No.104800

酒(三国志創作小説)

司真澪さん

光和七年(184年)頃の少年孫策と孫堅の話。黄巾の乱が起こり、賊の討伐へと向かう孫堅。孫策は父と酒を挟んで語りあう──。

2009-11-02 23:21:32 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:1318   閲覧ユーザー数:1283

 まあるいお月さまが夜空を照らす中。

 先程までは父の幕僚達で賑わっていた堂も、今はひっそりと静まり返っている。

孫策は入り口からひょっこりと顔を出し、中を覗き込んだ。

 

「なんだ、策。まだ起きていたのか?」

 

 月明かりの差す窓辺に、父はひとり胡座を組んで座り込み、手酌で酒を飲んでいた。

 こいこいと、手招きされるまま中に入り込んで、父の隣へと腰を降ろす。

「父上」

「なんだ、策」

「父上、いくさに行くのか?」

 

 じっと見上げる瞳に、大きな手がくしゃりと頭をひとなでした。

「盗み聞きしていたな。いたずら小僧め」

 目をすがめて鷹揚に笑うと、孫堅は傍らの酒杯をひとつ取り、なみなみと酒を注いで孫策の前にことりと置く。

「男同士の話をするなら、酒のひとつも飲めんとな」 母には内緒だぞと、片目を瞑ってみせる父と酒杯とを交互に見て。

 孫策はこぼさぬようにそっと杯を持ち上げると、こくりとひと口飲んでみる。

 

「にが~~~」

 生まれて始めて飲んだ酒は、かあっと喉を焼いて。

 ただ苦いばかりに感じた。

 けほけほとむせかえる孫策に、孫堅は愉快そうに笑い声を上げて、ぐしゃぐしゃと息子の結った髪をかきまぜる。

「ははは。策にはまだ早いようだな」

「餓鬼扱いすんなよっ。くそ親父っ」

「酒も飲めないうちは餓鬼だ。くそ坊主」

「酔っ払いっ」

 孫堅の手を振り払って、孫策はふてくされたように頬をふくらませた。

 父のにやにやとした表情がしゃくに触る。

 生来の負けん気が頭をもたげ、今度は舐めるように、ちびりと飲んでみる。

 やはり苦い。

 が、ちびりちびりと舐めて、上目づかいに父をうかがった。 「なあ、さっき徳謀(程普)が言ってた。『黄巾賊の討伐に立つ』んだって。いくさに行くんだろう?」

「ああ、そうだ」

「そっか。いくさに行くんだっ」

 瞳をきらきらと輝かせて、孫策は大きな仕草でひとつ肯く。

 尊敬する父がいくさに行くのが嬉しくて。

 酒杯を持った両手にも力が入る。

 強い父。

 何度もせがんで聞いた父の若い頃の話のように、敵を倒して、今度も手柄をたてるだろう。

 手柄をたてて、皆が父の強さを知るだろう。

 父の幕僚達が、家僕達が、家に出入りする郎党達が、父の治める民達が誉めそやすように、父は誰よりも強い。

 それを国中が知ることになるだろう。

 そう思うと体中が熱くなった。

「じゃあ、みんなに父上の強さがわかるよな」

 孫策は頬を紅潮させ、誇らしげに父を振り仰ぐ。

 そんな興奮した様子の息子に、孫堅は静かな眼差しを注いでいた。

 

 ことりと手にした酒杯を床に置いて。

 孫堅は、組んだ胡座の両膝を掴み、息子へと向き直って厳かに問いかける。

 

「策。お前は戦(いくさ)をどういうものだと思う?」

 

 それまでのふざけた調子を取り払った父の姿に、きょとんと孫策は父を見返す。

「どうって…。敵を…、悪い奴らを退治するんじゃないのか?」

「悪い奴らというのは、どういう奴らだ?」

「えーっと、『黄巾賊』っていうくらいだから盗賊みたいな奴らなんじゃないのか? 盗んだり殺したりする奴らは悪い奴らだ」

「そうだな。盗んだり殺したりするのは人として許せん行為だ。黄巾賊のほとんどは農民で、彼らは朝廷に反乱を起こし、郡や県の役所を襲って役人を殺している。どうしてだと思う?」

