TINAMIX REVIEW
TINAMIX
めがねのままのきみがすき
・少女マンガの形式的変化

少女マンガはその誕生以来徐々に変化を遂げてきたが、1970年前後までにそのプロセスが完了し、現在まで続く基本形態を完成させる。これは形式面だけ見ても明らかである。

(1)総合雑誌からマンガ専門誌へ
図7
図7:『りぼん』
1963年9月号

1950年代の少女雑誌は、少女モデルの写真や実写的なイラストを表紙に掲げていた[図7]。60年代後半にはタイガースやフィンガーファイブなどのアイドルが表紙を飾っている。内容もアイドル芸能情報、小説などの読み物、学習に関するコーナーなどが多く、総合的な情報誌の様相を呈していた。このあたりの事情は大塚英志も「総合誌としての『りぼん』」と指摘している。ただ、大塚は総合誌からマンガ専門誌への変化の起点を1974年としているが、それは完全にアイドル情報が消えた時期である。顕著な変化は1969年から1970年の間に始まっている。

例えば、『なかよし』では1969年まで表紙はアイドルの写真とイラストの合成だったものが、1970年には完全にマンガ・イラストとなる。『りぼん』では1969年に表紙がアイドルの写真からマンガ・イラストに切り替わっている。要するに、マンガが看板を張るようになったわけだ。

アイドル情報や小説、勉強に関するコーナーなどが消え、マンガのページ数が増えたことは、雑誌1冊に占めるマンガの割合を見れば簡単に解る。例えば、『なかよし』1958年11月号では、全256頁中マンガは124頁、率にして49%にすぎなかった。1967年3月号でも、328頁中マンガは187頁、率にして57%である。マンガは半分程度を占めるに過ぎなかった。これが1969年7月号には408頁中303頁、75%となる。1971年には80%を超え、マンガ専門誌としての体裁を整える。『りぼん』も同様に、45%(63年12月)→65%(69年3月)→77%(70年1月)→85%(71年2月)と着実にマンガ専門誌へと展開する。

マンガ一本あたりのページ数も大幅に増大する。60年代は12~24ページくらいのマンガが主流だったのが、70年に入ると、100ページ前後編よみきり作品が毎月登場するようになる。連載マンガも40ページくらいが主流となる。その後現在まで30年間、この体裁には大きな変化は見られない。

(2)男性作家の減少

60年代は、赤塚不二夫(代表作:バカぼん)、横山光輝(バビル2世)、川崎のぼる(巨人の星)、松本零士(銀河鉄道999)など、現代の基準ではとても少女マンガなど描くまいと思われている男性作家が少女マンガ雑誌にマンガを描いていた。逆に言えば、少女マンガ独自の領域が形成されておらず、「マンガ」と「少女マンガ」が未分化だったということである。このあたりの事情は、大塚英志や米沢嘉博など、多くの論者に指摘されているところである。簡単に例を挙げておけば、たとえば『なかよし』1958年11月号では、名前から判断してマンガ10作すべてを男性が描いている。これが1964年10月号では9作中5作が女性となり、60年代半ばには女性作家が半分以上を占めるようになる。その変化は急激で、70年代に入ると作家陣のほぼ全てを女性が占めるようになる。1970年1月号では、9作品のうち男性作家は1人だけである。『りぼん』もほぼ同様の変化を示しており、70年以降の男性作家は巴里夫、弓月光、赤座ひではるなど数えるくらいしかいない。

同時にマンガ家の再生産体制が固まる。マンガ雑誌誌上にマンガの描き方講座が連載されるようになり、高額のマンガ賞が設置される。マンガ投稿欄も充実し、優秀者の作品は編集者の批評を添えて名前と絵が掲載される。この形式は現在まで踏襲されている。マンガ家自身に対する興味も増大し、マンガ家個人の情報が掲載(通知票や3サイズまで暴かれていた)されたり、サイン会が開催されるようになる。

これらの変化は、単純に見れば、(1)は少女マンガの市場が単独で成立した状況を示し、(2)はそのマンガ市場が「少女」という対象(消費者としても生産者としても)を発見(創出)し、再生産のサイクルに入ったことを示している。

それに伴って、マンガの内容も変化している。つまり、消費者としての「少女」が対象として実体化したとき、少年を対象としたマンガとは違ったテーマが登場してくる。これが<恋愛>だった。>>次頁

page 2/4
*

総合誌としての『りぼん』
大塚英志『『りぼん』のふろくと乙女ちっくの時代』ちくま文庫、1995、p.68。

「マンガ」と「少女マンガ」が未分化だった
大塚前掲書p.118。『別冊太陽 子どもの昭和史 少女マンガの世界Ⅰ』p.7。

==========
ホームに戻る
インデックスに戻る
*
前ページへ
次ページへ