No.999428

小料理屋「萩」にて 第一夜 童子切 五

野良さん

式姫の庭の二次創作小説です。

前話:http://www.tinami.com/view/998493

2019-07-18 21:56:10 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:733   閲覧ユーザー数:719

「屋根の意味があんまりありませんねー」

 雨滴……いや、酒の雫というべきか、今では店内至る所で、天井から滴る酒が土の床や卓上を叩く状態となっている。

「外に行くなら止めねぇよ、姐さん」

 安普請を当てこすられたと思ったか、親爺の機嫌が悪い、童子切は肩を竦めただけで、特にそれには返事を返さず、雨が分厚く視界を遮る外を眺めた。

「これ全部お酒なんですかね、豪気な話ですねー」

 舐めて確かめる気にはなれないが、外から霧のように漂ってくる代物の香りからすると、水では無さそうではある。

 酒は好きだが、呑んで酔うだけあればいい。

 何でもそうだが、いかに好きな物とて、過剰に流れれば下品に堕するだけである……酒風呂に浸かりたい訳では無い童子切としては、これはさまで嬉しい状況では無かった。

 それにしても、これは天の酒蔵が抜けたか、無限に酒が湧くと言われる仙人の瓢箪がひっくり返りでもしたか……何とも妙な状況だ。

 童子切は天井から滴る酒を土器に取って、僅かな光を求める様に戸口の方に向き、色を確かめた。

 良く見ると黄色がかった色をしたそれは、やはり何かの穀物から造った酒だろう、彼女は更に、それに鼻を近づけた。

 嗅ぎ慣れぬ香りが鼻を抜ける。

「呑みなさるのかね?」

 その店主の言葉に、童子切は僅かに首を振ってから、一つ頷いた。

 いかに酒好きの童子切とはいえ、正直、こんな得体のしれない代物を口にしたいとは思わないんだが。

「ちょっと気になる事が有りましてねー」

 僅かに含んで舌先で転がす。

 間違いなく、これは美酒だ、それも先ほど頬に滴った物と同じ酒。

 つまり、これだけの量の同じ酒を誰かが降らせているという事か……それとも。

 二口目は僅かに大目に口に含み、香りを鼻に潜らせ、味を口全体で確かめる。

 

 やはり……ね。

 

 薄く笑って、童子切はその酒の残りを床に捨てた。

 パシャリと音を立てたのは、床に酒が浸みて来ている証か。

 最前一舐めした時の、彼女の感じた事は間違いなかった。

「気になる事とやらは、何か判りなさったかね?」

 童子切の背に掛けられた親爺の言葉に、童子切は振り向き、真面目な顔を返した。

「ええ、一つだけですけどねー」

 雨を背に薄暗い店内に向き直った童子切に、店内の視線が一斉に向く。

「何が?」

 弱々しい商人の言葉に、童子切は肩を竦めた。

 彼女の後ろで雨音が強まる。

 世界が更に暗さを増す。

 その闇の中に浮かぶ、白皙の顔の中で、淡い紅色の唇が開く。

 

「これは、私の知らない味」

 

 童子切の言葉に、唖然とする一同。

 何を当たり前のことを、この女は言ってるんだ……。

 だが、それには頓着せず、童子切は空の土器を指先で弄びながら、言葉を継いだ。

「つまり、日の本のお酒では無いって事です」

 その言葉に嘲笑と呆れの混ざった顔が向けられる。

 まぁ、無理もあるまい、童子切がいかなる存在か知らねば、外見にはまだうら若い美女が口にして、信憑性が伴う言葉では無い。

「……でかい口を叩きなさるねぇ、あんた、この国の酒を呑みつくしたんかね」

 漁師の嫌味な視線を涼しく流し、童子切は肩を竦めた。

「私ね、こう見えて、北は陸奥(みちのく)の果てから、南は今ここまで旅をしてるんです」

 言葉を失う一同を軽く見回して、彼女は言葉を続けた。

 確かに先々の全ての酒を呑んだ訳では無い。

 そも、酒というのは余剰の穀物なり果物が取れる所でしか産まれない、豊かさの象徴。

 未だそこまでの余裕を持ちえない土地は幾らもある。

 だが、言える事はある。

「このお酒に溶けてる穀物の味も水の味も、覚えが無いんですよー」

 百年少々か、友を求め、日本の津々浦々を巡り歩いてきた、その地の食と水は、舌が覚えている。

 酒は水と穀物、果実、そしてそれらを醸す霊妙な気の活動の精髄。

 虚心に口に含めば、その土地と空気が語り掛けて来る。

 だが、この酒は、童子切に判る言葉では語り掛けてくれなかった。

 

