【エルダ】
エルフの青年。散歩中に魔王(バクター)に絡まれ、右目に呪いを受ける。以後打倒バクターを掲げつつもやる気がなかったが、ようやく重い腰を上げる。自尊心が高い。
【魔王バクター】
暇をこじらせている。暇なので部下を育てようとエルダをスカウトしたが一蹴されたので、折角だからと呪いビームを放つ。大昔に勇者に封印された過去がある。
【レキュリード】
リザードの少年。エルダとは父の代から付き合いがあり、お互いフランクな間柄。若輩者ながら、エルダの呪いに関して心配している。
【ハイフェエール】
エルフの長(おさ)。大昔に魔王バクターを封印したが、その封印が経年劣化で解けつつある。黒歴史なのでバクターとはもう係りたくない。
【牛?】
マイペースに生きる謎多き生き物。全体的に牛っぽいのでこう呼ばれている。レキュリードが乗り越えなければならない存在。(生態系ピラミッド的に)
***
森の中に一人の少年が佇んでいた。
辺りは朝日に挨拶する動物達で賑わい、緑も朝露で光り輝いている。しかし少年は、喜びの朝を迎えた森の中でまだ夢でも見ているようにボンヤリとしていた。
少年の真横の枝から鳥が飛び立った。羽音でハッと我に返った少年は、今しがた夢遊病から醒めましたという風に周囲を見渡した。手元には、握られ続けて形が変わってしまった帽子がある。父のお下がりの、緑色の帽子だ。
少年はそのシワを伸ばすと、フラフラと家に戻っていった。
***
「レキュリード、俺は魔王を倒しに行く」
森の開けた場所に二つの人影があった。一人は長い銀髪と褐色の肌を持ったエルフ。そのエルフを、緑色の帽子を被ったリザードの少年・レキュリードが驚いた顔で見ている。
「え、倒すって……まさかあの魔王を?」
静かな森の中に吃驚した声が通る。辺りは朝を迎えたばかりで、小鳥達のさえずりが控えめに聞こえている。少年は、挨拶も早々にエルフが宣言した内容に耳を疑った。
「ああ。奴との縁を切るにはそれしかない」
その言葉には、並々ならぬ決意が込められていた。言葉だけではない、それは彼の服装にも現れていた。いつものラフ――言ってしまえば軽率――な黒い服は白い衣装に変わっており、腰まで届いていた髪も後頭部で一つに結い上げられている。普段の親しみやすい印象は薄れ、超然としたエルフらしさすら漂っているのだ。ついさっき遭遇した時などは、あまりの変わりように敬語が出そうになった。
ただ、少年はエルフの物々しい雰囲気から凶兆めいたものを感じ取っていた。それは、平穏無事の信条を掲げる過程で磨かれたある種の危険予知能力だった。
エルフの右目には、魔王の理不尽な呪いがかけられている。放っておけばジワジワと魔族に染まってゆくという恐ろしいものだ。彼は己の名誉を守る為に隠し通したが、早々にレキュリードにばれ、先日にはとうとうエルフの長にも知れてしまった。その席には神出鬼没の魔王も乱入し、エルフらと魔王の因縁渦巻く修羅場と化したのだ。ひょんなことで同席していたしがないリザードのレキュリードは、一触即発の場で縮こまっているしかなかった。呪いの進行が遅々としていることもあり、エルフの彼も当初は慎重に事を進めるつもりだったようだが、この出来事が決意を後押ししたのだろう。
事情を誰よりも理解しているつもりだったレキュリードではあるが、急な別れを笑って見送れるほど円熟していなかった。その旅路が死地へ直結しているとすれば尚更である。
「……でも、急すぎるよエルダ。あんた前は『気長にやる』って言っていたじゃないか」
自然と引き止めるような言葉が口をついて出てしまう。エルダと呼ばれたエルフは、自分を説得する方向に舵を取り始めた隣人に制止の眼差しを向けた。
「俺の心配は百年早い――と言っただろうレキュリード。奴は俺を暇潰しの娯楽としか思っていない。このままむざむざと消費されてなるものか。お前も分かっているだろう」
百年早い――そう言われると何も言えなくなる。一見若いあんちゃんに見えるエルダだが、エルフの例にもれず長い年月を生きており、レキュリードの父とも交流がある。その頃のレキュリードといえばまだ卵の中だ。知識も経験も戦闘力も、二十年も生きていないリザードとは比較にならない。足りないとすれば、自尊心を害されて頭に昇った血を冷ます手段と、その結果下される早計かつ物騒な決断に対するブレーキくらいだ。だが、今回ばかりはレキュリードもブレーキ役になれそうになかった。
「奴にこれ以上娯楽を提供し、あまつさえ三歩歩けば忘れてしかるべき木っ端的存在を俺の栄光なる人生の一ページに巣食わせてなるものか……。あの鳥頭には、俺のサクセスストーリー〜序章〜の一雑魚にすぎんということを思い知らせてやらねば……」
エルダはいつの間にかナイフを取り出し、目を同じようにギラつかせて恨み言を呟いている。日頃から魔王の似顔絵をナイフ投げの標的にするなどしてストレス発散を試みていたようだが、もはや限界なのだろう。
「……分かったよ。俺には魔王に挑むなんてスケールが大きすぎてさ……。でも、父さんにはなんて説明すればいい……?」
魔王退治となれば一大事だ。その影響たるや、この森もただでは済まないだろう。当然レキュリードの父と母にも知れることになり、エルダが必死に隠し通してきた呪いの事情が露見することになるのだ。
魔王からうっかり呪われた――などという事態はエルフにとって人生を悲観するレベルの恥らしく、その屈辱たるや、「階段からうっかり足を滑らせて右目を故障しました」を隠蔽の言い訳に採用させるほどだった。エルダがレキュリードの両親にいい格好をするのは”過去の出来事”があったからだが、直接関係した父・エレトールに対してはとりわけ顕著だった。エレトールもエルダには絶対の信頼を寄せており、前述の言い訳もまるっと信じている。
エレトールの名が出て迷いが生じたのか、エルダは子細ありげな表情になった。「分かった」とは言ったものの、本心ではまだ引き止めたいと思っているレキュリードは淡い期待を抱いた。しかし、エルダはフッと笑った。
「大丈夫だ、エレトールはそんな細かいことを気にする男ではない! なに、俺が鳥頭を叩きのめせばいいだけの話だ! まぁそうだな、とりあえず『エルダさんは魔王に借りを返しに厳かに旅立ちました』と伝えておいてくれ」
その吹っ切れたような顔には、決意の色が一層濃く浮かんでいた。
(だよなぁ〜〜〜)