「えーっと…」

 

 答えにつまって、手に持った酒杯の中を覗き込む。

 酒の表面には、ゆらゆらと歪んだ月が映り込んで揺れているばかりで、孫策は父の問いに答える術を持っていなかった。

 

「…どうして?」

「役人に搾取され苦しんでいる者達がいる。多くの者達は貧しく苦しい生活に堪えられず、善道の教えに救いを求めてすがりついた。その善道を教える教主が、信徒を率いて役人を襲わせているんだ。策よ。お前は一体この中の誰が悪いんだと思う?」

 孫策は、静かな父の面をじっと見つめた。

 父が大切な話をしているというのは判った。だが、まだ十歳の孫策が理解するには、世の中は難しすぎた。

「…わからないよ。誰が悪いの?」

「農民から不当に搾取する役人は責められるべきだろう。では、何故役人は不当な行ないをするのか? 中央の政治が腐敗しているからだ。では、農民達を反乱へと駆り立てる教主どもの行ないは正しいのか? 反乱によって殺された役人の全てが、悪行に手を染めているわけではない。役人を殺せば、政治の腐敗が改まるわけでもない。貧しい民が救われるわけでもない。そして反乱を許せば国が揺らぎ、その他大勢の良民達が苦しむことになる」

 たんたんと話す父の言葉に、孫策はじっと耳を傾ける。

 先程の興奮は醒め、夜気の冷たさを頬に感じる。

「反乱は討たねばならん」

 孫堅は、孫策の肩を掴むと、厳しさを含んだ眼差しで息子の瞳を覗き込んだ。

「策よ。誰かが一方的に悪いわけではない。戦(いくさ)とはそういうものだ。お前には、まだ難しい話かもしれん。だが、目先の敵に惑わされず、真の敵を見ぬく目を持て。そして、戦が起これば民は住みかを追われ、戦闘に巻き込まれれば命を落とすこともある。その痛みを解る人間になれ」

 

「―――うん」

 

 掴まれた肩から伝わる力を強く意識して、孫策は肯いた。

 肯きながら、悔しそうに顔を歪めて呟いた。

「でも、じゃあ、いくさで悪いことは解決できないの?」

 その顔に、孫堅はなだめる様に肩を撫で、吐息をついた。

「一つの戦(いくさ)では無理だろう。問題の根本は朝廷の深い所にある」

 肩から手を離し、視線を格子窓の先にある月へと移す。

「俺は、今はまだ一介の役人にすぎん。国を正すには、あまりにも力が足りない。だが、戦功を上げて力をつければ、問題の大元へと迫ることが出来る。朝廷の秩序を正し、天子を支える事も可能になる。その為の戦(いくさ)だ」

 

 自分自身を奮い立たせるように孫堅はそう言うと、酒杯を手に取り、一気に中身をあおった。

 孫策は、父の横顔を見上げて、膝の上の拳を握りしめる。

 月明かりの中。

 父の姿はいつもより大きく、そして力強く。

 孫策の心に深く焼きついた。

 

「俺も手伝う」

 握りしめた手のひらの汗を感じながら、言葉を絞り出す。

 父から伝わったものを父に伝えたくて。

 振り向いた孫堅の瞳に、まだ幼い声できっぱりと言葉を紡ぐ。

「父上を手伝うよ。一緒に行く」

 決然とした息子のさまに目を見開いて、しばし孫堅は孫策を見つめていたが、ふっと眼差しを和らげると、息子の頭に手を伸ばす。

「お前はまだ幼い」

「父上!」

 節ばった大きな手がぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜるのに反発して声を荒らげると、父はわかっているというように、ぽんぽんと二度、孫策の頭を叩いて額を寄せた。

「だから、お前が大人になったら連れてってやる。今のお前の仕事は早く大きくなる事と、父のかわりに母や弟妹達を守る事だ」

「父上!」

 真近にある父の瞳に訴えかけるが、包み込むようなやわらかな眼差しで孫堅は微笑み、大きな手でくしゃりと優しく息子の頭をひと撫でした。

「大切な仕事だ」

 

