マコトがそれを見つけたのは、ちょうど俄か雨が窓ガラスを叩き始めた時だった。
カビ臭い押入れの奥で、忘れられたように存在していたその水中メガネは、埃を被っていて月日の経過を伺わせる。
マコトはそれを手に取ると押入れから頭を出した。埃を軽く払い、持っていた布巾でレンズを拭く。
部屋は片付けの最中で、蓋を開けたダンボールがあちこちに散らばっている。
それを踏み越えながら、マコトは部屋の隅にある姿見へと向かった。
正面に立ち一度自分の姿をじっと見つめた後、水中メガネを着ける。
先程降りだした俄か雨が、潮騒に聞こえる錯覚。記憶の波が一気に打ち寄せて来る。
マコトはその波に逆らわず、身を任せるようにして目を閉じた。
マコトを乗せた車が防波堤沿いの道を走り続けて二時間。
車窓から覗く海は、夏の強い日差しを受けて定まらない反射を繰り返している。
窓を開けると、熱風が顔を撫でる代わりに潮の香りが車内に広がった。
じっとりと汗をかきはじめるが、不思議と嫌な感じはしない。
潮風に吹かれ、マコトの短く纏めた髪はたゆまなく揺れていた。
海沿いから少しそれて、五十メートルほど。そこに叔母の家はあった。
マコトは荷物の中から水中メガネを取り出すと、頭に着けて玄関へと走って行く。
両親は呆れながらも、マコトの後を追った。
「こんちはー!」
「いらっしゃい。あら、また大きくなったわねー」
玄関には叔母が出迎えてくれていた。マコトの頭を撫でながら、叔母は両親と形式的な挨拶を交わす。
その間マコトはある人物を探していた。
「ねえ、アキラは?」
叔母は少し困ったように眉根を寄せると、ため息混じりに答えた。
「部屋に篭っちゃって出てこないのよ。せっかくマコトちゃんが来てくれたって言うのにねえ」
マコトは不思議に思いながら、玄関からすぐ見える階段を見上げた。
「お邪魔しまーす」
マコトは叔母の脇を抜けるようにして階段を駆け上がった。
二階にあるアキラの部屋は、暑いというのにドアが堅く閉ざされていた。
「おーい、来たぞー」
中から返事はない。仕方なく、マコトはノブを回した。
アキラは部屋の中央に寝転がって、漫画を読んでいた。窓は開けられていたが、部屋の中は蒸し暑い。
「うあ、暑いー。なんでドア閉めてんの」
マコトの問いにも、アキラは特に反応を示さず視線を漫画に向けたままだ。返事の代わりに笑い声が返ってくる。
「今年も裏の海行こうよー」
アキラは何も言わない。マコトは仕方なく、部屋の隅に腰を下ろした。沈黙の中、潮騒がマコトの耳に入ってくる。
アキラはそれが聞こえないと言わんばかりに笑い声のトーンを上げた。
その時潮騒に混じって、男の子の声が聞こえた。
「おーいアキラー! 海行こうぜー」
アキラはベランダに出るとその声に答える。
「おーいいな、今から行くよ」
アキラはマコトに視線を向けることなく、部屋を出て行った。
取り残されたマコトは、ただ呆然とその様子を見ているだけだった。
潮騒に乗せて、女だから、という言葉がかすかに聞こえた気がした。
マコトは布団の中で目を開けた。
水中メガネを抱いたまま布団の中に入ったマコトだったが、結局一睡もすることが出来ない。
マコトはのそのそと布団を出て蚊帳をくぐると、縁側の沓脱ぎ石に置かれたサンダルをひっかけて家を飛び出した。
夜中だというのに、外は相変わらず蒸し暑い。辺りには虫の声と潮騒だけが響いていた。
去年はアキラと一緒に歩いた道を、一人駆ける。点々と続く街灯を次々と追い越して行く。
防波堤沿いの道を横断し、階段を降りる。岩陰で戯れ合い、二人して裸のまま泳いだ海。それが、目の前に広がった。
マコトは服を脱ぐと、裸になった。手に持っていた水中メガネを着けて、海へ駆け出す。
月明かりに照らされて、海に道標が出来ているように見えた。
その道標に向かって手足を力任せに動かし、深く、深く潜っていく。溶け込んでいく。
水滴が視界を覆い始めるが、それが海水なのか涙なのかは分からなかった。
水中メガネを着けている間のマコトは、他の誰よりも男の子だった。
ゆっくり目を開けると、姿見に映った自分が目に入る。水中メガネを外して、全身を眺めた。
あの頃短かった髪は肩まで伸びている。眉は綺麗に整えられ、大きな目がこちらを覗く。
胸も膨らみ、腰には括れが出来ていた。紛れも無い、女の子。
ふっ、と微笑むと、マコトは水中メガネをダンボールへと仕舞う。
マコトの耳にはもう、潮騒は聞こえなかった。
Tweet |
|
|
1
|
1
|
追加するフォルダを選択
掌編小説です。