息子であるレキュリードの脳内にも、階段で滑った言い訳の時のように「エルダさんにもそんなことがあるんですねぇ〜!」と鷹揚(おうよう)に受け入れる父の顔がありありと浮かんだのだ。最終兵器・父の威光も儚く散り、もはやレキュリードに打つ手は残っていなかった。二人の間にしんみりとした沈黙が落ちた。
「……泣くな、レキュリード。この森を焦土と化さないように善処するつもりだ」
「いや、泣いてないし。焦土になったら泣くけど……」
レキュリードは冷静に突っ込んだ。一体全体、このエルフは泣いて引き止めて欲しいのか笑って見送って欲しいのか――レキュリードは、そういう態度が涙を引っ込ませるのだと教えてやりたかった。
そうこうしているうちに、森には朝を迎えた動物達の鳴き声が聞こえ始めていた。それはまるで見送りの終了を告げるベルのようだった。エルダが目で出発を告げた。
「じゃあ、そろそろ行くわ」
「そっか……。何て言ったらいいのか分からないけど、気をつけろよ……」
「ああ、そっちも元気でやるんだぞレキュリード、お前なら大丈夫だ。牛? にもよろしく言っておいてくれ」
そういつもの調子でいうと、本当に行ってしまった。
信じられないほどにあっさりしていた。明日ここに来れば、またひょっこり会えそうなくらいだった。
「気をつけろよ……エルダ……」
レキュリードは、すでに見えなくなった方向に、最後に交わした言葉を呟いた。手には、いつの間にか脱いでいた帽子が固く握られていた。
***
レキュリードと別れてからどれほどの時が経ったか――エルダは確かな足取りで道を進んでいた。
あの時交わした言葉は今でも鮮明に覚えている。もう少し泣いてすがってくれてもよかったのだが……と拍子抜けした感じもあったが、少し前までは卵だった彼も聞き分けるようになったものだ――としみじみする気持ちのほうが強かった。
(人生の先輩として、俺も鳥頭の首を持って帰ってやらねばならんな)
少年の成長は自分のことのように嬉しく、同時に、格好悪いところは見せられないと鼓舞されるのだった。
順調に足を進めていたエルダだったが、ふと足を止めた。なにやら胸の奥がざわついて落ち着かない。
まさかそんなはずは――と、使い時がずっと後に予定されていた”カード”を取り出した。魔王と出会ってしまったあの日、わけも分からぬうちに握らされ、捨てようが燃やそうがことごとく戻ってきたいわくつきの名刺――魔王城の住所付き――である。住所が書いてあるのは裏面だ。エルダは目を疑った。
間違いない、ここが目的地だ。
これまでの道中、あまたの障害に遭遇して……いないし、レキュリードと別れてから何十年も経って……いないし、ていうか今朝だし、本当にちょっと散歩してくる程度の道のりだった。
その早すぎる到達は、エルダに住所の信憑性を疑わせた。なるほど、確かにあの日も散歩中の出来事だ。だが、いくらなんでも当時のままオープンにしているはずがないと踏んでいたのだ。当然道は閉ざされ、新たなルートの開拓には数多くの障害が待ち受けているはずだった。それなのに、周囲の景色は記憶の底に追いやっていた忌々しい光景と一致しているし、目の前に広がる庭木に目を凝らせば、魔王の頭部を模して剪定(せんてい)された木々が並んでいる。
エルダはうんざりとした確信を持たないわけにはいかなかった。
(……なんてこった、随分早く着いてしまったようだ。いや、いくらなんでも早すぎないか?)
エルダには、長い年月が掛かるとふんだ道中で成し遂げようと思っていた課題があった。それは「魔王と対峙した時の口上を考える」という仕事だ。それも生半可な台詞ではない。歴史に残るような、カッコよくてナイスなヤツだ。その為には、長い時間煮詰めて温めておく必要があった。
(俺の歴史を華々しく飾るにふさわしい決め台詞がまだ決まっていない! 長すぎず、かといって短すぎず。そう、例えばよぼよぼのじーさんが孫に一字一句たがわず口伝できるいい感じのヤツをだ……!)
残務の重大さに頭を抱えたエルダだったが、すぐに気持ちを切り替えた。
(目的を見失うな。俺は奴から解放される為にここへ来たのだ。早く着いたのはむしろ好都合、奴に割く貴重な時間が浮いたと考えればいい)
エルダは目の前の魔王の城を、覚悟のこもった眼で見据えた。
(こんな格言がある――『焼鳥に口なし』。口上は、鳥頭をぶっ倒してからゆっくりと考えればいいのだ! 歴史にはみな勝者の脚色が含まれるもの。フッ、よい子はマネしちゃいかんぞ……)
高くそびえるドアの前へ進み、ドアノブを力強く握りしめた。
***
「たのもう!!」
ドアを勢いよく開け放ち、エルダは屋敷に足を踏み入れた。
外観にも同じことが言えたが、屋敷の中もただの洋館の域を出ていなかった。前知識も無しにここを魔王の根城と結びつける者がいるとしたら、よほど魔王に飢えていると言えよう。
ただ、ホールへ伸びる幅広のカーペットの両脇には使用人がずらりとかしこまっているわけでもなく、だだっ広いだけの空間にはある種の異様さが備わっていた。ともすれば、「幽霊屋敷」として近所の話のタネにはなるかもしれない。
――もっとも、その効力にほころびが生じ始めたとはいえ、魔王を中心とした一帯はエルフの長・ハイフェエールによって“封印”されており、誰もが気軽に立ち寄れるわけではないのだが――
エルダは静まり返った屋敷を起こさないように、視線を注意深く正面ホールへ向けた。そしてその瞬間、全身に衝動が走った。
ホールから伸びる階段の踊り場、この死んだように眠った屋敷に、一つの人影が微動だにせずに立っているからである。エルダにとっては一生会いたくない相手であり、そして、今一番会いたい相手だった。
(住処は名刺の裏、そのうえ引継ぎも無しに本人直通とは……。拍子抜けするが、まぁいい)
こいつとの縁もこれまでだ——もはや段取りに対するこだわりは無くなっていた。
突然の訪問者を迎えることになった家主は、ティーポットを乗せたトレイを両手で持って立ち止まっていた。「ちょうどこれからモーニングティーです」というふうに見える。
二人が対峙してから数秒か数分か、しばらくティーポットの湯気だけがゆらゆらと生きていた。先に静寂を破ったのは家主だった。
「エ、エルダ君……? 一体どうしたんだい急に!?」
それは、アポ無し訪問を疎むどころか、驚きと歓喜がこもった声色だった。その喜びに呼応してか、控えめに寝ていた頭部の鶏冠(とさか)が萌えるように起き上がる。
この屋敷の主——魔王・バクター——は、常に暇を持て余しているのである。
