「ねぇ、ことりちゃん。聞いてもいいかな?」
「なに? 穂乃果ちゃん」
練習の合間の休憩時間。
皆が思い思いの場所で体を休ませている中、同じシートの上に座っていた穂乃果がことりに話しかける。
「直樹さんのことなんだけどね」
「直樹お兄さんのこと?」
「うん。ことりちゃんって直樹さんのこと、小さい頃から知ってるんでしょ? でも私、そんなこと一度も聞いたことなかったから」
「そういえば確かに」
隣のシートに座っていた海未も同様のようで、穂乃果の言葉に小さく頷いている。
穂乃果、ことり、海未の三人は小さい頃から一緒にいた幼馴染だ。
もうお互いの事なら何でも知っている、そう言っても過言ではないと思えるほど仲がいい。
それなのに先ほど会った新しい用務員、直樹についての話は今まで一度も聞いたことがなかった。
「えっと、ね? 直樹お兄さんには小学校の長い休みの時に、時々勉強を教えてもらってたんだ。話さなかったのは……うーん、特に理由があるわけじゃないんだけど」
ただ、別にわざわざ話すようなことでもないのではないか、そう思っていただけの話。
それに小さい頃は二人に変に気を使ってしまい、自分から話題を提出することが少なかったというのも理由ではある。
なにせ、ことりは二人のように母親のお腹の中にいる時からの幼馴染ではなく、途中から入ってきた幼馴染なのだから。
もちろん今ではそんな遠慮はない……とは言い切れないけど、昔よりは積極的になったとことりとしてはそう思っていた。
「……ちゃんとお話ししなくて、ごめんね?」
「あ、ううん! 別に責めてるわけじゃないから、気にしないで!」
「えぇ。自分のすべてを話さなくてはならない、そんなことはないのですから。それはどんなに仲の良い友達同士でもそうです」
「うん。ありがと、二人とも」
「それで、あの人ってどういう人なの?」
「……うーん、えっとね?」
ことりは直樹と初めて会った時のことを思い出し、少しの間を置いて話しだした。
◇◇◇◇◇
ことりが直樹と初めて出会ったのは、小学校の夏休みのこと。
丁度、母である小鳩の仕事が休みで、一緒にショッピングに行った日の事だった。
その頃からコスプレに少し興味が出始めていたこともあり、新しい洋服を買ってもらったことりはとてもうれしかったのを覚えている。
「あら? もしかして、直くん?」
「え? ……ッ!? ……こ、小鳩さん!?」
そんな帰り道、ことりは直樹に出会った。
直樹と小鳩が仲良さげに話している間、ことりは小鳩の後ろに隠れていたため、その時の会話は覚えていないが。
物心つく前の事ではあるが、ことりは膝が悪かった時期がある。
その手術があり今ではもう目立たなくなったけれど、小さい頃はまだ痕が目立っていた膝を隠すために長いスカートをはいていた。
だけど、その年代の男の子は興味本位で女の子のスカート捲りをしようとしてくることもあり、ことりは少し男の子に対して苦手意識を持っていたのだ。
直樹と別れた後に誰なのかと聞くと、どうやら小鳩の昔からの知り合いらしいことをことりは知った。
小鳩が大学に進学するにあたり遠くに引越しをするまでは、本当の姉と弟のように仲が良く毎日一緒に過ごしていたそうだ。
引越しをしてから今まで何年も会うことはなかったけど、偶然の再会に驚いたと小鳩は笑顔で語っていた。
それから数日後の小鳩が休みの日、南家に直樹が招待された。
「ことり? ほら、しっかり挨拶なさい」
「は、はい。えっと、南ことり、です」
「うん。よろしくね、ことりちゃん」
たどたどしく言葉を紡ぐことりに向けて、直樹は笑顔で返した。
それは見知らぬ大人の自分に委縮することりへの、直樹なりの精いっぱいの気遣いだった。
とはいえ、俯きがちだったその時のことりに、直樹の笑みは見えていなかっただろうが。
