男は、燐光の道としか言いようが無い場所を一人歩いていた。
ただ、その手に、淡い光を放つ札を松明のように掲げ、歩みを進める。
闇の中に細く細く伸びる一筋の光。
それはさながら、仏教の説話で語られる、極楽から地獄に垂らされた一筋の蜘蛛の糸のような。
だが、それを手にした彼は結局……。
(いかんいかん、ろくでも無い想念だな、こりゃ)
周囲は朧で曖昧な闇。
目を凝らせば、様々な何かが見えそうな、向うからも覗き込む眼が見えそうな。
そんな、どこか猥雑な騒々しさを薄皮一枚向うに隠した……そんな闇。
(この道は、冥府と人界を、常にない方法で無理やりつないだ物)
冥府と人界、その間に蟠(わだかま)る様々な世界を、無理やりに貫いて作られた、祈りの道。
(故に、それは少し手を伸ばせば異界に触れられるような、非常に脆く、そして危うい道です、くれぐれも帰りによそ見や、独り言などしませんように)
わき目もふらず、無駄口叩かず家に帰れ、か。
さんざ遊んだ子供に言う言葉だな、こりゃ。
(余計な事を考えるのも駄目です、力ある「モノ」が近くに居た場合、意識を引き摺られますよ)
おっと……そうだった。
男は、意識を右手にした札に戻した。
(これは冥王が、貴方が現世に戻る事を許可した証の札、そして貴方の帰る道を指し示す案内役となります)
夜摩天から手渡された札が、彼の手の中でひらりと踊る。
(……そっちか?)
男の意思に応えるように、札が頷く様に動く。
(あの味噌汁君も大概だったが、この札君も面白いもんだな……)
翳して置くと、時に右に、時に左に、そして時には後ろにそよぐ。
妙な動きではあるが、男は逆らうことなく札の動きに従い、歩みを進めていた。
(貴方の感覚では後戻りや左右への移動など、無駄な指示に見える事があるかもしれませんが、過たずその札の動きに従って下さい)
前を向いたまま、時に数歩後戻りしてから前に進む……。
彼女の言う、その無駄とも思える動きの説明は、彼の記憶に引っかかる物があった。
(えーと、それは、禹歩(うほ)って奴か?)
こうめが練習していた、呪術に用いる変わった歩の進め方を思い出しながら、男が夜摩天に顔を向ける。
それに、夜摩天と閻魔が頷き返す。
(あれを知っているなら話は早いわねー)
(そうですね、あの類の、呪術的な意味のある歩みだと思って下さい)
禹歩は良く知られた呪術の歩法だが、ああいった歩みの多くは異界に入り、また出る為の歩き方。
そういう、ややこしい事しないと、多分迷うと思うのよ、この道は。
そう眉間に皺を寄せながら、閻魔が言葉を継いだ。
(私らの使う本来の道なら、ある程度は安全に戻れるんだけど、そっちを通ってたら、多分間に合わないわ、その札の導きに間違いなく従ってね)
閻魔の言葉に頷きながら、夜摩天は男の顔を正面から見上げた。
(私たちからの注意はこれだけです……どうかご無事で)
そう言いながら、じっと向けられた冥王の浄眼を男が受け止める。
きりっとした瞳の奥に、ほんの僅かな揺らぎが見える。
厳正にして、心優しき冥王よ。
死んだ事を喜ぶ気は更々ないが……それでも
(色々ありがとう、貴女に会えて良かった)
(……そうですね、私も、同じ思いです)
にこりと笑って、夜摩天は手を差し出した。
(ゆめゆめ、我らとの約定を違えませぬよう)
差し出された手を……あの凄まじい膂力からは想像も付かない華奢な手を握る。
細くひんやりした繊細な手。
彼女はこの手で、この世界の人々の生を裁き、次なる道を定めるという重責を担い、誇りと、常に消えない疑問と恐れを胸にしながら、それでも怯むことなく進んでいる。
そんな風に生きている人が居る、それを知れただけで……俺が一度死んで、ここに来た事に意味は有った。
(ああ、約束する)
一つ頷いて、夜摩天の手を離した男が光の輪に向いて歩み出す。
(冥府から応援だけはしてるわ、当分こっち来るんじゃないわよー)
(閻魔大王に応援してもらえるとは、身に余る光栄だ、それじゃ)
背中越しに手を振って、彼は光の中に歩み出した。
あれから、どれ程歩いたのか。
世界を一周した程にも。
その感覚に矛盾するようだが、同時に庭の散歩程度にも思える。
朧な闇の中、時が、空間が、次第に曖昧になっていく。
どれだけ歩けば、現世に届くのか……。
ぺしっ。
男の手を、札が叩いた。
「おっと……」
曖昧な場所に身を置く時は、自我を基準にするしかない、故に己を強固に保つべし、だったっけ。
あれは鞍馬の講義だったか、それともこうめに漢籍を読んでやった時の記述だったか。
「ありがとよ、札君」
その言葉に、札が彼の手の中で、前に進めと言いたげに、ぴらぴらと動く。
その導きに従い、更に一歩踏み出す。
ふわりと、彼の足許の燐光が舞い上がり、辺りを一瞬だけ、明るく照らした。
その明かりが、男の周囲の陰影を浮かび上がらせる。
何かが居る。
辺りを見渡したくなる衝動に駆られるが、冥王達の戒めを思い出し前だけを見る。
歩みを進める。
錯覚だろうか、ひやりとした手が、背中を掠めたようにも感じる。
ひたひたという足音が、後ろから聞こえる気がする。
左右に朧な何かが視界を掠める様に見える。
足が止まる。
振り向きたい、駆け出したい、叫びたい、耳を塞ぎたい……。
押し込めていたあらゆる感情が、周囲を包む闇の中から伸びてきた手に、引き出されていくように感じる。
ぴらぴら。
その時、男の翳した手の中で、確かな感覚として、札がひらひらと動くのを感じた。
それが、辛うじて彼の理性を繋ぎとめた。
「……そうだったな、札君」
もう一度、彼は自分の顔の前に、札を翳し、その動きだけに目を凝らした。
その動きだけに神経の全てを集中する。
「俺は、信じて前に進むしか、無いんだよな」
彼は、足を踏み出した。
そう、それで良いんです。
私も、貴方も。
何があっても、前を見て。
何が立ち塞がっても、何が背後で蠢こうと……前に進む生き方を選んだんですから。
札を通して、あの人の声が確かに聞こえた。
その言葉に背中を押されるようにして、更に歩を進めた男の体を燐光が包み込む。
冥府であの光を潜った時に感じた、あの感覚。
この門を作ってくれた人の祈りを感じる。
あの最後まで名を知る事も無かった陰陽師、こうめ……そして式姫のみんな。
ありがとうな。
光の輪を潜った彼の前に、その先には進ませまいと立ち塞がる人影があった。
その外見には見覚えが有ったが。
おっさん……じゃねぇな。
ぎろりと彼を睨み、食いしばった歯の間から呪詛の声が漏れる。
「来たかぇ」
「おう、残念だったな化け狐」
おっさんは、間に合わなかったか。
「戻って来たぜ」
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式姫の庭の二次創作小説です。
前話:http://www.tinami.com/view/994506
兄ちゃんが歩くだけで一話使うとか、何考えてるの?