***
細身の燕尾服に身を包んだ紳士、の首を落として鳥の頭にすげ替えたような奇妙な風体。それが魔王・バクターである。
ほぼクチバシで占められた仮面のような頭部からは表情を伺うことはできないが、感情に左右されまくる鶏冠と大袈裟なボディーランゲージで十分補われていたし、そこへ饒舌すぎるトークが加わるのだからお釣りが来た。腰から生えている両翼は、太陽の恵みを余すことなく受け止めんとする枝葉のように喜びに満ち溢れ、無駄に広い屋敷の中でのびのびと広がっていた。
「いやぁ〜! エルダ君がこんなサプライズをしてくれるなんて、びっくりしちゃったよ私(わたくし)! 今からモーニングティーなんだけど、一緒にどうだい?」
そう言いながら階段を降りてくるバクターの足元に、ホールから一閃、ナイフが刺さった。
「それ以上動くな」
どこからか出したナイフを構え、エルダはバクターに冷たい目を向けていた。
「お前に付きあうのは今日で最後だ。俺の歴史の汚点でしかないが、その屍は賑やかしくらいにはなってくれるよな、“魔王殿”?」
友好の欠片も無いその眼差しに、バクターの鶏冠はみるみる萎えてゆく。
「……まぁ、そうだよね。君はそっち側にいる方が“光る”もの。でも私も期待しちゃってたのかな? エルフが頑固なのは、ハイフェエールで分かっていたはずなのにね」
「フッ、長がお前なんて黒歴史だとよ。それより、なんでお前しかいねーんだよ。呪いに噛んでるお前の部下にも用があるんだがな……。弱点の尾はむきだしだわ、城は手薄だわ、ノーガード教でも信仰してるのか?」
屋敷は相変わらず静まりかえっている。
「ハイフェエールは本当に何も話していないんだねぇ。彼女が相手をしたのは魔王“軍”。私もあの頃はブイブイ言わせていたさ……。君が用のある部下だけどね、あいにく外出中だよ。あの子は私みたいに暇じゃないから、アポイント取らなきゃ捕まらないと思うな」
暇を持て余しているバクターは、さも羨ましそうに言った。
「長の黒歴史を掘り返すのもいいものだが、お前とくっちゃべる気は無いんでね」
両手のナイフを握り直した。
「……いないなら呼ばせるまでだ」
そう低く呟くと、エルダの全身から刺すような殺気が放たれた。
「うふふふ怖い怖い。もう少しスモールトークを楽しみたいんだけど」
だが、ホールには誰もいなかった。その時、バクターが手にしていたティーセットがトレイごと真っ二つに割れた。
いつの間にバクターの背後を取っていたエルダは、躊躇なく弱点の尾を斬りつける。が、バクターはヒラリと身をかわした。
一瞬の出来事だった。ティーセットが散乱するやかましい音が屋敷に響く。その後も尾を巡る攻防が続いたが、バクターはのらりくらりとかわし続けた。
エルダが尾を狙うのは今日が初めてではない。結局その時のバクターは使い魔の擬態だったのだが、ナイフ一投であっさり切断したこともあった。エルダは容易に獲らせない目の前のバクターを、——こいつは“本物”だ——と直感した。
「怖いねーエルダ君。こんなところに可愛い部下を帰ってこさせるわけにはいかないなぁ」
バクターは右手を高々と挙げると、パチンと指を鳴らした。次の瞬間、エルダの後方で錠前が下りる音が甲高く響いた。しまった――とエルダが扉を振り返った時には、ただの“壁”が周囲のインテリアと調和しているだけだった。ついさっき握ったドアノブの感触だけが、夢見の悪い白昼夢のように手に残っていた。
魔王の呼び鈴を合図に、寝静まっていた屋敷が目を覚ます。
エルダはぞわりとした感覚を覚えた。屋敷全体がざわつき、脈打って扇動するような微震が足元から這い上がってくる。目に見える変化は無いが、それが却って不気味さを際立たせた。その辺の窓が魔物の胃袋に直通していても不思議ではない感覚。「幽霊屋敷」と揶揄した屋敷は今やその本質を大きく変え、得体のしれない空気を漂わせていた。
「……やっとお目覚めか、鳥は朝が早いんじゃなかったか? 俺としては早く終わるにこしたことはない」
エルダは不敵な態度を崩さずに言った。
「う〜ん。君はハイフェエールよりもだいぶ直情的だよねぇ〜。まぁ、自尊心をちょっと撫でるだけで普段の思慮深さを投げ捨てるから、エルフは面白いんだけど」
「なんだと……!」
聞き捨てならない言葉にエルダの語気が強まる。が、今しがたのバクターの言葉を思い出し、居心地悪そうに咳ばらいをした。
「あっ、誤解しないでね! 私の大切な話し相手だって言いたかったんだ。私が誘う遊びに乗ってくれる、私はそんな君達が大好きなのさ! だから、今君をどうこうしてこの関係を壊したくないんだよ!」
「微塵もフォローになってねーだろ!!」
やはりエルフの性(さが)には逆らえない。エルダは、たまらず手に持っていたナイフを叩きつけた。カーペットに深々とナイフが突き刺さった。
バクターの言動は、常に効率よくエルダの神経を逆撫でする。天然の所業故にタチが悪く、あまつさえ天から与えられしその相性の悪さを楽しんでいるという。エルダは全くうんざりしていた。
「遊び相手だと? 通り魔野郎が、勘違いも甚だしい。今すぐ焼鳥にして食わずに捨ててやりたいところだが、その前にこのうっとうしい呪いを解きやがれ! お前が死んで解ける代物ならどんなによかったか」
バクターは、あからさまに落胆した様子でため息をついた。
「とても、とても残念だよエルダ君……」
鶏冠と尾はだらりと勢いを無くし、共鳴するように屋敷もひんやりとした空気を抱いた。
「君とはまだまだこれからだと思っていたから……。そこまで言われたら、私も魔王として城に踏み込んできた猛者をもてなさなきゃならなくなる。——覚悟はいいんだね?」
「…………」
エルダは無言で睨み返した。
バクターは右腕を挙げると、また指を鳴らした。魔王の合図によって、屋敷は再びうごめき始めた。
***
エルダは椅子に腰掛けていた。
目の前にはテーブル、対面にはバクター。その滅ぼすべき相手は、ウキウキと楽しそうにカードを並べている。魔王の一挙手一投足を、エルダはいぶかしく眺めていた。
—— 一刻前 ——
エルダは屋敷の扇動を足の裏で感じていた。事態のゆく末を警戒していたその時、周囲の景色が一瞬で塗り替わった。空間が置き換わったのか、それとも別の空間に瞬間移動したのか――ともかく、エルダの周囲はホールから応接室に様変わりしていた。室内はテーブルとイスが置かれた無難な作りだが、窓だけは不思議な造形だった。そこには細い格子がはめ込まれ、鳥カゴのような繊細な意匠が施されている。窓の外には、紫がかった空間が果てしなく広がっていた。