「もう、ことりったら恥ずかしがって。まぁ、いいわ。しばらく一緒にいれば、きっと慣れてくるでしょうし」
「……え? お母さん、どういうこと?」
「夏休みの間、私もお父さんも仕事であまりかまってあげられないから。丁度、直くんも長期休暇で時間が開いてるみたいだったし、少しの間ことりの家庭教師をお願いしたの。それならことりも一人で寂しくないでしょ?」
そういう小鳩に対し、ことりは頭が真っ白になって何を言っているのかわからなかった。
確かに忙しく働く両親と中々一緒に遊ぶこともできず、寂しく思っていたのは事実だ。
それでも、それ以上に見ず知らずで年上の男の人と一緒に過ごすことに、子供心に不安を感じていた。
「それじゃあ、直くん。さっそく明日からお願いできるかしら?」
「……あー、まぁ、了解です。基本的に週に3日ってことでいいんですよね?」
「えぇ、それでお願い」
話しながら直樹がことりのことを見ているのに気づき、ことりはさっと視線を逸らした。
その時、直樹が内心で「知らない男の人と一緒なんてそりゃ不安だよなぁ」とことりの内心を察して少し同情していたことは、当たり前だがことりの知るところではなかった。
それから、ことりにとってはうれしくない夏休みの日々が続く。
友達の穂乃果や海未と一緒に遊ぶ約束をしている日は良かったが、それ以外の日にはことり一人で家にいるか直樹と一緒にいることが多い。
当時のことりにとって家での生活は安心できるものではなく、少し居心地の悪いものになっていた。
◇◇◇◇◇
「……なるほど。何かを隠してると思っていましたけど、そんなことがあったんですね」
「そういえばあの頃のことりちゃん、妙に家に帰りたくなさそうだったような気がするなぁ……」
「え? そ、そんな風に見えてたの?」
そこまで話を聞いて、穂乃果たちはそんな感想を漏らした。
ことりとしては、穂乃果たちと一緒にいる時には変に心配をかけないように必死に取り繕っていたつもりだっただけに、違和感を覚えられていたことに少しだけ驚いた。
そんなことりに、海未は少し呆れた顔をする。
「あれで隠しているつもりだったんですか? 穂乃果でさえ気付いたというのに、私が気付かないはずないでしょうに」
「そうそう……ん? ちょっと待って海未ちゃん!? 私で“さえ”ってどういうことかなぁ!?」
「……そういうことですが?」
「む、むむむむむぅぅ!!!」
「あ、あはは、穂乃果ちゃん落ち着いて?」
これはいつものように言い争いを始めるパターンだと容易に想像でき、すかさずことりが止めに入る。
穂乃果が呆れさせるようなことを言うと、海未がすかさず突っ込みを入れる。
正論を言う海未にむくれて愚痴をいう穂乃果。
その時々で海未の羞恥心なりなんなりを刺激することもあり、顔を真っ赤にして反論をする海未。
一言、二言と言葉を交わしていくうちに、徐々にヒートアップしていく。
そこに間に入ってやんわりと仲裁するのが、いつしかことりの役割のようなものになっていた。
「……でも、さっき見た限りだと、とてもそういう風には見えなかったけど。今じゃあ、二人ともすごく仲がよさそうじゃない?」
「あ、真姫ちゃん」
同じようにビニールシートに座って休んでいた真姫が声を掛けてきた。
こんなに近くに座っているのだから、こちらの話が聞こえていても不思議ではないけれど。
しかし、どうやら話を聞いていたのは真姫だけではないようだ。
休憩時間で思い思いのことをして休んでいた他のメンバーも、今では皆こちらに視線を向けて話を聞いていた。
「なにか、仲がよくなる切っ掛けがあったのね?」
「……うん」
続きを促すように質問を投げかけてくる絵里。
皆に聞かれていたことは少し恥ずかしかったけれど、ことりは一つ頷き続きを話し始める。
◇◇◇◇◇
家庭教師として直樹が家に来るようになってしばらく経つ。
