No.105139

神魔伝承 ~序章・第一話~

神崎羽鳥さん

サイトの方で執筆し始めました。駄文ですが…ぼちぼち更新していきたいなと思っております。

世界設定は江戸時代をモチーフにしたものです。
江戸時代の日本…ではなく、日の国という名の世界です。

2009-11-04 04:31:47 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:500   閲覧ユーザー数:498

【序章】

 

 

 それは、冷たい霧の夜。

 雨が降った後であった。夜の暗闇の中を不気味に白い靄が漂っている。夜空には黒く淀んだ色の雲、そしてそれに殆ど隠されながらも、顔を見せる美しい白い月があった。

 霧の中、月の光が神秘的に照らす…その中を。彼は歩いていた。只静かに。

 木々が生い茂り、草花はその冷たい空気の中静かに佇んでいる。夜闇の中を眠っているように。だが、彼が一歩地を踏みしめれば、カサリとその足元の草が鳴き声を上げた。其処だけ、時間が流れるかの様に。

 白い長い髪が風に揺れ、深い翠の瞳が真っ直ぐ虚空を見つめていた。やがて、ゆっくりと口を開けば、凛とした声がその空間を泳いでゆく。

「彼を見つけた」

 誰にともなく、いや…それは男の肩の上に寄り添う様にいた。身体は半透明で、薄い衣に身を包んでいる。まるでそれは、幻の様。それは…彼女は、彼の言葉に耳を傾けながら、無言で微笑む。

「永く、探し続けた…。僕らの道を示す者、僕らの道を照らす者」

 彼女へ、指を伸ばす。彼女に触れることは敵わなかった。肌に指先が当たった瞬間、その指先は肌をいとも簡単に貫いた。彼女の姿を、形を掻き消すことも無く。通り抜けたのだ。

「ああ、これが終われば…僕が僕の役目を終わらせたならば。僕は、お前にまた会えるだろうか。お前に触れることが出来るだろうか。人として、僕は…お前に…」

 言葉が途切れた。瞳を閉じた男のその表情は、とても哀しく、切ないものだった。彼女は男の頬に自分の頬を摺り寄せた。触れることはけして無い。けれども、愛おしそうに彼女は彼に身を寄せる。…その優しい愛撫に、彼は微笑んだ。そして。

 

「行こう」

 

 ゆっくりと目を開け、静かにそう告げる。何処へ、とは言わない。だが、彼は、確かな足取りで、霧の中を進んで行った。

 

 

【邂逅】

 

 

 周囲をぐるりと木々に囲まれ、鳥たちの囀りと川のせせらぎが交わる其処に、その邸はあった。こじんまりとしたが、小汚くない。堂々としているが、質素なその造りの邸には、立派な中庭まで備わっている。木々の間からの木漏れ日が、ちかちかとその庭に降り注いでいる。此処、西山荘は俗世から離れた様にひっそりと建っていた。まるで、幻の地・桃源郷を彷彿させるかの如く。

 そんなこの邸には、嘗て諸国を渡り歩いた大層有名な御人とその家族が住まうという。

 ある日、何時もの何気ない日。西山荘から、外へ聴こえる程の絶叫がこだました。

 

「光矢ぁぁぁ――――――――――――!!!!!」

 

 鳥たちが驚き、羽をばたつかせ周囲の木から飛び立ってゆく程…その声は周辺を揺るがした。その声の持ち主が、尚も怒りの声を上げる。

「今日という今日こそ!貴様の腐った根性叩き折ってくれるわぁぁぁ!!」

 叩き直す、の間違い。いや、あえてそう言っているのかもしれないが。どたどたと廊下を歩くその人は、しきりに邸中を探し回っていた。すっかり白髪だらけの髷頭、白髪と同じ色に染まっている口髭と顎髭。額、目尻、鼻から口端に掛けて…それぞれ深く皺が刻まれている。

 

 鬼の様な形相のこの御方、名は徳川光圀。何を隠そう、かの諸国漫遊で有名な水戸の黄門様そのお人である。現役時代はそのしっかりした足腰で以って様々な地方を周り、時には悪事を働く輩を懲らしめ、多くの人助けを行ってきた人である。

 現在は諸国漫遊から引退し、本当の意味でご隠居となったのだが。体力は衰えたわけでもなさそうである。

 

 ちなみに、ご隠居が先ほど叫んだ名は、実の孫のものだ。

 

