夜、作之助が犀星の部屋へ行くと先客がいた。犀星のベッドの上で柔らかい布団にくるまっているのは、足の部分だけ白い、キジトラの猫だった。
「え! 猫?」
作之助は驚いた。犀星は猫好きだが、自分の部屋には猫を入れないようにしているはずだ。いつだったか、家具を傷つけられたら困ると言っていたのを作之助は覚えていた。
「こら、勝手に先生の部屋入ったらあかんやろ」
しっしっ、と作之助が手で追い払うと、猫は抗議の声をあげてベッドをおり、そのまま犀星の膝に飛び乗った。箱座りになってじっと作之助を見上げる。
「ああ、いいんだ、この子は……」
犀星は猫のつややかな毛を撫でながら言った。
「今日はあんまり寒いから、俺の部屋までついて来ちゃってね。談話室も夜中は暖房を切ってしまうし、今日はこの部屋で寝かせてやろうと思う」
「ええ? ……まあ、先生がええんやったらええですけど」
作之助は不満げに言った。
今日彼は犀星の部屋に泊まるつもりで来たのである。しばらく忙しくてなかなか二人きりの時間が取れなかったから、今日は二人っきりでしっぽり過ごすつもりだった。その中に、猫が一匹。猫一匹くらい、気にならないといえばならないが、気になるといえばなる。
「見てごらん。この子はお腹の毛が長いだろう? 外国の猫の血が入っているかもしれないぞ」
犀星が座った猫のお腹をくすぐると、猫は触りやすいように手足を伸ばした。
「ほら、君も触ってごらん」
甘い態度と表情から察するに、どうやらこの猫は犀星のお気に入りらしい。自分もこの猫とは友好的な関係を築いておいたほうがいいだろう、と作之助は判断した。きらきら笑顔の犀星に誘われるままに、作之助は恐る恐る猫のお腹を触った。
「んにゃああ!」
途端に猫は立ち上がって、作之助を威嚇した。どうやら犀星にはお腹を許しても、ぽっと出の作之助には触らせない、身持ちの固い猫らしかった。
「な、なんやねん。そんな怒らんでもええやろ」
「こらこら、ダメだぞ。織田君がびっくりするだろう」
犀星に優しく言われると、猫は何事か抗議の声を上げた後、犀星の手に顔を擦りつけた。
「すまない。この子はちょっと人見知りでね。慣れればこんなになつくんだが」
「はぁ」
ゴロゴロと喉を鳴らす猫を、作之助はうらめしげに眺めた。いや、あかんあかん。せっかく犀星先生と二人きりの夜なんやから、猫ちゃんなんかにかまけている場合ではない。作之助は気を取り直して、犀星に向き直った。
「そうや、先生。坂くだったところにある和菓子屋、昨日から季節限定の羊羹売ってるの知ってます?」
「なんだって? そりゃ買いにいかなくちゃならないな」
「実は今日、もう買うてきました」
「織田君!」
作之助が差し出した箱を見て、犀星は叫んだ。
「織田君! ありがとう」
「切りましょか」
勝手知ったる犀星の菓子箪笥を開けて、作之助は羊羹用のナイフを取り出した。
「すまないね」
「ええんですよ。先生動かれへんでしょ。その猫ちゃんで」
犀星の膝の上では、猫がすっかりくつろいで、丸まって目を瞑っていた。
「よし。ほな切ります~」
作之助が羊羹にナイフを当てると、犀星が制止した。
「あ、織田君、待ってくれ! それじゃあ薄すぎる。これくらいの幅にしなさい」
犀星は作之助が切ろうとした羊羹の幅が気に入らなかったらしく、作之助の手を取って、切り幅を調整した。
「先生、必死ですやん。どんだけ羊羹好きなんですか」
「だって仕方ないだろ。こんな量じゃ俺は満足できないからな!」
かわいいお人やなあ。作之助はにこにこしながら、犀星が望むだけ羊羹を切り分けた。
「はい、先生。どうぞ」
「ありがとう」
犀星はさっそく羊羹をひと口食べると、満足げに微笑んだ。
「おいしいな!」
作之助は自分の分も羊羹を切って、ひと口食べた。
「おいしいですねえ」
「織田君、そんなちょっとでいいのかい。もっと食べなさい」
作之助が犀星の半分ほどの幅で羊羹を切ったものだから、犀星は心配して今度は手ずから羊羹を切り分けようとした。この時犀星は羊羹に夢中で、膝の上の猫をすっかり忘れていた。犀星が身を乗り出したせいで膝の水平なバランスが崩れ、猫は不服だったのだろう、「にゃおん」一言鳴くと、犀星の腕を噛んだ。
「あっ、こいつ先生咬みよった!」
ちぇい! と妙な威嚇をして、作之助は猫を追い払おうとした。
「大丈夫だよ、織田君。この子は甘噛みがとてもうまくてね。 ほら」
と言って犀星は噛まれた腕を作之助に見せた。
「この子はねずみだって噛み殺せるのに、ご覧、歯型もつかない。存外おとなしい子なんだよ」
と褒めた。ねずみを噛み殺すのにおとなしいとはこれ如何に。先生はえらいこの猫ちゃんがお気に入りなんやなあ。ちょっと嫉妬に似た気持ちを抱いた作之助は、そういえば前に自分も同じようなことを犀星に言われたのを思い出した。