直樹がことりの事を気遣って必要以上の関りは控えていたこともあり、この頃になると、ことりも少しずつ心に余裕が生まれてきていた。
同時に、直樹が周りにいるような男の子のように、好奇心で女の子にちょっかいをかけるような人ではないこともわかってきて、当初の委縮した態度もいくらかは軟化していた。
そして今日もまた、直樹が家庭教師として家にやってくる日。
直樹が来る日は、小鳩が前もって直樹用にもお茶とお茶菓子を用意している。
コップは棚の上にあって、まだ背の低いことりでは危ないからと毎度直樹に準備してもらっていた。
ことりが時計を見ると、もう少しで直樹が来る時間になる。
(……そろそろお茶の準備、したほうがいいかなぁ)
そう思い台所に向かう。
いつもならば直樹に準備してもらうのだが、今日は少しだけ違った。
ことりがいつも臆病になって迷惑をかけている直樹に、少しでもお詫びがしたいと思ったからだ。
お茶とお茶菓子を事前に準備しておき、そして勇気を出して「いつもごめんなさい」と直樹に謝ろうという計画である。
子供らしくささやかな計画ではあるが、ことりにとってこれが今できる精一杯のことだった。
お茶は冷蔵庫にペットボトルで入っているから、棚からコップを取り出して冷凍庫から氷を入れて注ぐだけ。
お茶菓子は……。
「あ、今日は穂乃果ちゃんの家のお饅頭だぁ!」
戸棚に入っていたのは、友達の家族が営んでいる和菓子屋の饅頭。
友達になって初めて穂乃果の家に遊びに行った時、穂乃果の母親がおやつに出してくれてから、ことりはこの饅頭が好きだった。
穂乃果はずっと前からこの味に慣れ親しんでいるらしく、「もう飽きたよー!」って愚痴をこぼしていたけれど。
小さく唇を突き出し頬をぷっくらと膨らます穂乃果のことを思い出し、自然と頬が緩んでいく。
「よいしょ、よいしょ」
ことりは棚からコップを取り出すために椅子を引きずっていく。
確か直樹や両親は、いつもこの棚の上からコップを取り出していた。
「んー!」
椅子の上に立ちコップを取ろうとグッと手を伸ばす。
まだ背が小さいことりだけど、視線の先にはコップの姿が見えていた。
もう少し。あと、もう少しで手が届く。
つま先立ちになり腕をめいいっぱい伸ばす。
「んー! ……あ、届いた!」
苦労の末にようやくコップをつかむことができた。
よかったと、ことりは安堵の色を浮かべる。
さっそく棚からコップを取り出す。
……その時。
「……え? き、きゃぁ!」
手に小さなハエがピトッと止まった。
突然のことに反射的に手を振ってハエを払う……それが災いした。
つま先立ちで不安定な姿勢だったことも原因だったのろう。
反射的な小さな動作だったにもかかわらず、ことりの体は大きくバランスを崩してしまう。
「あ、あわわわ!!」
まだ小さいとはいえ、不安定な態勢で椅子の上でバランスを崩したのだ。
その勢いで椅子がガタガタと揺れる。
「ッ! うぅぅッ!」
次の瞬間、一際大きく椅子が揺れた。
倒れる、そう思ったことりは咄嗟に椅子の背もたれの所につかまった。
重みが背もたれの方に向き、その拍子に椅子が傾き丁度近くの壁に思い切りぶつかる。
―――ガタンッ
ぶつかった音と椅子越しに伝わる大きな衝撃。
「……ふぅ、こ、怖かったぁ」
少ししてようやく揺れが収まったことがわかると、ことりは安堵の息を洩らし椅子の上に座り込む。
見ると椅子は壁にぶつかり、傾いたまま絶妙なバランスで止まっていた。
余談だが、椅子を置いた位置が少しでもズレていれば大惨事になっていただろうことは、この時のことりには知る由もないことだった。
その後何とか椅子から降りると、もう一度安堵の息を洩らす。
心臓の激しい音が、胸に当てたことりの小さな手に伝わっていた。
これほどまでに怖い思いをしたのは、生まれて初めてかもしれない。
「……あれ、コップは?」