「―――ちぇっ」

 孫堅から身を離し、ぐしゃぐしゃになった髪を整えるように、頭に手をやる。

 父に較べて小さな己の手。

 己の幼さがもどかしくて、悔しくて。

 孫策はうつむいて唇を噛みしめた。

「大人になったらって、いつだよ」

「いつになるかはお前次第だな」

 顔を上げて、強く父を睨みすえる。

「俺が父上と同じくらい強くなったら、一緒に行けるのか」

 眼差しの先には、父の大きな微笑みがある。

「ああ。期待してるぞ」

「男同士の約束だからな」

「ああ」

 孫堅がかざした手のひらに拳を打ちつけ、約束だからな、と孫策はもう一度繰り返した。

 

「ちちうえ~? あにうえもいるー」

 突然かけられた舌足らずな声に驚いて振りかえると、戸口の側に幼い弟が眠そうに目をこすりながら立っていた。

「権。お前、起きてきたのか?」

「うん。ちちうえー」

 ぱたぱたと軽い足音をたてて走りより、孫権は父の膝の上へとよじ昇った。

「なにしてるのー?」

「男同士の話だ。お前も混ざるか?」

「うん!」

 にっこりと笑う孫権に、よしよしと頭を撫でて、孫堅は酒杯に杓で酒を満たす。

「よし。じゃあ、お前も飲め」

「ちょっ、ちょっと。父上――」

 孫策が止める暇もあらばこそ、孫権は両手で酒杯を掴み取ると、こくこくと中身を飲み干した。

「お。いい飲みっぷりだな~!」

「権! 大丈夫か?」

 慌てる孫策の目の前で、孫権はふらりふらりと体を揺らし、父の膝から立ちあがった。

 膝元の杯や空の食器が乗った盆に目をとめて、その前にしゃがみこむ。

「権?」

 

「ば─────んっっ」

 

 掛け声とともに、杯が、器が、勢い良く空を飛び、夜の静寂(しじま)にけたたましい音を立てて飛び散った。

 

「権っ! おまえ───っっ!!」

 孫策の怒鳴り声もどこ吹く風で。

 孫権はぱたりと父の膝に倒れ込んで、すやすやと健やかな寝息を立てていた。

 物音に驚いて、母や家僕が駆けつける中、孫策と孫堅は顔を見合わせると、大声で笑い出した。

 弟の大物ぶりが頼もしかった。

 

 

 

 口元へと酒杯を運んだ手を途中で止めて、ふっと孫策は笑みをこぼした。

 向かいの席(むしろ)に座した孫権が、怪訝そうに首をかしげる。

「何ですか? 兄上」

「いや。父上が、おまえに酒を飲ませた時のことを思い出したんだ」

 くつくつと、拳を口元にあてがって、ひとり笑う孫策に、さらに孫権は首をかしげた。

「…ああ、お前は小さかったから、覚えていないか」

 笑みに目を細めて事の顛末を語ってきかせれば、まだ酔っていない孫権の頬が羞恥で赤くそまる。

「嫌だなぁ。そんな子供の頃の話、忘れてよ、兄上…」

 照れてむやみに杯をあおる弟を、見つめる瞳が優しくなごむ。

 

 あれからもう十数年が過ぎたのか。

 

 父が生きていたら。

 やはり、こうして差し向かいに酒を飲んだことだろう。

 

 十六になった年、父は約束どおり孫策を戦(いくさ)へと連れていった。

 だが、父の覇道を手伝い始めた、その矢先に、父は戦(いくさ)の中で命を落とした。

 今、孫策は父の意志を継いで、自らも覇道を歩み出している。

 民の痛みを解れと言った父の言葉を胸に、呉会の地を治め、さらにその手を先へと伸ばそうとしている。

 

 傍らで自分を助けてくれる弟の顔を見ながら、孫策は酒を口に含んだ。

 

 あの日、苦かった酒の味が、懐かしく思いだされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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UP 2001.12.9 (2006.12.30 改稿)

燕雀楼&水華庵発行『日月之行・呉』に掲載


 
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