 童子切の言葉に、一同が静まり返る。

 静かになった店内に、びしゃびしゃという水音が響く。

 もう、ぽたりと落ちる水滴では無い、至る所から水が白く糸を引く様に天井のそこかしこから滴ってくる。

 このままでは屋根が抜けるか……だが、逃げた所でここに戻ってしまう以上、ここ以外のどこに行けばいいのか。

 そんな絶望的な状況から逃避したいのか、一同は童子切の話に乗る様にざわめきだした。

「おい、あんた商売人だろ……この姉さんの言ってる事はどうなんでぇ?」

 老爺が痩せこけた指で商売人の腕をつつく。

「た、確かに酒はお国柄が出ますが」

 佳き水の湧く地には、佳き酒が生まれるの言葉もある。

 酒を商品として扱った事はあるが、味の蘊奥に関しては……。

 そう言葉を濁す商人を片眼で見て、店主が童子切の方に向く。

「で、これが唐天竺の酒だとして……姐さん、それが何だってんですかい?」

 とにかく結論を欲しがるのは、彼の短気故か、不安の表出か。

 結論というのは、事実から個々人がそれぞれ、自分の能力に応じて見出す物なんですけど……ね。

 人の結論をちゃんと受け止める為には、自分の結論を得た上でないと、自分の立ち位置を失う。

 安易に他人の結論に乗っかるというのは、その知的怠惰のツケを払わされる危険と背中合わせ。

 ではあるのだが……まぁ、それを凡夫に求めるのは酷というものか。

「このお酒が外つ国の物だという事から言えそうな事ですかー」

 そこで童子切は一旦言葉を切って、再度店内を見渡した。

 鯨油が残り少ないのか、店内の灯りが更に暗い。

 ゆらゆらと揺れる暗い灯りの中で、篠突く酒の雨を背にした童子切の白い顔に、濃い影が落ちる。

「そうですねー……例えば、この怪異は日の本の神様や妖怪の仕業じゃなさそうだ、とか」

 鯨油の灯明の一つに、上から降って来た酒が掛かったのか、じゅっという火がとぼる音と共に、闇が更に濃くなる。

 彼女の目の前に、まるで盥でもひっくり返したかのように、酒が降り注ぐ。

 いや、彼女の前だけでは無い、至る所から店内に酒が降ってくる。

 地面に跳ねた酒が靄のように店内に満ちていく。

 呼吸をするだけで酒精が体の中に入ってくる。

 あの老人など、既に恍惚とした顔で椅子に座り込んで、天井から降る酒を器に取って口に運んでいた。

 童子切の鹿皮の沓越しに、じわりと水気が迫る気配を感じる。

 酒が世界に満ちて来る。

 その時、童子切の鋭い耳に、遠雷のような低い音が聞こえた。

「おやおや、焦りましたかね」

 低く呟いた童子切が軽く地を蹴って卓の上にひらりと立つ。

「客人!あんた」

「不調法は後でお詫びしますが、そこに居ると危ないですよー」

 童子切の言葉と軌を一にするように、戸口から、安普請の板塀の間から、酒がひたひたと店内に入り込みだし、徐々に水位を上げていく。

「……これは」

 流石に水の危険には商売柄敏感と見える、漁師の男もよじ登るように机の上に立った。

 その後に続くように、商人、店主がそれぞれ卓上に上り、意外にも、あのへべれけになっていた老爺など、意外な身軽さを示して柱をするすると登り梁にしがみついた。

 その一同の足許に向けて、じわりじわりと水位が上がり、酒の香りが更に濃くなっていく。

「はてさて、これはまた冗談みたいな状況ですねー」

 店主の穴の開いた蓑笠が、藁座が、空の瓶子が、酒の面にぷかぷかと浮かぶ。

 徐々に自分達の所まで迫る酒の面を、恐怖の目で見る卓上の人々を見ながら、童子切は一つ頷いた。

 ふぅん、なるほど。

「こ、このままじゃ……わしらは……」

 溺死。

 その先が言えずに喉を引き攣らせる店主に、僅かに皮肉な目を向けて、童子切は水面を睨んだ。

「どうせ一度は死ぬ身なら、こんなのも中々に風流じゃないですかねー」

 あっはっはと気楽そうに笑いながら、童子切の頭は鋭く思考を巡らせ続けていた。

 もう少しで……一つの絵が見えてくる気がする。

 限られた時間の中で、この酒に沈むのが先か、自分が何かに気が付けるのが先か。

 誰かは知りませんが、面白いじゃないですか。

 剣戟の争いならば無論の事だが。

 この童子切、酒の勝負でも、負けた事は無いんですよ。

 

「呑み過ぎて川に落ちての溺死は聞いた事があるが」

 豪気な事じゃな。

 そう言いながら肩を竦めた仙狸に、童子切は苦笑を向けた。

「酒で溺れそうになるのは、中々に稀な経験だと思いますよー」

 確かに、そう呟いて、仙狸は自分と童子切に酒を注いだ。

 紫の色も鮮やかな茄子の素揚げに、大根おろしと醤油を添えた物を童子切に差し出す。

「秋茄子とは、嬉しいですね」

「幸い、この庭は未婚者の群れじゃからな」

 遠慮なく出せて結構な事じゃよ。

「秋茄子を、嫁に食わせりゃつけあがる、ですか……妙な言葉ですよねー」

 短い人生に限られた胃袋、ならば美味しい物を分け合って、気楽に楽しく生きれば良い物を、そう言いながら嬉しそうに箸を入れ出した童子切を見ていた仙狸が、低く呟いた。

「それにしても……酒で溺死か」

 ふ、と酒を含んで、曖昧な目を童子切に向ける。

「お主なれば、それも本望だったのではないか?」

 皮肉でも無さそうに、そう口にしてから、仙狸はほろ苦く笑った。

「……ふふ、確かに千載一遇の好機ではありましたねー」

 仙狸の言葉は不快では無かった。

 彼女もまた、自分と同じ。

「どうせ酔生夢死の我が身なら、ああいう面白い死にざまも悪くは無かったんですが」

 韜晦でも何でもなく、そう心底から思えてしまう事がある。

 天地に等しき命を、心を持ったまま過ごす存在が、その魂の片隅に住まわせてしまう虚無が囁く時がある。

 だが、それを超えて、自分も仙狸もここに居る。

 一緒に酒を酌みたい友が、今もこの天の下のどこかを彷徨っている……。

「まだ少し、この世に未練が有りまして」

「……そうじゃな」


 
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