TINAMIX REVIEW
TINAMIX
めがねのままのきみがすき
・「告白」という恋愛様式

1960年代の少女マンガを読んでも「告白」という単語にお目にかかることはできない。愛の言葉を告げる行為は「プロポーズ」という言葉で呼ばれている。要するに「結婚」が前提になっているわけだ。「告白」という言葉そのものに関しては、1969年頃でも「ある少女の告白:先生、わたしの武司君を返して!」のような使い方をいくつか見ることができる。ただし、「きみのことが好きなんだ」という言葉を告げる行為を「告白」と呼ぶような用法は見いだせない。この言葉の起源については現在も調査中だが、遅くとも1972年にはくらもちふさこが使用していることが確認できる。

「告白」とは、いうまでもなく当初はキリスト教の用語(confess)であった。これは単純にいってしまえば、「自らの罪を絶対者に言葉で白状することで救済される」という儀式である。これを<恋愛>に導入すると「自らの罪(性欲)を絶対者(好きになった男性)に言葉で白状することで救済される」儀式となる。大ざっぱに言えば、キリスト教と<恋愛>の親和性はこの「告白」という様式に認められる。多くの小説や評論も<恋愛>とキリスト教のアナロジーに言及してきた。そして一方、その「告白」の様式が「個人の形成」を促したという議論もお馴染みである。

たとえば柄谷行人は告白についてこう語っている。「日本の「近代文学」は告白の形式とともにはじまったといってもよい。……告白という形式、あるいは告白という制度が、告白さるべき内面、あるいは「真の自己」なるものを産出するのだ。」。この文章は「近代文学」を「少女マンガ」と言い換えても通じる。近代少女マンガは「告白」の形式とともにはじまったといってもよい。「告白」という恋愛様式、あるいは「告白」という恋愛制度が、告白さるべき内面、あるいは「真の自己」なるものを産出するのだ。

また、柄谷が参照したと思われるフーコーだが、彼は告白についてこう語っている。「告白とは、語る主体と語られる文の主語とが合致する言説の儀式である。……それはまた、真理が、自らを言葉によって表明するために取り除かなければならなかった障害と抵抗とによって、自らを真理として認証する儀式である。そして最後に、そこでは、口に出していうということだけで、それを言語化したものにおいては、それが招く外的結果とは関係なく、内在的な変化が生じるような儀式である。」。恋愛少女マンガの様式について、ここまで過不足なく書かれた文章は珍しい。

「告白」は、告白以前と告白以後では決定的に状態が異なる、微分不可能で不連続な「儀式」である。「告白」には成功か失敗か、どちらかしかない。「告白」は愛の状態をデジタル的に「ある」か「ない」かの完全な二項対立で理解する様式であり、アナログ的な「あるようなないような」という中途半端な状態を許さない。少女マンガは「告白」が成功するか成功しないか、そのドラマを主題化するようになる。70年以降の恋愛少女マンガの多くは、「告白」に至る設定と過程を丹念に描く。その一方で、「告白」成功後の恋愛の成熟と発展が描かれることは稀である。「告白」が成功するかしないかが物語のクライマックスであり、「告白」成功後の物語には興味がないわけだ。

しかし、「告白」によって単純に愛が獲得されてしまっては物語でも何でもない。障害と抵抗があるから物語となる。フーコーに従えば、「自らを真理として認証する」ためには「取り除かなければならなかった障害と抵抗」が必要となるわけだ。障害と抵抗を設ける方法は大ざっぱにふたとおりある。ひとつは少女に外在的な障害を設置するもので、もう一つは少女に内在的な障害を設置するものである。外在的な障害とは、例えばライバルや許嫁の存在、病気、親の反対や校則による拘束などである。このような障害を乗り越える愛こそが真の愛なのだ、というふうに物語化される。しかし、外在的な障害の様式は江戸時代にも見いだされる(身分違いの恋、心中もの)。シェークスピアを持ち出すまでもなく、外国にも見られる。70年代以降の少女マンガは、もう一方の障害、少女に内在的な障害と抵抗の条件を設置することで物語化を押し進める。「告白」という恋愛様式は、外在的な条件ではなく、内在的な障害を意識したときに生まれてくるものである。

