指先の感情移入
「…マルチ」↓
「――はい、浩之様」↓
「ほら、なんとか言えよ?」↓
「――なんなりと、ご命令ください」→
「…違うだろ、マルチ」↓
「――……」→
「前みたいに笑顔、見せろよ」↓
「――……」→
「前みたいに甘えてこいよ」↓
「――……」→
「また、頭なでてやるからさ」↓
「――……」↓
「…な?」→
「――なんなりとご命令ください」↓
「………」→
「――なんなりとご命令ください」↓
「………」→
「――なんなりとご命令ください」↓
「………」→
「――なんなりと…」↓
ぷつんっ。→
そんなことを、それから何度か繰り返した。↓
だけど、マルチは決して、あの日の笑顔を見せることはなかった。→
言わずと知れた『To Heart』屈指の名場面、マルチ編エピローグの一幕であるが、見てのとおり平のテキストにすると「――……」がいくつも並んでいてどうにもユルいし、ヴィジュアルノベルという形式によって小説でいう「地の文」の役割をグラフィック等が引き受けているとはいえ、マルチと主人公浩之のセリフ間になんの状況・心理描写も書き込まれていないため文章が貧しく見えてしまう。そもそも「Aが語りかけるがBは沈黙したまま」という状況を描くにあたって、その沈黙を「――……」などというダイレクトかつひねりのない書き方で表すなど、「そう言って彼女は楽しそうに笑った」とでも描写すればよいものを「(笑)」で済ませてしまうのと同様、ある意味手抜き(形容・描写にはセンスと技術が必要だが、沈黙を「――……」などの記号で書き表すのはなんの工夫も必要としない)といえるのだが、しかしゲームテキストの場合はこれが許される。
念のため、これはゲームが純文学(胸の悪くなる言葉だ)などと比べて安い文化であると認識されているからではなく、印刷された読み物とは異なる方法で読まれるからにほかならない。
このシーンにおいて読者=プレイヤーは、浩之と「心を失ったマルチ」とのやりとりを外から眺めているのではなく、まさしく浩之自身としてマルチに語りかけているのだ。もちろんそれは「泣かせるくだりなのでつい感情移入してしまう」などという問題ではない。クリックによって次のテキストを表示させるというシステムそのものが、主人公に対するプレイヤーの感情移入、一体化を促すのだ。
ここでのクリックは単にテキストを送るための操作ではなく、「マルチに語りかける・マルチの反応を見る」ためのアクション、コマンドとして機能している。浩之と一体化したプレイヤーはマウスの左クリックや○ボタンで「また、頭なでてやるからさ」と語りかけ、反応がないことに落胆し、もう一度僅かな期待を込めて次のアクションを起こし、以前のような反応を求め何度も語りかける浩之の徒労感は、次のテキストに期待を込め何度もクリックを繰り返す徒労感として、プレイヤーと共有される。
平のテキストを一方的に受け取るだけではこのような感覚を抱くことなどまずありえない。「行動する作中人物/それを読む読者=プレイヤー」の間に横たわる距離を、「読み進めるための操作」を介在させることによってゼロへと近づけているのだ。
こうした「テキスト送りの操作による盛り上げ」の演出は、『ファイナルファンタジーVII等においても効果的に用いられている。
セフィロス「(中略)私の寄り道はもう終わった。
後は北を目指すのみ。
雪原の向こうに待っている『約束の地』。↓
私はそこで新たな存在として星と一体化する。
その時はその娘も……」
クラウド「……だまれ。↓
自然のサイクルもおまえのバカげた計画も関係ない。↓
エアリスがいなくなってしまう。↓
エアリスは、もうしゃべらない。
もう……笑わない。
泣かない……怒らない……。↓
俺たちは……どうしたらいい?↓
この痛みはどうしたらいい?↓
指先がチリチリする。↓
口の中はカラカラだ。↓
目の奥が熱いんだ!」↓
宿敵セフィロスの手にかかり物言わぬ屍となったエアリスをかき抱いての、主人公クラウドのセリフである。『FFVII』前半部のクライマックスだ。
この場面においてもテキスト送りのクリックは、単なる操作としてではなくセフィロスの演説を「だまれ」と遮るためのアクションとして、また、言葉の一つ一つを噛み締め、やり場のない怒りと哀しみを吐き出すためのアクションとして機能している。
