「いらっしゃいませー」
「すいません、四月から大学行く関係で、アパート探しているんですけど、ネッ」
「あ、新入生の方ですねー?」
「はい、そ」
「おめでとうございますー! どちらの大学ですか?」
「法治大学なんですけど、ぼ」
「わあすごい! 私もそういうとこ行ってみたかったですー」
「あの」
「お部屋ですよねー、どうぞこちらへ、パソコンでいろいろお見せできますー」
「実は、ネットで内覧予約した木野なんですが」
「あ……あー! そうでしたー! すいません、すっかり忘れてましたー! 実はー、あの部屋、えーと五〇四号室でしたっけー、ついさっき契約決まっちゃったんですよー! もうホントすらすらすらーって。すいません、木野様に連絡する時間無くてー。あ、でもでも、同じような部屋あるかもなので、ソッコー探しますんで、ホントごめんなさい」
「そうでしたか、ありがとうございます」
「いえいえー、ホントすいませーん……えーとー、同じような部屋だとー……あ! これなんかどうですー? 千八号室」
「あ、ほんとにまったく同じですね、間取りも、住所も……五〇四号室と何が違うんですか?」
「天井の高さが二倍なんですよー」
「それは……いいこと……なんですか?」
「とっても広く感じると思いますよー」
「そうですね……あれ?……家賃……」
「二倍ですねー」
「……二倍は、厳しいですね……」
「そうですかー。だと、ほかには、えーと、んー、あ! これなんかどうです? 二百五十四号室です!」
「……間取りが同じで、住所も同じで、値段が二分の一……もしかして、天井の高さ……」
「二分の一ですねー」
「……もしかして、百六十八号室とか七十二号室とかもあります?」
「よく分かりましたねー! ネットには出てないんですよー?」
「天井の高さが三分の一と七分の一で」
「すごいですー! もしかして理系ですかー?」
「どちらかといえば……。あの、大体分かりましたので、このへんで……」
「そうですかー、残念ですー、やっぱ五〇四号室がいいですよねー」
「そうですね」
「シュレーディンガーの猫って知ってますー?」
「えっ? シュレーディンガー、ですか?」
「量子力学ですー」
「えっと、えー、はい、大雑把になら……」
「なんかー、木野様を見てるとー、シュレーディンガーの猫みたいだなーって」
「……えっと、アパートの話ですか?」
「はい、つまりですねー、今まではー、五〇四号室に住める木野様と住めない木野様が同時に存在していたわけですよー。それがー、私という観測者の存在でー、五〇四号室に住めない木野様が確定してしまったんですー」
「……宗教の話ですか?」
「私がいなくなれば、たぶん、五〇四号室に住める木野様と住めない木野様が同時に存在している状態に戻れると思うんですよー。もしかしたら、それはそれで幸せなことかもしれないんですけどー、やっぱ、マクロな視点では不自然ですよねー」
「なんか、僕よりずっと理系ですね」
「専門学校卒ですー」
「少し見直しました」
「ありがとうごさいますー」
「でも、煙に巻こうとするのはいけないと思います」
「えへへ」
決して、彼女のあとをつけていたわけじゃない。偶然だ。だから、彼女が五〇四号室の玄関を開けて中に入っていくのを見たのも偶然だ。
大学生になって初めての一人暮らし。憧れのトーキョー。田舎で二十年間を過ごしてきた僕は、何をするにもワクワクして、どこを見ても人がいて、毎日鼻血が出そうなくらい興奮して夜も眠れないから、当たり前のように、あっという間に、夜型人間へ移行していた。
一にサークル、二にバイト、三四が睡眠、五に勉強、の順番は不動になってしまい、始発でアパートに帰るのが当たり前、最終電車で帰ろうものなら友人が「体調悪いの?」と聞いてくる始末。
その日も勿論始発でアパートに帰っていたけれど、秋口の未明の空を見ているうちに、何故だか急に歩きたくなってしまった。結果的に僕は最寄駅の一駅前で降りて、一駅分の散歩を楽しみ始めた。
駅前といっても都心から離れているし、未明だし、歩いている人は少ない。歩いている人がいたとしても、僕とは反対方向、つまり駅へ向かって歩いている。
そんな中、僕と同じ方向へ歩いていく人が一人だけいた。街灯でチラチラ照らし出される後ろ姿は見覚えがあって、その人が持ってるバッグで確信した。同じサークルの桜ちゃん!