「この儂の!光圀様の命の次に大事な盆栽を破壊した罪!逃げられると思うなぁぁぁ!!!!」

 その言葉がすべてを物語っているという事は間違いない。

 そして。

 あまり広くはないその邸の中で、犯人が見つかるのはそう時間は掛からなかった。隠れられる場所を洗いざらい探した後、畳を引っぺがし、屋根裏まで覗き込み、そうしてやがて中庭の茂みの中に隠れていた孫の首根を掴んだ所で捜索劇は終了した。

 

 

「…ぅう~……ぃってぇ~~~………」

 彼の脳天には、その空色の髪を掻き分けて大きなタンコブが出来上がっていた。出来たてらしく、そのタンコブからは少し湯気が上がっている。先程捕まった後、祖父から長い説教と力強い拳骨を食らったのだった。痛そうにタンコブを擦るが、触れるだけで激痛が走る。

 説教と折檻から解放され、光矢は自分の部屋に戻り、頭の痛みと格闘していた。

「あんなに怒らなくても良いじゃないかよ~」

「毎度同じことをされて、懲りないですねぇ若も」

 背後から聴こえてきた声に、少しムッとなりながらも振り返る。見れば、若い青年二人が、襖を開けた向こう側に立っていた。一人は面白そうに笑っており、もう一人は呆れた様な顔をしている。

「助南、格楽。なんだ来てたのか」

「来てたどころの話じゃありませんけど」

「若が説教を受けている間、我々は待っていたのですよ」

 助南と呼ばれたのは黒い長髪を一つにまとめた中性的な顔の青年…面白がっている方だ。そして、格楽と呼ばれたのが呆れ顔の青年。その格楽が、持っていた書物の塔を光矢の部屋の机にどすんと置いた。その瞬間、光矢はウェェと声を漏らす。

「ちょっと!昨日よりも増えてる!!」

「御老公の命令で、いつもの3倍です」

 笑顔でそう告げる助南の言葉に、光矢はぐったりと頭を垂れた。格楽が持ってきたのは、要するに勉強で使う為の参考書や問題集である。

「さぁ、筆取って!今日は32項目から!!」

「い~~~や~~~だ~~~~~!!!!」

「自業自得ってこういう事ですよねぇ」

 からからと助南が笑って言う。

 これが何気ない、日常。光矢の悪戯から一日が始まり、光圀に怒られ、助南と格楽に挟まれて勉強に追い込まれ。

 そう、いつもと変わらない日。の、筈だった。

 

 

「また御父上に怒られたのですか、お前は」

 漸く助南と格楽に解放され、光矢は母・朝霧の元へ逃げる様にやってきた。来て直ぐに縁側に座り込んだ我が子を見て、朝霧は優しく、少し意地悪気にそう言った。その言葉に光矢はムスッとした顔になる。

「お前はまったく懲りないのだから」

「だって、ヒマなのです母上」

 うん、と困った様に朝霧は笑う。ちら、と一瞬だけ光矢は振り返り、母の顔を見る。が、直ぐに視線を外へと戻した。

 自分の母ながら、朝霧は美しいと光矢は思う。齢は三十手前だが、母の顔はとても幼い。いつか一度、珍しく訪れた来客に「朝霧様と若君は母子よりも姉弟に見える」と言われたことがある程だ。

 母はいつも自分には優しい。光圀にはよく怒られてしまう為か、逃げ口はいつも母の元だった。何故なら、母は自分を怒りはしないのだ。光圀はそれが、光矢にとっては良くないと思っているのだろうが、光矢自身はそんなことは知る事もなく。

 だから、そんな母に困り顔をさせてしまう事に、光矢は少し気が引けたのだが、それは気が付かない振りをした。

「暇な度に盆栽を壊されてしまっては、御父上も困るでしょうに」

「だって」

 一つ、間を置いて。

「母上、オレと同じ歳の子は、いつも何をしているのでしょう」

 ぱちん、と朝霧は瞬きした。光矢は縁側から足を投げ出した形で座り、その足をぶらぶらと動かしている。朝霧には背を向けている形なので、彼女には今光矢がどんな顔をしているか分からない。

 光矢の歳は十三。十三となれば、早い者ではもう元服を迎える歳だ。元服はまだ迎えずとも、多くのことを学び、成人としての心構えを持つ年頃。

 だが、光矢はそれでも幼かった。姿だけではなく、精神も未だ、成人へと近付いているとは到底思えない。

 というよりも、光矢は何も知らない。

 光矢は少し、戸惑いながらもある言葉を口にする。

 

