TINAMIX REVIEW
TINAMIX
逆境哀切人造美少女電脳紙芝居『少女椿』

【終幕】訪れざるフィナーレ

さて、最後にちょっと話は変わるが、観客とは何か、映像作品とは誰のものか、という話をさせて頂いて、このささやかな電脳見世物紙芝居のフィナーレにかえさせて頂こう。

阿部和重氏による小説『インディヴィジュアル・プロジェクション』や、ブラッド・ピット主演の映画『ファイト・クラブ』をご覧になった方ならご存知かと思うが、映画上映に際しては、映写技師は相当の裁量権を持っている。上映フィルムをつなぎかえる際に尺を縮めたり伸ばしたりするのは言うに及ばず、音量を調節したりピントを甘くしたり、果ては無関係なフィルムを挿入することすらできてしまう。映画はスタッフ、キャストだけのものではなく、映写技師のものでもあるのだ。

だが、考えてみて欲しい。映写技師にこれほどのことができるのなら、観客にも相当のことができるのではないだろうか? 気にくわないシーンで音を立てながらポップコーンを食べる。濡れ場に来たらわざと音を立てて唾を飲み込んでみせる。コスプレをして劇場に乗り込む……。いくらだって方法はある。人にあらすじを紹介するときに、「自分だったらこうしたのに」というストーリーに改変して喋ることだって可能だ。ネットを使う手だってあるだろう。映画は作り手のものであると同時に、観客のものでもあるのだ。

アニメだって実写映画同様、観客のものだ。既にオタク・シーンでは、アニパロやコスプレ、コミケといった多彩な観客参加の手法が確立している。その気になればもっと多種多様な方法を考えることができるだろう。いや、これまでにもさまざまな観客参加の手法を編み出してきたオタク・シーンのことである。アングラ演劇人や前衛映画の作家たちが思いもよらなかった手法を編み出す可能性は、大いにあると言って良い。オタク・シーンはこと観客参加の手法に関しては、常に時代の最前衛を突っ走ってきたからである。

ところが、どういうわけか『地下幻燈劇画・少女椿』だけは、観客が参加するどころか、ごく通常の鑑賞すらろくにできない状態に置かれている。観客参加のための仕掛けを十重二十重に織り込んだアニメであるにもかかわらず、一部の保守的な映画人やアニメ関係者、右翼の風上にも置けないアホな連中、国家権力、さらには映倫によって五体を寸断され、がんじがらめにされているのである。そして、見世物関係者との間の不幸な行き違い(と俺は思う)がそれに輪をかけている。まさに絶体絶命の窮地に陥っているのだ。

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スズナリ公演時の演目、幽閉される女 (c)丸尾末広 霧生館

というわけで、『地下幻燈劇画・少女椿』は四面楚歌、前門の狼・後門の虎にはさまれ、まさに瀕死の状態にある。だが、というかだからこそ、俺はこの作品には公開される価値があると考えている。興行主になろうとする人は、おそらく滅茶苦茶な災難に直面するに違いない。いや、ひょっとするとついに上映できない可能性だってある。でも俺は、最終的に上映できなくとも全く構わないとさえ思う。重要なのは、観客が主体的に創造行為に関わること、そして観客が各自の想像力で作品を創造しなおすこと、だからである。興行主や観客(になるはずだった人)の中に、オリジナルな『少女椿』ができあがればそれでいいし、それはできあいのフィルムを見る行為よりも、遙かにクリエイティブな行為になるはずだからだ。

少女椿
少女椿

がんじがらめになり五体を寸断され、座敷牢に幽閉された人造美少女のうめき声が、闇の奥から聞こえている。侘びしげなすすり泣きと絶叫とが、銀幕の向こうから洩れている。少女椿・みどりちゃんの運命やいかに? その答は、あなた自身の想像力にかかっているのである(※)。◆

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「インディヴィジュアル・プロジェクション」
阿部和重(1968〜)の小説。新潮文庫版(362円、ISBN4-10-137721-9)での入手が容易。この小説の主人公、映写技師のオヌマは、仕事中に映写するフィルムに、勝手に他のフィルムを挿入するという「サービス」の常習犯で、観客にサブリミナルなメッセージを送り続けている。非常にメーワクかつバロウズ的な映写技師である。

インディヴィジュアル・プロジェクション
「インディヴィジュアル・プロジェクション」
(c)阿部和重 新潮社

「ファイト・クラブ」
1999年、20世紀フォックス、デビッド・フィンチャー監督作品。この作品に登場するタイラー(ブラッド・ピット)という男は、家族向けの映画にポルノ映画を挿入して喜んでいる映写技師である。ちなみにこの映画自体にも、サブリミナル・カットが4カ所ほど挿入されているらしい。なお、この映画と「インディヴィジュアル・プロジェクション」には、暴力への傾倒や主人公が政治運動に巻き込まれていくくだり、ラストのオチなど、そのプロットにかなりの共通項がある。チャック・パラニューク(ポーラニック)の原作(ハヤカワ文庫620円、ISBN4-15-040927-7)も含め、比較してみるのも面白いかもしれない。

観客のもの
例えば戦前の邦画では、戦災による焼亡のため、「故・淀川長治氏の頭の中にしか存在しない」作品が数多く存在した。こうした作品のいくつかは淀川氏によって特権的に語られ、「淀川氏の映画」として今もなお語り継がれている。おそらくその中には、記憶違いや意図的な改変を受けたものも含まれているに違いない。人によってはこれを修正主義と呼んで非難する者もいることだろう。だが、そもそも映画とは、スクリーンの上にしか存在しないものなのである。「観客の観客による観客の中にしか存在しない映画」を作って、なぜ非難されなければならないのだろうか?

(※)
完全に観客に下駄を預けっぱなしでは無責任だろうから、ヒントを一つだけ。近々俺は秘密結社を立ち上げるつもりでいる。結社の目的や名称は一切秘密である。興味があれば、俺宛てかTINAMIX編集部宛てでメールを送って欲しい。想像力の革命はいつでも郵便から始まるのである。

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