ようやく落ち着いたことりは、さっきまでつかんでいたコップがいつの間にかなくなっていることに気が付いた。
何処に行ったのだろう、そう思い周りを見回してみると。
「あ、あああああっ!?」
少し離れた床に割れたコップが落ちているのを見つけた。
しかもことりが手に取っていたそれは、家にいくつかある安物のコップではなかった。
それはいつも小鳩が使っていたマグカップ。
店で売られている物とは違って少し歪なところはあるが、どうやらそれは昔から使っている愛用品らしく、とても大事にしているということはまだ幼いことりにも分かっていた。
それが今、ことりの目の前で割れてしまっている。
「……ど、どうしよぉ」
頭が真っ白になってしまったことりには、どうすればいいか考えることができない。
それでも小鳩が大事にしているマグカップを割ってしまったことが、悪いことだということは子供心に理解していた。
それを小鳩に知られてしまったらどれほど怒られてしまうのだろうか、そう考えるとさっきまで感じていた恐怖以上のものが心に生まれてきた。
―――ピンポーン
「ッ!?」
唐突に聞こえてきた音にビクッと体を震わす。
家の中に響くのはインターホンの音。
この時間でインターホンが鳴るということは、もうその相手が誰なのか考えるまでもなくわかった。
「……直樹、お兄さん」
小鳩の昔からの知り合いという男の人。
最初はうまく話すことができなかったけど最近ようやく慣れてきて、もう少しだけ近づいてみようかなと思えるようになった男の人。
「……う、うぅ」
このことを誰にも知られたくなかった。
インターホンなんて無視してしまいたかったけど、ここで出ないわけにもいかない。
ここでことりが出なかったら、直樹は不審に思って小鳩に電話をするだろう。
そうなれば小鳩が心配して帰ってきてしまうかもしれない。
結果、このことは小鳩に知られてしまうのだ。
早いか遅いか、それだけの違いでしかない
どれだけ怒られるのだろう、もしかしたら直樹にも怒られてしまうのではないだろうか。
せっかくお詫びをしたいと頑張って行動したのにこんなことになって、「余計なことを!」と怒鳴られてしまうかもしれない。
そう考えると余計に怖く、そしてとても悲しくなりジワリと涙が溢れてきた。
―――ピンポーン
再び鳴るインターホン。
これ以上待たせることはできない。
ことりは涙をぬぐうことも忘れ、重たい足取りで直樹を出迎えるため玄関に向かった。
「……あ、ことりちゃん。こんにちわ……って、ど、どうしたんだ? なんで泣いてるんだ?」
扉を開けた先にいたのは、いつもの優しい笑顔を向けてくる直樹。
しかし出てきたことりが泣いていることに気づくと、その表情が一変しておろおろと狼狽えてしまった。
「……うぅ、ひっく……お母さんの……ぐしゅ……お母さんのコップが……」
「こ、コップ? ……よ、よくわからないけど、とりあえず中に入ろう、な?」
流石に外でこの場面を誰かに見られるのは、なんというか自分が社会的にまずいことになる。
そう思った直樹は、泣いていることりを家の中に入るように誘った。
「……えぇっと。つまり台所で小鳩さんが大事にしてたコップを割っちゃった、ってこと?」
普通に聞けば10秒もかからない短い言葉だけど、涙を流しながら小さい声で話すことりの声は聞きとるのに大分苦労した。
「……う、うん……う、うぇぇ」
「そ、そうか。それでことりちゃん、怪我はないか?」
「ぐすっ……ん、な、ない……ない、です」
「そっか。うん、とりあえず怪我がなくてよかったよ」
そう言うと、直樹はことりの頭に手を伸ばす。
「……ッ」
はたかれる、そう思ったことりは咄嗟にギュッと目をつぶった。
……しかし、いくら待っても頭に痛みはこなかった。
「ほぉら、泣くな泣くな。せっかくのかわいい顔が台無しだぞ?」
「……ふぇ?」