その内在的な障害として代表的なものが近眼であり、「眼鏡」である(外在的だと思う人がいるかもしれないが、これについては以下の文章で説明する)。

・「告白」への「障害」としての眼鏡の発見

先に1970年以前には眼鏡が負のイメージとして描かれることがなかったことを指摘しておいた。つまり70年以前には、眼鏡が障害としては意識されていなかったことを意味する。眼鏡を障害として認知するという意識の誕生が恋愛における「告白」の導入とほぼ軌を一にしていることは注意していい。眼鏡だけでなく、ソバカス、チビ、デブ、勉強ができないなどなんでもあてはまるが、こういう負のイメージを背負ったキャラクターが1970年以前に主役になることはほとんどなかった(あったとしてもギャグマンガである)。そういうキャラクターを登場させる必然性が物語になかったのである。70年以前には、ほとんど唯一の負の刻印は「貧乏」であった。外在的な障害である「貧乏」がすべての負のイメージであり、それを乗り越えることが物語のカタルシスだった。この状況は、「告白」の導入によって大きく転回した。原罪よろしく負の刻印を付与された少女たちが主役となり、その「障害」をどう克服して「告白」に至るのか。これが1970年以降の恋愛少女マンガの主要テーマとなった。

図12
図12:耕野裕子『ほんの少し抵抗』1980

そして、ソバカスやチビ、ブスなどという諸々の「障害」のなかで、「眼鏡」は非常にユニークな位置を占めている。眼鏡は外すことができるのだ。脱着可能な負の刻印という眼鏡のユニークな位置は、耕野裕子『ほんの少し抵抗』1980にも「わたしの容姿におけるあらゆる欠点の中で唯一自分の力をもって対抗しうるメガネをとるという行動」と描かれているとおりである[図版12]。眼鏡は、内在的な障害と外在的な障害の境界に位置している。このユニークな位置づけゆえに、眼鏡を主題とした少女マンガが大量に描かれる一方、「少女マンガでは眼鏡をはずしたら美人になる」などという勘違いがまかり通ることにもなったのである。◆

次回予告

今回は1970年までの眼鏡っ娘の描かれ方を概観し、従来の「眼鏡っ娘神話」が大ウソであることを示した。併せて1970年頃の少女マンガの転回と「告白」という恋愛様式の登場について記述した。次回は、新たに登場した「告白」という恋愛様式と眼鏡っ娘の関係について、社会学の行為論の知見を用いながら語ることになる。ここで従来の俗説とは異なる、眼鏡っ娘の真の姿を目撃することになるだろう。刮目して待て!


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「ある少女の告白:先生、わたしの武司君を返して!」
『りぼん』1969年9月号。この記事の中身は、ちょっと興味深い。投書した少女は武司くんに密かに憧れていたが、新任の女教師が赴任してきて武司くんを奪ってしまったと告発しているのだ。しかも、家庭訪問など特権を濫用しているのが許せないという内容である。ちなみに小学男子に手を出したとされる女教師は眼鏡をかけているが、お嬢さんタイプで上品という描写をされており、容貌に対する負のイメージは一切ない。

見いだせない
ただ、ラブレターという様式は存在した。そもそもラブレターは平安期に遡って存在している。ラブレターと「告白」とは、「郵便」を介すか介さないかの違いとともに「書かれたもの」と「話されたもの」の違いも含んでおり、興味深い。宮台真司「いまどきの恋文」1997『まぼろしの郊外』朝日文庫、2000も参照。

<恋愛>とキリスト教のアナロジーに言及してきた
22伊藤整「近代日本における「愛」の虚偽」1958『岩波文庫別冊ポケットアンソロジー恋愛について』所収など。

「日本の「近代文学」は~産出するのだ。」
柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社、1980、pp.87-88。

「告白とは、~儀式である。」
フーコー『性の歴史Ⅰ知への意志』新潮社、p.80。少女マンガでは、告白に失敗しても内面に大きな前向きの変化が生じるという作品が多い。

アナログ的な「あるようなないような」という中途半端な状態を許さない
日本の伝統的思考様式にデジタル的な発想がなかったことは、法社会学者の川島武宜が『日本人の法意識』(岩波新書、1967)で指摘している。川島によれば、所有権や契約など西洋ならデジタル的に処理されるものが、日本ではアナログ的に理解されてきた。1960年頃でもこのアナログ意識は日本各地に広範に見られたという。
 最近は逆に、デジタル思考からアナログ思考への転換がすすんでいる。たとえば昨今の脳死問題は「死」をアナログ的に捉える発想を要求しており、従来のデジタル的な「死」の理解枠組みに動揺をもたらしている。

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