(長の部屋と似ている。まだ封印は残っているのか)
エルダが部屋を見渡していると、バクターが見覚えのあるティーセットを運んできた。
「そんなところで立ってないで! 自分の家と思ってくつろいでよ」
冗談じゃねぇ――と思いつつ、エルダは椅子に腰かけた。座った瞬間、椅子が尻に噛みつきやしないかと思ったが杞憂だった。
供えられたティーカップからはいい香りが立ったが、死んでも手を付ける気は無かった。目の前では、バクターがゆったりとカップを傾けている。エルダは、このままモーニングティーに突入しかねない悠長な空間の真意を探った。
(こいつの望みは現状維持。ここで茶でも飲みながら俺を懐柔するつもりか? いや、それこそ茶番だ。俺を油断させて陥れる計略があるのだ。どちらにせよ、こいつの思い通りになってなるものか)
エルダは冷ややかだった。
「ままごとはいい。さっさと魔王の『おもてなし』とやらを始めてもらおうか」
鋭い視線を投げられたバクターは、ティーカップをテーブルに置いた。そして手を組み、まるで商談でもするかのように身を乗り出した。
「あのままだとゆっくり話せそうになかったからね、場所を変えさせてもらったよ。——さて、魔王城に踏み込んだからには君は手ぶらでは帰れない、私も魔王として見過ごせない——でしょ? そこで、君に“ゲーム“を提案する」
「”ゲーム”……」
臨戦態勢解きやらぬエルダの脳裏には、“死闘”だの“決闘”だのといった物騒な当て字が浮かんだ。
「そう。君がこの”ゲーム”に勝利した暁には、君の言うことに何でも従おう。呪いを解けと言われれば解くし、半径三メートル以内に近づくなと言われればその通りにするさ。ただし、願いは一つだけだよ。――どうだい、悪い話じゃないだろう?」
「……はぁ〜〜〜〜」
エルダは大きくため息をついた。
「あっ、エルダ君たら! 私は本気だよ。嘘じゃないよ、ほんとだよ」
バクターはあからさまにご立腹という風に、鶏冠をプンプンさせた。
「……あのなぁ。俺はお前の首を獲るかこっちが獲られるかの勢いで来たんだぞ。それをなんだ、その“ゲーム”とやらは。俺が勝ってもお前はピンピンしてるらしいじゃねーか!」
「ふふふ、君が勝てば私の死を望むこともできるよ。それとも、さっきの鬼ごっこの続きがいいのかい? 鍵は開いてるけど……」
血に飢えた来客に、魔王は横の扉を示した。
「……どうせこのモンスターハウスはお前の掌の上なんだろ。飛んで火に入ったのは俺の方だ、そっちのやり方で勝負してやるよ、魔王殿。どうせ踊るなら、その”ゲーム”のほうがお前の足を踏んでやれそうだ」
「よぅし! そうこなくっちゃ、エルダ君!」
商談成立! とばかりに身を乗り出して固い握手を求めたバクターだったが、エルダは当然のようにスルーし、一つ確認した。
「万が一お前が勝ったらどうなる」
バクターは手をひっこめ、座りなおした。
「同じさ。私の願いを一つ聞いてもらうよ」
変わらぬ表情でそう答えた。
***
かくして、“ゲーム”が始まった。
テーブルの上には、五十二枚の同じ柄のカードが整然と並べられている。バクターがカードを並べる前、エルダは「種も仕掛けもないよ」と渡された”それ”を入念にシャッフルしていた。それはどう見てもトランプだった。不審な点は無かった。
(俺は一体、ここに何をしに来たんだっけか……)
緊張感の欠片も無い状況で、エルダは士気の維持に苦戦していた。
(いや、しっかりしろ! このまま終わるはずがない。奴は“ゲーム”という言葉に“含み”を持たせているに決まっている。これは俺の気をそぐ為の奴の罠だ)
指先一本で屋敷を変幻させる魔王である。エルダの手を離れたカードが純真無垢なカードのままでいるわけがない。いや、むしろそうであってくれ――と祈るエルダだった。
「じゃあ、始める前にルールを説明しようか。交代でカードを二枚ずつめくっていくんだけど、違う柄だったら元の場所に戻してターン終了。同じ柄だったらフィーバータイム! そのカードは自分の物になって、違う柄が出るまでめくり続けることができる。最終的に、一番カードを持っている方が勝者だよ。この”ゲーム”は後攻の方が有利だからね、後攻は挑戦者である君に譲っちゃうぞ〜! ——これ、私がよくやる”ゲーム”なんだけど、何か質問ある?」
バクターは嬉々として、非常に既視感のあるルールを説明した。
「……無い……」
「では……
《我が混沌の城へようこそ
瞳に光 手に剣 胸に願いを抱きし者よ 漆黒の闇に飛び込みし者よ
その勇気を讃え 我も黒き海に身を浮かべよう
闇を切り裂くのはどちらか 闇にさらわれるのはどちらか
願いの行方は一寸先の闇しか知らず
我が親愛なる眷属よ 我と溶け合う黒き海原よ
我らの魂を等しく その深淵たる懐に迎えよ
勇者に幸運を 魔王の無聊(ぶりょう)に慰めを
魔王・バクターの名において命ず》」
魔王の回りくどい口上を受け、屋敷が厳粛な空気に包まれた。が——
(ただの神経衰弱じゃねーか!!)
口に出したら負けな気がしたエルダは、心の中で突っ込んだ。
―― 一巡目 ――
先攻のバクターは、”ハートの5”と”スペードの2”をめくり、元に戻した。エルダは動向を注視していたが不審な点は無く、”ダイヤのキング”と”ハートの3”をめくった。緊張の一巡目は、双方ばらばらの柄を引いて終了した。
(馬鹿みたいに普通だ。柄が揃った時に何かが起こるのかもしれん)
エルダの警戒とは対照的に、バクターは茶をすすったり、しょうもない雑談を振るなどしてリラックスしている様子だった。
そんな中、三巡目で変化が起きた。エルダが”ダイヤのキング”を引き当てたのである。
この柄はすでにエルダが一巡目でめくっており、ペア第一号が誕生するまで秒読みとなった。向かいのバクターも「おっ」という反応を示し、壁同然のエルダを相手によく続いていたお喋りも途絶えた。
「エルダ君ついてるね〜。私もペアの場所覚えてるよ。君がめくらなければ、私のターンでめくっちゃおうかな〜」
(奴の口から出たルールなんぞ信じていないが、やはりペアを揃えた方が有利なのか? ……いや、俺にペアを揃えさせる為の演技で、やはり神経衰弱の皮を被った”ゲーム”なのかもしれない)
一瞬疑心暗鬼が生じたが、こののほほんとせざるを得ない状況を打破したい気持ちの方が強かった。
(この鳥頭は俺と心理戦でもやろうってのか? 冗談じゃない、それなら槍でも降ってきた方が遥かにましだ!)