「母上、オレも外へ出れば、オレと同じ歳の子と同じになるのでしょうか」

 

 光矢は外へ出た事が無かった。生まれてこの方、外の世界を知らずに生きている。近くに小さな町があるのも知っている。少し足を伸ばせば、現在水戸藩の藩主である伯父が住む水戸城へも行ける。

 だが、光矢は一度もそれらを目にしたこともなかった。

「光矢」

 朝霧の表情が曇ったのは、声色ですぐに分かった。それは、口にしてはいけない言葉だった。

「…な~んて!」

 ぐるん、と勢いよく振り返った光矢のその顔は不敵な笑いだった。

「冗談冗談!母上をちょっと困らせてやりたかったのです!」

「光矢、私は」

「母上はオレに優しすぎます。ちょっとは怒った方が良いですよ。ジジイなんかいつも怒ってんだから!」

 すっくりと立ち上がると、光矢は廊下へと速足で通り過ぎる。母の顔をあまり見ない様に。

「では母上、また後で。さっきのは忘れて下さい」

 そうして走って出て行く。朝霧は只、それを黙って見送るしか出来なかった。何も言えないのがもどかしいのか、唇を噛み締めて。

 

 

「…あー、しくった」

 廊下の途中、壁に寄り掛かりながら光矢はそう漏らした。あんな事を言うつもりはなかったのに。

「母上のあんな顔は久し振りだ」

 普段の困り顔とはちょっと違う。それは本当に哀しげな顔で。

 あんな顔をしたのを見たのはこれで何度目だろうか。決して多くは無いが、見せたときの顔の辛そうな事。それは自分が、感傷的になったときにぶつけるものだった。本当の意味で困らせるとき。そう、先程言った「外へ出たい」という言葉を放った時だ。

「こりゃあまたジジイに怒られるかな」

 苦笑する。多分、あの顔を光圀に見られたら、直ぐに自分が我儘を言った事がバレるだろう。今日は夕飯を抜かれるかもしれないな、と思いながら再び廊下を進もうと足を出した。

 その瞬間。

 空気が止まる。

 

『君は、籠の中の鳥』

 

 がば、と光矢は振り返った。誰も居ない。その先には廊下しか無い。が、光矢は思わず唾を飲み込んだ。

 廊下が長い。奥が見えない程。

 西山荘はとても小さな邸だ。こんな長い廊下は存在しない。

 そうしてやがて気付いた。自分以外の物が、まるで紙に描かれた絵の様に見える。どこか色がくすんで、歪んで見えた。壁に付いた染みが、まるで人の顔の様に蠢く。自分を呼んでいる。

「……………!!」

 途端に恐怖が全身を襲い、光矢は思わず走り出した。

 

 

 走り出してみれば、廊下は恐ろしい程の長さだった。床を踏む感触はあるものの、前へ進めど進めど、曲がり角がある筈の奥へは辿り着けない。同じ景色が続くだけだ。

『君は、籠の中の鳥』

 走っている間にも聴こえる、声。途中耳を塞ぎながら走ってみた。が、脈音や手と耳が擦る音よりもはっきりとその声は光矢の耳に届く。

「いやだいやだ、怖い、いやだ!」

『君は、籠の中の鳥』

「煩い、お前何なんだ!!」

 勇気を振り絞って問い掛けてみた。答えてくるかもしれない、そう思って。

 すると、声の主は、意外な言葉を返してきた。

 

『ならば君は、誰?』

 

 ハァァ!?と光矢は思わず声を上げた。此方が問い掛けたのに、問い掛けで答えられてはどうしようも無い。

「意味わかんね!!」

『君は一体、誰?』

 声の主は、今度はうって変わってその問いを投げ掛けてくる。巫山戯てる、と光矢は思った。だんだん、声の主のその声色が楽しんでいる様なものに聴こえてきたからだ。その瞬間、光矢の中の恐怖は収縮し、代わりにこの声の主を着き止めてやりたいという気持ちが強くなってゆく。

「オレが誰って言うお前が誰なんだって聞いてんの!!!」

 だんっ、と力強く床を踏み込むと、次の瞬間突然視界が開けた。

「え?」

 立ち止り、数度瞬きした。視界の先は変わらない廊下の筈だったが、自分が今立っている場所は廊下ではなかった。突然世界が変わったのだ。代わりに目の前に広がっているのは、邸の中ではない。何処かの森の中。だが、やはり其処も絵の中の世界の様で、植物の息吹は感じられない。

