TINAMIX REVIEW
TINAMIX
めがねのままのきみがすき

・眼鏡を賭けろ!

逆転眼鏡っ娘と乙女チック眼鏡っ娘の形式の違いをもう少し明確にしておこう。逆転眼鏡っ娘の場合、男がパーを出す(眼鏡が嫌い)と予期し、こっちはチョキを出さなければいけない(眼鏡を外さなければいけない)と思っている。しかし、何かのひょうしで間違ってグーを出してしまう。負けたと思う。しかし、男は予想外にも後出しでチョキを出してくれる。負けたと思ったところが勝ってしまう。だから逆転。この逆転は、女の方が早出しをするからこそ成立するのは注意していい。同時にジャンケンポンしていたら、男がせっかくチョキを出してくれたのに、女の方がパーを出してしまったということになりかねない(こういうすれ違いを描くラブコメもたくさんある。『めぞん一刻』など)。

一方の乙女チック眼鏡っ娘は、早出しだろうがなんだろうが、男が何を出そうと思っていようが、常にグーを出し続ける(常に眼鏡をかけ続ける)。または、いろいろ早出しジャンケンをしてみた結果、最後にはグーで勝つことに意味を見出す。チョキで勝ったら1点、グーで勝ったら1万点というルールでジャンケンをしているようなものだ。ここで賭けられているのは、「ほんとうのわたし」という概念、要するに少女のアイデンティティである。逆転眼鏡っ娘の場合は、パーで勝とうがグーで勝とうが同じ点数だから、要は勝てばいいわけである。逆転眼鏡っ娘も乙女チック眼鏡っ娘も、後出しでチョキを出して負けてくれる男が登場してハッピーエンドという形式においては違いはないが、ただ勝つこと自体に重きを置くか、グーで勝つことに重きを置くかで勝負の意味づけがずいぶん異なるわけだ。

「眼鏡を外したら美人になる」という物言いは、要するに「チョキを出したら勝つ可能性が高い」と言い直すことができる。しかし、ギャンブルにおいては、ガチガチの本命で勝つことは価値が低い。倍率の高い大穴を当てたほうがかっこいい。だから、少女マンガは大穴狙いでグーを出した。「ほんとうのわたし」という高価な掛け金を賭け続けた。つまり、眼鏡をかけ続けた。そして勝利し続けた。ただし、その勝利はフィクションの中だけのできごとだった。

藤本の危惧はここにあった。少女たちは大穴にばかり賭け続けているのではないか。大穴を外して胴元に搾取されているだけではないのか。もっと堅実にガチガチの本命に賭けたほうがいいのではないか。そもそも<恋愛>というギャンブルなど、よしたほうがいいのではないか。

藤本の危機感はもっともである。だが、本当に少女たちは大博打を打ち続けたのか? もう少し70年代から80年代の少女マンガ全般を眼鏡論的に検討し、<恋愛>のかたちを追跡しておく必要があるだろう。◆

次回予告

今回は、行為論を用いて眼鏡っ娘マンガの真の構成を示し、従来の「眼鏡を外したら美人になる」などという俗説がいかに根拠のない妄言だったかを証明した。それは統計的にも明らかだが、内容的にも起承転結の原理がそれを証明している。俗説は起・承のランクに過ぎない。転結のランクに達したとき、最後に勝利するのは眼鏡っ娘なのだ。

次回は、1970年以降の少女マンガと<恋愛>について検討し、80年頃の恋愛観と少女マンガの転回を検討する。そして、若者集団を扱った吉田まゆみや西谷祥子のマンガに関し、新たな読解格子を眼鏡論の観点から提出し、先行する宮台真司の解釈図式に対する批判に踏み込む。眼鏡による一点突破・全面展開がいよいよ本格化する。刮目して待て!

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