目を開くと、直樹は困ったような笑顔を浮かべてことりの頭を撫でていた。
(……暖かい)
頭を撫でる直樹の大きな手。
小鳩のように柔らかい感触ではなかったけど、どこか落ち着くような安心できる気持ちになる。
それはいうなれば父に撫でられた時のような感覚だった。
「お、怒らないの?」
「ん? まぁ、危ないことしたのはいけないことだけど、それでも怪我がなかったのが何よりだよ」
可愛い女の子が怪我したら大変だ、そうどこかおどけた調子で言ってくる。
そんな直樹の言葉を聞くと、ことりの目からジワッと涙があふれてくる。
「……ふ、ふぇ……うぇぇぇぇん!!!」
「え、ちょ、ことりちゃん!?」
感情の波が押し寄せて次々と涙が溢れてくることりは、思わず直樹に抱き着く。
そして今まで以上に声を上げて泣いた。
怒られなかったことで今までの緊張の糸が若干解けたこともあるのだろうが、それ以上にいつものように優しくしてくれたことへのうれしさ、そして安心感で胸がいっぱいになった。
それから少しの間ことりは泣き続け、直樹はどうやって泣き止ませようかと頭を抱えた。
「……これ、か」
暫くしてようやく泣き止んだことりに手を握られ台所に行くと、問題のマグカップを見た。
「お母さんが、ずっと前から大切に使ってたコップ……う、うぅ」
「……そっか。棚にあるのはわかってたけど、まだ大事に使ってくれてたんだな」
そう言う直樹はうれしそうで、そしてどこか悲しそうにことりには見えた。
「……このコップ……知ってるん、ですか?」
「……まぁ、ね」
歯切れ悪そうにそう答えると、それ以上は何も言わず直樹は割れてしまったマグカップの片づけに取り掛る。
「わ、私も……」
「あー、それじゃぁ、塵取りと箒あったら持ってきてくれる? あと、できれば掃除機もお願いしたいんだけど」
「はい!」
元気に返事をすると、ことりは走って台所から出て行った。
それを見送った直樹は視線を割れたマグカップに戻し、ただ黙々と片付けを続けた。
暫くして片付けが終わると「とりあえずこのことは俺にまかせて?」という直樹の言う通りにし、ことりはいつものように直樹とともに勉強を始めた。
そして、小鳩が帰ってくる時間になった。
小鳩が帰ってくるのは大体7時前後。
直樹が家庭教師としてくる時は、いつもこの時間までことりの面倒を見て、小鳩と少し話してから帰っていく。
「……そう、そんなことがあったの」
今はリビングのソファーで小鳩と対面に、直樹とことりが隣り合わせで座っている。
昼間に起きたことのあらましを直樹の口から小鳩に告げられ、始終ことりはビクビクとしていた。
「はい。危ないことをしたことに関しては俺の方でも言っておきましたので、あまり叱らないで上げてほしいんです」
「……そうねぇ」
ちらりとことりの方を向くとことりは俯き、不安そうに小さな手でギュッと直樹の袖を握っていた。
それを見ただけで、ずいぶん仲が良くなったものだと微笑ましく小鳩は思っていた。
本来なら母親として叱るところは叱らなければならないのだが……。
「……まぁ、直くんがそこまで言うんなら、ね」
「ありがとうございます」
「ふふ、お礼を言われることでもないのだけどね」
それに怒られると思ってビクビクしていることりを見ると、「私って、ここまで怖がられるほど怖いかしら?」と若干ショックを受けたこともある。
「それよりも、ごめんなさい。あのカップ……」
「まぁ、形あるものはって言いますし、仕方ないですよ。ことりちゃんも怪我はなかったみたいだし、それでいいじゃないですか」
むしろ今まで大事に使ってくれてうれしかった、そう笑みを浮かべながら答える直樹に小鳩は申し訳なさそうにしていた。
「……直くんがそう言ってくれるなら、いいのだけど……ことり?」
「は、はぃ」
「今回は何もなかったけど、下手したら大怪我してたかもしれないのよ? だから、もう危ないことはしないでね?」
