大地から立ち上る漆黒の煙が聖域全土を覆い、時折その隙間から赤く染まった空が見え隠れしている。アイオロスは所々砕けた聖衣姿で岩山の上に立ち、その惨状に目を細めた。遠方から爆発音が聞こえてくる。聖闘士たちによる最大級の防御にもひるむことなく、敵は未だ諦めずこの聖域周辺に散らばっているようだ。パーツの砕けた肩口から腕へと流れ出る血をもう片方の手で押さえると、アイオロスは最も大切な名前を呟いた。
「サガ……どこにいるんだ?……お前の小宇宙を感じ取れない………」
身体に受けた傷よりも、愛する者が側にいない心の痛みにアイオロスは苦悶の表情を浮かべ、腕を押さえたまま静かに十二宮の方角へと歩き出した。
十二宮の一番目である白羊宮とその前面の広場は、聖闘士から雑兵に至るまで傷ついた者たちで埋め尽くされていた。ムウやシャカなどの治癒能力を持つ黄金聖闘士たちが中心となって、重傷者から優先的に治療を受けている。そういう彼らもまた所々傷つき、聖衣も破損していた。額の汗をぬぐい、ふと顔を上げたシャカが近づいてくる人影に気づいて声をかけた。
「アイオロス、無事で何よりです。」
シャカの声に広場の者たちがそちらの方に視線を向けた。その声に応えるようにアイオロスは笑顔を見せた。その姿に所々で歓声が起きる。射手座の黄金聖闘士を継ぐ者はいつの時代でも聖域随一の英雄である。彼が生きているというだけで場の士気は自然と高まった。怪我人の足を布切れで巻いていたムウが立ち上がり、アイオロスに近づいた。
「ケガは肩だけですか?他には?」
「大丈夫だ、見た目ほど大した事はない。重傷者を見てやってくれ。」
アイオロスはそういうと、岩に腰かけて一息ついた。見ると、あのデスマスクですら布の切れ端を持って「巻いて欲しいヤツは手を上げろ」と叫んでいる。ただし、彼は巻き方が荒っぽいせいで周囲は苦笑いで断っていた。ちぇっ、と舌打ちをしながらデスマスクはアイオロスの横に座った。
「侍女たちを下がらせたのは痛手だな。女聖闘士たちはみんなケガで寝込んじまってるし、ヤローに手当されても嬉しくないだろ。」
「……かといって、女聖闘士たちは看護婦ではない。我々と同格の戦士だ。侍女たちは女神と共にスターヒルに隔離されている。女神はご自身だけ逃れることを大変嫌がっておられたが、シオン教皇の説得でようやく上がっていただいたところだ。今はこれで良かったと思っている。彼女たちを危険な目に合わせるわけにはいかん。」
「ハッ……モテる男は言う事が違うね………」
デスマスクは両手を広げておどけてみせた。こんな状況でもまだまだ余裕を感じる彼の仕草に、アイオロスはふと笑いを漏らした。しかし、そんな気分もすぐに暗闇に閉ざされてしまう。心の中を占める、唯一つの恐怖。永遠の宝物を奪われるかもしれない、死よりも恐ろしい事実。それを見透かされたようにデスマスクは口を開いた。
「あいつは?サガはどうしたんだよ。一緒にいなかったのか?」
「…………途中ではぐれた。東の岩山で10人に囲まれたんだ。」
「10人か!………いくらお前たちでもそれじゃあな………」
デスマスクはうっと呻いて、聞くんじゃなかったといわんばかりに頭をぼりぼりかいた。
「でもサガだしな。あいつならきっと………」
そう言いつつ眺めるアイオロスの横顔は、先程までとは打って変わってまるで死者のように青ざめ、絶望に鎮まる彼の小宇宙は、暗闇の中でかすかに揺れる灯火のようだった。
私は見たんだ……この目ではっきりと。
敵の放った光弾は間違いなくサガの胸を貫いた。アイオロスの背後に回り込んだ敵から彼を守ろうと、サガは夢中で立ちはだかった。光弾が放たれたのと同時だった。彼の胸のパーツが砕け散り、爆風に巻き込まれて煙の彼方へと消えていった。最期にアイオロスへと差し出された手……驚愕し大きく見開かれた碧の瞳……風に流れる青銀の髪……
瞼に焼き付いた光景を否定するように、アイオロスはぐっと拳を強く握りしめた。
指先をそっと動かすと、細かく砕けた小石に触れた。強烈な痛みを伴う目覚めに、星矢はたまらず呻き声を上げる。