『FFVII』をプレイしたことのある者ならば自然と納得できることだが、こうしたクリックポイントの挿入はテキストをどのようなリズムで読ませるか作り手の側からコントロールできるという利点の他、登場人物への感情移入を容易にさせるという効果があり、実際、平テキストとして読むのと○ボタンにより一言一言テキスト送りしながら読むのとでは印象が大きく異なる。クラウドのセリフに涙した人は、そのとき自分がどのような気持ちで○ボタンを押していたのか振り返ってみるとよいだろう。
また、テキスト送りのために必要な動作はクリック一つで済むなどできるだけ無意識的に行えるものであることが望ましい。いちいち「コマンドメニューを開く→「話す」を選択→「誰に」を選択→セリフを選択」などという操作を求められると、プレイヤーの意識がゲーム世界から引き離されてしまうからだ。もっとも、初期のRPGでは人物へ語りかけたり扉を開けたりするたびにコマンドを要求し、「○○はトビラを開けた」などのいかにもゲーム的な文章によって「ああ、いま自分はRPGの世界にいるんだなあ」と違和感を楽しませる演出方法も存在したのだが。
改行や改ページなどの挿入を工夫することでテキストのリズムをより強い形でコントロールしようと試みた者は、非デジタルメディアである小説の書き手にも存在する。
いやなかんじがするな。
→
いやなかんじ。
→
生まれてからずっと、いやなかんじだった。
どうしてそのことを忘れていたのだろうな。でも。
思い出しつつあるんだ。
それにしても、わたしの声は実に嗄れてしまっているぞ。哀れなほどに。
こんな声は大嫌いだ。わたしの好きなのは。好きなのは。好きなのは。
もっとちがった声なんだ。
→
すこし、ナイスなきもちになってきたぞ。
そうとも。
ベリ・ナイス、ベリ・ナイス、ベリ・ナイスなきもちに。
→
ほら。声さえ若々しく。徐々に。
→
上は高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』の一節。「→」はこの個所で改ページされていることを示し、「いやなかんじがするな」「いやなかんじ」「ほら。声さえ若々しく。徐々に」の文はそれぞれ1ページ中に一行のみ記されている。
「いやなかんじがするな」と次の「いやなかんじ」の間に改ページを挿入することで、二つの言葉の間に数秒とも数日とも判別つかない微妙な「間」が演出されていると、そう分析することも可能だろう。82年に刊行された『さようなら、ギャングたち』はその前衛性によって注目を浴び、高橋は一躍ポストモダン文学の旗手となったのであるが、ヴィジュアルノベルなどのゲームテキストを読み慣れている者の眼には、前衛的でポストモダンであるはずのこの文章がごく自然でありふれたもののように映ってしまう。
高橋の選択した技法が実はつまらないものだったなどと論じるつもりは一切ないし、筆者自身、十数年前にこの作品を読んで衝撃を受けたクチである。注目すべきは上記の引用個所と同等、もしくはそれ以上のテキスト制御力を持つゲームテキストの叙述形式が、誰もその特殊性について論じることなくごく当たり前のものとして受け入れられてしまったという事実についてなのだ。
なるほど、確かに『さようなら、ギャングたち』が斬新なものとして評価されたのはそれ以前に存在した小説との比較が可能だったからであり、小説や映画、コミックに比べまだ浅い歴史しか持たないゲームの場合は、比較するべき過去の作品が存在しなかったために特殊性が目立たなかったのだという論じ方も可能だろう。しかし実際のところは、ゲームやゲームテキストをまっとうな評論対象と見なすものがほとんどいなかったからなのだといったほうが、事実に近いのではないだろうか?
もちろんゲームについて論じる者は決して少なくないし、ネット上のBBS等でも活発な議論が行われている。だが、どうも現在のゲーム論(特にAVG・ギャルゲーについての)は物語内容の部分を対象としたものに偏っている感があり、叙述形式にまで言及したものはあまり見受けられない。この辺り、やはりゲームにも本格的な評論が必要であると思われるのだが、どうだろう。この場合の評論とは、作品の優劣について語り権威付けをするといった意味合いのものではなく、「この感動や驚きはどのような技法によって生み出されているのか」を分析し、さらに熱中できる作品を生み出す参考とするためのものである。
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