それはまだ二人が恋人になる前のことだ。その日、談話室にはたくさんの人がいたが、何を思ったのか犀星は作之助の隣に座った。まだそれほど親しくはなかった。もちろん作之助は犀星を敬愛していたし、犀星も作之助をかわいい後輩だと思ってくれているのは分かっていたが、だからこそ作之助は緊張した。
ヘタなこと言うて、嫌われたらどないしよう。
内心ドキドキしながら、作之助はいつも通りを心掛けて犀星と話していた。少なくとも自分ではそのつもりだった。軽口をたたき、適度に笑いを取る。しかししばらく作之助と話した後に、犀星はふと気づいたように
「織田君は無頼派などと言われているわりには、意外とおとなしいんだな」
と言った。作之助も驚いたが、近くにいた志賀はもっと驚いたらしい。
「織田がおとなしい~?」
と叫んだ。普段の作之助なら、そんな失礼な志賀に一言二言、気のきいた嫌味を言い返していただろう。しかし、犀星の前でそんなことを言っては品が悪いと思われるのではないか、すぐ志賀に食ってかかる考えなしだと思われたらどうしよう。そこまで具体的に考えたわけではなかったが、ともかく作之助はとっさに遠慮して、何も言い返せなかった。それを見て志賀は「ああ、そういう……」と呟いていて、何やら気恥ずかしかった。
あの頃から随分作之助と犀星の関係は変わったし、作之助もかなり犀星に気を使わないで喋れるようになったが、やはり今でもどこか犀星に遠慮してしまうところがある。これは作之助のせいというよりは、室生犀星という人の持っている資質だろう。遠慮がちな作之助を「心配しなくても、犀さんはそんなことで怒ったりはしないよ」などと励ましてくる中野重治でさえ、議論嫌いの犀星の前では論戦をはじめたりはしない。要は、犀星は権太なヤツを手懐けて、おとなしくさせるのがうまいのだ。そして、自分にだけ懐いた権太なヤツをこうやって猫可愛がりして、さらに骨抜きにしてしまう。
しょせん、この猫とワシは同じようなもんか。そう思うとちょっと悔しい気持ちと、なにか対抗心みたいなものが湧いてきた。
猫なんかに気後れしてる場合か。猫より人間の恋人のほうがかわいいっちゅうところを、この人に見せつけてやらなあかん。
「先生は他のヤツにはかみつくような猫を、先生にだけは牙を剥かないよう手懐けるのがうまいですね」
作之助はそう言うなり犀星の手を取って、かぷり、と指を噛んだ。やわらかく、痕がつかないように。
「ほら、ワシもすっかりキバ無しや」
ぺろぺろと噛んだところを嘗めて、上目遣いで犀星を見上げる。犀星は驚いてまじまじと作之助の顔を眺めていたが、やがてぐっと作之助の両手を取り、動きを封じた。
「織田君、俺は君を飼いネコのように扱ったことは一度もないつもりだ」
犀星はちょっと憤慨したようだった。
「俺は君を尊敬しているし、特別な人間だと思っている。君が俺を特別扱いしてくれるのならそれはうれしいが、手懐けられているなんて感じているなら心外だな」
「そ、そういう意味やないんですけど」
犀星の怒気に触れて、作之助はうろたえた。どないしよう。怒らせてしもた、失敗や。しかし犀星は、作之助の混乱をよそに顔をぐいっと近づけて作之助の目をのぞき込んできた。
「まあ、でも、閨事の遊びとしては悪くないな。僕だけに従順な、かわいい猫ちゃん」
耳元で囁かれて、作之助はびくりと震えた。
「今のは正直、ちょっとぐっと来たよ」
「せ、先生?」
作之助は顔を真っ赤にして、犀星の手を振りほどこうとした。意外にも手は簡単に外れた。あれ? 作之助は肩透かしをくらった気持ちで犀星を見た。
「でも、遊びは羊羹食べてからだな」
ほら、織田君こっちも食べなさい。犀星が手ずから切り分けた羊羹を皿に盛られて、作之助は呆けた。犀星は早くも自分の皿を取り上げて、うきうきと羊羹をひと口大に切っている。切り替え早すぎやろ。そんなに羊羹食べたいんか。
犀星は作之助としっぽりするより、羊羹の方が大事なのだろうか? 猫ちゃんにはもしかしたら勝ったかもしれないが、羊羹には負けたのだと思うとなんだか情けなかった。
「せっかく織田君が俺のために買ってきてくれた羊羹だからな。大事に食べないと」
そう言って犀星は、とても幸せそうに笑った。
「先生……」
「ん?」
もぐもぐと羊羹を咀嚼しながら、犀星は作之助を見上げた。そんな風に言われると、作之助が用意した羊羹だから大切なのかと思ってしまうではないか。本当はただ単純に羊羹が食べたいだけかもしれないのに!
(ほんまにずるいお人や)
先生にはその気はなくとも、甘やかされ、手懐けられ、骨抜きにされてしまって、ワシはなんてかわいそうなんやろう。
「先生、これ食べ終わったら覚悟しといてください」
どんなに従順でも猫は猫、自分の気が済むまでかわいがってもらわなければ納得しないのだから。
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