いで当たられれば自分は無事では済むまいが、待ち望んだ正面から奴を捉える好機でもある。
相手の勢いを利用し、頭蓋をこの槍で刺し貫く。
神火を宿したこの槍を奴の体内に打ち込めば、その部分だけでも、奴の再生能力を阻める筈……まして、それが頭蓋ならば、いかに奴でも、瞬時の再生は適うまい。
(軍師殿、後は頼みます)
槍を大蝙蝠に擬す。
その時、戦乙女の意図を読み切ったかのように、大蝙蝠は、さながら猛禽が獲物を捉える時のように体をのけ反らせ、その足を彼女に向けて突き出した。
「しまった!」
「貴女を侮ってはいない」
闇の中、そう呟いた真祖の薄紅の唇が、僅かに口角を上げる。
先ほどまでの戦振りを見れば判る、絶体絶命の時、彼女がその短時間で、どう判断し、どう振舞うか。
この状況下ならば、彼女に逃走は無い。
そう判断した自分の目は確かだった。
「落ちなさい」
その誇り高い純白の翼を、異国の地に散らせ!
力強い足が蹴りつけて来る、それに対して、足一本でもと、槍を繰り出そうとした、その戦乙女の髪が、思わぬ方向から吹いた風に激しく揺れた。
(これは)
「力を抜いて翼を拡げろ!」
その声に応え、翼を拡げた戦乙女が、風の吹いて来た方に顔を向けた。
風の向こうにちらと見えたのは、頼もしい味方の姿。
「旋風(つむじ)!」
涼やかだが刃の鋭さを秘めた声と共に、時ならぬ大風が戦乙女と大蝙蝠の巨体を叩く。
颶風以上の激しい風に戦乙女の翼が軋む、だがその強靭な翼は折れる事無くその風を一杯に孕み、彼女の体を迫る巨体の前から吹き飛ばした。
戦乙女を捉え損ねた大蝙蝠の足が空を切る。
突進の勢いのままにかなりの距離を移動してから、大蝙蝠は姿勢を立て直し、時ならぬ大風の発生源に忌々し気に目を向けた。
「全く妙な日だ、一日に二度も仲間を吹き飛ばす羽目になるとはね」
鞍馬は微苦笑を浮かべながら、その大蝙蝠の眼光を受け止めた。
「次は君を、と行きたい所だが、吹き飛ばすには私の風でも些か巨大すぎるか」
それとも、その立派な翼に乗って、大凧よろしく天まで上がるか。
そう呟きながら、すっと、大蝙蝠にその力の象徴たる羽団扇を向ける。
「一つ、試してみるかね」
姿勢を立て直した闇風の目と感覚を通し、新たな強敵と、かなりの距離をあの大風に吹き飛ばされた物の、戦乙女もまた健在で、こちらに向かっている事を見てとり、真祖は低く唸った。
「……思ったより早かったね」
できたら片方を排除してからお相手したかったよ、天狗。
こうなっては、式姫の排除は諦めざるを得ない。
正直、闇風を逃がしてしまいたい所ではあるが、棺の回収部隊に開始指示を出してしまった以上、せめてそれまでは奴らはここで足止めせねばならない。
一つため息を吐いてから、真祖は、溢れそうになる殺気を抑えるように目を閉ざした。
「こう次々と手の内を明かす羽目になるなんて」
これだから、強敵の相手は嫌なのよ。
「……む?」
相手の出方を見定めんと目を凝らしていた鞍馬が、今見た物を信じかねる様子で目を数度しばたたかせた。
大蝙蝠の漆黒の巨体、その輪郭がぼやけて見えた。
錯覚か、そう思い目を凝らした鞍馬は、その鋭い目が捉えた光景に、思わず呻いた。
今まで月光を遮っていた体が、さながら薄絹の帳の如く、淡く光を透かしていた。
鞍馬の慎重さが、この際は仇になったか、手を出す機を喪い奴を睨む視線の先で、月光の中に、その巨体が溶けて消えるかのように、徐々にその形が薄れ、代わりに月に掛かる雲のように広くたなびきだす。
「まさか、霧怪(むかい)なのか」
霧や霞そのもの、もしくはそれらを自在に操る妖怪は珍しい存在では無い。
煙々羅、オンボノヤス、大滝丸、船幽霊、井戸の妖。
少し記憶の中で指を繰るだけでも、そういう妖怪、鬼神の類はいくらも数え上げる事が出来る、ありふれたというと語弊があるが、珍しい存在では無い。
だが、あれだけの実体を伴っていた奴が、その身を霧に変じられるなど、聞いた事も……。
妾達の真なる力を解放すれば……。
その信じがたい光景を目の当たりにした時、鞍馬の脳裏に甦る言葉があった。
そうだ、私はこんな存在に関して聞いた事がある。
「軍師殿!」
戦乙女の鋭い声が響く。
夜の中、更に暗い靄が鞍馬を押し包むかのように動き出す。
「霧を払うは風」
彼女が右手にした、強大な力秘める羽団扇が、鋭い音を上げながら夜空を切る。
解き放たれた風の槌が、迫る黒い靄を一息に吹き散らす。
「流石です」
戦乙女が感嘆の息をつこうとする、だがその息が、眼前にした光景に飲まれる。
遠く吹き払われた靄とも霧ともつかないそれが、飛び散った先で無数の小さな塊になっていく。
小さな翼が無数に空を叩く不気味な羽音や、それが立てるキーキーと甲高い声が、幾百幾千と重なっていき、夜空を覆う。
この身を霧と変じ、眷属たる獣の姿を取る事も自在。
……やはり、そうなのか。
鞍馬が、こちらに殺到する蝙蝠の群れを睨み、羽団扇を握る手に力を込める。
かつて彼女から聞いたあの話が真実ならば。
「軍師殿!」
鞍馬の傍らに、戦乙女が飛来する、それに目をやりながら、鞍馬は珍しく余裕の感じられない声を上げた。
「戦乙女、気を付けろ……」
蝙蝠の群が拡がり、二人を押し包むように飛来してくる、戦乙女は、鞍馬の背を護るように背中合わせになり、緊張はしているが低く落ち着いた声を返した。
「霧と実体とにここまで自在に変化する相手は、私には覚えがありません、軍師殿はご存知か?!」
「ああ、遺憾ながらね」
苦々し気に、鞍馬は低く呻くような声を続けた。
「……それはどういう?」
「私達の敵は、どらきゅり……」
「何ですって?!」
鞍馬の言葉と、その言葉に驚いて返した戦乙女の声が、耳を聾する無数の羽音の中に呑まれた。
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式姫の庭の二次創作小説になります。
「唐柿に付いた虫」でタグ付けしておりますので、過去作に関してはそちらからご覧下さい。