「……うん。ことり、もう危ないことはしません」
俯きながらだが、しっかりとことりは頷く。
それを見て「よし」と小鳩が頷くと、立ち上がり手をパンッと叩く。
「なら、もうこのことはこれでお終い! さ、お腹すいたでしょ? これからご飯の準備をするけど、ことりも手伝ってくれる?」
「ぇ? ……う、うん、ことりも手伝う!」
そう言うと、ことりは立ち上がり台所に向かってパタパタと走っていく。
どうやら小鳩から許しが出たことで、いつもの調子を取り戻したようだ。
それを見て直樹は安堵の息をもらす。
「……ふぅ、よかったよかった。それじゃ、俺はこれで」
「あら、直くんも一緒に食べていったら?」
「え? えっと、いいんですか?」
「別にかまわないわよ……というか、直くん? 普段だってもう少し一緒に食事してもいいんじゃない? こんなに近くに住んでるんだし、直くん一人暮らしなんでしょ?」
「い、いやぁ、家族団欒に俺が入るのも悪いんで」
「もう。直くんは、私の弟みたいなものよ? 家族団欒っていうなら、弟の直くんがいて悪いはずないでしょう?」
そう言われて色々な意味で込み上げてくるものがあり、直樹は少しだけ涙ぐみそうになる。
しかしそれをぐっとこらえて、無理やり苦笑いを浮かべてごまかした。
「……それでも、ですよ。旦那さんにだって悪いですし」
「あの人だって、そんなこと気にするような人じゃないのに」
ふぅ、と少し困ったように小鳩が溜息を漏らす。
その時、クイッと直樹の袖が引かれた。
「……あの、直樹お兄さん。お夕飯、一緒に食べよ?」
「え?」
「あら?」
いつの間にか戻ってきたことりが、直樹の袖を引っ張っていた。
ことりは少し引っ込み思案なところがあり、しかも直樹に対しては苦手意識があったこともあり、自分から直樹を夕食に誘うなど初めてのことだった。
だからことりの口から直樹にお誘いの言葉が出たことに、直樹だけでなく小鳩も口元に手を当てて小さく驚きの声を上げる。
「……じゃぁ、いただいていこうかな?」
「うん! ことり、頑張って美味しく作りますね!」
うれしそうに顔を綻ばせると、再びことりは台所に向かっていった。
「……ふふふ。よかったわね、仲良しになれて」
「……そう、ですね」
やれやれと頭を掻く直樹。
そんな困ったような、しかしどこか照れくさそうにしている直樹を見つめながら、小鳩はニコニコと微笑んでいた。
◇◇◇◇◇
「……ことりちゃんにとって、直樹さんはお兄ちゃんみたいな人なんだね」
「うん!」
穂乃果の言葉にことりは満面の笑みを浮かべる。
「それでね、その時に初めてお母さんと一緒にお料理を作ったの。初めてだったらあんまり任せてもらえなかったし、うまくできなかったけど。
それでも、直樹お兄さんに美味しいって言ってもらえて、すごくうれしかったなぁ」
昔を懐かしみながら、微笑むことり。
それを見て穂乃果ははっと思いつく。
「もしかして、ことりちゃんがよくお菓子を作るようになったのって……」
「えぇ。その時のことが切っ掛けだったのでしょうね」
「えへへ。あの頃はまだうまく作れなかったから、おいしくなかったよね」
「そんなことありません。確かに今の方がおいしく作れてはいますが、あの頃からことりのお菓子は美味しくて、とても優しい味がしました」
「そうそう! あー、思い出したらまた食べたくなってきた!」
「それじゃ、今度また作ってくるね♪」
「うん!」
まるで花が咲いたよう、とはこのことを言うのだろうか。
ことりの「お菓子を作ってくる」という言葉を聞いた時の穂乃果の笑顔はとてもうれしそうで、見てる方も自然と頬が緩んでしまいそうな笑顔だった。
「……さて、それじゃあ、そろそろ練習に戻りましょうか。話を聞いてたら、いつもより時間がオーバーしてたわ」
立ち上がり、皆に声をかける絵里。