エルダは躊躇なくカードをめくった。テーブルの上に、”ダイヤのキング”が揃った。
――が、期待をあざ笑うかのように何も起こらなかった。暗器が飛んで来たり、邪神が産声を上げたり、寿命が縮んだりすることもなさそうだ。屋敷は相変わらずの静穏をたたえ、おぎゃあとすら聞こえない。対戦相手のバクターも平然としている。
「あらら、先を越されちゃった」
エルダはわけが分からなかった。
「……なんなんだこの”ゲーム”は。これじゃあまるで……」
うめくような問いに、バクターはあっけらかんと返す。
「“神経衰弱”っていうらしいよ。お茶しながらできるから好きなんだよね」
エルダは勢いよく椅子から立ち上がった。椅子が倒れる音と同時に、テーブルの上で鈍い音が起こる。
テーブルには深々とナイフが突き刺さり、刃の下で”ダイヤのキング”が無残な串刺し刑となっていた。柄を握る手がワナワナと震えている。
「てめぇ、ふざけるのも大概にしろよ。こんなお遊戯が魔王の接待だと? 人を愚弄するのもいい加減にしやがれ! めかしこんできた俺が馬鹿みたいじゃねーか!」
エルダの怒号が飛んだ。二人の間にテーブルが無かったら切り掛かっていただろう。このテーブルは、微力ながら国境線の役を担っていた。
「やっぱりよそ行きの服だったの? 言いそびれてたけどよく似合って——」
だが、失言はしばしば外交問題に発展するのである。バクターの顔面にザックリと刃が沈んだ。
「もーーーーー沢山だ!! こんな話の通じない奴と一緒の部屋になんていられるか! 俺は出て行くぞ! てめぇも表に出ろ!」
ひとしきりわめくと、エルダは扉へ向かった。顔面のナイフをさも大仕事のように引っこ抜いていたバクターは、フラグめいた捨て台詞を残して立ち去ろうとするエルダを慌ててたしなめた。
「待ってエルダ君! 気を悪くさせてしまったのなら謝るよ! 久しぶりの客人だったからはしゃぎ過ぎちゃったみたいだ。これは宴もたけなわで切り出すつもりだったけど、君の呪いの話をしようか。まぁまぁ、座ってよ」
「呪い……」
ドアノブに手をかけていたエルダは振り返った。
右目の呪いに関する情報は、エルダが最も関心を向けているものだ。現時点で知り得ている情報といえば、バクターとその部下の合作であること、それ故にバクターの死だけでは解呪されず、バクターすら実態を掴んでいないこと、そして、呪われた者はジワジワと魔族に染まっていくこと……。エルダがバクターに付き合っているのも、本を正せば解呪法を掴む為である。
鬱憤を吐き出してクールダウンしたのか、エルダは素直に椅子に戻ってきた。
「……話してもらおうか」
「トランプ……じゃなかった、“ゲーム”しながら話そうか。ターンは私からだったね。あ、負けた方が言うこと聞く約束はまだ有効だからね」
ひと悶着あったものの、テーブルの上の秩序は保たれていた。”ダイヤのキング”の片割れがテーブルに縫い付けられてはいたが、カードの並びに大きな乱れは無い。ナイフの一撃を食らったバクターの顔面も、何事もなかったかのようにツルンとしている。魔王はティーカップから一口すすると、改まって切り出した。
「君に謝らないといけないことがある。君に与えた呪いの情報だけど、嘘を混ぜていたんだ」
その告白に、エルダの目の色が変わった。だが、それは怒りの色ではなかった。
「謝罪なら、まず俺と出会ったことに対する謝罪と賠償が欲しいんだがな」
ため息をつきつつも、次の言葉を待っていた。
「まず呪いの術者についてだけど、私と部下の共同、これは本当。そして解呪には私と部下の協力が必要なことも本当。嘘は、君が魔族に染まっていくという効果。そんな効果は無いんだ」
「『魔族に染まってエルフには戻れない』――だのと脅されたもんだが、ただの挨拶だったってことか? さすが魔王殿は独特の文化を持っておられる。エルフの浅学では付いていけませんなぁ」
エルダは鼻で笑い、わざと慇懃(いんぎん)に返した。
「あの頃はまだ君のことをよく知らなかったから、試してみたかったのさ。そしたらこともなげに一蹴したでしょ? それで私は君のことをすっかり気に入ってしまったんだよ」
——私のフィーリングも捨てた物ではなかったようだ! 君なら私を楽しませてくれるよね?——
その時の言葉を思い出し、エルダはうげっとした顔になった。
「で? 他は?」
「あれ以来、君に嘘はついていない。ほんとだよ」
「なんだ。そんなこと、とっくに知ってたけどな」
「えっ!?」
バクターはすっとんきょうな声を出した。驚きで鶏冠が不随意に広がる。
「瞳の色がちょっと変わったくらいで何も起きやしない、当然妙に思うだろ。そして長に見つかった時、長は『千年は付きまとわれる』とは言ったが、それ以上は何も言わなかった」
「ハイフェエールか……、流石鋭いねぇ。よろしく言っておいてね」
「こっち方面では長には敵わんからな。それで俺は今日、お前との縁を切りに来たんだ」
エルダがテーブルに目を戻すと、バクターはまだカードに手を付けていなかった。
「なに止まってんだ、さっさとめくれよ」
「言葉のキャッチボールというのは心地いいねぇ〜。うっかり“ゲーム”を忘れてしまったよ」
カードがめくられた。違う柄だった。
「この“ゲーム”に勝ったら、君は私の死と解呪、どちらを選ぶのかなぁ?」
他人事のように軽口をたたくバクターを、エルダは黙って見ていた。
***
神経衰弱にしては長い時間が経過していた。
(まだ半分以上残ってやがる)
伏せられたままのカードの数と体感時間のギャップに、エルダはあくびが出そうになった。これが人知を超えたトリックならまだいいが、ただの神経衰弱なのである。エルダは”誰も座っていない”向かいの椅子を眺めた。バクターは、空になったポットを注ぎ足しに席を立っている。
遅々とした“ゲーム”の進行は、エルダの時間感覚を狂わせていた。窓の外には何の発展性もない異空間が広がっているだけで、時の移ろいを教えてくれる太陽はどこにも見えない。
(もしかしたら、外ではもう三年くらい経っていたりしてな)
奴は強く生きているだろうか——今朝別れたばかりのレキュリードの顔が自然と浮かんだ。
エルフとリザードの三年には大きな差がある。同じ時の流れに在りながら、リザードの三年は矢のように過ぎるのだ。その分目に見える成長は目覚ましく、ゆく末を見続けたい気持ちは勿論あったのだが……。
エルダがバクターという厄介者を抱えているように、レキュリードにも牛? という越えねばならない壁がある。逃げ回ったりと最初は目も当てられない状態だったが、本人の変わりたいという意志とエルダの助言によって改善が見られていた。最近では牛? の前でも平静さを保てるようになり、バクターにはまずナイフが出るエルダよりもずっと冷静になってきたではないか。
(あいつならもう大丈夫だ。牛? は言葉は発しないが話せば分かるタイプだろうからな、話さないが。……ずっといいさ、ピーチクパーチクわけの分からんことをさえずる“こいつ”よりはな)
「やー、お待たせエルダ君。この紅茶はいい葉っぱなんだけど、入れるのにひと手間かかるんだよね〜」
ティーセットを手に、中座していたバクターが戻ってきた。エルダはだるそうに足を組み直した。
バクターは、自分のターンで時間稼ぎのような真似をするようになっていた。長々と雑談を始めてやっとめくったかと思えばまた雑談。それも、すでにめくったカードを何度もめくるという引き延ばし工作を挟み、エルダがそれを指摘してからしぶしぶ未開のカードをめくる始末であった。魔王は、そんなやり取りすら楽しんでいるようだった。
「だーかーら、俺はてめーの注いだ茶なんて飲むかっつってんだろうが! はやくめくれや!」
このグダッた展開にバクターの顔面はアリ塚と化していそうなものだが、エルダは努めて平和的だった。というのも、”ゲーム”序盤に魔王の前で感情的になったことを恥じ、とっさにナイフを出しそうになる手にブレーキをかけているからであった。
(俺としたことが取り乱してしまうとは……、また新たな黒歴史が製造されてしまったではないか。俺は決して、いや決して、そんな直情的な男ではないはずだ。そう、元はといえば全てこいつが悪い!)