 

「やっと会えたね、籠の鳥」

 

 耳に飛び込んできた声に、光矢は物怖じすることなく振り返った。その声が、先程から聴こえていた声の主のものだったからだ。

 生命力の無い世界の中に、自分以外の生きている者を見つける。青年が立っていた。纏った着物や長い髪の毛が白い為か、その青年全体がぼんやりと白く光っている様に見えた。

 相手の姿が見えた途端、光矢の恐怖心は完全に消えた。

「お前!お前の仕業だろ!?お前、何なんだ!!」

「君は、誰なの?」

 まだ同じことを言う。とうとう光矢は我慢出来なくなった。

「だぁかぁらぁ~!人に名前をを尋ねる前に自分から…って……あ」

「だから、聞いてるんだけれど」

 漸く言葉の意味を知った光矢を見て、くすくすと青年は笑っている。

 助南と同じタイプだ、と光矢は直感した。揚げ足を取る性格は、光矢の苦手なものの一つだった。

「う……お、オレは、………つか!オレの事分かってやってたんだろ!ならオレの名前だって知ってる筈だろ!?」

「僕は、君の内を知っていても、君の外側は知らない」

 言っている意味が分からず、光矢は頭を傾げた。分からない?と青年は問う。

「内とか、外とか、全然」

「そう。じゃあ、言い方を変えるよ。僕は君の存在は知っていても、君の名前までは知らない。これで良いかい?」

 にこりと笑って青年は言う。その言葉に、光矢はムッとする。何か、はぐらかされた気がした。だが、確かにその方が分かりやすかった。正直、内側とか外側とか、意味が分からない。知り様の無いことだ。

 わかった、と小さく光矢は頷いた。それに満足したのか、青年も頷き返した。

「で、お前は誰……オレは、光矢だけど。お前、誰?」

 自分の名を名乗らなければ、この男はずっと名前を言うことはないだろう。そう結論を出した光矢は、慌てて名乗り、そしてもう一度問うた。

「僕のことは、…そうだね、今は道長と名乗っている。君もそう呼べば良い、籠の鳥」

「か、籠の鳥?」

 折角名乗ったというのに、「籠の鳥」なんて呼ばれて、光矢は唖然とした。だが、青年は尚も笑みを絶やすことは無い。寧ろ面白がっている様。

「君は、籠の鳥」

 やはり、さっきの声はこの青年のものだったと光矢は改めて思った。よくよく聴いてみれば、透き通った声だ。男のものでは勿体ない程。

 そして、自分に不思議な気持ちが宿っていることに気付く。

 なにか。

 どこか。

 懐かしい。

 

 

「みち…なが…?お前は、一体誰?」

 自分を知っている、そして自分を籠の中の鳥だと言う。そして、胸の奥を焦がす懐かしさに、我慢出来ずに光矢は問う。道長は静かに微笑み。

「今はまだ、教える事は出来ない。でもいつかは知る事になるよ。その為に、君の中の扉を開けさせて欲しい」

 歩み寄り、道長は光矢の左腕を取った。優しく。

 不意に腕を取られた事を、光矢は気付かなかった。気付いても、それを拒否する事は出来ない。懐かしさが、まるで身体全体を麻痺させているかの様で、動く事を許さなかった。けれど、其処には何故か恐怖は無く。

「痛かっただろうね。苦しかっただろうね。今、封印から解き放とう」

 ふわ、と周囲の空気が動いた気がして、光矢は空を仰ぎ見た。

 その瞬間。

 温かな光が己の全身を覆い、光矢は強く目を閉じた。

 

 

 

「はい、終わり」

 

 

 

 終わりを告げられ、光矢は恐る恐る目を開ける。そして、何か変化が起きたのではないかと自分の身体をくまなく見てみるものの、何も無く。道長も、変わらず只微笑んでいるだけだ。

