TINAMIX REPORT
TINAMIX
『戦闘美少女の精神分析』トークライブ・レポート

この問題に片をつけるかたちで東氏が主張したのは「作り手と受け手を分けて考えたい」なぜなら「受け手のことを考えても、自己肯定や世代論にしかならない」からだという。ある作品をリアルタイムで受容した世代が、まるできれいな地層をなす図が想像される。つまりこの問題で東氏のとりあえずの主張は、作り手の側を考えたいということだろうか。

この文脈で考えるなら、作り手=作家のセクシュアリティという問題を交えた「性の問題」を語った部分は、なるほどおもしろく聞けた。まず竹熊健太郎氏の疑問に答えるかたちで、斎藤氏が「ヒステリー化」を説明。つまり男性が女性に恋愛するとき、男性が女性を「ヒステリー化」すること。これは「表面の魅力にひかれつつ、内面のトラウマを求める」行為だという。『永遠の仔』を例に引きながら、同書のヒロインの魅力はトラウマを抜きにしては考えられないと語る斎藤氏。とはいえ戦闘美少女には肝腎のトラウマがない。だからファリック・マザーのように現実に対応物を求められない。しかしそれがなぜリアルなのか?

竹熊氏が「ファリック・ガールの唯一の現実対応物がセクシュアリティなんでしょ?」と更に問う。斎藤氏曰く「それが論旨です」――つまりなぜ(戦闘美少女で)抜けるのか、という問題。このあたりは永山薫氏の本領発揮で、登壇の挨拶も「『リボンの騎士』で抜いていた永山です」といきなり決まってる。続いて作品のなかにセクシュアリティを読みこむことが抑圧されていた経験を語る小谷真理氏を受けつつ、「少女マンガを読むこと自体が恥ずかしい」時代に、その「女々しさ」を愛していたと告白。ロリコン物を「去勢された少年=ショタ」として見ていた発言といい、まるで臆するところがありません。

作家的セクシュアリティの文脈で言えば、76年頃に起こった少女マンガブーム(同時に少年マンガ=梶原一騎の低迷、パロディ化)に遡りつつ、いわゆる「乙女ちっく」に影響された同級生への驚きを回顧する竹熊氏。彼らは自分の描く女の子に自己同一化していた節がある、との指摘を継いで、伊藤剛氏も「ロリコンマンガはマッチョイズムに基づくポルノグラフィではないと思う。ロリコン作家の多くは自分の描く可愛い女の子がはっきり自分だと告白する」ときっぱりした口調で断言する。

こうなるとキャラクターの図像がなぜそこまで強く自己投影させるのか、という問題が気になってくる。これは僕の些細な感想だけど、「ファリック・ガール」の定義と照らしあわせたとき、あの「欠如したトラウマ」は実は「作家自身のトラウマ」にほかならないのではないだろうか。図像やセクシュアリティの問題にシフトしつつある、「網状書評」の今後の展開に大いに期待したいところだと思う。

またあえて指摘するなら、今回のトークライヴ(あるいは『戦闘美少女の精神分析』)で言及されていた作品群がほぼアニメ作品であり、ゲームについての語りが不十分だった理由。それは、ストーリー経験が重要なゲームにおいては、キャラクターへの感情移入を誘発させる装置として「物語上のトラウマ」はきわめて有効な手段だからだと考えられないか。とりわけギャルゲーの場合、いまや「トラウマ」は制度化しつつある。ここでの「萌え」にはもう少し別の分析が求められるかもしれない。(伊藤氏が提示した「萌え」のハイコンテクスト性が通用しにくい、とか)とはいえ歴代リーフゲームのキャラを総出演させた同人格闘ゲーム『Queen of Heart』の魅力を思い出すとき、「戦闘美少女」概念の重力とその桎梏を僕は驚きとともに痛感するのだ。◆

戦闘美少女の精神分析
関連情報
『戦闘美少女の精神分析』(左図=表紙)
斎藤 環/太田出版

東浩紀ホームページ

直接→網状書評 no.1『戦闘美少女の精神分析』をめぐって
http://www.t3.rim.or.jp/~hazuma/project/ml-reviews/sentoindex.html

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