エルダがキッと睨んだバクターは、紅茶のフレーバーを楽しんでいる最中だった。
「おい、また同じところめくったら暴れるからな」
「うう〜ん、しょうがないなぁ……」
ようやくカップを置いたバクターは、未開拓の場所をめくり、――一瞬の間の後――元に戻した。
(お前の負けだ、魔王)
エルダはにやりと笑った。
***
バクターがそのカードをめくるまで、テーブルには未開のカードが三枚点在していた。すでにめくられた柄から引き算すると、残されているのは”ハートのクイーン”のペアと”クローバーの3”だ。
それが先程のバクターの引き――”ハートのクイーン”――によって、残る二枚の場所が確定したのだ。次のターンでめくった柄が”ハートのクイーン”ならば、残り一枚は”クローバーの3”、逆もしかりである。もしも全ての柄を覚えている者がいるとするならば、この瞬間、ペアを芋づる式にめくり続けることが可能となったのだ。
エルダは全ての柄の場所を記憶していた。
エルダは、まず残り二箇所の一枚をめくって”ハートのクイーン”を引き当てた。次に、先程バクターがめくった”ハートのクイーン”をめくってペアを作った。そのまま継続ターンで残った”クローバーの3”をめくると、既知のカード軍の中から”クローバーの3”を引き、またペアを作った。
「二回もペアを作るなんてラッキーだね〜」などと傍観していたバクターだったが、黙々とカードをめくり続けるエルダの目的を察したのか、慌て始めた。
「えっ、うそっ、そうなの? ……ちょっと、容赦ないよエルダ君!」
明らかに動揺しているバクターに構うことなく、エルダはどんどんペアを増やしていった。
「分かった、分かったからエルダ君! 残り枚数的に君の勝利は揺るがない。だからその辺で私にターンを譲って――」
魔王の命乞いめいた悲鳴もむなしく、テーブルの上には全ての絵柄が整然と並んだ。
「……ああ〜〜〜〜……。終わっちゃった……」
魔王はしょんぼりと鶏冠を垂らした。
長かった”ゲーム”が今、あっけない終わりを迎えたのだ。
***
エルダは見事魔王に勝利した。
――のだが、まるで実感が無かった。本当にただの神経衰弱だったからである。ラストスパートで絵札シャッフルなどの工作も考えられたが、そんな妨害は何もなかった。
「勝った……んだよな?」
エルダは半信半疑だった。このターンでめくったカードはテーブルの上に放置されたままだったが、手札と合算するまでもなく勝敗は一目瞭然だった。
「うん、君の勝ちだよ。おめでとう……」
魔王は素直に挑戦者の勝利を認めたが、試合後の格闘家のようにうなだれていた。
「でも、ひどいよ……。私も”ハートのクイーン”をめくった時は『あ、全部揃ったな』って思ったけど、まさか最後まで一気にめくっちゃうなんて……。エルフとしての君の記憶力を過小評価していた私の慢心か……。はぁ、君とお喋りしたいことまだまだ沢山あったのに……」
「やっぱり時間稼ぎだったのかよ……。お前に付き合っていたら何年経っても終わらんわ」
「ひどいな〜楽しいトークタイムだよ。でもほんと勿体無い……、まだ日も暮れてないのに……」
「はぁ!?」
エルダは驚愕した。
時の流れから隔絶されたような空間である。まさか体感時間——この”ゲーム”は非常にまどろっこしいものだったが、それを踏まえても——とあまり変わらない時間が流れているとは思っていなかったからだ。
「お前! こういう時は気を利かせて三年ぐらい経たせとけよ! 魔王城日帰りツアーじゃねえんだぞ!」
レキュリードとの感動の別れから一日も経っていないとなると、逆にどんな顔をして帰ればいいのかという問題が出てくる。
「時の流れは残酷だねぇ……。おっ! じゃあエルダ君、次はババ抜きでもするかい!? このトランプは君が穴を開けちゃったから使えないけど、記念に取っておくね。気にしないで、他にもトランプいっぱいあるから!」
にわかに色めき立ったバクターは、今にも駆け出しそうになった。
「やらねーよ!!」
魔王のペースに引きずり込まれそうになったエルダは、今まで座っていた椅子が急に胡散臭いものに思えて慌てて立ち上がった。
「“ゲーム”の条件、忘れたとは言わせんぞ。さぁ、さっさと終わらせてもらおうか」
バクターが余計なことを思いつく前にと、エルダは本題を切り出した。
「……オーケイ。場所を移そうか」
魔王は名残惜しそうに指を鳴らした。
***
周囲の景色は、今朝の懐かしいホールに戻っていた。床にはナイフでうがたれた穴が残されていたし、扉の無い玄関は相変わらずエルダに閉塞感を与えていた。
「おい鳥頭、忘れる前に約束を果たしてもらおうか」
「まぁまぁ、余韻が台無しだよ」
焦れるエルダをどうどう、となだめると、バクターはオホンと芝居がかった咳払いをした。
「《永久の旅も終焉に邂逅し 我らは審判の時を待つ
闇に洗い流された魂は 暴かれた真実から目をそらせない
我が親愛なる眷属よ 今や我をも統べる常闇よ
我らの魂を等しく その暴虐たる爪で裁け
勝者に栄光を 敗者に絶対の服従を
魔王・バクターの名において祈る》
――私も魔王、往生際の悪いことは言わないよ。エルダ君の好きにしちゃって!!」
魔王は“ゲーム”を仰々しい口上で締めくくると、勝者に運命を託した。
「例えば俺が“死ね”と言ったらどうなる。お前めがけて天から聖なる槍でも降ってくるのか?」
「私も滅びた経験は無いから手段は分からないよ。でもこの“ゲーム”は魔王の契約だ、その名に賭けて反故はありえない。初めと終わりに宣誓してたでしょ、魔王っぽく」
魔王はいつも肝心なことを最後に明かす。
エルダがまるで昔の日記帳をそらんじられているような感覚で聞いていたあの口上である。こいつには黒歴史という概念がないのかもしれん——とエルダは思った。
さておき、敗者が絶対遵守する願いが告げられようとしていた。無論勝利するつもりだったエルダは、“ゲーム”をしながら最も効率のよい願いを思案していた。
「頼むから死んでくれ」が真実エルダの願いだったが、それで済むほど事態は単純ではなかった。「魔王の死」を願えば、右目の忘れ形見がエルダの人生に亡霊のように付きまとうことになる。最悪、その死によって魔王の怨念が+αなどという粘着質なトラップが仕掛けられていてもおかしくなかった。