時計を見ると、少し休憩するつもりがもう30分近く過ぎていた。
「あっ! ご、ごめんね、話しこんじゃって」
「いいのよ。ことりの思い出話を聞けて、ことりの事がもっと知ることができたもの。それにあの人のことも、少しだけど知ることができたんだからね」
気にすることじゃない、そう手を振りながらにこが言う。
「そうやね。話を聞いた感じだと、いい人みたいやん?」
「まだ会ったばっかりだけど、きっとすぐに仲良くなれるにゃ!」
「そうだね、凛ちゃん。仲良くなれればいいね」
「大丈夫、きっとなれるよ! だって、私たちのファンになってくれた人なんだもん!」
グッと穂乃果が拳を握りしめ、自信満々に言う。
ファン云々に関しては穂乃果が勝手に言い出したことだし、どこにも根拠なんてない。
だけど、それがやっぱり穂乃果らしいなと思い、皆はクスリと笑う。
「……ねぇ、希」
皆がそれぞれ練習の準備を始める中、にこは希に小さく話し掛ける。
「ん? どうしたん、にこっち?」
「話を聞いてて思ったんだけどさ。ことりのあの表情、もしかしてことりって、あの松岡さんって人の事……」
一度、言葉が途切れるが、話の流れから希はにこの言いたいことを理解した。
ようは、ことりが直樹に対して恋愛感情を抱いているのではないかと言いたいのだ。
直樹との思い出話をしている時のことりの表情には懐かしいという感情が見て取れたが、同時に別の感情も含まれているようににこには見えた。
それが直樹への恋愛感情なのではないかと思ったのだ。
「……んー、どうだろうねぇ。というか、にこっち? そう言うことは、あんまり詮索するのもいけないと思うよ?」
「……でも」
希の言葉に納得できず、むすっと不機嫌そうな表情を浮かべる。
ことアイドルに関しては、並々ならない信念を持っているにこ。
そんなにこの言いたいことなど、希にだってちゃんとわかっている。
わかっていて、にこを窘めているのだ。
「別に、今すぐにどうなるものでもないと思うわよ?」
「絵里?」
「えりち」
二人にそっと歩み寄ってくる絵里。
どうやら二人の話を聞いていたらしい。
「仮に、にこの予想が当たっていたとしても、松岡さんだって大人よ?
松岡さんがどう応えるのかはわからないけど、少なくとも急に関係が進展することにはならないと思うわ」
「うん、そうやね。それに、うちらがなんだかんだ言ってても、ただの勘違いでしたで終っちゃうかもしれないやん? 早合点はしないほうがいいよ」
「それは……まぁ、そうね」
確かに、とにこは小さく頷く。
これはにこが勝手にした想像でしかなく、ことりに直接聞いた話でもないのだ。
希の言うように、少し早合点していたかもしれないと反省する。
「っと、まぁ、なんにしてもや。今は練習に集中しよ? みんな、もう始められるみたいだよ」
にこが皆の方を見ると、もうすでに準備は整っているようだ。
確かに今はそのことを気にしている時ではない。
今は次のライブに向けて、練習に集中しなければならない時だ。
余計なことを考えていて練習に身が入らず、ライブの時に力を発揮しきれませんでしたではすまない。
そしてオーバーした時間の分も取り戻すかのように、練習の続きが始まった。
(あとがき)
ことりの膝の傷跡、そして穂乃果と海未は母親のお腹の中にいた時からの幼馴染うんぬんというのは、diary設定ですね。
今更ながら、このssでは漫画、小説、アニメと、いろいろと設定がごちゃまぜになってるところがあります。
全シリーズ読破してる人が見て「あれ、そんなことあったっけ?」って内容があれば、多分私の読み違いかオリジナル設定とでも思ってもらえれば(汗
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ちょっとした昔話。
ことりと直樹が出会った時のこと。