TINAMIXレビュー
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「マンガを読んできてよかった」

つい先日、富沢ひとしの『ミルククローゼット』第4話(月刊アフタヌーン連載中・講談社)を読んで、僕はこう思った。

『ミルククローゼット』 富沢ひとし作品そのものに衝撃を受けたのはいうまでもない。作者の才能に触れて恍惚を覚えたのも確かだ。非物質的に変形する身体描写、極限まで抑えられたセリフ、「カワイイ」とも「気持ち悪い」ともつかない奇妙で魅力的なデザイン、ソリッドな美しさをたたえたヴィジュアル。しかし、それ以上に、そこに「マンガ」という表現の持つ力、可能性を感じた。もっと言えば「マンガ」というジャンルの持つ底力を見た気がしたのだ。ああ、6歳のときからずっとマンガを読み続けてきてよかった、マンガを愛してきてほんとうによかった。そう感じられたことが、体が震えるほど嬉しかった。

『ミルククローゼット』は、先行する作品『エイリアン9』(全3巻・秋田書店)とほぼ同じスタイルで描かれている。もちろん、僕は『エイリアン9』にもひじょうに強い衝撃を受けていた。「これは新しいマンガの在り方だ」と思い、はっきりと「名作」だと考え、周囲のマンガ読みの人に薦めてまわった(そのなかには、たとえば竹熊健太郎氏や夏目房之介氏もいた)。

『エイリアン9』については、たとえばこのように語られている。

富沢ひとしは、2000年における大友(克洋)的破壊力を持ち合わせている。デッサンコンプレックスなき世代の、純粋な記号論的マンガの完成。「エイリアン9」を見たときのゾクッとするビジュアルショックは、(大友克洋の)「宇宙パトロールシゲマ」に感じたそれに負けないものだった。内容といえば、ロリコンキャラ達3人組がクリーチャーとたわむれて、レズビアン的な恋愛と異生物との合体共生をしてゆく筋立ての、完全なるオタクマンガである。キャラの顔だち、設定、ストーリーの無根拠さ。オタク的記号とマンガ的な記号の歴史の重層化が、一気に圧縮されて誰もいない風景が見えて来る全く新しいマンガのモードが出現した感がある。
<( )内引用者補足 「SUPERFLAT」村上隆編・著 マドラ出版 2000>

村上隆によるこの反応を引用したのは、村上が『エイリアン9』を「マンガの全く新しいモード」とし、かつての大友克洋の出現と対比しているためだ。『宇宙パトロール・シゲマ』は、大友作品でも初期のものである('77年発表)。

大友克洋がマンガ史上の大きなエポックであることは論を待たないだろう。数多くのエピゴーネンを生み、表現上の新たな技術をマンガに持ち込み、ジャンル全体に不可逆的な変化をもたらした作家である。大友がどう革新的であったかについては、さまざまな角度から指摘できるが、村上はこう述べている。

80年代マンガ界は、大友克洋的世界観とその他、とも言えるほど、業界を席巻した。彼のモードは、手塚(治虫)的なマンガのレールをねじ曲げてしまったのだ。独特のキツネ目の日本人キャラクターの描き方からして、エポックとも言える西洋的写実主義の徹底、すなわち外部化された視線の獲得がなされている。もとより手塚的なアカデミズムコンプレックスが蔓延していたマンガ界だけに、彼のデッサン力は想像以上に浸透した。こうして、日本マンガ世界と3Dなる西洋美術史的概念は一つになったのだ。 <村上隆・前掲書>

大友が西洋的な意味でのリアリズムをマンガで大きく展開したという指摘は正しい。だが、それをキャラクターの「絵」のみに求めるのは不十分だろう。たとえば、後の『AKIRA』では「キツネ目」のキャラクターは後退している。

大友の初期の登場人物達は身もふたもないほど日本人の顔をしていた。(中略)こうした描写がまず読者に抱かせるのは、これはリアルなドラマであるという感覚だ。(中略)『幻魔大戦』を経て、大友もまたエロティシズムやかわいらしさ、かっこよさをキャラクターに付加するようになっていったのである。
<マンガからのエクソダス―大友克洋についての覚書15項 米沢嘉博「総特集大友克洋 ユリイカ 1988.8臨時増刊」青土社 1988>

その変化が米沢のいうようにアニメ映画『幻魔大戦』(1983)のキャラクターデザインを担当したためであるかはともかく、主人公とヒロインの目はあきらかに大きくなり、キャラとしては「かわいく」なっている。しかしそれは、大友が自身のマンガ全体の「リアリズム」を後退させたということなのだろうか? 「リアル」は絵柄のみに規定されるものなのだろうか? そうではないだろう。

むしろ、我々は大友のエポック性をキャラクターの描き方以外の要素に求めるべきだろう。これは、富沢ひとしについても同じである。富沢を大友と対比し、大友的なパラダイムと対立するものとして革新的である、という村上の指摘はいい。しかし、その対比をキャラクターの描き方の差異に還元してしまっては富沢の革新性を見失うことになる。それでは「いままでは大友的なリアルな絵がよかったけど、これからはデフォルメのきつい"ぷに絵"だぜ」などと安直に絵柄の変遷、もっといえば流行りすたりの問題に回収されてしまう危険もある。たしかに絵柄はマンガ作品における他の要素を規定するものであるが、だからといって絵柄の差異について論じることがすべてを語ることにはならない。ついでにいえば、美術史の言葉ではコマの運動について言及することができないということも、ここで付け加えておくべきだろう。

では、富沢ひとしがもたらした衝撃について、主に大友克洋的なマンガ表現と対比することによって考えてみることとしたい。それが絵柄やヴィジュアル的なアイディアに回収しきれないものであるのならば、他にどんな要素が考えられるだろうか。

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