魔王亡き後は残党たる部下に解呪を迫ることになるが、それもエルダを躊躇させていた。あの思考と口が直結しているようなバクターが公開可能な情報を取捨選択している秘蔵っ子であり、魔王城の番犬にも魔王の肉壁にもならずに遊び歩くのを容認されている。確かに得体のしれない関係だが、問題はそこではない。
”あの”バクターと持続可能な部下
この事実だけだった。これだけで、エルダの理解を超えるのに十分だった。
ただでさえ話の通じないバクターの、そのふざけたスカウトを受諾し、今日まで問題なく付き合っている得体のしれない人材。まるでまともな会話が成立する気がしなかった。
コマンドのTOP10を武力解決で占めるエルダが今日まで魔王城に乗り込まなかったのも、魔王のマシンガントークの集中砲火を受けながら神経衰弱に付き合ったのも、全てこの呪いが足を引っ張っていたのだ。この忌まわしい枷(かせ)は、初対面から決裂していた二人を今日という今日まで絶妙に繋ぎ止めていた。まさに「呪いはかすがい」である。
では「解呪」を願うか。
呪いから解放された後、身軽になったその手で魔王を滅ぼせばHAPPY END。黒歴史は輝かしい歴史の演出として生まれ変わる。これこそが最も効率のよい願いであり、エルダもそのつもりだった。
――だったのだが、今や彼の神経は衰弱しきっていた。
確かに、全ての柄を記憶し続けるのは骨が折れる作業だったが、これはそんな”神経衰弱”で説明できるような妥当な消耗ではなかった。これまでのバクターとの長期マンツーマン接触によって、エルダの精神は満身創痍にまで追い込まれていたのだ。
うかつに魔王の首を獲れない呪いの障害、そして“ゲーム”による戦意喪失。全て魔王の掌の上で転がされただけなのでは――とエルダが錯覚するほどだった。
(……どちらを願ったにせよ、この屋敷から出られる保証はないようだしな)
背中に壁の圧迫感を感じながら、エルダは決意した。
「よく聞け鳥頭。俺の願いは——」
***
エルダが願いを口にすると、屋敷が僅かに揺れ動いたように思えた。
ひっそりした屋敷に変化は見られない。いや、たった一箇所だけ。今朝エルダが開け放った扉が、さもずっとここにありましたよという風に佇んでいた。
「エ、エルダ君……。今、なんて……」
目の前の魔王がワナワナと震えている。
「“帰る”っつったんだよ。遊びはおしまい、カラスが鳴くから帰る時間だ」
エルダは清々したように伸びをした。
彼の発した願いは一言、「帰る」だった。
「……正気かい? 望めば魔王も殺せる契約だよ。それとも、契約を信じてもらえなかったのかな?」
バクターは、「信じられない」と書いてある顔を横に振った。エルダはこいつにだけは正気を疑われたくないと思いながらも、
「今際の際にまた変な呪いでもかけられたらたまらんからな。解呪だって、呪いが解けた俺をそう簡単に帰すつもりは無かったんだろう?」
と、ついさっきまで壁で埋まっていた扉を肩で示した。
「……まぁ、もうちょっとくらいは付き合ってもらおうと思ってたけど……」
「お前の言う“ちょっと”は、俺にとっての何日、何年だ? これ以上つきあってられんわ」
じゃあな――とエルダはそっけなく踵を返した。シンとしたホールに靴音だけが響く。
「逃げるの?」
静寂。
「なんだと?」
聞き捨てならない言葉にエルダは足を止めた。そこでようやく、これは遊び足りない子供が駄々をこねているだけにすぎず、かまえば相手の思うつぼであると悟るのだが、聞き捨てならないものは聞き捨てならないのである。エルダは、この性(さが)も呪いみたいなものだなと思った。
「はぁ!? 人を臆病者みたいに言うんじゃねぇ! 俺がここに刺し違える気(は毛頭なかったが)で来たことを忘れたとは言わせんぞ! それをこんなちゃらんぽらんな戦いにしたのはどこの魔王か、この俺が一から教えてやろうか??」
「ううっ、ごめん、つい寂しくなっちゃって……」
胸元を掴みかかる勢いで正論をまくしたてられたバクターは、以後往生際の悪いことは言わなくなった。
エルダが“凱旋門”をくぐって庭に出ると、空は橙色に輝いていた。久しぶりに吸う外の空気がすがすがしい。
「……本当に一日も経っていないのか?」
「うん。君が来たのは今日の朝だよ」
エルダの独り言に、後ろからついてきていたバクターが答えた。
「うわっ、お前の見送りなんていらねーよ!」
「お客様だもの。今日は楽しかったよ、エルダ君。君が屋敷に開けてくれた穴は記念に残しておくから、また傷跡を残しに来てくれると嬉しいな。うんうん、『呪いはかすがい』だねぇ! あ、カーペットだけは直すよ、一応玄関だから」
「二度と来るかこんなところ!!」
そう吐き捨てると、エルダは庭をずんずん歩いて行った。だが敷地を出るところで足を止め、振り返った。
「――おい。万が一お前が勝った場合、何を願うつもりだったんだ」
魔王は微笑したように見えた。
「君に『話し相手になって欲しい』って願ったよ」
エルダはこれ以上ない嫌そうな顔で返し、敷地を出た。バクターはその後ろ姿が見えなくなるまで見送ったが、その人影が再び振り返ることは無かった。
***
エルダと別れた翌朝、レキュリードはいつもより早く目を覚ました。
彼の旅立ちについては、まだ父と母に伝えられずにいた。心配をかけたくないと言えれば立派だが、彼自身まだ整理がついていないからであった。
昨日の出来事は全て夢だったのではないか――未だに頭が靄掛かっていた。エルダを見送った後のことはよく覚えていない。ただこうして普通に寝起きしているところを見るに、無難な一日を過ごしたのだろう。
頭を冷やすべく、レキュリードはそっと家の外へ出た。森はまだ薄暗く、ひっそりとした眠りに包まれていた。
彼とエルダの縁は、彼の父の代に遡る。
レキュリードの父・エレトールが卵もろとも肉食獣の餌食になろうというところを、通りがかったエルダの介入によって危機一髪で助かったのである。それは、エレトールの行動範囲とエルダの狩りの矛先が偶然にも交わって起きた奇跡だった。
しかし食物連鎖の理は双方平等に訪れるもので、後日別の肉食獣の襲撃によって多くの卵が失われた。そんな中で、レキュリードだけが無事に孵ったのである。
(もしかしたら、エルダは俺をずっと見守ってくれていたんじゃないか……?)