淡い恋心を抱いていた桜ちゃんを、こんな時間に、こんな場所で見かけることに運命を感じてしまった僕は、桜ちゃんに話しかけることに緊張してしまって、桜ちゃんの後ろをずっと歩く格好になってしまった。まずい、これじゃあストーカーだ、早く追いついて話しかけないと、と思っているうちに、桜ちゃんは正面ロビーがオートロックのアパートに入ってしまった。
まずいまずい、桜ちゃんの後ろを黙って歩き続けた上に、桜ちゃんの住んでるアパートまで知ってしまった。しかも、桜ちゃんの入ったアパートの廊下は道路に面しているから、このまま僕が歩き続けていると、桜ちゃんが住んでる部屋まで分かってしまうじゃないかあぁぁぁ……
というわけで、偶然の思惑通り、冒頭部へ。
どうして桜ちゃんの入った部屋が五〇四号室だと分かったのかといえば、僕の友人がこのアパートの二〇四号室に住んでいて、その真上の真上の真上の部屋の玄関の扉を桜ちゃんが開けたからだ。偶然に偶然が積み重なっていく様子は壮観で、思わず吐息が漏れてしまった。
こんな時間に桜ちゃんが帰宅していたこと。
僕が一駅早く降りたこと。
僕の散歩進路と桜ちゃんのアパートの方向が一致していたこと。
僕の友人が二〇四号室に住んでいること。
桜ちゃんが五〇四号室に入るタイミングで、僕がアパートの前にいること。
僕が超能力青年ヨシオであること。
そんなことを考えながら吐息を漏らしていると、その吐息が止まる光景を目の当たりにしてしまった。
五〇三号室の玄関から人がスッと出てきて、閉まりかけた五〇四号室の玄関ドアを開けたのだ。薄暗くてよく分からないけれど、男が刃物を持っているように見える。男はそのまま五〇四号室の中に消えていった。
静寂。
何も起こらないし、悲鳴も聞こえない。もしかしたら、五〇三号室から出てきた人は桜ちゃんの知り合いで、刃物は見間違いだったかもしれない。僕が想像していることは全部見当違いかもしれない。そう思っても、僕の心臓は破裂しそうなくらい脈打っている。
間違いだっていい。
嫌われたってかまわない。
死にたくなるような後悔をするよりは。
僕は、超能力青年ヨシオの超能力を使うことにした。
使える超能力は、ひとつだけ。
視界にある五〇四号室へのワープ。
息を深く吸い込んで、止める。
五〇四号室をじっと見つめる。
暗転。
目の前に男の横顔。笑っている。泣き顔の桜ちゃんに馬乗りで。
ありったけの
力を込めて
拳を
気がつくと、刃物を握りしめた男はうつ伏せに倒れていた。
桜ちゃんは僕の背中に隠れて泣きじゃくっている。
僕は慌てて男の手から刃物を取った。男は気絶している。
桜ちゃんのほうを振り返って声をかける。
「もう、大丈夫、早く、外、出て、警察、電話」
僕の声が情けなく震えている。手も、足も、震えている。それでも桜ちゃんの手を引いて、アパートの外に連れ出して、警察に電話した。
警察への電話が終わった頃には、桜ちゃんもだいぶ落ち着いて、鼻をすするくらいになっていた。
「ヨシオくん……ありがとう……」
目を潤ませた桜ちゃんの眩しい笑顔。
「でも、不法侵入だね」
冗談っぽく言った桜ちゃんの笑顔を赤らめさせ始めた秋の朝陽が、僕の心を温かくしてくれた。
一ヶ月に一度、彼の爪を切ってあげる。
窓際にはコスモス。今日、私が摘んできた花が花瓶に生けられている。
彼がコスモスを好きかどうかは知らない。知る術もない。
窓から差し込んでいる夕陽が、ピンクのコスモスを紅く染めている。
彼の爪は伸びるのが遅い。爪だけでなく、髪もそうだ。彼が植物状態だからだと思っているが、医師や看護師に質問したことはない。そんな質問をしても、彼は目を覚まさない。私が悲しくなるだけだ。
