TINAMIX−キャラクター素解析

キャラクター素解析(1) ― ねこみみ試論

諸メディアで描かれたねこみみたちを大量に消費している私たちには、必然的に、ふと直観めいた考えが浮かびあがる。むろんそれだけでは誰も説得されない。だがデータを提示しつつ検証する前に、それらをとりあえずの作業仮説としてここに述べておきたい。

■作業仮説1.「ねこみみキャラは原則として耳を隠す」

ここで「耳」とは人間の側頭部に付いている器官である。仮にねこみみに「耳」が描かれていると、彼は四つの耳を備えていることになる。これは単純に考えておかしい。それゆえ「ねこみみ」キャラを描く際、ほとんどの例で「耳まで隠れる」髪型が選択されている。彼の側頭部に耳があるか否か、それはさして問題ではない。ねこみみの「耳」は、つねにすでに隠されている。

たとえば「おかっぱ」はその典型だろう。『痕』(Leaf/1996)の柏木楓が、なぜかくも執拗にねこみみを付けて描かれるか。「ねこみみヴァージョンのオフィシャルイラストが存在するから」では、半分しか納得できない。「なぜねこみみ楓を水無月徹は描いたか」という疑問は残るからだ。

あるいは、劇場版『機動戦艦ナデシコ』(佐藤竜雄/1998)のホシノルリが、なぜテレビ版同様「ねこルリ」として描かれないのだ。「ちょっぴり大人になったから」では説得されない。劇場版のルリはすっきりまとめた髪型になっており、「耳」がきれいに出ている。私たちの考えでは、そこには美学的判断が絡んでいる。

またこの仮説をめぐって、ねこみみが似合うか否かはほとんど問題にならない。なぜなら、ねこみみ自体はキャラを選ばず、似合わないキャラを探す方がむしろ難しい。あれだけリボンの似合わない榊さん(『あずまんが大王』メディアワークス/2000)でさえ、文化祭のコスプレ姿は大変かわいかった。

注: ひとつ例外を指摘しておこう。『夢空界』(天野こずえ・エニックス/1996)収録の「小さな聖夜」に登場する黒猫のグリムは、少年という設定である為に(髪が短く)「耳」が見える。なお同作は「擬人化」手法を巧みに使った名短編でもある。

■作業仮説2.「おおきなリボンはねこみみを代補している」

頭部に結びつけられた大きなリボンはねこみみと図形的に相関しており、それはあまりにもねこみみに似ている。ならば素直にねこみみキャラに描けばよかったのだろうか。そうとも思える。だが私たちの考えでは、ふたつの理由から「大きなリボン」が採用されている。

ひとつはリアリズムの維持。前述の分類作業のなかで確認したように、ねこみみの導入は基本的にリアリズムの秩序を侵す。こうした侵犯によって、描きたい物語が成立しなくなると制作者が判断した場合、コスプレで対応するか、さもなくばねこみみを放棄するだろう。そのとき大きなリボンは、ねこみみより遙かに現実的なアイテムに思える。

ふたつめはねこみみと無関係に選択されうる。髪型を複数の要素で構成したい場合、頭部に何のオプションもなく空疎な状態に耐えられない場合、いずれにせよ頭部(あるいは全体のシルエット)のバランスを取るために、大きいリボンが結びつけられるのだ。そして実は、ねこみみもまた、こうしたバランスを重視した結果採用されている場合もあるだろう。

まとめよう。前者はねこみみを図像的、かつ欲望的に代補する、物語の整合性をめぐる問題。後者は純粋に図像のバランスの問題。一方は代替不能であり、他方は代替可能である。

■作業仮説3.「ねこ−みみ」

ここでようやく私たちは、ねこみみを「ねこ」と「みみ」に分けて考えることができる。

以下の作業はいささか抽象的だ。まず作業仮説2.を敷衍するなら、「ねこ」は代替不能性、「みみ」は代替可能性に相当する。「コスプレや被り物のねこみみを肯定するか否か」という対立も、言い換えれば「みみだけで、ねこみみと呼べるか否か」という対立になるわけだ。

とはいえある物語を描き、そこにねこみみを配置するなら、何度も繰りかえすがリアリズムとの整合性がどこかで求められる。『綿の国星』が設定していた「絶対的なコミュニケーションの断絶」は、私たちの考えでは「ねこ」と「みみ」の分割にほぼ等しい。「ねこ」はコミュニケーションの主体には(絶対的な意味で)なれないが、「みみ」は私たち人間と等質の存在=主体として生きることができる。

つまり図像のバランスの問題、SFやファンタジー設定という口実の問題、各々のコンテクストのなかで、着脱可能なねこ帽子を使うようにして「みみ」は自分の存在をどこまでも隠し、擬態する。ところが、ねこみみを扱った作品のなかには、先に分類しつつ述べたように、もはや隠すことも擬態することも放棄しつつあるものが増えている。

こうしたリアリズムの完全なる抹消こそが「ねこ」と「みみ」を再び一致させる運動、つまり「ねこみみ」である。とはいえ完全なる抹消とはなにか――どこか遠い、誰も知らない世界を描くことだろうか。違う。空想に支えられた異世界(ファンタジー)でも、科学的想像力に支えられた未来(SF)でもない。限りなく現実に近い世界=日常を描きながら、あらゆる非現実的なアイテムや要素が、現実を支える秩序(リアリズム)を蹂躙し、破壊し続けることにほからない。

そのときねこみみ少女は、なに食わぬ顔をして、しっぽを左右にふりながら、日常を舞台にした(作品)世界を自由に歩き回っているだろう。魚でもくわえていようものなら、ご愛敬だ。

■作業仮説4.「漫符としてのねこみみ」

とはいえ、上に述べたような試みは、非リアリズム=マンガ、アニメ的リアリズム、ここでは端的に「漫符としてのねこみみ」として描かれてきたと思われる。私たちは、ある特定の感情を表現する際、ぴょこんと立ったねこみみをしばしば眼にする。こうした瞬間的な「ねこ化」は、マンガやアニメのなかでも、とりわけオタク的な作品に特有のものだろう。

その典型的な参照を、たとえば私たちは『魔法騎士レイアース』(CLAMP・講談社/1994)のヒロイン・獅堂光の魅力的、かつ頻繁な「ねこ化」現象に認めることができる。マンガ表現の秩序以外にルールを持たないこと。漫符としてのねこみみが、いつから、どのようにして発達してきたのか、これはおそらく最も検証が必要とされる課題に違いない。◆

Page 2/2