「ちっくしょぅ……肩が折れてるかも……」
それでも何とか身体を反転させて仰向けの状態になり、辺りを見渡した。とてつもない戦闘の衝撃で先程まで岩山だった所が粉々に砕かれ、まったく違う風景になっている。幸い敵の気配はない。星矢がとっくに息絶えたと勘違いし、この場を離れたのだろう。悔しいが、それでも命拾いした事に安堵しつつ星矢は大きく息を吐いた。仲間はどうなっただろう?……沙織さんは…?……女神は……
冥界との聖戦が終わって間もない頃。平和になったはずの聖域を謎の戦士たちが襲撃してきた。いったい何者なのかわからないまま、女神の聖闘士たちは激しい戦闘を余儀なくされ、黄金聖闘士から雑兵まで全員を動員してこれに応戦した。女神は侍女たちと共にシオン教皇と数名の聖闘士に守られ、聖域で最も高いスターヒルに避難したと聞いている。闘っているうちに一緒にいた紫龍ともはぐれ、その後の状況がどうなっているのかまったくわからない。とにかく敵の破壊力が凄まじい。技を繰り出す以前に、ただ普通に打ち込まれる光弾の早さと強さに、避けるだけでも必死だった。これこそ聖戦じゃないのか?と思わず突っ込みたくなるほどの連続攻撃だ。間違いなくオリンポス12神のいずれかの軍団だろう。それも相当上位の神だ。ポセイドン軍とはすでに一度闘いを終えているが、だからといってはっきり「彼らではない」と断言はできない。とにかく状況が知りたい。早く皆を探さなければ……
そう考えているうちに、星矢は喉の乾きを覚えた。極限状態の根性では誰にも負けない。そう自負している星矢はふらふらの状態でも気合いで立ち上がり、水の音がする方へと歩いていった。
川に顔を突っ込んで思い切り水を飲み、そのまま頭にもかけるとようやく意識がはっきりしてきた。しかし、それは彼に休息を与えるひとときにはならなかった。波紋が穏やかになると、そこにぼんやりと何かの影が映っているのに気づいた。ハッと慌てて振り返ると、星矢のすぐ後ろの岩場に巨大な敵が立ちはだかっていた。その顔はとても人間とは言い難い。まるで木の節のような醜い顔が残忍な笑みを浮かべて歪んでいる。
「なんだお前。まだ生きていたのか!しぶといヤツめ!」
「しぶといのはお前だろぉ!!!……」
星矢は舌打ちしてすぐに流星拳を繰り出したが、相手は無駄にでかい図体のくせにいとも簡単に拳を跳ね返してしまった。
こいつだけは絶対に倒さなければならない。
こんなヤツを十二宮に行かせてたまるか……!
満身創痍の星矢の身体から白い天馬を象る小宇宙が立ち上った。巨大な翼を羽ばたかせ、蹄を打ち鳴らし、炎の瞳が星矢と重なる。勝負は一度きりだ。敵の動きと同時に拳を繰り出そうとした時だった。どこからか黄金の光が矢のような早さで飛び込んできて星矢の前をふさいだ。敵の悲鳴と爆音が響き渡り、星矢は光に包まれたまま遠くへ弾き飛ばされ、そのまま高い崖の上から落ちていった。爆破の衝撃で岩場が大きく崩れ、まるで星矢を追うように岩雪崩が勢いよく崖を下っていく。濃い砂ぼこりが立ち込め、辺りはしばらく瓦礫が崩れる音が続いていた。
温かいな…
何の音も聞こえない。痛みも苦しみも感じない。ただひとつ、星矢は自分を包み込む温かな小宇宙に身を委ねていた。
俺…死んだのかな……
ああでも気持ちいい…
なんて優しい小宇宙なんだろう…
これは女神の……女神……沙織さん……
星矢は、いつでも自分たちの側にあった沙織の笑顔を思い出していた。
しかし………
あれ?……なんか違うぞ。でもこの小宇宙、知ってる。大きくて、温かくて、
それで……
ハッと目を覚ますと、目の前にその人の顔があった。その人物が微弱に放つ小宇宙のおかげではっきりと誰なのかわかる。ものすごい至近距離だ。途端に星矢の身体がカッと熱くなり、「これはマズイ!」と身じろいだ。しかしすぐに岩肌に触れ、自分たちがいる空間の狭さに驚いた。周囲をがっちりと岩に固められ、天井もすぐ上にある。崩れ落ちた瓦礫に閉じ込められたのだ。慌てる星矢に、苦し気な声が返ってきた。
