阿部和重 INTERVIEW
TINAMIX
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基調報告

『頭文字D』の特性は大きく分けて三つあると思われます。

一つは、カーバトルシーンでのコンテワークの素晴らしさ。特に8巻あたりまでは、いちいちのバトルの新しさをモンタージュの新しさが支えていくといった具合であり、演出技法が続々と開発されていくその過程はマンガの技術論的にも興奮を禁じ得ない瞬間の連続でした。

そこからまた、スポーツを主題にすることの出来るおそらく唯一のジャンルとしてのマンガ、という論点を導くことも可能でしょう。マンガこそは、実際の試合をメディア上で観戦することの興奮に拮抗できる魅力あるフィクションを描けるほとんど唯一のジャンルなのではないでしょうか。マンガのモンタージュが作り出す時間性、マンガ特有の時間の支配の仕方が、それを可能にしていると思われます。

スポーツは20世紀に入ってから文化上の地位を(フランス社会学風に言えば象徴資本を)高めたものなわけですが、世界文学はわずかの例外を除いてこれに対し軽蔑と無視を持ってのぞみ、同じく20世紀において文化上の地位を高めた点では判走者でもある映画も、コメディなどを除いては今やスポーツに対するリトライを止めているという状況です。これに対して、あるいはマンガは、スポーツを描くためにこそ生まれたのではないかとすら錯覚するほどの表現技術上の優位を示しているように思われるのです。手塚から始まるとされている近代マンガは、そのコンテワーク=モンタージュを映画から継承したことにおいてまぎれもなく映画の子供です。では、何がマンガのモンタージュに映画とは別の運動と時間性の表現を可能にしているのでしょうか。

二つ目は、『頭文字D』が、車に関心のない人にも読ませ、惹きつけ、ついには車への欲望を読者へとうえつけてしまう力を持っているマンガだということ、つまり、誘惑するメディアとしてのマンガの問題です。かつては文学がポピュラーなメディアとして恋愛の欲望などを人に教えていたわけですが、たとえば恋愛への誘惑に関して言えば、戦後日本の場合、それはむしろ映画、テレビドラマ、少女マンガなどによって文学がとって変わられていく過程だったと言えるでしょう。

また、一の論点とも響きあいますが、優れたスポーツマンガには必ずこの誘惑の力があります。たとえば、『あしたのジョー』や『タッチ』などのモニュメンタルな作品、近年で言えば『シャカリキ!』(『め組の大吾』の曽田正人が少年チャンピオンで描いていたものです)やこの『頭文字D』も、主人公たちはまず例外なく主題となっているスポーツに無関心な人物として出発します。無関心な読者をもその無関心において主人公に共感させ、誘惑する、こうした引きの技法化もまた、マンガ特有のものでしょうか。

しかし、誘惑する支配的なメディアは常に移り変わっていくものです。次のメディアとして最有力なのはゲームでしょう。そしてそれはすでに支配的であるとすら言えます。ゲームのインタラクティヴィティはプレイヤーの感情移入を誘惑する最終的かつ決定的な手法でしょう。では、これに対して、すべての旧来のメディアはどのように対抗すべきでしょうか。文学は、あるいはマンガは、どのように誘惑力を再組織すべきでしょうか。

三つめは、『頭文字D』を可能にしている日本固有の文化の問題です。具体的にはそれは、峠と走り屋のネットワーク、この二つの問題です。

サーキット以外の、自動車のポテンシャルを最大限に引き出される道としての峠という着目はまったく斬新であり、かつ、他国からの報告を知りません(他国にはマンガが無いから?)。峠(これはすでに和製漢字です)という舞台ならではの、登りと下りの二種目の発生とそれぞれの魅力という複雑さも『頭文字D』の素晴らしいところですが、こうしたいわゆるヒルクライム、ダウンヒルといった競技側面も、従来ではツール・ド・フランスなどの自転車競技でばかり知られていた醍醐味でしょう。

また、峠を単位とした走り屋のネットワークというものが記録されていることも面白い。そこから、マスメディアをすり抜ける細やかでホットなネットワークが多層的に存在している日本の現状を、どう表現がすくうかという論点を導くことも可能でしょう。

さて、ところで、自分はもう一方のクルママンガ、『湾岸ミッドナイト』にはどうも鈍感なのです。上記のようなことはこのマンガとはあまり関係しないし、『湾岸』の主題はクルマというフェティッシュと人間との関わり、といったものなわけですが……。しかし、『湾岸』は『頭文字D』と人気を二分するほどのものなわけですから、やはり私が鈍感なだけかもしれない。逆に阿部さんから『湾岸』の注目点など事前に伺えれば幸いです。


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