彼の爪はいつでも光を反射してキラキラしている。起き上がることのない彼の命を絶えず支えている生命力の一部が、爪の表面から滲み出ているようだ。彼の爪を切るときには、爪の表面を何度も撫でる。そこだけが、彼の一番深い場所に繋がっているような気がして。遠い場所まで一瞬で情報を届ける光ファイバーや、懐かしく思い出す耳に当てた糸電話や、母親と胎児を結ぶ臍帯のように、私の思いを、存在を、彼に届けてほしかった。
「コスモスは、好き?」
五〇四号室に、私の声だけが響いた。
彼の顔は穏やかに眠っている。
彼の爪を撫でながら、暫く彼を見つめていると、後ろのドアが開いた。この時間帯に、この部屋に来る人物は二人しかいない。一人は私。もう一人は彼のお母様。
「こんばんはー」
「こんばんは。いつもありがとね。あら、コスモス、綺麗ね」
お母様が優しく微笑みながら、窓際のコスモスに近付く。お母様の顔も紅くなった。
お母様がコスモスに触れる。花びらを撫でるように、そっと。お母様の爪の輪郭とコスモスの花びらが重なり、まるで、私が彼の爪を撫でているようだった。
「明日で、一年ね」
コスモスの花びらに触れたままのお母様が呟いた。
「はい」
私は短く返事した。
一年前、彼は私のアパートで刺された。
彼を刺した犯人の動機なんて知りたくもないし、知る方法もない。なぜなら、もう犯人はこの世に存在していないから。
彼は、最後のチカラを振り絞って、犯人を刺し殺した。私を守るために。
彼は大学一年生で、私は不動産会社の職員。
都内の大学に合格した彼が、一人暮らしするアパートを探しているときに知り合った。
彼は二浪で、私と同じ年齢。二人の話題が尽きることは無く、彼が入学してすぐに付き合い始めた。自分のアパートよりも、私のアパートのほうが住み心地が良かったのだろう、彼は私の部屋で暮らすようになった。
とても楽しい時間だった。
夢のような時間だった。
こんなことになるなら、
彼と出会わなければ、
「理沙ちゃん」
名前を呼ばれて気が付くと、お母様はとても悲しそうな表情をしていた。
「あなたは、何も、悪くないの」
お母様は、一言一言を噛み締めるように、力強く発音した。お母様の瞳が紅く輝く。
少し間を置いて、お母様は話を続けた。
「一番辛いのは、良雄でも、私でもなくて、理沙ちゃん、あなた。だからね、今から私が言うこと、お願い、どうか悪く取らないで」
私はようやく自分が涙を流していることに気付いた。
涙を拭いながら小刻みに頷いて「はい」と返事する。
「私は理沙ちゃんに幸せになってほしい。良雄が守ったあなたが、結婚して、可愛い子供と一緒に暮らす未来を望んでる。その可愛い子供の笑顔を、時々、私たちに見せに来て。それだけで充分」
お母様に抱きしめられながら声を上げて泣いた。
目を覚まさない息子の隣で、他人の子供を慈しめるような母親に、私はなれるだろうか。
※
その日の夜は彼の実家に泊まった。初めてのことだった。私は恐縮頻りで夜の団欒を過ごしたあと、布団に潜った。
「理沙ちゃん」
いつ眠りに落ちたのか分からないくらい突然話しかけられて驚いた。慌てて顔を上げると、お母様が大粒の涙を落としながら、私の布団に手を置いていた。
「良雄が……」
※
彼の家族が運転する車が病院へ向かって走る。
車の窓から見える未明の街中はどこまでも静まり返っていて、今から目の当たりにする現実とのギャップが大きくなるばかりだった。
ただひとつ、東の空に浮かび上がる鮮やかな紫色だけが、私の未来を予感させていた。
※
五〇四号室に泣き声が響き渡る。
これから私達がしなければならない手続きについて説明していた病院の職員は、話を切り上げて、真っ赤な顔で泣いている秋桜に話しかけた。
「秋桜ちゃんごめんねー、もうすぐ終わるからねー」
産まれたばかりの娘をあやしている夫の表情は、今までに見たことがないくらい必死で、思わず吹き出してしまった。
「笑うなよー」
「良雄も一緒に、ね、笑おう」
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とある504号室にまつわる、お話。