「…静かに……星矢……頼む………」
「……サガ……!」
「………ヤツは…倒したが……姿を見せれば仲間がまた集まって来る…………私たちはしばらくここで待機する……」
サガは苦しそうに笑顔を見せた。黄金聖衣に触れると胸に大きな亀裂がある。サガの弱り方からしてすでに何人もの敵と闘い、相当の怪我を負っているようだ。先ほどの巨大な敵も、きっと相討ちに近い形で倒したのだろう。それでも彼は星矢を足の間に挟み、その身体を守るように抱きしめ、わずかに残る小宇宙で星矢を癒そうとしている。実際、星矢の身体の痛みは消えかかっていた。
「…駄目だサガ……そんなことしたらお前が……!」
「…星矢……お前に何かあったら……女神が…仲間たちが……悲しむ……」
「あんただって、アイオロスが……!」
星矢の言葉にサガは悲しそうな表情を見せた。星矢だけでなく、聖域の者たちは皆知っている。アイオロスとサガが恋仲であることを。聖域の英雄と、神の化身と呼ばれる美しき戦士。絶世の美貌と名高いあのアフロディーテですら認めるほど、サガは容貌だけでなく内面にも神秘的な美を持っている。冥界との聖戦後、復活してアイオロスの前に歩みでたサガの姿には誰もが感嘆し、夢見心地で彼を見つめていた。彼が周囲に姿を見せていたのは15歳の時までだ。それが、13年を経た今でもまったく変わっていない凄絶な美貌に皆が驚愕した。聖戦の最大功労者と賞賛された星矢に対して、サガは涙を浮かべて星矢に敬意を払い、彼を優しく抱きしめた。この抱擁に嫉妬した大勢の輩に、数日間に渡って嫌がらせをされたのも今となっては夢のようである。
あんなに平和だったのに……それがなぜ、こんなことに………
星矢は疲れ果てているサガの顔を見つめ、その頬を指先で撫でた。サガはふと笑顔を浮かべると、星矢を抱きしめたまま気を失った。
誰かに呼ばれたような気がして、星矢はゆっくりと瞼を開けた。夢を見ていたようだ。サガの小宇宙に包まれていた星矢は、眠気を覚えてそのまま眠ってしまっていた。辺りは静寂に包まれている。敵が退散したというより、むしろこの静けさが次の戦闘の予兆のように感じた。
「サガ……大丈夫か?……」
彼の耳元で囁いたが、起きる様子はない。薄く開かれた唇から微かな呼吸が聞こえ、かろうじて彼が生きている事を証明していた。身体を包んでいた小宇宙も今は完全に静まり、その代わりに岩の隙間から差し込む僅かな光がサガの顔を照らしている。もぞもぞとサガの腕の中で動くと、その両腕は力をなくして星矢の背中を滑り落ちた。
「まいったな……こんな狭いところじゃ身動きとれないし。外がどうなってるか気になるけど、この状況で敵に気づかれたら厄介だ……」
そう思いつつ、星矢は目の前にあるサガの顔に釘付けになっていた。精巧に作られた人形のように美しい容顔。いつの間にか星矢の頬が熱く火照ってくる。
「やっぱりなあ……サガってすごい綺麗だよな……」
13歳の少年とはいえ、星矢も「美しさ」というものが全くわからない訳ではない。日頃から特に星矢に対して強い信頼を寄せている沙織を見ていると、持ち前の美貌に加えて女神としての神聖さに圧倒されてしまう事がある。片や、彼女とは対照的な存在である幼なじみの美穂の屈託のない笑顔を見ると、その純粋な可愛らしさに骨抜きにされてしまったりする。師匠である魔鈴やシャイナ、それに今まで出会った女聖闘士たちも皆それぞれにグラマーで美しく、星矢にとっては全員が華やかで魅力的な存在に映っていた。しかし、サガは彼女たちとは違う。まず第一にサガは男性だ。自分と同じ男のはずなのに、彼の美貌は性差を超えた神秘と魅力に溢れていた。まさに「究極の美貌」だ。陶器のように滑らかな白い肌、他では見た事がない不思議な光沢の青銀髪。伏せられた長い睫毛もこれだけ至近距離で見ると、髪と同じ艶やかな青真珠色である事がわかる。その瞼の奥には、見る者の心を一瞬で奪う麗しい孔雀翠の瞳が隠されているのだ。それに、自分は今ものすごく男らしい汗の匂いがムンムンしているのに、サガからは驚くほど良い薫りがする。優雅にウェーブする髪から、彼が愛用するコロンがたおやかに流れ出ているようで、何とも言えない高貴な薫りが星矢の鼻先をくすぐった。この類い稀な美青年を、アイオロスは好きなだけその腕に抱きしめ、これ以上ないほど深く愛しているのだ。そして、サガ自身もその愛をアイオロスに求めている……
