ギャルゲー小特集
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B.表現形式と小説要素の導入

ここからが少し重要だ。というのも『弟切草』の価値を知っていればよい。しかし通例、ノベルゲームと言われても単純に「画像+文章」のイメージから、「電脳紙芝居」や「挿絵付き小説」の一種として誤解されかねないからだ。こうした誤解はとかなくてはならない。実際私の考えでは、ノベルゲームには従来の表現に劣らぬ価値、またはそれとはもう少し違った価値がある。

第一に形式の問題。画像+文章の組み合せが、電脳紙芝居にしか行き着かないようでは想像力が貧しい。それゆえもう少しましな参照例として、私は『ラ・ジュテ』をあげることにする。いまでは『12モンキーズ』の原作として知られるクリス・マルケル監督のこの短編映画は、モノクロのスチール写真のみで構成された、映画としては異質の、映像史的に重要な作品だ。この静止画の連続で出来た映画を日本語の字幕を追って観た時に、私はノベルゲームから得た快楽と同じものを感じた。それゆえ静止画像+文章という形式には、ゲームにとどまらぬ普遍性があるように思える。

第二にノベル要素の導入によって、このジャンルには文学の価値が継承された。無論それはあまりにも小さな規模なので、従来の文学世界を揺るがすものにはなっていない。しかし少なくとも『弟切草』はサスペンスホラー、『かまいたちの夜』はミステリー、そして『雫』はサイコ青春小説と、一個の小説として読ませるだけの力を持つ作品に仕上っている。とりわけ『雫』は、主人公が繰り広げる捻れた妄想といい、それを描出する一人称の文体といい、どこか大江健三郎の青春小説を彷彿とさせる。

第三にノベルゲームが、文学の血縁にありながら、なによりもゲームであること。ここで言うゲームとは、単純にコンピュータを使った遊戯を意味しない。絵画、文章、写真、映画、音楽など従来のあらゆる表現形式一切を、バイナリーデータに変えてコンピュータ上に統合、再現することを可能にし、かつそこにプレイヤーが介入することが出来る、最先端のメディアだ。このようなメディア史的視点に立つとき、ノベルゲームを書籍媒体の単なる電子化ではなく、プレイヤーの感情移入によって書籍媒体で味わうのとはまったく別種の経験を生み出すあたらしいメディア、インタラクティヴ・メディアのひとつだと認識することが出来るのだ。(しかし紙数の関係上、残念ながら感情移入のメカニズムについて語る余裕はない。とりあえずゲームキャラ、あるいはゲーム世界と、プレイヤーである「私」との距離感が限りなくゼロになる、とだけ言っておこう。)

C.巧みなマルチシナリオ

ノベルゲームの核である、マルチシナリオの価値はあまりうまく理解されていない可能性がある。物語における一本の本筋を軸に、その他ボーナス的な別シナリオが分岐している、そんなイメージがおそらく一般的だろう。しかしこの形では、マルチシナリオを十全に生かしきっているとは言えない(この差が、『弟切草』と『かまいたちの夜』との評価の差にも繋がっている)。その点『雫』は、ギャルゲージャンルの肝である複数ヒロインとマルチシナリオを巧みに組み合わせつつ、物語表現の質自体をぐっと高めている。

もちろん『雫』のシナリオにも本筋と呼びうる物語の軸はある。しかし複数のヒロインシナリオが織り込まれているために、各分岐に質的な差はほとんどない。具体的に言うと、主要ヒロイン三人のハッピーエンド+バッドエンドを軸に、合計13のシナリオから構成されている。とりわけ筆頭ヒロインであり、毒電波の原因でもある、月島瑠璃子のシナリオは印象的だ。

まず瑠璃子シナリオは、ハッピーエンドで、幸せな結末を望むプレイヤーのカタルシスを一方で満たす。他方でトゥルーエンド(本来なら、バッドエンドと呼ばれるはず)と呼ばれる、精神崩壊を来して病室に眠る瑠璃子をただ見つめることしか出来ないエンディングを用意。その結果瑠璃子は、小説的な必然性すら感じさせるこのシナリオで、コアな層のハートをがっちりとつかんだ。このような重層的な作りは、マルチシナリオでしか出来ない、ノベルゲームの達成だ。

同様の巧みさは、副ヒロイン新城沙織のシナリオにも見られる。沙織のバッドエンドは、毒電波に操られた彼女が自らの喉をハサミで突くという、相当陰惨なものだった。しかしこの陰惨さが逆に「沙織ちゃんを救いたい!」とプレイヤーに強く思わせる。違うシナリオが読みたい、ハッピーエンドが読みたいと、さらなるゲームプレイの意欲が、俄然高まるわけだ。ところがようやく、夕暮れにたたずむ沙織のハッピーエンドに到達したプレイヤーの脳裏に、ハサミと喉と鮮血にまみれた沙織バッドエンドの惨劇が想起されるとしたら、どうだろう。つまり私たちは、沙織が死者としてしか存在しない宇宙を後に放棄して、彼女が生きている側の宇宙にやってきたことになるのだ。大江健三郎が『個人的な体験』のなかで「宇宙の細胞分裂」と表現した世界を、『雫』のマルチシナリオは余すところなく描き出す。私たちは『個人的な体験』の主人公「バード」が経験したであろう感情を、今ここで反復することになる。しかし可能世界=マルチシナリオを描き切るとは、こういうことではなかったか。たった一度きりの結末に強いられないことの価値は、まさしくノベルゲームでしか表現し得ないような感情を生む。

沙織バッドエンド
小織バッドエンド(上)
小織ハッピーエンド(下)
沙織バッドエンド
(c)Leaf

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