一度は救った家庭とたった一つ孵った命、エルフの孤高な魂も情に動かされたのかもしれない。そう思い始めると、本気でナイフを向けられた物騒な思い出までもが、巡り巡ってそれは自分を思っての行動だったのではないかと蘇り、レキュリードは今すぐ確かめたい衝動に駆られた。
――が、問うべき相手はもういない。
(じゃあ、今日がエルダがいない初めての日ってことになるのか……)
途端に、見慣れたはずの森が未知の生物の胃袋へ繋がる真っ黒な大口に見えてくる。暁の空気がやけに肌寒く感じられた。
(しっかりしろ! これからは俺が父さんと母さんを守っていくんだ)
すくみそうになる身体を励ますように、両頬を叩いた。
(そろそろ日も出るはずだ、少し歩いてみよう。大丈夫だ、逃げ足には自信がある)
レキュリードの健脚は生来の物だが、エルダの刃傷沙汰にも繋がりかねない仕打ちによってさらに磨き上げられ、その瞬発力はエルダをもうならせる域に達していた。当時は彼の危険行動に心底うんざりしていたレキュリードだったが、もはや美しい思い出に昇華された今は純粋な感謝しかなかった。
レキュリードは、森の中へ一歩を踏み出した。
***
太陽がそろそろ頭を見せ始めていた。
おっかなびっくり進む足は無意識に歩き慣れた道を選んだようで、レキュリードはエルダを見送った場所にいた。そして、寝起きの夢うつつからとっくに醒めていたはずの彼の頭は、目の前の光景に再び夢の境へ引き戻された。
「ようレキュリード。朝の散歩か?」
エルダが何食わぬ顔でそこに居た。
「えっ……なんであんた……ここにいるんだ……?」
絞り出すようにやっと言うと、レキュリードはエルダの足を見た。足は付いている。
「顔色が悪いぞ。幽霊に出会ったみたいな顔をしている」
そこに居るのは昨日の、いや、“一昨日の”エルダだった。黒い服を着て長い髪を無造作に下ろした、いつもの見慣れたエルダだった。
レキュリードは、今朝の錯覚——昨日の出来事は夢だったのではないか——を思い出した。「まさか」と思った。
「夢……? いや、そんなはずない、確かにあんたは出て行った。珍しく白い服着て髪しばって……。じゃあ、なんで……」
それまで幻のように立っていたエルダは、不意に溜息をついて頭をワシワシと掻いた。
「……あーあ、やっぱり覚えてるか。ま、そりゃそうだよな」
そう言うと、傍らの切株にどっかりと腰を下ろした。レキュリードはまだ事態が飲み込めない。
「安心しろ、夢じゃないぞレキュリード、確かに俺は旅立ったのだ。それはもう険しい道のりだったが魔王城に踏破し、奴との死闘で見事勝利を掴んだ。激しい戦いだった……。その時の超カッコいい決め台詞は後で教えてやるよ……、お前にも聞かせてやりたかったぜ……。そして栄光を胸に帰路につき、無事帰還したというわけだ」
「魔王を倒したのか!? じゃあ呪いも解けたんだな! ……ん? でも魔王城に着くの、早過ぎないか……?」
魔王とは一日足らずで退治できるものなのだろうか。それに、声色と表情も語る内容とかけ離れている――レキュリードが混乱し始めると、エルダは観念したように頭を垂れた。
「……そうだ、お前の考えていることは正しいぞ、レキュリード。その通りだ、俺の計画はしょっぱなから狂ったのだ! それも盛大にな!! 気合入れてめかしこんだ結果がこのざまさ! ……これ以上言わせるんじゃない! これ以上、俺の口から恥ずかしいことを言わせるんじゃない!!」
と言うと、両手で顔を覆ってしまった。
相手が取り乱すともう片方は冷静になるというのは本当で、レキュリードは似たようなやり取りをどこかでしたなぁと考えていた。そう、あれはエルダが魔王の呪いを受けて間もない頃、その不名誉を隠蔽すべく奇行に走った彼をレキュリードが見咎め、一部始終をエルダから聞き出した時のことだ。そうなのだ、あの時もちょうどこんな感じだったのだ。
レキュリードは以前、エルダから『エルフには知識探究欲・動植物愛護欲・自尊心保護欲の三大欲求が備わっているのだ』などと冗談じみたウンチクを聞かされたことがあったが、エルダは三番目が突出していると話していた。この様子では、魔王退治も解呪も大きな進展はなかったのだろうか――聞きたいことは沢山あったが、自尊心欠乏症で死にそうな顔をしているエルダにこれ以上問い詰める気にはなれなかった。レキュリードも傍らの切株に腰を下ろした。
「……大変だったみたいだな。でも怪我もないみたいでよかったよ。俺なんて、こんなに早く帰ってくるとは思わなかったからさ、昨日が今生の別れと思って、これからはあんたとの思い出を胸に強く生きていくとまで考えてたんだぞ」
「俺だってそのつもりだったわい! ……ってちょっと待て、お前もうふっ切れたのか? そこは一生引きずるところだろうが! 俺は“エルダさんロス”で一カ月は食事がのどを通らずにやせ細ってゆくであろうお前を容易に予見しながらも、断腸の思いで旅立ったんだからな!」
愚痴をこぼしていくらか気が済んだのか、いつもの調子が戻ってきた。
「……レキュリード、昨日のことはもう忘れろ。全て夢だったのだ」
そして、唐突にそう言い切った。至って真面目な顔だった。
しばらく無言が続いた。森のあちこちで小鳥のさえずりが聞こえる。
レキュリードはエルダに向き直った。
「……忘れるわけないだろ。あんたは無かったことにしたいみたいだけど、一人で魔王に挑んでいったあんたはなんか……すごかったよ。自分だけで切り開いていく力があるんだから、すごいと思った。――俺は昨日のあんたのこと、絶対忘れないよ」
エルダは目をしばたいた。
「……フッ、お前もそういうこと、言えるんだな」
初めて耳にする敬いの言葉だった。『敬われると伸びるタイプ』を自称するエルダの機嫌はコロリと治った。
「夢は夢でも、その敬いの心は忘れるんじゃないぞレキュリード! 俺が鳥頭を成敗した暁には、その伝説を孫に口伝する権利を授けよう」
「いらないよ」
果たして、自分がおじいちゃんになるまでに決着はつくのだろうか。御機嫌な隣人にあきれつつも、この人なら何とかなるだろうと思うレキュリードだった。
ミクストレイヤー*mixed strayer* 第一部
―完―
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エルダルートの一区切りです。
これまで漫画形式で進めてきましたが、長くなりそうだったので小説にしました。
今までの流れは、冒頭のキャラ紹介を前提に読んで頂ければ十分です。
★忙しい人用の即オチ3コマ&エルダ設定画(※本編ネタバレ有)【http://www.tinami.com/view/963604 】
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