「アイオロスもすごいよなあ……サガを自分のものにしちゃうなんて。どんな気分なんだろう……?こんな綺麗な人とずっと一緒に過ごすのって…」
そう思った途端、星矢の中に今まで感じた事のない衝撃が走った。身体は異常に火照っているのに、背中を冷たいものが流れて行く。こんなちぐはぐな感覚、今までどんな敵を前にしても感じた事がない。誰も見ていないのに、星矢は辺りの視線が異常に気になって、岩穴の中でキョロキョロと視線を動かした。サガはまったく起きる気配がない。相変わらず、淡い色の差す形の良い唇から静かな吐息が漏れている。その唇を、星矢は食い入るように見つめていた。
「これって………………実はものすごいチャンスなんじゃないか………??!」
聖域がこんなに緊迫した状況なのに、自分は何を考えているんだろう?……そう自己嫌悪に陥りながらも、これからしようとしている事に何とか理由が付けられないかと真剣に考えている自分がいる。星矢の顔は恥ずかしさと緊張で真っ赤に茹で上がっていた。よりサガの顔に近づき、狭い中で角度を合わせようと必死に顔を傾ける。サガはまだ起きない。星矢は首を傾げたままタコのように唇を尖らせていた。
「もう少し………もう少しだ!……」
もうじき唇の尖端が触れるぞ、と夢中になっている星矢の脳裏に、再びアイオロスの顔が浮かんだ。
このまま唇が重なってしまったら、オレはアイオロスの放つ黄金の矢で射られるのだろうか。思いっきりタコ唇作ってる瞬間におでこを射られたら聖域の笑い者だな……
でも……
「もしかしたらこの闘いでオレは死ぬかもしれない。だったらなおさらこんなチャンス、逃せるわけないじゃないか……!後悔しながら死ぬなんてオレは絶対にイヤだ!!オレはサガにキスする……!絶対やる…!やってやるぜ!!」
この行為を正当化するためとはいえ、もはや自分が何を言っているのか星矢自身にもわからなくなっていた。それでも、星矢の唇はまさに今、サガのものに重ねられようとしている。夢のような瞬間。死と隣り合わせのこの狭い岩穴の中で、最期に与えられた幸福を噛みしめながら、星矢は自然に瞼を閉じた。
突然、星矢の耳にジャリッという微かな音が響いた。聖闘士でなけれは聞き分けられないほど小さな音だったが、確実に人の足音だ。しかもかなり近い。岩穴のすぐ側にいるようだ。小宇宙のコントロールに長けているらしく、星矢に人物の特定をさせないようにしている。こんな芸当を使うあたり、手強い相手である事は間違いない。惜しい瞬間を逃してしまい落胆する反面、この狭さで戦闘を強いられる状況に一気に危機感が増し、星矢の額に一筋の汗が伝った。
「何としてもサガを守らなければ……ここはオレの彗星拳で岩穴ごとぶっ飛ばして相手を倒そう。今度こそ一発で決めるしかない!……」
狭い空間の中でも、星矢は背後にサガを隠すように身体の向きを変えた。僅かに漏れる光を頼りに小さな穴を探し出し、そっと覗き込む。姿は見えないが、再びジャリッという微かな足音が聞こえた。迷っている暇はない。星矢の身体から真っ白な小宇宙が立ち上がり始めた。
「待て……星矢……」
いきなり腕に触れられ、星矢はギョッとして振り返った。ただならぬ空気を感じて目を覚ましたのか、サガは血の気が失せた顔色で何とか声を出そうとしていた。伏せ目がちの眼差しで、絞り出すように星矢に訴えてくる。
「早まるな……星矢……静かにしているんだ……」
星矢は困惑したまま、サガの顔と外の方と交互に視線を向けた。それでも、意を決して攻撃体制に入ろうとする星矢の腕を弱々しく掴み、咎めるような表情を浮かべている。星矢はサガを落ち着かせようと笑顔で向き合った。
「サガ、外に敵がいる……黙ってたらオレたちが先にやられるんだ。お前は必ずオレが守る。だからお前こそじっとしててくれ。」