「…何、したの?」

「その内理解するよ。でも、その時はきっと、辛い思いをする」

「は?何それ?」

「ごめんね。でも、僕らには必要なんだ。君が」

 切なそうに、道長はそう言った。

「でもどうか、倒れる事なく、前へ進んで欲しい。君自身の為でもある。君は、いつまでも籠の中に閉じ込められて良い人ではない」

「そんな」

 勝手だ、と光矢は声を上げようとした。が、それを飲み込む。

 道長の傍に、美しい女性が佇んでいたのだ。

 先程までは居なかった。突然、目の前に居たのだ。まるで幽霊の様に、身体が透き通り、儚げに光を纏っている。そして、その女性は静かに歌を歌っていたのにも気付いたのだ。

 女性が現れたことが何かの合図かの様に、道長は一歩後ろへ足を伸ばした。

「もう行かなくては」

「待って、まだ何も教えてくれてない!」

 追おうとしたが、身体が動かなかった。金縛りに遭ったかの様に、足が動いてくれない。

 その間に、道長の姿はどんどん遠ざかってゆく。最初は後ずさりしていたが、やがて景色に溶けてゆく様に消えそうで。

「言ったよ。いつかは知る事になると。その時まで、どうか心揺るぐ事なく進んで」

「待ってったら!!」

 

「さようなら、籠の鳥」

 

 女性が歌を止める。その瞬間、二つの影は掻き消え、同時に風が吹き上がった。

 

「あ……」

 世界に元の色が戻った。世界に生命の息吹が戻った。光矢は、動き出した世界の中にぽつんと一人立ち尽くしていた。

「何…だったんだ…?」

 知識が乏しい光矢には、一体自分の身に何があったのか、全く分からずに居た。只一つ分かるのは、自分が、邸ではなく外に居るということ。ぐるりと周囲を見て、光矢はどうしたものかと悩み出す。

「此処、何処?」

 外に出た事の無い光矢には、自分が今居る位置も分からず、どうやって邸に戻るのかすらも分からない。周囲は鬱蒼とした木々に囲まれていて、下手に歩くともっと悲惨な事になりそうで。光矢はとりあえず、その辺にぺたりと腰を下ろした。

 何だか、外へ出られたというのに、感動も無いなと思いながら。

 そうして、物思いにふけること数分。

 突然邸から居なくなった若君を捜しにやって来た助南・格楽の二人が、その光矢を見つけた頃にはすっかり日も暮れ、一人ぼっちで待っていたにも関わらず本人は呑気に眠り扱けていたそうな。

 

 

 光矢が邸から突然行方を眩ましたその日の夜。一人、自室で書物を読み耽っていた光圀はふと、外に人の気配を感じ、そちらへ目を向けた。月明かりがぼんやりと障子の向こう側の人物の影を映す。

「おお、どうじゃったかな。お銀」

「御隠居の思った通りに」

 立ち上がり、障子を開ける。其処には黒装束に身を包んだ、美しいくのいちが控えていた。お銀と呼ばれたそのくのいちは光圀の腹心。長い間、彼に仕えてきた蜻蛉お銀とは彼女の事である。

「壊されておったか」

「はい。五ヶ所すべて回りましたが、完全に壊されておりました」

「参ったのう…」

 お銀の報告に、光圀は困った様な顔で顎髭に触れる。

「あれは旅の術師が施してくれた結界じゃからのう。未だ、目覚めはしておらんのじゃが」

「若様に異変は…?」

「ぐーすか寝ておるよ。今の所はまだ、何も起きておらん」

 光矢が不思議な体験をしたその頃、どうやら邸に居た者すべて、不思議な空間に閉じ込められていたらしい。恐らく、光矢と同じ空間なのだろう。時が止まっていた、と光圀が呟く。

「何者かは知らぬが、光矢に接触したその男が破壊した可能性が高いのう」

「如何致しましょう?」

 ふむ、と光圀は唸った。

「あれ程の結界を作れる術師はそうは居らん。すまんがお銀、ちと江戸まで行ってくれんか」

「まあ。私は忍業から大分離れていますよ御隠居」

「何を言うのじゃ。まだまだ現役じゃろうて」

 ふふ、と可笑しげに笑うとお銀は軽く会釈し、その場から素早く去ってゆく。

 縁側に出ると、夜空には大きな月が輝いていた。月明かりだけで自分の足元が分かる程に、明るく、怪しく。

 そんな月を仰ぎ見て、光圀は思う。何かが起こる予兆としか考えられない。けれど、願わくば、何も起こる事が無い様。光矢にはまだ、外は危険だ。外に出る事が、危険過ぎる。

 

「なんでこんな突然なんじゃ。あの時も、今回も…」

 

 月は何も答えない。只眩しい程に月明かりを注ぐだけだった。


 
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