正義感溢れる少年に諭され、サガは頼もしそうに星矢を見つめた。こんな状況でもサガの瞳は凄絶な美を失わない。時折喘ぐような息づかいと見上げてくる濡れた視線に、星矢はますます鼻息荒くいきり立った。
「大丈夫だよサガ……見てろよ、一発でキメてやるからな!」
それでもサガは星矢の腕を放さない。星矢はサガの手に自身のものを重ねた。そこにいるのはもはや13歳の少年ではなく、愛する者を守る大人の戦士の顔だった。
「……お前を守りたいんだ……サガ……」
「い、いや、あの……星矢……」
サガの呼び止め方に今ひとつ緊張感がない事など、純粋な少年にはまったく通じていなかった。立ち上がる小宇宙はやがてはっきりとした天馬を象り、ここまで高められた小宇宙はもはや誰にも止める事などできない。外の気配も明らかに反応し、身構えているのがわかる。放出する真っ白な小宇宙と一体化し、星矢の瞳が光輝いた。
「うおおおぉぉおーーーーーッ!!!」
雄々しい叫び声と凄まじい爆音が同時に響き渡った。まるで火山の噴火ように岩石が外へ向かって勢いよく噴出される。その中から、一筋の白い閃光が敵に向かって放たれた。
しかし。
「な、なにぃッ……!!?」
渾身の拳は一瞬にしてバシッと大きな手のひらに包まれ、そのまま止まってしまった。次の手はない。入魂の一撃をいとも簡単に受け止められた事に星矢は愕然とした。
やはり体力全快とはいかなかったか…………!
暗闇から一気に光の中へ飛び出した星矢の瞳は、拳を掴んだまま放さない相手の輪郭をゆっくりと捉え始めた。目の前の男の顔がニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「よく生きてたなあ星矢!…………おい兄さん、大丈夫か?」
岩穴から出た星矢は、サガを抱きかかえるカノンと一緒に白羊宮前の広場へ向かった。焦土と化し、黒煙の上がる地面を慎重に踏みしめて二人は進んだ。双子座の聖衣は本来1つだが、女神の特別の計らいで聖衣自体も二体分用意され、今は二人ともその身にまとっている。
「オレはこいつを抱えてるから急な攻撃に対応できない。その代わり星矢、お前がオレたちを守るんだ。周囲に注意しろ。怪しいと思ったらすぐ言え。」
カノンの言葉を受けて、星矢は四方八方に細心の注意を払って歩みを進めた。時折、サガの意識を確認するようにカノンは兄に優しく話しかけている。聖戦後から急速に距離を縮めた双子の兄弟は、アイオロスとサガの関係とはまた違った意味の深い絆で結ばれている。サガを抱えるほどの身長がない星矢にとって、カノンの出現はありがたい偶然だった。よく見れば、カノンの聖衣もあちこちに亀裂や欠損があり、髪は砂埃にまみれ、素肌にも細かな傷がある。先ほどまでかなりの苦戦を強いられていただろうと推測できる。それでも、彼はいつもと変わらず飄々とした様子でサガを抱え、身体の痛みを訴える事はない。しかも、こんな状況でも星矢の拳を片手で受け止めるほどの力を持っている。瀕死の状態で星矢の身を守ったサガといい、黄金聖闘士の中でもトップクラスに立つ彼らが今の星矢にはとてつもなく大きな存在に見えていた。
広場に着くと、三人の姿を確認した者たちから次々に歓声が上がった。その中から、弾かれたようにアイオロスが前へ進み出た。
「サガ!……サガ、私だ。わかるか?」
アイオロスの呼びかけにうっすらと瞼を開けたサガは、眼差しで応えるように優しく恋人に微笑んだ。
「大丈夫だ。星矢がずっと側にいて守っていた。礼ならアイツに言うんだな。」
そう言いながら、カノンは後ろにいる星矢に視線を送った。途端に星矢は慌てて矢継ぎ早に答えた。
「とっ、とんでもない…!サガの方がオレをかばってくれたんだ。こんなにケガしてるのに、オレの傷を一生懸命治そうと……」
アイオロスの瞳に涙が浮かんでいるのを見て、星矢は口をつぐんだ。聖域最大の英雄と讃えられるほどのアイオロスが涙を……星矢は思わず動揺したが、アイオロスは彼に近づくとその肩に力強く手を乗せた。
「ありがとう星矢……お前のおかげで、私は最も大切な人を失わずにすんだ……本当にありがとう。」
言葉を詰まらせながらそう告げると、ゆっくりとカノンからサガを受け取り、今まで座っていた場所に腰かけた。色を失ったサガの唇に何度も軽くキスしている。それからもずっと膝の上で抱きかかえ、胸の亀裂に手を当てて小宇宙を送り続けた。カノンもサガの側に片膝をつき、集まってきた黄金聖闘士たちと一緒に兄の容態を見守っている。
「星矢!無事で良かった。よくやったな!」
紫龍と手のひらを打ち合わせて笑顔を交わすと、仲間たちに促されて星矢も近くの倒れた柱に腰かけた。駆け寄ってきた瞬が星矢のすぐ横に座り、水を渡した。氷河や一輝も疲労はしていたが特に大きなダメージはないようだ。仲間との再会を喜びつつも、星矢の視線はアイオロスとサガに注がれていた。二人を繋ぐ小宇宙は、星矢が知るものとは明らかに違う。今もアイオロスの手のひらから流れ出る黄金の光も、よく見れば無数の小さな星々の集まりのようで、これほどキラキラと煌めく小宇宙は見たことがない。
きっと、アイオロスしか持っていない特別な力。
そしてそれは、この世で唯一人、彼が真に愛する者にしか与えられない力。
よかった……オレ、あの場の雰囲気で、もう少しでやっちゃいけない事するとこだった。アイオロスのあんな顔を見たら、とんでもないや……
相手がアイオロスだから、サガはあれだけ心を許してるんだ。やっぱり、あの二人は特別なんだ……
あの二人を繋いでいるのは小宇宙じゃない。それよりもっともっと大きな……
夢見心地で見とれていると、アイオロスの手のひらが置かれていたサガの胸が突然大きく動いた。深い呼吸を繰り返し、顔色もみるみるうちにいつもの輝きを取り戻していく。やがてはっきりと瞼が開かれ、美しい翠の瞳が最愛の恋人をとらえた。
「サガ、私だよ……ずっとお前に会いたかった……」
「アイオロス……アイオロス、無事で良かった……」
サガの瞳が水をたたえたように潤んでいる。二人は互いを労るように優しい口づけを交わした。一度強く抱きしめあい、サガはアイオロスの肩に両手を乗せてゆっくりと身体を起こして彼の隣に座った。サガの復活に周囲から安堵のどよめきが起きる。星矢と視線が会ったサガは笑顔を見せ、星矢も軽く頷いてこれに応えた。サガの傍らにいたカノンは安心して立ち上がり、星矢の方へ向かって歩いてきた。
「星矢、お前がサガの側にいてくれて本当に良かった。ありがとな。」
照れ笑いをする星矢に、カノンは軽く咳払いをすると、どこかに視線を流しながら星矢の耳元で呟いた。
「……まあ、お前も男だって事がよくわかったしな。アイオロスには黙っててやるが、オレも先輩として、これからはお前を子供扱いせずに厳しく接していこうと思ってる。覚悟しとけよ。」
「……………………ッ」
途端に星矢の顔が真っ赤に染まる。カノンは真顔のままウインクしてサガの所へ戻っていった。
「今の、どういう意味?」
キョトンとした顔でカノンを見送る瞬の横で、星矢は真っ赤な顔のまま口をモゴモゴさせている。すると、その雰囲気を一掃するような雄々しい声が広場に響いた。
「敵は聖域を退却したようだが、まだ周囲にいる。体制を立て直して再び襲撃してくるはずだ。重傷者は白羊宮の中へ、少しでも闘える者だけここへ集まってくれ。私たちも体制を立て直そう。必ず勝機はある!」
アイオロスの力強い呼びかけに、休息していた戦士たちがいっせいに動き出した。ハーデスとの熾烈を極めた聖戦を乗り越えた今、結束の堅い女神の聖域に敵はいない。女神のために、愛する者のために、聖域は絶対に勝利する。
聖域の空を厚く覆っていた雲の隙間から太陽の輝かしい光が差し込み、勝利を約束するかのように戦士たち全員の頭上に降り注いだ。
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いろいろなサガ受が混じりますが、ロスサガです。緊迫してるようで、実はサガ溺愛のメルヘンなお話です。